2014年11月13日木曜日

我々牧師自身の人生経験が最終的に問われるだけです


そもそも聖書的・キリスト教的な意味での「あがない」は、旧約的な背景から切り離して考えることは実は全くできない事柄であるはずです。

旧約の動物犠牲の趣旨は、我々人間が犯した罪に対して本来的には当然罪を犯した本人が受けなければならない罰を、動物に代わりに受けてもらうということです。

動物としてはたまったものではありませんが、人間の犯した罪の身代わりに悶え苦しんでもらう。その動物の姿を見て、「ごめんなさい。もう二度とあんな悪いことはしません」と自分の犯した罪を激しく悔い、自分の思いと行いを改める。

「動物さまがわたしたちの身代わりに死んでくださった」とか言わないでしょう。死を美化してしまっては、「あがない」の意味も本当は成立しないのだと思います。

「贖罪論一辺倒の神学」のことを考えれば考えるほど、底なしの泥沼に落ちていくような感じがしてきて、気が滅入ってくるものがあります。

「あがない」こそが救いであると言いたいがために(そのこと自体が間違っているわけではない)、キリストの苦しみや死を肯定的に意味づけ、それがたとえキリストの死であれ、「死んでくださった」という、日本語としては間違いなく不気味な丁寧語で語り続けて来たのが、我々(日本の)教会です。

そして、ここから先は隠そうとしても隠し切れない厳然たる事実として言わざるをえないのは、教会が人の死をかなりの程度美しいものとして描き続けてきた面があるということです。ご遺族の慰めのために。それはまたもちろん、ご本人のためでもある。そのすべてが間違っているわけではない!

しかし、そのために(慰めの言葉を語るために)教会がしてきたことは、「キリストのあがない」と我々(普通の)人間の死とを重ねあわせ、類比のロジックを駆使しながら語ることでした。「○○さんはわたしたちのために死んでくださった」という不気味な文法を用いてではないにしても。死を悲惨なものとしてではなく、かなりの程度美しいものとして描くことに労力を費やしてきたと思います。

しかし、それで本当に良いのかどうかを、我々はどれくらい反省してきたでしょうか。

話は突然飛躍するようですが、ここに来て元AKBの女の子が「キリストを超えた」と言われてみたりする。セーラームーンだって、プリキュアだって、まどか☆マギカだって、自己犠牲だ贖罪だという話に結び付くものが、あるといえばある。類似性に着目するという方法で「キリスト」と「現代」を結びつけようとする試みそのものが激しく糾弾されるべきであるとは、私は思わない。

しかし、気になるのは、いま書いたことのすべてが一直線につながっているのではないかと、私には思われることです。苦しみや死の美化の問題です。

もしその思想的淵源が「キリストのあがない」そのものではなく(「キリストのあがない」そのものであれば大きな問題はないのです)、「贖罪論一辺倒の神学」と称されるべきモニズム(一元論)やトートロジー(同語反復)やモノマニア(偏執)にあるとしたら(そうでないならこの話題はこれにて終了)、それは危険であると私は言わざるをえない。

キリスト教は、少なくとも組織神学は、なかでも教義学は「贖罪論」だけで構成されるものではありません。天地創造から神の国の完成までのすべてを考えぬくのがキリスト教です。

ワンポイント、ピンポイントの「贖罪」だけを取り出して、それがキリスト教のすべてであるかのように巨大化させてみせる手法は、今の私には全くついていくことができません。

私が(ファン・ルーラーと共に)悩んできた問題は、教会だけにとどまるものではなく、むしろ病院であり、学校であり、地域社会の中でこそ問われるべきことであると考えてきたところがあります。

死を迎える心構えのことにしても、キリスト者であっても(「であっても」という言い方は適切でないかもしれません)難しい面があるのに、キリスト者でない方に、教会があるいは牧師が、何を語るべきなのか、何を「語ってはいけない」のかは、神学的に非常に深刻な問いであると認識しています。

我々が変なふうに開き直ってしまって、「我々のやることなんて、しょせん宗教ビジネスのようなものなのよ」とか言ってしまって、まるでバッティングセンターのピッチングマシーンのように、同じ角度、同じ速度の球をほうっておけばいいのよと、投げやりになる。そういうふうな仕方で、「慰めを語る」ようになる。

それでいいのかと、私はどうしても考えこんでしまいます。「いやダメだろ」と、私の心にどなたかの声が聞こえてきます。

「だれ一人同じ歴史を刻む方はいない」という至言を教えてくださった先生がおられます。しかし(という接続詞は危険な響きがありますが、これから書くことは反論ではありません)、我々がそのお一人お一人とじかに接する時間と空間はごくわずか。ある意味で「一瞬」でもある。

そこで瞬時に判断しなければならないのが、その方々お一人お一人の「個別性」(「だれ一人同じ歴史を刻む方はいない」というまさにその意味での個別性)だと思います。

その判断はとても難しいものですし、「不可能である」と言い切るほうが正直なほどですが、それでも我々はその判断をしなくてはならない。

それでは、その判断に必要なものは何だろうかと考えてみれば、何のことはない、我々牧師自身の人生経験が最終的に問われるだけです。そうとしか言いようがないです。

ネットでも(facebook然り、ブログ然り)「なぜこの人はこのタイミングでこのことをお書きになったのか」が分かる方と、分かりにくい方と、おられます。

分かるときは、「なぜ私はそのことが分かるのか」を、一瞬でも考えてみるとよさそうな気がします。それがおそらくは我々自身の人生経験(読書や交友を含む)に照らし合わせる作業に該当すると思います。

逆に、分かりにくい、または全く分からないときは、直接質問(コメントなど)するか、様子を見るか、批判・攻撃するかを、かなり真剣に考えなくてはならないでしょう。そういうことが我々のやっていることの訓練になると思います。