2005年12月25日日曜日

主に望みをおく人は鷲のように翼を張って上る


イザヤ書40・27~31、ヨハネによる福音書1・16~18

クリスマスおめでとうございます。今日は二人の方の加入式を行うことができましたことも感謝いたします。

今年のアドベントは、旧約聖書のイザヤ書40章と新約聖書のヨハネによる福音書1章を続けて学んできました。今日も、少しずつ学んでいきたいと思います。

「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」

残念ながら、この訳では、何のことか、ほとんど意味が分かりません。

この御言は、「わたしの道は主に隠されている」というよりも、「主なる神は、わたしたちのことなど気にかけておられない。興味をもっておられない」というようなことです。

また「わたしの裁きは神に忘れられた」というよりも、「わたしたちの神は、わたしたち人間の権利主張などは無視なさる方である」というようなことです。

ここで表明されていることは要するに、わたしたち自身もしばしば体験してきたでありましょう、神に対する失望です。「わたしは神に無視されている」という告白です。

それは、考えてみれば、もしかしたら、わたしたちにとって最もきついこと、厳しいことかもしれません。「神が存在することは分かっている。神が生きて働いておられるということも分かっているつもりである。しかし、その方に、わたしたちは無視されていると感じる。」これは、最もきついことです。

とくに、自分の身に不幸が続くとき、わたしたちは、つい、そんなふうに考えてしまいます。また、そう考えることのすべてが悪いと言われても、ちょっと困ると感じます。

そして、それは、神を信じる者であるからこそ感じる思いでもあります。神の民だからこそ、信仰をもって生きている人々だからこそ、神への祈りや願いや期待に応えがないと感じる瞬間があるということは、わたしたちの身にも覚えがあることです。

初めから神の存在を信じていない人の心に「わたしは神に無視されている」という思いが起こることは、論理的には、ありえないことです。

しかし、預言者は、猛然と反論します。

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」

「主は、とこしえにいます神」とは、もちろん、神は永遠に生きておられるということです。このお方こそが「すべてのものの造り主」であられると預言者は語っています。

主は永遠に生きる力を持っておられる、ということです。わたしたちは、永遠に生きることはできません。どこかで疲れ果ててしまいます。しかし、神さまは、疲れ果てることなく、永遠に生きる力をお持ちであり、また、天地万物をお造りになるほどの力を持っておられるのだ、ということです。

「倦むことなく、疲れることなく」とあります。「倦む」の意味は、飽きることです。物事に取り組む気力、やる気を失うことです。萎えてしまうこと、嫌になってしまうこと、投げ出してしまうことです。

ここで言われているのは、そうではなく、ということです。

神は倦まないし、疲れない、ということです。

神は、わたしたちを投げ出してしまわれない。わたしたちのことをすっかりあきらめてしまわれるとか、わたしたちのことが退屈になって、嫌になって、投げ出してしまわれる、そういう神さまではない、ということです。

わたしたちの神は、神を信じて生きるわたしたち人間一人一人のお世話に疲れない、ということです。助け、励まし、慰めることに疲れない、やめてしまわれない、ということです。

そんなことも知らないのですか、聞いたことがないのですか。神があなたがたのことを無視されるはずがないでしょう。神をもっと信頼してください、ということを、預言者は語っているのです。

「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」

これはまさに書いてあるとおりです。付け加えるべき言葉は何もありません。ひたすらこのとおりに信じたいと願うばかりです。疲れた者に、神さまは、力を与えてくださるのです。

なぜそう信じたいのかと申しますと、それは、わたしたちがあまりにも疲れやすいからです。

わたしも、自分は本当に疲れやすい人間であると自覚しています。「今こそ力が欲しい」と感じるときが本当にあります。あとちょっと体力があれば、もうちょっとがんばれるのに、と思うことがあります。今どうしても済まさなければならない仕事があるというときに、あとちょっと力がほしい。でも、疲れてしまう。

ただし、この個所で預言者が語っていることは、単に、わたしたちのいわゆる“体力”の問題に限られることではなさそうです。続きを見てくださると、そのことが分かります。

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが」

ここに出てくる「若者」や「勇士」の意味は、明らかに、体力的には十分な力を持っている、この点においては弱っていないはずの人々のことです。

ですから、ここで問題になっているのは、年齢のことや体力のことではないというべきです。年齢が若く体力がある人でも疲れることがありうるし、ずいぶん長く生きてきた人々でも元気であるということがありうる、ということです。

となると、ここでの問題は、年齢や体力の問題ではなく、より多く、心の問題である、と言ってよいでしょう。そして、そこにはどうもわたしたちの“信仰”ということが深くかかわっています。何を信じ、何を期待するかにかかっている、というべきです。

わたしがこれから申し上げることは、決して何か比較の意味で申し上げていることではない、ということを、あらかじめお断りしておきます。語弊が出てくるかもしれませんが、どうかあまり腹を立てないで聞いていただきたいと願っております。

それは、神を信じて生きている者たち、わたしたちは、元気である、ということです。

「比較の意味ではない」と申し上げましたのは、神を信じていない人は元気ではない、というような、裏面の事柄を強調するつもりはない、ということです。

しかし、やはり申し上げたいことは、神さまを信じて生きている人々は元気である、ということです。

そしてまた、やはりどうしても触れざるをえないと感じるのは、体力や年齢において若々しくて元気であると自他共に認めるような人々であっても、元気溌剌のスポーツマンや、体力みなぎるファイターであっても、“心が弱い”ということがありうる、ということです。人は見かけによらない、ということです。

