2015年6月15日月曜日

聖書学者の皆さまを「ものすごく遠くから」応援しています


こんなこと、不特定多数対象想定のネットのような場所にしか決して書くことができないことなのですが(本当に大丈夫か)、ナザレのイエスの「メシア自覚」とは具体的に何だったのかを考えるたびに「ぼくがメシアですみません」と言い出しそうな平身低頭のおどおどした男の子が思い浮かんでなりません。

いちおうお断りしておきますが、「平身低頭のおどおどした男の子」というのは、あくまでも外見上のことです。外見上はパーフェクトにそう見せ(かけ)ておいて、中身はスゴイ。つまり、かなりしたたかな人ですね。ギラギラした感じではなさそうな(なにそれ)。もちろん全く私の勝手なイメージですよ。

恩師・松永希久夫先生は、史的イエス像は解釈者自身の自己投影である可能性が高い説の方でしたので、私もその線に立ちつつ自由にいろんなイメージを「読み込んで」考えています。マルクスセン『新約緒論』日本語版を用いた新約緒論は松永先生でした。新約神学は平野保先生、新約釈義は竹森満佐一先生。

私は聖書をそういうふうにだけ読む習慣を持たない人間ですが、「二千年前の神話的表象をすべて取り除いた先に浮かび上がるノンフィクションのイエスはどんな人だったの?」と問い続ける人たちにある程度付き合うことが今日の教会と牧師に求められることだったりするので、こういうことを時々考えます。

あとはやはり、あの「ひげ、長髪、長衣のイエスさま」の美術史的起源は知りたいところです。画家の自画像だったりして。たまに見かける「金髪・碧眼」は論外としても、「ひげ、長髪」は聖おにいさんまでもが乗ってるほど(という引き合いの出し方の是非は問われる可能性があるが)影響大きいですよね。

それと、十二弟子の一人のレビは元取税人ということで、わりと最近、ある先生の説教をお聴きしながら浮かんできたイメージは、ごめんなさい、やや危ない言葉使いますが「インテリヤクザ」っぽいな、というものでした。金融関係や国際商取引の知識に長け、闇の世界で顔が広い。相当有能な弟子ですよね。

パウロは帰国子女ですよね。自分でも相当勉強したヘブライ語とギリシア語を自由自在に操るバイリンガル氏。ラテン語もできたのではないかというトリリンガル説もあるようですね。ご卒業のエルサレム律法学校は後の時代の神学部でしょうか法学部でしょうか。聖書学科であることは間違いなさそうですが。

しかし、同じことを繰り返しますが、私はいつもいつもこういう聖書の読み方をしてはいないです。二千年前の神話的表象をすべて取り払った先に残るノンフィクションのイエスやパウロの実像に迫ってみせるという志は尊いですが、それはいわゆる玉ねぎ理論で、皮だ皮だと思って全部むいたら何も残らない。

ならばどうすればいいのかと問われることになるでしょうけど、私の解決策はひとつだけです。ある程度までという留保付きにはなりそうですが「ある程度まで神話的な表象」(神さまの話)を用いて現代社会の現実を説明できる場所を確保し、かつ創出し続けていくことだけです。それが教会だと思うのです。

「神とか(プ)」と笑われる場所がいくらでもあることは私だって一応現代人の端くれですから(なんでこんなことを断らなくちゃならんのかさえ分からないんですが)知っています。それはそれですよ。一概にダメとも言えない。だけど、教会は「神」をちゃんと言える場所として保ち続けなくちゃとは思う。

教会で「神」言って「プ」されるというのは一番最悪だとも思う。もちろんなんでもかんでも「神神」言えばいいってもんでもないことも分かります。ややこしいこと面倒くさいこと、場合によっては後ろめたいことを隠ぺいするために「神神」言ってけむにまくというのは最悪よりも悪い感じでもありますね。

以上、なんだかあまり盛り上がらない話題をそろそろ終わろうと思います。神学大学での聖書学の成績がものすごく悪かったこと(ほんと最悪でした)がものすごくバレてしまう書き込みで恥ずかしいです(なら書くなよと言われそうですね)。聖書学者の皆さまを、ものすごく遠くからですが応援しています。

