2015年6月5日金曜日

パソコン修理の「真の」理由

ブートのたびにカラー画面が出るマザーを使うのは初めてだ
一昨日マザーボードとCPUを交換して蘇生させたパソコン用のDDR3メモリが本日届いた。代金引換で4,998円。マザーとCPUと合算で15,702円。これで5年はもつ。年3,140円なら安い。マザーは「ミリタリークラス」(ブート画面がカラー)、CPU(セレロンデュアルコア)は爆速。

ただし、誤解されたくないので一点釈明させていただく。仕事そっちのけでパソコンいじりに興じていたつもりはない。「お時間がおありなのね」とか思われたくない。すべて正反対だ。たしかに私の「仕事」ではないが、死んでいた仕事道具を蘇生し、使えるようにした点は、ぜひ評価してもらいたいものだ。

私の仕事にどのように役立つのか。ひとことでいえば、現時点では避けることができない「家事と仕事の両立」のためパソコン修理が必要だった。「両立」の必要がなければ修理も必要なかった。そもそも「仕事」がないなら私にパソコンは要らない。引退と同時にネットを引退すると、かねてから言っている。

家事の大変さというのは、基本毎日しなければならないことにある。そんな当たり前のことでも、しなくては気づきもしない。「昨日こんなことをした」では済まない。同じことを今日もする、明日もする、毎日する。時間や負担感の比率でいえば「家事の合間に仕事をする」という順序であって、逆ではない。

でも、そんなことを言えば「おまえの仕事は片手間か」と言い出されることもある。それだけは言われたくない。片手間ででっちあげた仕事は、いまだかつてない。だけど、まず自分が生きなければ仕事はできない。せめて自分の家族を養い、必要な教育を与えなくては人様の助けになるようなことはできない。

ただ、今いる状況に固有の問題もあった。私の住居(「牧師館」と呼ばれる建物)と教会の建物が20メートルほど離れているため(車道を挟んだ斜向い)、家事と仕事の両立をするにしても、両方を同時進行させることが難しい。家事は牧師館、仕事は教会。これの同時進行をどうするかが私の課題であった。

その課題の唯一の解決策が結局インターネットだった。パソコンは「通信機」だ。通信「も」できるという次元はとっくに超えている。教会宛の連絡(とくにメールとビデオ通話)を(家事中の)牧師館でも同じように受け取るために、牧師館パソコンが私には必要だった。このたび修理したパソコンがそれだ。

そういう事情なので、私にとって「パソコン修理」は「家事」のカテゴリーに属することであるということを、ぜひご理解いただきたいと願っている。それは私の「仕事」ではないが、「趣味」でも「マニア」でもない。このたび蘇生した「牧師館パソコン」は家事と仕事を両立させるための最強の道具なのだ。

さてさて、こんなことを書いているうちに洗濯終了を知らせるアラームが鳴る。はいはい了解。これから物干し。そのあと食器を洗ってから教会の書斎に戻る。そこから先は、悪いが私の自由にさせてもらう。教会の書斎でしかできないことがある。家事の片手間では決して書けない言葉がある。それも事実だ。