2015年6月13日土曜日

土曜日の夜についだらだらと書く


見かけた記事に刺激されて書く。聖書で父親を意味する「アッバ」は幼子が使う言葉だから「お父ちゃん」と言っているようなものだという説明を30年前から繰り返し聞いてきたが、何度聞いても腑に落ちない。腑に落ちない理由にいま気づいた。私が自分の父親を「お父ちゃん」と呼んだ記憶がないからだ。

父親を「パパ」と呼んだことは一回もない。私の子どもたちにも「パパ」と呼ばせたことはない。常に「お父さん」と私は父親を呼んだはずだし(今もそう呼んでいる)、子どもたちも私を「お父さん」と呼ぶ。たぶんだから、アッバは幼子の言葉だから「お父ちゃん」だという三段論法が一向に腑に落ちない。

しかし、本当に言いたいことは、ここから先だ。私にもそれなりの反抗期や思春期はあった。私の子どもたちにも、それはあった。その頃のことを思い返すと、「お父さん」とストレートに呼ぶことに抵抗を感じたことがあったように思う。「あのさー」から始めて、最後まで相手の名前を呼ばない、みたいな。

それはどういう心理状態なのか説明してみろと言われても説明できない。それがきちんと説明できるくらいなら、もはや反抗期でも思春期でもない。照れているようでもあり、すねているようでもある。屈折しているようでもあり、まっすぐすぎるようでもある。あえて字にすればそんな感じではないかと思う。

対面で話しているときは目の前に本人がいるのだから「おれおれ詐欺」は成立しない。でも、親のことさえ「お父さん」「お母さん」と呼べない状態のときは自分の名前もたぶん名乗れない。電話で「ぼくだけど」「あたしだけど」と言わざるをえない心境になるときは、ないだろうか。私はある。ありすぎる。

でも、いま書いているのは、わが家の親子関係のことではない。聖書のアッバ(父)のことだ。アッバは幼子の言葉だから「お父ちゃん」だというあの有名な三段論法が、私の腑に落ちたためしがない。祈祷とは対象(オブジェクト)への呼びかけによって始められるべきである。祈祷の対象とはアッバである。

それは分かる。しかし、なんて言ったらいいのか、「思春期の祈り」(笑)とか「反抗期の祈り」(笑)とか、もっといろんなパターンが考え出されるべきではないかと思ったりする。「あのさー」で始まり、最後まで相手の名前を呼べない祈り、みたいな。祈りの関係が親子関係でたとえられるというならば。

教会が苦手な若者たちが何を感じているのかを正確に分からずにいることを申し訳なく思っているが、教会のしていることが単純に「古い」というだけではなく、実はそれほど古くもなく、さりとて新しくもない、ある時代の価値観のままで固定されているように感じられることが、うんざりするのではないか。

若者たちに分からない暗号を用いていえば、いつまでも兼高かおる世界の旅状態の教会、みたいな。的外れのことを書いているとしたら申し訳ない。兼高さんに文句を言いたいのではないので、ただちにお詫びしなくてはならない。戦後から1960年代までの一時的キリスト教ブームへの郷愁。外国への憧れ。

いま書いたことは脱線だ。「思春期の祈り」や「反抗期の祈り」に需要はないだろうか。教会の祈りにおける親子関係は、なんだかブルジョア的すぎないか。現実の家庭はもっと壊れていないか。アッバは幼子の言葉だから「お父ちゃん」だ、なんていう三段論法で片付かないほど現実の家庭は壊れていないか。

我が家のことを書いているのではない。ある意味で一般論だし、現代社会の「普遍的」と言いうるほどの深刻な問題ではないかと思うので、率直に書いている。「思春期の祈り」にも「反抗期の祈り」にも需要がないなら押し付けるつもりはない。だが、需要がないことに、絶望に近い深刻さを感じなくもない。