2017年8月27日日曜日

共に生きる喜びを!(蒲田教会)



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マタイによる福音書14章13~21節

関口 康(日本キリスト教団牧師)

「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』イエスは言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。』弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』イエスは、『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」

蒲田教会のみなさま、おはようございます。関口康と申します。今日の礼拝に説教者としてお招きいただき、ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします。

先ほど林先生に、私の「これまで」をご紹介いただきました。そのとおりの歩みをしてきました。自分の意識としてはまっすぐ進んできたつもりです。しかし、もしかしたら紆余曲折しているようにも見えるでしょう。解釈は皆さまにお任せいたします。

しかし、自分の話ばかりで申し訳ありませんが、現在の私が無任所教師であることと、来年度以降の任地が決まっていないことは厳然たる事実です。今のままでいいと思っているわけではありません。とても焦っています。初対面の皆さまに個人的なことをお願いするのは心苦しいですが、私のためにお祈りいただきたいです。

しかし、今日選ばせていただいた聖書の箇所は私のこととは関係ありません。林先生からご連絡をいただきましたとき、ちょうど私が個人的に読んでいた聖書の箇所でした。いろいろと考えることの多い箇所でした。分からないことだらけでした。それで、私が皆さんに問題の答えをお教えするというのでなく、皆さんに答えを教えていただきたいと思って、この箇所を選ばせていただきました。

とても有名な箇所です。四つの福音書のすべてに並行記事が出てきます。このようなことをイエス・キリストが確かになさったということを、二千年前の教会は、確実な事実として受けとめたのです。

そして私も、そしてきっとみなさんも、このような出来事が起こったということについて、あるいは少なくともこのようなことが聖書に記されているということについて、そのこと自体を疑う気持ちはないと思います。この出来事の核心部分は、19節以下に書かれていることです。

「そして(イエスは)五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお与えになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」(19~21節)。

最後の言葉には引っかかるものがあります。なぜ「女と子供」は「別」なのでしょうか。なんだか腹が立ちます。しかし、大人の男性だけが食べて、女性と子どもたちは食べさせてもらえなかったという意味ではありません。当時の人の数え方だったようです。そうだとすると、ますます腹が立ってくるわけですが。

しかし、これで分かるのは、群衆の人数は五千人ではなかったということです。五千人の倍の一万人か、あるいはそれ以上の人がいたということです。そして、それだけの人々にイエスさまが「五つのパンと二匹の魚」(19節)を分けてくださったということが今日の箇所に記されていることです。そして、これと同じ出来事が、新約聖書の四つの福音書のすべてに記されています。

しかし、逆の言い方をすれば、今日の箇所にも、他の三つの福音書にも、いま私が申し上げたこと以上のことは書かれていないのです。そのことが私には重要なことだと思えます。

この箇所に何が書かれていないかといえば、たとえば次のようなことです。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えると五つのパンは五千個のパンになり、二匹の魚は二千匹の魚になったので、イエスはそれを弟子たちに配り、弟子たちはそれを群衆に与えた」というようなことです。そのようなことはどこにも記されていません。

いやそんなことはないという反論があるかもしれません。「すべての人が食べて満腹した」(20節)と書いてあるではないか。「残ったパンの屑を集めると、十二の籠がいっぱいになった」(20節)と書いてあるではないか。「五つのパンと二匹の魚」を五千人なり一万人なりの人に分けた結果としてそのようなことが起こるはずはないではないか。やはりパンと魚は物理的に増えたのだ。そうであるとしか考えようがないではないかという反論は、当然ありえます。

しかし、そういう話になりますと、これまた当然のように、反対の方向から反論が起こるでしょう。それは、イエス・キリストの祈りには五つのパンを五千個のパンに増やし、二匹の魚を二千匹の魚に増やす力があったのか、どんな恐ろしい魔法を使ったのかという反論です。不思議な呪文を唱えるとイエスさまの手の中から次々湧き出す五千個のパンと二千匹の魚。一世一代のマジックショーです。

そのどちらも受け入れられないと考える人々の多くがたどり着く結論が、この物語そのものが比喩のようなものであって現実には起こらなかったことだということだと思います。大切なことは、このような出来事が現実に起こったかどうかではなく、この物語を通して著者が教えようとしていることの意味は何かを考えることである、と。

そのように考えることができるだけの根拠は今日の箇所にもあります。たとえば数字です。「五つのパンと二匹の魚」の「5」と「2」を足すと「7」になる。「7」は聖書では完全数を表す。つまり、これは神の恵みの完全性を示している、というような説明を聞いたことがあります。

また、残ったパン屑が「十二の籠」いっぱいになったとある。「12」はイスラエル十二部族を表す。イエス・キリストが自分の弟子を12人選び、使徒と名付けたこともイスラエルが十二部族であることと関係ある。つまりこれは神の民である教会を表す。つまり「パン屑が十二の籠にいっぱいになる」(20節)とは、教会に人がいっぱい集まるようになることを意味するというような説明です。

