2017年8月31日木曜日

サブカル語翻訳の限界(下)



(上から続く)

私も日本基督教学会の末席を汚す一会員だが、キリスト新聞社『ミニストリー』最新号(34号、2017年8月)掲載拙文「サイボーグ009にみるロゴス・キリスト論の諸相」(「空想神学読本」)を学術論文としてカウントする考えはないので諸氏の御安心を請う。全力で書いたのでご一読いただきたい。

前にも書いたが、雑誌は「旬の」特集記事や「著名人の」連載記事がもちろんメインだが、それだけでなく、表紙でも宣伝してもらえず広告にも載らないような「埋め草」の部分が意外に重要なのだ。埋め草をサラサラと書けるライターが編集部にとって意外に貴重なのだ。私は「うめくさサラ」と名乗りたい。

あまり遠い過去にしすぎると傷つく方がおられるので控えめに言うが、「かつて」ある世代の人々が口を開けば戦争の話になった。幼少期の体験が焼き付いているからだ。それと同じことが、我々の世代にとってはマンガやアニメだし、今の生徒・学生たちにとってのネットに当てはまるとしか言いようがない。

「お花畑」という罵倒語をよく見かけるが、必ずしも事実ではない。まぶたを閉じれば腕も足も破壊されたマジンガーZや憎々しいバルタン星人を彷彿する人は、おそらく少なくない。過度にトラウマになるようなものは有害指定されて見せてもらえなかった(見たかったわけではない)。それの何が悪いのか。

たぶん今の20代以下の人たちは、60歳になろうと70歳になろうと、まぶたを閉じればピカチューとサトシとロケット団を彷彿するのではないか。あったかい温泉につかりながら「ポケモンゲットだぜ」と口ずさむのではないか。オトナになるとそういうのは一切忘れて演歌をうたうようになるのだろうか。

戦争体験を語り継ぐことが悪いと思っているのではない。血と死の場に居合わせた人だけがこの世のリアルを知っていて、そうでない人はそうでないかのような言われ方には承服できないと思っているだけだ。端的に言ってそれは事実ではない。それぞれの世代のそれぞれのリアルがある。互いに尊重すべきだ。

しかし今書いたことのすべてが私に当てはまるわけではない。戦争のことではない。まぶたを閉じればマジンガーZやバルタン星人を彷彿しないわけではない。しかし、アブラハムやモーセやサムエル、イエス・キリストやパウロやステファノ「も」彷彿する。アニメの主題歌だけでなく讃美歌「も」彷彿する。

その状態を正確に言葉にするのは不可能だが、マンガやアニメや特撮の登場人物と「聖書の」登場人物が同一の地平に共存しているかのようだ。だから私個人に限っては(他の人はそうではないという排他的な意味はない)聖書や宗教を無理にサブカル語に翻訳する必要を感じない。一元化する必要を感じない。

通時性と共時性の関係でいえば、「過去」に属する(?)聖書の登場人物や出来事を「現在」に属する(?)サブカルの登場人物や出来事へと翻訳する必要を見出すのは両者を通時的にとらえている人々であると思われるが、両者が共時的に共存しているかのような感覚を持っている人に翻訳の必要はないのだ。

今書いていることにマンガやアニメや特撮の制作者の意図は全く関係ない。聖書の登場人物や出来事とサブカルの登場人物や出来事が共時的に共存しているかのような感覚を持っている人にとっては両者を一元化する必要がないと言っているだけだ。イエス・キリストとマジンガーZが同一地平上に立っている。

嫌われることを覚悟せざるをえないが、ロックやパンクで「神の愛」を歌うのを聞くのが苦手だったりする。これも理由は似ている。一元化する必要を感じない。ロックやパンクは「人の愛」を歌っていてくれるのがいちばん安心する。アニメの主題歌とロックとパンクと讃美歌は別ジャンルだと私には思える。

長くなったので結論を急ぐ。聖書や宗教のサブカル語翻訳にせよ、ロックやパンクで「神の愛」を歌うことにせよ、そこで行われる一元化の前提理解として「聖書」と「現在」は共存しえない対立関係にあるという思想が潜んでいると私には思える。それが私にとって最大の疑問だ。対立関係ではないと思うよ。

対立関係だと思っているから一方が他方を打ち消そうとする。「聖書」か「現在」か、「神の愛」か「人の愛」か、「讃美歌」か「ロック」か。どちらもどちらも大好きよ私の心は決められない(恋のアメリカンフットボールby Finger5)と思うから無理やり一元化しようとする。なんでそうなるの。

戦争のことにも触れておく。「戦争体験の美化」という言葉まで持ち出すと反発を避けられそうにない。戦場に立ち会ったことや、目の前で人が亡くなったことがリアルでないとは言わない。しかし、それを追体験することが無体験世代に求められているのだろうか。もし求められているとしたら、どうやって。

ネットであやしげな殺人動画などを見始めて「これがリアルだ」とか思い込むのは激しく危険なことだし、そういう問題ではないとしたら、だったらどうするのかという話になるだろう。徴兵制を言う人たちが戦場のリアルを知らないから今の子どもはだめだ、などという。それは違うと私は当然思うし、言う。

ちなみに私の父はナチス台頭の年生まれだ。敗戦の年に小学6年生だった世代。戦場や軍隊の体験があるのはもう少し上の世代の人たちだ。その人たちの体験や証言を否定する意図は毛頭ない。無体験世代の我々の「リアル」も、その人たちの「リアル」と比較して何ら遜色ないぜよと言いたがっているだけだ。