2006年1月1日日曜日

われらの主、イエス・キリスト


ヨハネによる福音書1・14

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今日は新年礼拝です。日曜学校と合同でこの礼拝をささげています。子どもたちが前のほうに座ってくれています。もっとも、松戸小金原教会の礼拝には、いつも子どもたちがたくさんいますので、座り方が違うだけで、メンバーはいつもと同じです。

しかし、この機会に心したいことは、わたしたちにとって大切なことは、やはり、自覚的かつ積極的に子どもたちを礼拝に招くことであるということです。小さい頃に神さまを深く知ることが大切です。人生がそれで変わると言っても、決して過言ではありません。

日曜学校の子どもたち、今日は、新年礼拝に来てくれて、ありがとうございます。日曜学校では、今「使徒信条」を学んでいます。今日もそれを勉強したいと思います。

まず、使徒信条(口語訳)を、みんなで読みましょう。

「わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして、全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。」

この使徒信条は、大昔からわたしたち、キリスト教の教会が大切にしてきた言葉です。

聖書の中にこのままの言葉が直接出てくるわけではありません。しかし、聖書に書かれていることを要するに短い言葉で言うと何か。あるいは、聖書の中に書いてある神さまとはどういうお方なのかということを要するに短く言うとどれくらいになるかというと、この使徒信条くらいにまとめることができる。そういうものとして、わたしたちキリスト教の教会が、昔から重んじてきたものです。

この中で今日とくに学びますのは「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という部分です。

松戸小金原教会日曜学校の豆テキストに書いている言葉を読みましょう。

・ 「言」とは神の子、イエスさまのことです。
・ 神さまがわたしたちと同じような体をもった人間としてこの世界に来てくださったのです。
・ それはわたしたちの罪を救うためにどうしても必要な方法だったからなのです。

このとおりです。わたしたちが信じるイエス・キリストとはどういうお方なのかといいますと、要するに「言が肉となった」(ヨハネによる福音書1・14)というお方なのだ、ということです。

イエスさまは、“神人間”(かみにんげん)です。もともと神さまでした。神さまである方が、人間になってくださったのです。

でも、あまり変なものを想像しないでください。イエスさまは、わたしたちと全く同じ人間です。悲しければ涙も流されるし、疲れたらお休みになるお方です。

しかし、もちろん違いもあります。全く同じだったら、神の子とか救い主とは言えないと思います。このことを理解するためには、わたしたちのほうから考えていくと、よいでしょう。

みんなの学校の友達の中に「神さま」と呼ばれている人はいませんか。「あの人は○○の神さまだ」と。

いまは、テレビなどを見ていますと、毎日のように、必ずどこかに「○○の神さま」が出てくると言ってよいほどだと感じています。野球の神さま、テニスの神さま、エンタの神さまとか、漫画の神さまとか。

人間は“神さま”になりたがっている、ということです。また、だれかを“神さま”と呼びたがるのだ、ということです。

ところが、イエスさまは、この点では正反対であるというこの点が、決定的な違いなのです。わたしたち人間が神さまになりたがる、あるいは、だれかを神さまと呼びたがる。しかし、イエスさまというお方はもともと神さまだったのに、人間になりがってくださった方なのです。

イエスさまは、もともと神さまのお方なのですから、人間の世界に来る必要は、本当はなかったのです。神さまなのですから、立派なお家に住んでいてもいいし、温かい部屋にずっと居てもいいし、おいしいものをたくさん食べて何不自由ない生活をいつまでもしていても全然構わない、そういうお方なのです。

ところが、そういう神さまであられるお方が、人間になられたのです。わたしたちのこの世界に来てくださったのです。それがイエスさまのお姿なのです。

日曜学校の生徒たちにわたしがいつも期待していることは、やはり、これから一生懸命勉強して、いろんな力やわざや知識を身につけてほしい、ということです。そして、それを、世のため・人のために役立てることができるようになってほしい、ということです。

ただ単なる自己満足や贅沢のためだけではなく、むしろ、この世の中で困っている人々を助ける仕事をするために役立ててほしい、ということです。

イエスさまは神さまのお家に住んでいた方なのですから、それなのに人間の世界に来てくださったのですから、ご自分は損しておられるのです。本当は楽をすることができるのに、わざわざ損をしてくださって、みんなを助けてくださったのです。

ここから先は、大人の皆さんにも、ぜひ聞いておいていただきたいことです。

子どもたちは大人のことを見ているのだと思います。父親のこと、母親のこと、社会のこと、教会のことをものすごく冷静に見ているのだと思います。

そして、その姿を真似するのだと思います。大人たちが自分の利益とか自己満足とか、ただそれだけのために、あるいは自分の贅沢のためだけに生きているということであるならば、それを見て子どもも同じように真似するのだと思います。

でも、逆も然りであると申し上げておきたいと思います。わたしたちが自分はちょっとくらい損をしても、世のため・人のため、そして神さまのために身を粉にして働くことができるということであれば、そういう大人を子どもたちも見習うのだと思います。

今年一年間がどのようなものになるかは分かりません。しかし、わたしたちもぜひそういうふうにならせていただきたいのです。

「早く神さまになりたい」というのではありません。その逆です。

神の御子イエスさまが、人間になられたのです。

イエスさまは、神の御子であられるのに、わたしたちの世界に来てくださったのです。

わたしたちも、イエスさまのように、世のため・人のために働かせていただけるものになりたいと願います。

(2006年1月1日、松戸小金原教会主日礼拝)