コリントの信徒への手紙二7章8~10節
関口 康(日本基督教団教師)
阿佐谷東教会の皆さま、おはようございます。礼拝で説教させていただくのは、ちょうど1年ぶりです。今年もお招きいただき、心から感謝いたします。今日もどうかよろしくお願いいたします。
今日お話ししようと思って準備してきましたのは説教題のとおりです。「悲しみには肯定的な意味がある」という趣旨のことを使徒パウロが書いています。しかし、なぜこのテーマを阿佐谷東教会の皆さまにお話ししようと思ったかについて具体的な動機があるわけではありません。坂下道朗先生とはネット上のやりとりはありますが、お会いする機会がありません。ですから私は、貴教会の内部のことは全く存じません。ピントの外れた抽象的な話になってしまわないかを心配しているほどです。
しかし、言い方は乱暴かもしれませんが、わたしたちにとって「悲しみ」の問題はその規模や状況の大小の差こそあれ日常茶飯事であり、普遍的な問題です。いま悲しみの中になくても明日そうなるかもしれません。そのことを考えれば、わたしたちは常に悲しみと隣り合わせで生きている身であることを自覚しつつ、悲しみの日に備えて生きていかなければなりません。
しかし私は、たったいま自分で言ったばかりのことを次の瞬間に否定するようなことを言います。それは、今日の箇所に出てくる「悲しみ」は一般的な意味の「悲しみ」とは異なるものであるということです。その区別をパウロが今日の箇所にはっきり書いています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(10節)。
ここでパウロは「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」をはっきり区別しています。そして、パウロがその中に肯定的な意味を見出している「悲しみ」は前者(神の御心に適った悲しみ)のほうであって、後者(世の悲しみ)のほうではありません。「世の悲しみ」のほうは「死をもたらす」とあるとおり否定的な意味しかないし、そもそも意味はないとパウロは考えています。
ですから私もパウロと同じように考えたいと願っています。今日の説教題の「悲しみには肯定的な意味がある」の「悲しみ」も、すべての悲しみを指しているわけではなく、多くの悲しみの中に肯定的な意味を持つ悲しみがいくらか含まれているというような意味で理解していただきたいと願います。すべての悲しみに必ず肯定的な意味があるという意味ではありません。もしそういう誤解を招くだけの説教題だったとすればお詫びしなくてはならないし、付け替える必要があると思います。
しかし、そうは言いましても、パウロがしている二種類の悲しみ(?)の区別とその意味を正しく理解することは、わたしたちにとって非常に難しいことだと私は感じます。しかも、二種類の悲しみ(?)には当然のことながら共通点があります。それは「悲しみ」であるという点で両者は全く同じであるということです。
「悲しみ」は人の心の中に生まれる否定的な感情です。自分の存在や行為が否定され、生きる意味や望みを見失いそうになっている心の状態です。その点においては、「神の御心に適った悲しみ」であろうと「世の悲しみ」であろうと、少なくともそれをわたしたちが感じるときの主観的感覚は同じです。そして、私たちの心は体とダイレクトにつながっています。心の苦痛と体の苦痛は同じです。
あるいは、もしかしたら苦痛の度合いにおいては、前者(神の御心に適った悲しみ)のほうが後者(世の悲しみ)よりも強く激しく感じるかもしれません。なぜなら「神の御心に適った悲しみ」とは「神がもたらした悲しみ」を指しているからです。それは対人関係で生じた悲しみではなく、神との関係で生じた悲しみです。もっと言えば「神が私を悲しませた」ことを意味しています。そんなことに誰が堪えられるでしょうか。しかし、パウロが書いているのは明らかにそういう意味です。
しかも、難しい問題がまだ残っています。「神の御心に適った悲しみ」なるものの出どころは論理的に考えれば、当然「神」です。しかし、今日の箇所にパウロが書いているのは「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません」(8節)ということです。
これで分かるのは、私はたった今「神の御心に適った悲しみ」とは「神が私を悲しませた」ことを意味すると言ったばかりですが、パウロはそのように一方で言いながら、別の一方で、あなたがたを悲しませたのは私であるとも言っているということです。
どういうことでしょうか。パウロは神でしょうか。パウロがだれかを悲しませることと、神がだれかを悲しませることとは同じでしょうか。そんなことを言っていいのでしょうか。最も厳しい言い方をすれば、パウロは自分が何かやらかして相手を悲しませたことを都合よく神のせいにしているだけではないでしょうか。そのような批判を受けたときに、パウロはどう答えるのでしょうか。
そして、その問題もさることながら、ここで最も大切な問題は、パウロは何をしたのかということでしょう。「あの手紙によってあなたがたを悲しませた」と彼自身がはっきり書いています。つまり、パウロがだれかを悲しませることになった原因は彼自身が書いた手紙だったということです。パウロは何を書いたのでしょうか。その手紙はどこにあるのでしょうか。
いま皆さんに開いていただいているのはコリントの信徒への手紙二(第二の手紙)です。新約聖書に二つ収められているコリントの信徒への手紙には解釈上の難しい問題があります。聖書学者たちの意見によれば、パウロがコリント教会の人々に宛てて書いた手紙はもっと多くありました。その中で現在まで残っているのが新約聖書に収められた二つの手紙です。
