2017年8月26日土曜日

教義学は「意外に」役に立つ

ファン・デン・ブリンク、ファン・デア・コーイ共著『キリスト教教義学』(2012年)

組織神学と教義学は元は同義語だったし、今も無理に区別する必要はない。いずれにせよ目標は「世界の体系的(システマティック)把握」であり、構造主義のようなものに近い。数学が苦手なくせに言わないほうがよさそうだが、世界の立体幾何のようなものとも言える。教義学とは本来そういうものなのだ。

組織神学ないし教義学などなくても、世界も教会も、特に支障なく普通にやっていけると私も思うし、無用の長物だと言われればそれまでだ。しかし、一見つながりがなさそうに見える「あれ」と「これ」の関係は何かを世界の全体構造の中で体系的に考え、結びつけるような作業が求められるときに役に立つ。

たとえていえば、背中がかゆいのに孫の手が見つからない場合、ハサミやねじ回しの先で背中をかいてよいかどうかを考えるときなどに役に立つ。逆に言えば、組織神学ないし教義学の役割はそれ以上のものではないので、「うちの教義学はすごい」的に鼻にかけたり心酔したりするようなものではありえない。

誤解されているかもしれないのは、教会の「教義」といえば各教団の売りとなるピンポイントの看板教説だけを指すと思われている可能性である。「教義」はそういう場合があるが、教義学は違う。「ゆりかごから墓場まで」は個人史だが、「天地創造から終末まで」の世界史を視野に収めるのが教義学である。

個人史の場合を考えてみると分かる。ひとりの人間の人生にとっての「売り」は何か。世界に羽ばたいたことか、大きな業績を上げたことか。それもあろう。しかし、生まれたばかりのときのあどけない笑顔も、足も腰も立たず目も開けられないのに孫や友人に最後の力で見せる笑顔も、大きな「売り」だろう。

世界史だってそうだ。世界史の「売り」は何か。ノーベル賞をとった人か、スポーツ国際大会の金メダル受賞者か。それもあろう。しかし「その他大勢」は世界史の雑草かごみくずか。見向きもされない存在なのだからきっとそうだろうと達観するのは勝手だが、ひとりで達観してほしい。他者まで巻き込むな。

ネットでも紙媒体でもニュースや新聞を見ると、行ったこともない国の直接会うことがありえないような人と、自分が「体系的に結び付けられる」体験をすることが、だれでもあるはずだ。その人と私は、たぶん関係ない。関係ないが、気になる。そこですでに「関係づけ」が始まっている。組織神学の出番だ。

なぜこの人は、私より不幸そうなのに、これほどまでに肯定的な言葉を語り、行動的に生きているのか。なぜ私は、客観的に見れば何不自由ない生活をしているのに、これほどまでに否定的な言葉を語り、身動きがとれないのか。その違いは何か。こういうことを考えるときに教義学ないし組織神学は役に立つ。

なぜ役に立つと言えるのかといえば、なんだかんだ言っていても、人が考えることのほとんどすべては最終的に、それは「必然」か「偶然」かとか、「運命」か「自由選択」かという問題に行き着くからである。その問いを考えているとき人の心はすこぶる宗教的になっている。否、「教義学者」になっている。