2017年8月3日木曜日

神学はラベリングではない

ウェスレー研究は実用性高いですよ。日本国内に多くあるいわゆるメソジスト系やウェスレー・アルミニウス系の教会は、ウェスレー本人をもっとお読みになるべきだと思うのに、そちらの方向にあまり行かれていないように見えます。学会があるのは存じていますし、メンバーの中に親しい方々が数名います。

それこそ、ウェスレーの本も、メソジスト教会の歴史も知らないでWikipediaか何かで即席の知識を手に入れただけの部外者然とした人たちがウェスレーについてああだこうだと決めつけるようなことを言ってくるときが、一次文献をちゃんとやってる人たちの出番ですよ。実用性ものすごくあります。

Wikipediaに関しては両面あると思いますけどね。ガチの専門家が追従を許さないほど異様に詳しく書いていて全部読む気を失わせるようなのもありますね。他方全くお話にならないほどシロウトの作文のようなのもある。

まーまー、そんなに結論を急がないでいいですよ。ウェスレー思想の現代的意義は、ある意味で後回しでいいんじゃないですか。それより18世紀当時のコンテクストの中でウェスレーが何を考え、何を言ったかを精密に解明していくほうが。そうすれば聞く耳のある人たちは聞いて理解してくれますよ。ね。

ウェスレーとメソジスト教会の存在は、二千年のキリスト教史の中で脇道のエピソードなどでは決してなく、ど真ん中の本流ですよ。いわゆる「メインライン」です。無視できるわけがありません。まさに大船ですので、どっしり構えて一次文献をコツコツ読んでいくことあるのみですよ。ね。

そういうコツコツやる研究者と成果を待ち望んでいる人は潜在的に日本の教会にたくさんいると思います。私は直接かかわっていませんが、私もメンバー(いちおう書記)のアジア・カルヴァン学会日本支部の方々が、カルヴァン説教集をフランス語版からコツコツ訳して出版しています。そういうのが大事です。

カルヴァンも同じ目に遭うんですよ。1ページもお読みになっていないのではと感じられる方々が、文科省検定教科書『倫理』の数行の文章か、かろうじてヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』くらいまでの知識でカルヴァンの悪口を言ったりする。言葉を失うことしばしばです。

べつに誰が何を言っても構わないんですけどね。言論の自由はある。肌感覚レベルの違和感や拒絶感を持つ人がいるのも尊重されるべきだと私は思う。不可侵の教祖のような扱いをするのはかえってまずい。ただ、批判するならテキストを読んでからにしましょう。そういう当たり前のことを私は思うだけです。

反応ありがとうございます。私が書いたのは、そんな大げさなことではなく、テキストを読みもしないで、どこかで聞いたうわさ話のような、根拠にもならないような根拠で、判で押したような批判をする軽率な人が多すぎるので困ったものだと言っているだけです。でも、おっしゃることの意味は分かります。

和魂洋才ですか。大木先生と古屋先生の日本の神学あたりから出発した議論ですよね。懐かしいです。私は30年前から耳タコで聞かされてきた話です。

相手のテキストを読まないで批判するというのは、たとえていえば、カナダに行ったことがない人が、カナダについての薄っぺらな旅行ガイドブック程度の知識で、世界地図でカナダを指さしながら「カナダとはこういう国である」と論じちゃってるようなものですよ。現地の人からすれば「アホか」ですよね。

神学をやる人たちの中にそういう大げさで大ざっぱな議論する人がいるんですよ。なので、神学を知らない人たちは「神学ってあんな雑なこと言っても許されるんだ。くだらない」と思ってるだろうし、アホらしくて近づかない人多いでしょうね。でも違いますよ。もっとディティールにこだわるのが神学です。

たとえば、無教会の方々がサクラメントを否定する。外部の人が「それはけしからん」の一言で切って捨てることは簡単です。ですが、無教会の方々の言い分がある。その中へと深く分け入って、無教会の方々の側に立って悩みぬくのが本来の神学です。単純な三段論法で軽々しく批判なんかできないんですよ。

そもそも神学は教会の日々の伝道と牧会から生まれたものです。今や似ても似つかぬ大げさで大ざっぱなヘリクツに成り下がっているかもしれませんが。伝道と牧会にとって重要なことは、相手の心と立場に寄り添うことです。「あなたは間違っている。私が正解を教えてあげる」というスタンスの正反対です。

私が現代のいわゆる「批判的な」聖書学が素晴らしいと思っているのは、過去のある時代の聖書の読み方に基づいて成立した教会の教義や教理「に」聖書「を」従わせることをせず、「その聖書の読み方が間違っている」と指摘することで教義や教理そのものを根本から問い直す視座を持っておられるからです。

とにかく私が言いたいのは、テキストを深く読むことがすべての学問の始まりであるのと同様に、神学も全く同じだということです。だから私は、ウェスレーであれ、ファン・ルーラーであれ、ひとりの神学者のテキストをトータルに読む作業が大事だと思っています。つまみ食いでなく、いいとこどりでなく。

私の意図が伝わっていないようですね。私が嫌がっているのは、まさに今お書きになったような、「はいこれは中世カトリック。はいこれは近代主義。はいこれは宗教改革の立場」というような三段論法で問題を単純化して分かった気になることです。世界地図でカナダを見るような視点だと言っているのです。

「宗教改革」と一言で言っても、改革者ひとりひとりの言っていることは違うし、その中のひとりでも時期や状況によって思想や立場が変化していたりするわけでしょう。「これが宗教改革の立場です」だとか、なんでそんな雑なことを大胆に言ってのけることができるのか分からないと思うことがありますよ。

そんなのは神学でもなんでもなくて、ただのラベリングなんですよ。レッテル貼り。それで相手を「理解」したことには全くならないし、「分析」すらできていません。むしろ偏見や差別を助長するだけです。即興のディベートゲームには瞬間的に勝利できるかもしれませんが、それで誰も幸せにはなりません。

厳しいと言っていただけて光栄です。私はツイッターで議論しているつもりはありません。無教会ガーとか、宗教改革ガーとか決めつけるようなことをお書きになるので、いちいち不愉快に思っているだけです。お目にかかったことのない方ですので「忠告」ではありませんよ、そんな責任は私には皆無です。

私は「機嫌」など少しも損ねていません。私には無教会の親友もいるし、カトリックの親友もいるし、聖書学者の親友もいます。その私の親友たちを、あなたの粗雑な言葉で傷つけられることに耐えがたいものを感じているだけです。「いちいち不愉快に思っている」とはそういう意味です。もういいですかね。

(追記)

以上の趣旨は「万国の牧師よ勉強せよ」ということではない。「よそさまの教派・教団のことについて軽々しい口を叩くなよ」と、軽々しい口を叩くクセがあるとおぼしき人に向かって個人的に文句を言っているにすぎない。そこまで言うならその教派・教団の「内部の論理」に寄り添って考えたうえで言えと。

よく知りもしない人たちのことを外部から論評すべきでないと言っている。どこの教派・教団でも、無教会でも、それぞれの内部に葛藤があり、苦しみ、涙を流しながら危機と向き合い、未来を切り開こうとがんばっている。そんなの知るかと言わんばかりのスタンスで、外からガタガタ言うなと、言っている。