2006年1月8日日曜日

「狭き門より入れ」

ルカによる福音書13・22~30



今日からまた、アドベントの期間に中断していましたルカによる福音書の学びを、再開したいと思います。



「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。」



ここに出てくるのは、イエスさまが伝道旅行の途中に出会われた一人の人物です。この人が「救われる者は少ないのでしょうか」と、イエスさまに質問しました。



この人は、おそらくユダヤ人ではないかと考えられております。なぜなら、この問いは、当時のユダヤ教のいわゆるラビ文書と呼ばれるものの中に、さまざまな答えを伴いつつ、たくさん出てくるということが、確認されているからです。そのことを、この人は知っていたと思われるのです。



この問いは、より正確に言い直しますと、「救われる者は少ないのでしょうか、それとも多いのでしょうか」というものです。



ただし、「救われる者」とはどういう意味か、という点につきましては、当時からすでにさまざまな解釈がありました。だからこそ、さまざまな答えの可能性も出てくるわけです。



今ここで、当時のユダヤ教における「救われる者」という言葉の意味として考えられていたものをすべて並べて説明することはできません。しかし、ここで最も考えられる意味は、この世界の終末において実現する“神の国”の中に入ることができ、“天上の祝福”を受けとることができる者、ということです。



イエスさまに対してこの問いを投げかけたこの人物の意図も、またそれに対してお答えになったイエスさまの意図も、この意味であったと考えることが許されるでしょう。



ですから、わたしが申し上げたいことは、わたしたちは、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とは、すなわち、神の国に入ることができる人は少ないのでしょうかという意味であり、また、天上の祝福を受けとることができる人は少ないのでしょうか、という意味である、と理解してよい、ということです。



「イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。』」



これがイエスさまのお答えです。ただし、「救われる者は少ないのでしょうか、それとも多いのでしょうか」という質問に対するストレートな答えとは言えないように思います。



ストレートな答えとは、「少ないです」か「多いです」かです。しかし、イエスさまは、そのようにはお答えになっていません。イエスさまのお答えは、全くストレートではありません。いくらか変化球が投げられている、と観ることが可能です。



まず注目していただきたいのは、ここでイエスさまは、われわれ人間が入るべき場所のことを「狭い戸口」と呼んでおられる、ということです。



ただし、これはルカによる福音書の場合です。似たような言葉が、新約聖書の中にもう一個所出てきます。それはマタイによる福音書7・13です。「狭い門から入りなさい」。



しかし、このマタイの「狭い門」とルカの「狭い戸口」とは異なる意味である、という解釈があるということを、このたび調べておりまして、知りました。



「門」と「戸口」は違う、ということは、考えてみると、なるほど、そのとおりです。マタイの意味での「門」は、エルサレムの町の周囲に建てられた壁についているものですので、その意味は“町への入り口”です。それに対してルカの意味の「戸口」は、明らかに“家の入り口”です。「町」と「家」とでは、規模が全く違います。イメージできる内容も全く違う、というべきです。



しかし、わたしは今ここで、イエスさまが実際におっしゃったことは「門」であるか、それとも「町」であるか、そのどちらが正しいかというような話をしたいわけではありません。わたし自身は、どちらでもありうるし、内容的には両方正しい、と考えております。



今ここで申し上げたいことは、わたしたちが学んでおりますルカによる福音書は、ここでイエスさまが語っておられることを通して、読者に対して何を伝えようとしているのか、という点です。



この点についておそらく考えられますことは、ここでルカが「狭い戸口」という言葉で“家の入り口”を指し示しているとき、その“家”とは、おそらく“教会”のことである、ということです。イエス・キリストを救い主と信じる仲間の集まりとしての“教会”のことです。



つまり、「狭い戸口」とは、すなわち“教会の入り口”のことである、ということです。そのように考えることが、最も自然です。



ただし、もちろん、「戸口」という言葉自体は象徴的な意味です。教会の建物の話をしているわけではありません。そうではなくて、教会の仲間に加わる、ということです。教会の礼拝に出席すること、また、教会の諸活動に参加することです。「狭い戸口から入る」というのは、そういう意味である、と考えることができます。



そして、もう一点、皆さまに、イエスさまの御言葉の中で注目していただきたいところがあります。それは「努めなさい」という点です。



これは表現としては明らかに「努力しなさい」とか「奮闘しなさい」という意味であり、また「献身しなさい」というほどまでの、きわめて強い意味が込められている言葉です。



ですから、この点からも、「狭い戸口」の意味が教会である、という主張を、支えることができると思います。



考えられることは次のことです。ここでイエスさまが語られているのは、“狭い戸口から入るように努力しなさい”ということであり、その意味は、あなたがたは、イエス・キリストを救い主と信じる教会の仲間に加わり、かつイエス・キリストを通して示された神の愛をこの地上に実現するために、努力し、奮闘し、献身しなさいということです。



ところが、です。とても気になる言葉が、続いています。



「『言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』」



今わたしは、ここでルカが書いている、イエスさまが語られた御言の中の「狭い戸口」とは“教会”のことであると申し上げたばかりです。それは、“教会”という狭い戸口から入って、その中にとどまることがどうしても必要である、ということに他なりません。



そしてまた、このイエスさまの御言は、ある人物が投げかけてきた質問への答えである、という点も、見逃せません。質問の内容は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」というものでした。イエスさまの御言は、これに対するストレートな答えではないかもしれません。しかし、それは質問への答えであるということも、確かに言いうることです。



