ヨハネによる福音書6章9~11節
関口 康(日本基督教団牧師)
「『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこにはたくさんの草が生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
今日もヨハネによる福音書を学びます。先ほど朗読していただきました箇所に描かれているのは、イエスさまが御自身のもとに集まった5千人の人々に食事をふるまったという出来事です。このことは新約聖書の4つの福音書すべてに描かれています。それぞれの福音書に記されている内容には少しずつ違いがないとは言えませんが、大きな差はありません。
出来事の流れは次のとおりです。発端は、イエスさまがガリラヤ湖の向こう岸に渡られたことです(1節)。すると、大勢の群衆がイエスさまの後を追いました(2節)。するとイエスさまは山に登られ、弟子たちと一緒にそこにお座りになりました(3節)。そしてイエスさまは、御自身のもとに集まった大勢の群衆の食事についての心配をなさいました。
「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた」(5節)と書いてあるとおりです。しかし、すぐに続けて、そのようにイエスさまがおっしゃったのは「フィリポを試みるため」(6節)であったとも書かれています。「試みる」とは、テストすることです。イエス先生が学生フィリポに試験問題をお出しになったのです。
そのときのフィリポの答えは次のようなものでした。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)。
「デナリオン」は当時のローマの銀貨の単位です。1デナリオンが当時の労働者の1日分の賃金に当たります。それが今のわたしたちにとってのいくら分かを言うのは難しいことです。労働者の賃金にばらつきがありますので。
しかし、話を単純にするために、1デナリオンを1万円と考えることは不可能ではないかもしれません。それで言えば、フィリポがイエスさまに答えた「二百デナリオン分のパン」は200万円分です。あるいは、1デナリオンを5千円とすれば100万円分です。どちらにしても高額です。
しかし、金額の問題もさることながら、ここでわたしたちが考えなければならないのは、フィリポが返した答えの意味です。それが仮に、今の200万円分のパンに相当するとしても、100万円分のパンに相当するとしても、それだけでは足りないとフィリポがイエスさまに答えたとき、それだけのパンを、それを買うためのお金を、はい分かりました、これからわたしたちが全力で準備いたします、という意味で答えているかどうかが問題です。
全くそうではありませんでした。フィリポは、わたしたちにそれだけのパンやお金を準備する力はありませんと言いたかっただけです。それはわたしたちには不可能です、そのような無理なことを、あなたはわたしたちにご命令なさるおつもりなのですかと、イエスさまに不平を述べているだけです。それを言いたいがために「二百デナリオンのパン」という数字を言っているだけです。
このフィリポの答えをイエスさまはどのようにお聞きになったでしょうか。それが、わたしたちがよく考えるべきことです。5千人に二百デナリオン分のパンが必要だというのは、あなたの言うとおりであると、イエスさまはフィリポをおほめになったでしょうか。
二百デナリオンが200万円なら1人400円、100万円なら1人200円です。コンビニに行けば、それくらいのパンやお弁当が売っている。現実的な答えを考えてくれたフィリポよ、よくやったと喜んでくださったでしょうか。どうやらそうではなさそうです。雲行きは怪しいです。
なぜなら、フィリポの答えは大勢の群衆の食事の心配をなさったイエスさまのお気持ちに同意し、なんとかしてこの事態を打開したいと思いますという意思表示ではないからです。はなからあきらめ、そんなことは無理です、不可能ですと、ただ言いたいがために言っているだけだからです。なんとかしようという姿勢が少しも見られません。イエスさまが了解してくださるはずはありません。
そのとき、イエスさまの弟子のひとりでシモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスさまに次のように言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。
アンデレはフィリポに助け舟を出しているのかもしれません。いくらなんでもフィリポの答え方ではまずい。イエスさまの顔色が悪い。このままだと弟子たちみんながお叱りを受ける。もう少しましな答えを考えなくてはと、大慌てだったかもしれません。
するとそのとき、ちょうどいいところに一人の少年が見つかった。この少年は5つのパンと2匹の魚を持っている。我々の側に全く手持ちがないわけではない。完全にゼロではない。しかし、いくらなんでもこれだけで5千人の食事をどうにかするのは無理であると、アンデレも言おうとしています。
つまり、アンデレの答えもフィリポの答えと結論が同じであるということです。アンデレが少年を見つけ、5つのパンと2匹の魚があるということをイエスさまに知らせたのは、「これだけありました。これでなんとかしましょう」とイエスさまに提案するためではなく、「これだけしかないのであきらめましょう」とイエスさまを説得するための具体的なデータを探してきただけでした。
皆さんはどう思われますでしょうか。つまらない話だとお思いになりませんか。フィリポにしてもアンデレにしても、共通しているのは、危機的な状況に直面したときに「これだけあります。これでなんとかしましょう」と前向きな提案をするのではなく、「これしかありません。だからやめましょう、あきらめましょう」と後ろ向きの提案しかできない人々であったということです。
たとえばの話ですが、もしみなさんが会社の人事部に配属されて新入社員の面接を担当することになったとき、最初から最後まで後ろ向きのことしか言わない、否定的なことしか言わない人を、それでも採用しようと思いますでしょうか。「無理です、無理です、やめましょう」としか言わない人を。
