2017年9月6日水曜日

考える余地はいくらでも残っている


何年か後の私が2017年の私を思い返したときに何を思うのだろうかということに若干興味がある。どのみち今のままではありえない。人にも言われたが、あとは私の決断次第らしい。「らしい」とまだ書くところが未練がましく見苦しい。「覚えやすいがややこしい」はハメハメハ。ハメハメハメハメハ~。

しかしこの期に及んでも、良い方向に現時点で進んでいるし、必ず進んでいくと思っているのは、自分を客観視できない身の程知らずの意識高い系だからかどうかは分からない。牧師にありがちかもしれないが、よってたかって「あるある~」とか言われましてもね。希望の神学は意識高い系でした、みたいな。

神学の本質はタブーなき思考にある。「神しか考えてはならない」のではなく「神まで考えてしまう」のが神学だ。人間の理性は謎解きをやめようとしない。考えるだけならリミッターは要らない。ただし大切なのは自己満足に陥らないことだ。それと「神まで考えてしまう」ことは学位や就職と直接関係ない。

「考えすぎで疲れる」と言われる意味がよく分からない。その経験がない。目と肩と腰に激痛が起こることはあるので、その意味の「疲れ」なら分かる。しかし「考えすぎ」で何が疲れるんだろうと思ってしまう。逆に、どこかでリミッターがかかっているからショートしてしまうのではないかと思ってしまう。

誰かを責める意図は全くない。他人の疲れを論評する立場にない。私に限っては「考えが足りなくて疲れる」ことはあっても「考えすぎで疲れる」ことはない。20年でも30年でも毎日背表紙を見つめているだけの本がある。せめて自分が買った本くらい全部読んで人生を終わりたいので、私は当分死ねない。