2017年8月29日火曜日
サブカル語翻訳の限界(上)
どこかで読んだことのほぼ受け売りだが、マンガにせよアニメにせよ流行音楽にせよ共通の記憶を持っているのは実は狭い範囲の人たちでありそれ以上ではないのでサブカルベースで語り合うことには限界があるというのはそのとおりだ。私が子どもと一緒に見たビーロボカブタックの話も通用する範囲は狭い。
ビーロボカブタックの登場人物が、高円寺くん、吉祥寺くん、荻窪くん、三鷹さん、小金井さんとすべてJR中央線の停車駅の名前であることや、カブタックがスーパーモードからノーマルモードへと戻るとき「もとに戻っちゃったカブー」と言うことなどは、私は今でもニヤニヤできるが、知らない人は多い。
マスクがトンボの形の審判ロボ、キャプテントンボーグの決め台詞が「一つ贔屓(ひいき)は絶対せず、二つ不正は見逃さず、三つ見事にジャッジする」であることなどは、私にとっては忘れることがありえないほどの強烈な記憶であり、今や私の座右の銘ですらあるが、知らない人が多いので閉口する他ない。
聖書や宗教をサブカル語に翻訳することは悪くない。しかし、上記のような限界があるので、期待するほどの広がりも深まりも起こらない。分かる人には分かるが、分からない人には分からない。書かずもがなのことではあるが、「翻訳者」がこういう自覚を持っていないわけではないことは、分かってほしい。
しかしもうひとつ書いておこう。限界があるからといって、「ほら見たことか。言わんこっちゃない」と、その努力をしたことがないし、しようとしない人が、努力している人の試みを否定するのを支援する意図は私にはない。おそらくそれが最悪の帰結である。できることはなんでもやってみようではないか。
それを言ったらおしまいよかもしれないが、日本の宗教界がピンチなことは事実だが、まずはお寺でも教会でもせめて中学生以下に理解できる平易な日本語でお経なりお祈りなりするようになるだけで、人の興味を取り戻せるのではないか。強固な電磁バリアを張ったままで来い来いと言われましてもねという。
やってるよと言われるかもしれないが、そうだろうか。もう何年も行く機会がないが仏式の葬儀。そのほぼ最初から最後まで少なくとも私には意味不明の外国語のお経を唱え続けられて興味を持てと言われても少なくとも私には無理である。最近は違うのだろうか。最初から最後まで意味が分かる言葉だろうか。
文語の主の祈りや交読文や讃美歌を大事にしている教会がある。それが悪いと責める意図はない。しかし私自身ずいぶん長く教会生活を送ってきたつもりだが、いまだにただ音声として発しているだけの部分がないとは言えない。意味や気持ちは後からついてくるから分からぬまま唱え続けろ式で大丈夫なのか。
意味など分からないほうが高尚で権威を感じて「ありがたい」から宗教らしさがあっていいという感覚は理解できないわけではない。しかし、そういうのはピンチの回避をする気など全くなく、次の世代、次の時代にこれを残す意思もない、悠長で自己都合だけの人たちの考えだと言われても仕方がないだろう。
この点から考えると、聖書や宗教のサブカル語翻訳は一方の極から他方の極へのジャンプのように思えてならない。一方の極端に意味不明な領域から他方の極端に意味不明な領域への飛び移り。これもサブカル語翻訳者や企画者に対する批判ではない。私自身もするので。しかし「普通」はないのかとよく思う。
(下に続く)