何もイエスさまは、現実離れした大言壮語を弟子たちに言わせようとしたのではないと思われます。しかし、はなからあきらめていて、どこかしら投げやりで、どうせ無理だから、我々にどうすることもできないと一方的に言い張るだけで、それ以上のことを考えるのをやめてしまう。どれほど現実のニードがあっても、わたしたちにその責任を引き受けるのは不可能であると、ひたすら逃げ腰でいる。そのような弟子たちの姿にイエスさまはがっかりなさったのではないでしょうか。溜め息しか出ない。二の句が継げない。そういうお気持ちになられたのではないでしょうか。
実はここで私はもう一つ気になる点があるのですが、それは後回しにします。特にこのアンデレの答えの中に気になることがあります。腹が立つほどに。しかし、それは後で申し上げます。
さて、それでイエスさまがお命じになったのは「人々を座らせなさい」ということでした(10節)。「そこには草がたくさん生えていた」(10節)と記されています。
「草」についてはマタイによる福音書にもマルコによる福音書にも記されていますが、ルカによる福音書には記されていません。まさかとは思いますが、皆さんの中に「ああそうか、この草をむしって食べたのか、そういう話だったのか」と連想なさる方がおられないことを私は願います。
そういう話ではありません。固い地べたの上ではなく柔らかい草の上に座るように群衆に呼びかけたのはイエスさまの優しい配慮だったと考えるほうがよろしいのではないでしょうか。
そしてイエスさまがお始めになったのが、少年が持っていた5つのパンと2匹の魚を、5千人の人々に「分け与える」ことでした。「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいぶんだけ分け与えられた」(11節)と記されています。他の福音書にも基本的に全く同じことが記されています。すべて確認します。
マタイによる福音書の記述は次のとおり。「そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(マタイ14章19節)。
マルコによる福音書の記述は次のとおり。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(マルコ6章41節)。
ルカによる福音書の記述は次のとおり。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(ルカ9章16節)。
今確認したことで分かるのは、すべての福音書に共通しているのは、イエスさまが「五つのパンと二匹の魚」を「5千人に分け与えた」ということです。それ以上のことは記されていません。「五つのパンが五千個に増えました」とも「二匹の魚が二千匹に増えました」とも記されていません。
しかし考えてみれば、「分ける」ということはある意味でそういうことかもしれません。5つのパンを5千個にすることは物理的に可能です。一つのパンを千個に分けるのは難しいことではありません。そこに超自然的な力も奇跡の要素も必要ありません。ただ「分ける」だけであれば。
そんなばかな、と思われるかもしれません。すぐあとに「人々が満腹した」(12節)ことや、パン屑で12の籠がいっぱいになったと記されていること(13節)はどうなるのかと、きっとお思いになるでしょう。
私はそのことを否定したいのではありません。もちろんこの出来事はイエスさまが行われた奇跡として確かに記されています。しかし、聖書に記されているのは、イエスさまはがなさったのは「五つのパンと二匹の魚」を「五千人に分け与えた」ことだけです。それは物理的に可能なことです。
いま私が持っているわけではありませんが、ここに5千円札があることを想像してみてください。この5千円札を5千人に分けることになりました。それは可能です。ただし、ハサミで5千分の1に切って分けるのは、ばかげています。1人1円ずつにして分けるでしょう。ただそれだけです。なんら奇跡の要素はありません。
お金と食べ物は違うと思われるのは当然です。私も一緒くたに考えているわけではありません。ただ、この出来事を理解するためのヒントにはなると思っています。
この出来事に謎の要素はいくつかあります。一つは、5千人もいた人の中で食べ物を持っていたのが一人の少年だけだったということがありうるだろうかということです。もう一つは、少年が持っていた魚は、生だったのか、それともすでに調理済みだったのか、ということです。もし生魚だったら、どうやって分けたのかが気になります。刺身でしょうか。包丁があったのでしょうか。
さてそろそろ、先ほど私が、アンデレの答えの中に腹が立つほど気になることがあると言ったことを申し上げます。アンデレは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」(9節)と言いました。
私が気になるのは、アンデレはこの「五つのパンと二匹の魚」をどうするつもりだったのかということです。食事はすべて自己責任だ、我々の責任ではないと言い放って、5千人の群衆は手ぶらで帰らせて、「五つのパンと二匹の魚」をイエスさまと弟子たちだけで全部せしめるつもりだったのでしょうか。その表現しがたい狡猾さ、ケチくささ、特権意識が、私には気になります。
もし仮に弟子たちがそうしたとしても、群衆にはバレなかったかもしれません。しかしイエスさまがそれをお許しになったでしょうか。「5千円しかない。だから分けられない」と言い張って、5千円を独り占めするか、それとも1円ずつにして全員に分けるか。イエスさまならどちらをお選びになるでしょうか。どちらが「皆の満足」になるでしょうか。
しかし、この箇所についての説教や解説を私は何度となく聴いてきましたが、だいたいいつも奇跡の話で終わってしまい、「分け合うこと」の意味を教える話になりません。それが私にとっていちばん謎です。
人のお腹は不思議なものです。1日2日食べなくても平気なときもありますし、のど元まで食べても満足できないときもあります。「満腹」にせよ「満足」にせよ、人の心の問題と結びついているからです。
「これしかない」からと言って分け合うことをやめ、特定の人々だけがせしめてしまうのがいちばんよくないことです。その問題を、教会こそがよく考える必要があります。
(2017年8月13日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)