そして「魚」。原始キリスト教会の時代から「イエス・キリスト、神の子、救い主」という意味のギリシア語の頭文字を組み合わせた「イクスース」が「魚」を意味する。迫害を受けて地下に潜ったキリスト者たちが「イクスース」を暗号にして連絡を取り合った歴史もあるという説明です。

つまりそれは、うんと誇張した言い方になるかもしれませんが、要するにこの「五つのパンと二匹の魚」を「五千人に分けた」という出来事はそもそも現実に起こったわけではなく、あくまでも比喩なのだとする読み方です。こういう摩訶不思議な物語を作った人々がいて、この物語を通して読者に何かを伝えようとしているだけだ、という読み方です。

私はそういう読み方が完全に間違っていると思っているのではありません。間違っていると思っているから小ばかにするような言い方で皮肉っているだけだろうと思われそうな言い方をわざとしていますが、私にその考えはありません。比喩の物語である可能性を完全に否定するつもりはありません。

先ほど林先生からご紹介いただきましたとおり、私と林先生は同じ時期(1980年代後半)に神学生をしていました。林先生は日本ルーテル神学大学(現「ルーテル学院大学」)、私は東京神学大学でした。二つの大学は「東京都三鷹市大沢3丁目10番地」まで一緒で、ルーテル学院大学が「20号」、東京神学大学が「30号」です。

林先生は当時の私を覚えておられないようですが、私は当時の林先生を覚えております。そして、当時のルーテルの神学生の特に男性の方々を大方存じております。それは、私の妻がとても美人で、妻がルーテルの男の人に取られてしまうのではないかと、いつも気が気でなかったからです。

冗談はさておき、いま私が林先生と同じ時期に神学生をしていたということをお話ししましたのは、神学校で学んだことが時期的に重なっているということです。ルーテルの神学教育がどのようなものであったかの詳細までは私は分かりませんが、大差はないと思います。ほとんど同じだと思います。

なぜいま私はこういう話をしているのかと言いますと、今日の聖書の箇所ひとつをとっても、それについてどのような考えや感覚をもって読むのかという点で林先生がお考えになるかもしれないことと矛盾するようなことを私が申し上げることはありえないということです。神学的バックグラウンドがほとんど同じです。その意味で皆さんに私の話をぜひ安心してお聞きいただきたいと願っています。

その前提の上で申し上げることですが、私は今日の箇所に記されていることについて、イエスさまが物理的にパンと魚の数をお増やしになったことと、これが比喩の物語であることとは矛盾しないと考えています。

「五つのパンと二匹の魚」を、たとえ五千人であろうと、一万人であろうと、それ以上の人数であろうと、そのすべての人に「分けること」は物理的に可能ですし、なんら難しいことではありません。小学生でも分かる話です。物理学者にきっと証明していただける話です。そこには奇跡の要素は全くないし、不思議な呪文を唱える必要も一切ありません。なぜそのように言えるかは、ぜひ考えてみてください。

しかし、どうしてでしょうか、わたしたちはどうしても「それは無理である」と考えてしまいます。私も同じです。弟子たちがイエスさまに「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言ったように「これしかない。これでは足りない」とどうしても考えてしまいます。

しかし、問題はここから先です。今日の箇所で気になることがあります。

弟子たちがイエスのそばに来て「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」(15節)と言ったら、イエスさまから「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」(16節)と返ってきました。

それで弟子たちが「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」(17節)と答えたら、イエスさまが「それをここに持って来なさい」(18節)と言われたわけです。

私が気になるのは、そのように言われたときの弟子たちの反応です。彼らはもしかしたらがっかりしたかもしれません。せっかくこれからイエスさまと我々弟子たちの13人で「五つのパンと二匹の魚」を分け合って食べようと思っていたのに、それが無くなってしまうではないかと。

そこに何も無かったわけではないのです。「五つのパンと二匹の魚」はあったのです。「これしかない、これしかない」と言いながら、それだけは自分たちがしっかり確保して、抱え込んで、決して他人と分かち合おうとしない貯えを持っていたのです。私も二千年前のイエスさまの弟子たちに文句を言いたくなります。なんと狡猾で、ケチくさい、特権意識の持ち主たちなのかと。

貧富の差がどんどん拡大しているのは外国の話ではなく、日本の話です。ワークシェアリングは一向に進みません。失業者は増加するばかりです。いま私は毎月ハローワークに行っていますので、状況が分かります。

なぜでしょう。「これしかない、これしかない」と言いながら決して他人と分け合おうとしないものを抱え持っている人々がいるからです。「これしか」なくても、何も持っていない人よりははるかにましです。どうしてそれを分かち合うことができないのでしょうか。

教会はどうでしょうか。キリスト者たちはどうでしょうか。「無任所教師の私に仕事を恵んでください」と言いに来たのではありません。しかし、今の私の姿を見て何かを考えてくださる方がおられるなら幸いです。

「共に生きる喜び」はそこにあるものをみんなで分かち合うことから始まります。ほんの一握りの一部の人々が多くのものを抱え込むのではなく、すべての人に十分に配分されることが必要です。これが聖書の教えです。

(2017年8月27日、日本キリスト教団蒲田教会 主日礼拝)

日本基督教団蒲田教会(東京都大田区蒲田1-22-14)