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ファン・ルーラーの『宣教の神学』を紹介するオランダの新聞の切り抜き(1955年8月20日付、関口康所蔵) |
昨日、ふと思いついて、ファン・ルーラーの『宣教の神学』(Theologie van het Apostolaat)の第一章の冒頭部分の試訳を書いて、facebookに貼り付けました。
そのようにしたことには、一つの明確な意図がありました。過去に出版された二種類の日本語版と拙訳(試訳)を読み比べていただきたいと思ったのです。
長くなりますが、以下のとおりです。
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①後藤憲正訳、ディアコニー研究会、1997年
まず最初に考察しなければならないのは、終末論的な観点についてである。すでにこのことは、直接に、組織神学をして次のような興味深い結果に直面させる。すなわち、教会の機能と本質についての使徒的宣教構想は、終末論の持つ位置を強く強調するものであって、そのため、終末論が必然的に反省の出発点となるのである。確かに、このことは現代の聖書学研究の重要な強調点と一致している。また「終局のもの」に強調を置くというこの点は、とりわけ、文化危機に直面した精神の状態と非常によく符号している。しかし、使徒的宣教構想は、活動する主体の立場からものごとを見る。だから「終局のもの」は、単純に破滅へ向かうものという「状態」としては見られないで、そのかわり、「主体の活動に伴う」勇気や喜びに直面させられるのである。それゆえ、終末論的な強調は、組織神学を再建するように私たちを根本から駆り立てる、ということを意味している。
②長山道訳、教文館、2003年
第一点として、わたしは終末論的視点を扱いたい。それは神学的体系にとって、すでにただちに、教会の本質と機能についての使徒的観点の影響下で、終末ノ場が非常に前面に出てくるので、その結果、終末ノ場が必然的に思考の出発点になるという注目するべき結論を意味している。この点で、使徒的観点は、現在の聖書解釈の重要な路線と確かに一致している。たとえ使徒的観点が、終末においてものごとが行為している(それゆえ、過ぎ去っていくのではない)のを見るとしても、すなわち、たとえ使徒的観点が勇気と喜びをもってものごとを見るとしても、ここで終末に置かれている強調は、文化の危機的状況に特徴的な没落の気運とともに、強い共鳴を得ることも考えられる。いずれにせよ、終末論的強調は、徹底的な仕方で神学的体系の再建を促す。
③関口康訳(試訳)、ネット私家版、2014年
最初に取り上げたいと私が願っていますのは「終末論」の視点です。教会の存在と役割を宣教論の立場から考えていくと次第に分かってくることは、終末論には非常に大きな意義があるということです。その意義たるや、「終末論から書きはじめる組織神学」を考えなくてはならないと思うほどです。終末論への強調は現代の聖書学の動向とも合致しています。「世界の終わり」を大げさに扱うことには一般的な社会不安に迎合する面が全くないわけではありません。しかし、宣教論はあくまでも宣教の主体である教会の立場から考え出されるものです。教会が教える「終末」の意味は破滅ではありません。宣教の主体としての教会がその「目標」や「目的」をめざす勇気や喜びを表現するのが終末論です。終末論への強調は、組織神学をそのような神学へと全面的に書き直すことを求めていると私自身は考えています。
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過去の二種類の日本語版の訳者の人格や名誉を傷つけようとする意図は皆無ですので、以下、①と②と呼ばせていただきます。
①も②も、ドイツ語版に基づく訳です。しかし、ドイツ語版の出版時にはファン・ルーラーは存命中でした。また、ファン・ルーラーはオランダ人ですが、ドイツ語が堪能であったことが知られています。
そのため、ドイツ語版の完成稿の最終チェックを原著者ファン・ルーラー自身が行ったということは確実に言えることですので(そうでないようなものが当時の市場に出回ることはありえない)、①と②がドイツ語版に基づく訳だからという理由をもって「重訳」と決め付けて批判することは控えなければならないと、私は考えています。
「重訳」であるかどうかということよりも、私にとって大きな問題は、①も②も、おそらく人はこういうのを「原典に忠実な、厳密な翻訳」と呼ぶのだと思うのですが、このようなタイプの「厳密な」翻訳こそが、ファン・ルーラーの読者を日本において獲得することができず、かえって読者を失うことになった致命的な原因になったと思われることです。