それは、わたしたちも自覚があることです。元気そうに見えても心が弱い。心が弱っているということがありうるのです。

そういう自覚を持っている人は、あまり自分独りでがんばらないほうがよいと思います。周りの助けを求めたらよいし、SOSをどんどん出したらよいのです。黙っていないほうがよいし、我慢しないほうがよいのです。わたしたちの心は弱いから。ボロボロにしたまま放ったらかしにしておくと、元に戻らなくなります。自分をあまり追い詰めないほうがよいです。

また、ぜひ申し上げておきたいのは、良い意味での“逃げ場”を必ずどこかに確保しておくほうがよい、ということです。どこにも逃げる場所がなく、追い詰められてしまい、絶望する、というのが、いちばん悪いことです。

だからこそ、助けを求めてほしいと思います。そして、神さまを信じる信仰を持ってほしいと、本当にそう願います。

これは何か比較で言っていることではありません。そうでない人はダメだ、というようなことを言いたいわけではありません。

しかし、神さまを信じて生きている人々には、どこか心の中に余裕があり、ユーモアがある、ということは事実です。

わたしもそうなのです。わたしだって疲れてしまうときがあります。しかし、どこかにいつもあっけらかんとしているところが、ちょっと残っています。それは、わたしの家族にとっては図々しいと見えているところなのだと思います。でも、本当にそうなのです。

もちろん、全く何の悩みもない、などということは、ありえません。しかし、最終的なところで神さまに委ねることができるというのは、本当の実感です。格好をつけて言っているようなことではないのです。

そしてまた、これは、わたしたちの側の心の持ち方とか、物事の考え方とか捉え方、というようなこちら側の問題ではありません。ただし、これは、表現しにくいことです。

ともかくそれは、神さまがわたしたちに与えてくださるものです。わたしたちの信仰は、神さまが“聖霊の働き”を通して、わたしたちの心の中に与えてくださるものです。賜物(ギフトまたはプレゼント)として、神さまはわたしたちに信仰を与えてくださるのです。

しかしまた、神さまは、わたしたちに、信仰というものを、わたしたちの心や意志や理性や感情などを全く尊重してくださるという仕方で、与えてくださいます。神さまは、わたしたちを操り人形のようなものにしようとされている、ということではありません。

神さまは、聖書を通して、教会を通して、説教を通して、祈りを通して、わたしたちに信仰を与えてくださいます。わたしたちは、納得ずくで信仰をいただくことができます。もし疑問があれば教会に聞いたらよいし、牧師や長老たちに聞いたらよいのです。黙って従え、というようなものでは決してありません。

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

この御言葉も、まさに書いてあるとおりです。ただ、ちょっとだけ気になるので注意しておきたいのは、「鷲のように翼を張って上る」という点は、「上る」と書かれているからといって、これをすぐに、地上の生活をやめて、神さまのおられる天の世界に飛んでいく、というような意味で理解してはならない、ということです。

それは大きな誤解です。「鷲のように翼を張って上る」とは、「象のようにのっしのっしと歩く」というのと、いわば同じです。鷲のように上るとは、象のように歩くことであり、人間のように生きる、ということです。喜んで感謝して神さまを見上げて生きる、ということです。本来の力を発揮する、ということです。

ですから、これは、体力や年齢の問題ではありません。また、どうか“飛び上が”らないでください。歩いてください。前進してください。生きてください。

そして、わたしたちが元気に生きていくためには、信仰の問題、すなわち「主に望みをおくこと」を、どうしても無視することができません。これはわたしが牧師だから言っていることだろうと思われるのは仕方がないことです。しかし、公平に見て、わたしたちが元気に生きていくためには信仰が必要であると、申し上げておきます。

ヨハネによる福音書(1・16〜18)には、次のように書かれていました。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

とくに注目していただきたいのは、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」という点と、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」という点です。

ここでヨハネが語っているのは、イエス・キリストが神を現わしたのだということです。イエス・キリストがお生まれになって以来、わたしたちは、イエス・キリストを通して神を知るという道を、神ご自身から示されたのです。神を知ることも信じることもすべて、イエス・キリストを通してです。それ以外の道はありません。

それ以外の道はない、というようなことを申しますと、それは、窮屈で、偏屈で、排他的で、面倒なものではないかと思われてしまうかもしれません。しかし、決してそうではありません。

イエス・キリストというお方が、“神の愛”を示してくださったのです。その愛に生きることができるようになる、ということです。イエス・キリストの愛を通して、神が“愛に満ちたお方”であることを知るのです。

ですから、それは、愛の道です。そして、それこそが、わたしたちが元気に生きることができる道なのだ、ということです。

「そんなことは信じられない」と思う方は、ぜひ、松戸小金原教会のみんなの顔を見ていただきたいと思います。

わたしたちが、元気に喜んで生きている姿を見ていただきたいと願います。

イエスさまが生まれてくださり、命をささげてくださったおかげです。

クリスマスおめでとうございます!

(2005年12月25日、松戸小金原教会主日礼拝)