しかし、このいわゆる第二の手紙はパウロがコリント教会に対して二番目に書いたものではありませんし、第一の手紙と第二の手紙の間に少なくとももう一つの、あるいは一つ以上の手紙が書かれました。また、この第二の手紙は一度にすべて書きおろされたものではなく、もともと何通かだった手紙が後で一つの手紙として編集された形跡があります。そして、そのいくつかの手紙の中に、いわゆる「涙の手紙」が含まれています。
しかも、そのいわゆる「涙の手紙」をわたしたちが読むことは可能であると言われています。実はいま私たちが開いている第二の手紙の10章から13章までが「涙の手紙」の一部であろうと聖書学者たちは考えています。10章から13章までを、ぜひおうちで読んでみていただきたいです。
はっきり言えば、かなり辛辣な言葉が記されています。明らかに感情的で、けんか腰です。皮肉と嫌味と攻撃性に満ち満ちています。これほどあからさまに攻撃的な手紙を送り付けておいて、この中にあなたがたへの愛情を読み取ってもらいたいというのは、求めすぎの感があるほどです。
もちろんパウロには相手に対する愛情はありました。しかし、だからこそ言わなければならないことがある、ここで自分が躊躇することは相手のためにならないと、彼を強い決心に駆り立てたものがありました。パウロとしては、もしこれで関係が終わるとしても、それはそれでやむをえないという覚悟で書いていると、私は思います。それほどの決定的な内容です。
もともとパウロはコリント教会の事実上の設立者でした。しかし、その後パウロはコリントを離れ、別の地で伝道を始めました。ところが、その後、コリント教会の中にいろいろな問題が発生し、混乱しはじめました。そこでパウロは第一の手紙をコリント教会に送りました。そして、その後パウロは自らコリント教会に足を運んで訪問したのです。
しかし、その訪問が失敗に終わりました。パウロが来たことに腹を立てた人々がパウロを名指して非難しはじめました。その人々はパウロが来ることで自分たちの居場所を失うことを恐れたのです。そういうわけで、パウロの二回目の訪問が問題の解決になるどころか、かえって火に油を注ぐ結果になりました。
それでパウロは強い決意をもって「涙の手紙」を送りました。その内容の一部が先ほど申し上げたとおり10章から13章までにあります。それは非常に激しい手紙でした。その手紙を読んだコリント教会の人々の多くは傷つき、そして反省しました。それを知ったパウロは、コリント教会に三度目の訪問をしようとしましたが、パウロが行く前にテモテから、コリント教会が悔い改めたという知らせを受けました。その知らせを聞いたパウロは喜び、私たちが手にしているこのいわゆる第二の手紙を書いたのです。そういう経緯であるとご理解ください。
このような背景があるということを理解しなければ、この箇所にパウロが書いていることの意味を理解することは全く不可能です。ここに書いていることだけを読めば、相手が悲しんだという事実があるのに「私は後悔しない」と言っている。サディストではないかと言われかねません。しかし、パウロはサディストではありません。しかし、どのように説明すれば理解していただけるでしょうか。
パウロがこの箇所で強調している「神の御心に適った悲しみ」は「取り消されることのない救いに通じる悔い改め」をもたらしたというただ一つの理由ゆえに、パウロは「悲しみ」に肯定的な意味を見出しています。その手紙を私が書いたからあなたがたは悔い改めたではないか。もし私があの手紙を書かなかったら、あなたがたはずっと変わらない調子で、教会の中で分裂し続け、問題は解決しなかっただろう。だけど、私の手紙で問題が解決したではないか。だから私は手紙を書いたことを後悔しないのだ。それがパウロの主張です。
しかし、私の今日の説教の最終的な結論は、だから私たちもパウロと同じようにしましょうということではなく、ちょうど正反対のことです。この箇所に記されていることはよくよく慎重に扱う必要があります。「ああなるほどそうか、どんなに厳しいことを言って相手を傷つけても、それによって相手が悔い改めるならば、そうするほうがいいのだ。厳しい言葉をどんどん言って、相手を傷つけ、悲しませましょう。パウロもそう言っているではないか」とわたしたちが考え、そのとおり実行することは極力避けるべきです。
それはなぜかといえば、先ほど申し上げたとおり「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」は、どちらも「悲しみ」であることには変わりがないからです。それは、人間の心の中に起こるきわめて否定的な感情であり、生きる意味や望みが完全に絶たれてしまったかのように感じることさえある、痛みと苦しみを伴う感情です。そのような感情を相手の心に故意に引き起こすことについては、どれだけ慎重であっても慎重すぎることはありえません。
そしてもうひとつ理由を挙げるとすれば、これも先ほど申し上げたことですが、二種類の悲しみ(?)を厳密に区別できるようになるためには多くの時間がかかるからです。それは、長い年月をかけて教会生活を続け、聖書と教理を徹底的に学ばないかぎり決して理解できないでしょう。
どんなに厳しいことを言っても、それが悔い改めにつながるから悲しみには肯定的な意味があるというのは、信仰において成熟した人々の間だけで成り立つ議論です。未熟な人を相手にそういうことをしてはなりません。それは教会が壊れていく原因になります。
なぜなら、教会には必ず、成熟した人もいれば、そうでない人もいるからです。教会が「伝道する」とはそのようなことです。教会が信仰的に成熟した人たちだけの集まりになるなら、伝道していないのと同じです。教会はそういうところであってはならないのです。常に必ず未熟な人が共にいるのが教会です。
ですからわたしたちは、教会では、言いたいことがあってもできるだけ我慢しましょう。もし我慢できなくなったら、そこで大きく深呼吸をして言いたいことを飲み込むくらいでちょうどいいです。
「そういうふうに関口が言っていた」と坂下先生に報告しておいてください。よろしくお願いいたします。
(2017年8月20日、日本基督教団阿佐谷東教会 主日礼拝)