単純な話です。読んでも分からないものを誰が買おうと思うでしょうか。店頭での立ち読みの時点で購入する気になれない。「立ち読み禁止」でラップでもつけますか。「ラップつきの神学書」を誰が買うでしょうか。ありえないことでしょう。
先週月曜日(2014年10月27日)に解散した「ファン・ルーラー研究会」の15年半で、私が最も苦しんだのは、「そもそも翻訳とは何なのか」という問いでした。ある意味で、翻訳そのものに苦しむ以上に、翻訳論に苦しんできました。
結局、その答えはいまだに分かりません。
拙ブログには繰り返し書いてきたことですが、『翻訳とは何か 職業としての翻訳』(日外アソシエーツ、2001年)という小さな本を出版された故・山岡洋一氏のことを忘れることができません。山岡氏が死の間際まで発行しておられた「翻訳通信」というメールマガジンは、毎号熟読していました。
山岡氏が繰り返し言及なさったことは、哲学者ヘーゲルの日本語版の訳者として著名な金子武蔵氏と長谷川宏氏の比較です。
「翻訳とは何か」を考える場合、「金子型」と「長谷川型」を比較してみることが最も分かりやすいということを私が知ったのは、山岡氏の『翻訳とは何か』を読んだときです。
山岡氏は「金子型」は「翻訳ではない」と断言なさいました。それはドイツ語ならドイツ語、英語なら英語の原文の一単語ごとに日本語の一単語を対応させる仕方で、一種のパッチワークをすることです。
そのようなやり方は、大学や神学校での原典講読ゼミのような場所で、出席者全員が外国語の原書を開いて読んでいるというような状況の中では有効な方法かもしれません。その場にいる人々が見ているのは、外国語原書のテキストであり、そのテキストに記されている外国語の構文だからです。
原書の文字を逐語的に目で追っている人たちにとっては、原書の外国語の一単語ごとに一つずつの日本語をパッチしていく作業の「模範解答例」になりうるという意味で、金子型の方法が役立つ場合がありえます。原典講読ゼミ出席者の「あんちょこ」としては有効に機能する可能性があります。「昨日は夜遅くまでバイトがあったので、予習ができなかった」というような学生たちにとっては。
大学や神学校で「聖書釈義」や「聖書原典講読」などを履修した人たちはおそらく必ず持っている「インターリニア(行間逐語訳)聖書」というのがありますが、言ってみれば、あの手のパッチワークが山岡氏の言うところの「金子型」であると考えていただけばよいと思います。
しかし、原文の一単語に日本語の一単語を対応させた上で、それをそれらしく並べ替えただけの文章は「日本語ではない」と、山岡洋一氏は死の直前まで繰り返し訴えました。しかし「翻訳とは日本語にすることでなければならない」。
山岡氏のおっしゃるとおりだと私も思いました。「原典に忠実な、厳密な翻訳」かもしれないが、日本語としては全く意味不明な文字の羅列にすぎない、そういう「訳書」によって日本国内に広く読者を得ることは不可能である。私にはそうであるとしか言いようがありません。
これも繰り返し書いてきたことですが、最も単純な例は、I love youは「私はあなたを愛しています」なのかという問題です。「私はあなたを愛しています」と書けば、日本の学校教育の中では合格点をもらえる回答かもしれません。しかし、現実の場面で「私はあなたを愛しています」という言葉を述べる日本の人はいない(皆無とは言えないかもしれませんが)。つまり、そんな日本語は「ない」。
そのような「金子型」に対して「長谷川型」は、全くタイプが異なります。両者は対極の位置にあると言えるほどの違いです。「長谷川型」は「日本語」です。山岡氏は「長谷川型」こそが「翻訳である」と推奨なさいました。
しかし、これは非常に難しい問題であると、私はずっと悩んできました。
「金子型」のほうが、明らかに「学問的に厳密である」という体裁をとりやすい。原書に通暁している学者たちからの批判をかわしやすい面が、あるといえばある。しかし、それは「日本語ではない」。広範な読者を得ることは不可能である。せいぜい、原書テキストの構文を眼前に置いている人たちを利するだけのものとなる。
他方、「長谷川型」は「日本語である」。しかし、意訳だ、でたらめだ、超訳だ、あのようなものは学問的な信頼に値しないという罵倒をうけやすい。
「どちらを選ぶべきか」という問いの答えは、結局、私には分かりませんでした。
そして、その答えが分からない以上、私はそろそろ翻訳から手を引くほうがよさそうだという答えにたどり着きました。これが、現時点での私の心境です。
しかし、これはネガティヴで後ろ向きの意味ではありません。
「金子武蔵型」の隘路にだけは進んでいくことは決してすまいという決意表明のつもりです。
しかし、「長谷川宏型」を「あれは翻訳ではない」とみなす人々に逆らい、抗うほどの動機はないので、「翻訳から手を引くほうがよさそうだ」と書いたまでです。