そうであるならば、です。イエスさまの答えの中に少なくとも含まれていると思われることは、 ひとが“教会”というこの「狭い戸口」の中へと入る目的は、“救われるため”である、ということです。そのように理解していただけると思います。



しかも、もちろん、教会の中にただ“入った”というだけではなく、それだけで終わりではなく、そこに参加し、信仰をもって共に生きる仲間と出会い、常に神の御前にあって感謝と喜びの人生を送る、ということまで行き着くことが必要です。そのために努力し、奮闘し、献身することが必要なのです。



ところが、です。イエスさまは、その“狭い戸口”には「入ろうとしても入れない人が多い」ということを、よくご存じです。これはどういう意味なのか、ということをわたしたちは、よく考えてみる必要があると思います。



とくに、わたしがよく考えてみなければならないと感じるのは、これは、裁きの意味であろうか、それとも慰めの意味であろうか、という点です。



裁きの意味はないと語ることはできないと思われます。なぜなら、25節以下のたとえ話は、とても厳しい裁きの面を持っていることは否定できないと思われるからです。ただし、今日は25節以下については時間の関係で残念ながら詳しくお話しすることができません。



しかしまた、わたしは「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスさまの御言に、慰めの意味を読みとることもできるのではないかとも、考えております。少なくとも文法的な観点からその意味での理解を妨げることは、できません。



ここから先は、ぶっちゃけた話になってしまうことを、お許しください。それは何かと申しますと、わたしたちがいくらか長い人生、またいくらか長い信仰生活を送ってきますと、“教会”というものに心底からうんざりさせられる瞬間に立ち会うことがある、ということは、紛れもない事実である、ということです。



分かりやすく言わせていただくならば、わたしたち教会に属している者たちのおそらくすべてが、一度ならず、まさにこの教会というものが、すっかり嫌になってしまった、ということを体験したことがある、ということです。



そんなことは一度もない、と言える人がいるでしょうか。一人もいないと言いきれるかどうかは分かりませんが。



その場合に、です。



「入ろうとしても入れない」というのは、そのように感じている人々の心の中には、主なる神に対する不信仰だとか、人生に対する不誠実だというような簡単で一面的な裁きの言葉だけでは決して片付けることのできない、むしろ、もっと深刻で、とても悩ましい、非常に複雑な要素が、そこに働いているかもしれないということを考えざるをえない、ということです。



日曜日の朝、教会に行かなくちゃと、頭と心では分かっている。しかし、体が動かない。起き上がることも、立ち上がることもできない。



あの牧師の長々とした説教を聞かされるのかと思うと、うんざりする、という人もいるでしょう。でも、それはまだ症状としては軽いほうです。それは、みんなが感じていることだからです。



症状として重いのは、やはり、あの人この人の問題です。人間関係です。人間に出会うこと、人の交わりに入ることは、それ自体とても疲れることです。忍耐と寛容が必要です。



人間は、必ずと言ってよいほどに、けんかするからです。競争もします。ねたんだり、足を引っ張り合ったりします。「あの人間関係に入ることが“救い”である」と言われるとぞっとする、という体験は、だれにでもあるのです。



しかし、それは、わたしたちにとっては、言うまでもなく、どう考えても健全なことではありません。きわめて不健全なことです。だからこそ、わたしたち自身が、真剣に考えなければならないことがあると思います。



それは、何よりも先に、「入ろうとしても入れない人」が多いという事実を、わたしたち自身が認める、ということです。



イエスさまの時代にも、そのような人々がたくさんいた、と考えることができそうです。なぜイエスさまが当時の律法学者や祭司長や長老たちをあれほどまでに激しい言葉で批判されたのかを考えてみると分かります。



それは、ユダヤ教の教会は悪くて、キリスト教の教会は正しい、という話ではありません。教会の中には人を躓かせる要素がある、ということは事実である、ということです。



しかし、それは放っておいてよいわけではなく、正されなければならない点です。わたしたち改革派教会の標語を持ち出すならば、「教会は、常に御言葉によって改革され続けなければならない」のです。



しかしまた、いわば同時に、わたしたちは、教会の中に入ること(礼拝に出席し、教会の諸活動に参加すること)が“救い”にとって必要不可欠である、ということをも認める、ということです。



どうすればよいのでしょうか。道は、おそらく一つしかないと思われます。



それは、「入ろうとしても入れない人」に教会を無理強いすることではありません。そのようなやり方では、ちっともうまく行かないでしょう。



そんなことではなく、わたしたちに求められていることは、「入ろうとしても入れない」人々のために、わたしたちみんなが祈り、配慮し、その人々を受けいれることです。



わたしたち改革派教会の者たちが「教会政治」というなんだかとっても厳めしい言葉を用いて語ろうとしている真の意図は、まさにこの点です。「入ろうとしても入れない人」への祈りと配慮です。



「教会政治」の真意は、裁きではなく、慰めであり、配慮であり、救いです。このことが十分に理解されていないところで行われる「教会政治」は凶器です。とくに“戒規”は、時と場合によっては本当に危険な凶器です。



わたしが願っていることは、多くの方々に教会に来ていただきたい、ということです。ただそれだけを願っております。



(2006年 1月 8日、松戸小金原教会主日礼拝)