【スピンオフ】

そうそう。あの話は、医学の話とは全く関係ないんですよ。

私の考えをそのまま書きますが、そもそも夫婦の間のこととか、だれがどうやって生まれたということを知っているのは、たぶんその夫婦だけですよね。それすら何年か経てば忘れてしまうようなことでもあるわけで。

私は自分が父と母から生まれたんだろうとは思っていますが、父と母が「どうやって」私を産んだかには興味ないし、想像したいとも思わないわけで。そもそも「そういう次元の話」ですよね。

そして聖書に書かれているのは、マリアなりヨセフなりの夢の話だったり、本人証言(であるとしか言いようがない)だったりするわけでして。本人しか知りえないきわめてプライベートな事柄について本人が「そうだ」と主張していることを、聖書の記者というか当時の教会が「信用した」だけのことですよ。

ネットの関係でも同じようなことが言えるわけです。どこのどなたさまかも分からない、面識もつながりもない方の字だけを読んで、その次に我々ができることがあるとすれば、その相手を「信用する」かどうか、だけだと思います。

医学的に辻褄が合っているかどうかという点については、2千年前の人だって疑う人は疑っていたわけで、「現代の」医学と辻褄が合わないというような話では全くありません。マリアの話を信頼した、というだけです。それはマリアという人物が信頼に足る存在だったからだと思います。

面白いおばちゃんだったのではないかと思いますね。「あたし、結婚する前に子どもできちゃったんだけどさあ。夫とも誰ともそういうの一切ありませんからね。あたしの目を見れば、うそついてるかどうか分かるはずだよ」みたいな話をよくしていたんじゃないかなと思います。

どうしてあのような証言になったのかは、いつ頃のインタヴューかにもよりますよね。おばあちゃんになってからのマリアへのインタヴューだったかもしれないし、もっと若い頃だったかもしれない。

若くして亡くなったと言われる(途中から登場しなくなる)夫ヨセフについての記憶がほとんど消えかかっているレベルの頃の証言だとすれば、最晩年かもしれませんね。

そしてもう一歩踏み込んでいえば、何歳頃のマリアだったにせよ、夫との関係を強く拒否することを証言していたのだとしたら、我々が知りたいのは、拒否の理由ですよね。彼ら夫婦に何があったのかは第三者には全く分かりませんよ。だけど、わざわざ初産に関しては関係がなかった関係がなかったと言う。

イエスさまの弟や妹については、「関係があった」とわざわざ書かれてはいませんが、否定もされていない。知りたくないですよ、べつにそんなの。書く必要ないことです。弟や妹をマリアが「どうやって」産んだかに、私は興味ないなあ。いい、いい、べつに、そこは。

だけど、長男に関しては夫婦関係は完全否定。わざわざ明言。その理由はなんでしょうかね。それは詮索しても分からないことだし、詮索すべきでもないことだと私は思うので、やはりマリアの言うとおりを「信用」するしかないと思っています。

自分の言い分を信用してもらえないことの苦しみは、だれしも多少なりとも味わってきたことでしょう。ハナからうそつき呼ばわり、非科学的呼ばわりしなくても。なぜその人はそういうことを言っているのかの意味や理由を考えることが大切ではないでしょうか。

他人の家のことに、他人はほとんど関心ないんですよ。自分の家や状況と似ていることにだけ反応して、「分かる分かる」と返してくれるか、「ありえない」と全否定されるか、どちらかですよね。細かいこと言われても分からないし、興味ない。

その点では聖書も同じです。自分の状況にカスる要素があれば「分かる」になるし、カスりもしなければ「ありえない」で片付けられる。

聖書の読み方にもカウンセラー的な態度が必要かもしれません。マリアの証言に静かに耳を傾け、この人はいま何を言おうとしているのか、この人の心の中の求めは何なのかを見抜く力が必要かもしれません。