ファン・ルーラー著作集草稿 (編訳)関口 康 |
最近ある方に「私は高校時代の成績は最悪で、いつもだいたいビリでした」と衝撃告白(というほどでもない)をしたばかりです。「でもそれは今に至るまで私を支えている貴重な経験でした」と今さらの負け惜しみ発言を続けました。「どん底を知っている人は強いですよ。だってそれ以下がないんだから」。
「キリスト教も、今ではチャラチャラしたイメージとか、ブルジョアの宗教みたいに思われているかもしれませんが、イエスさまにしても、パウロにしても、旧約の預言者にしても、逮捕・監禁・収監・処刑。そういう場所の雰囲気とか臭いを知っている人たちの宗教がキリスト教でなければならないはず」。
「どこが上なのか、どこが下なのかは一概には言えないことです。自分はどん底だと思っていても、そこよりもっと底があるとか、変な争いが始まる場合もないわけではない。そういうのに巻き込まれると面倒くさい。自分はどん底にいる、という自覚があれば十分じゃないですか」。
「そして、それは貴重な経験だと私は本気で考えています。だって、自分はどん底から出発した、という思いがあれば、その後どれだけ高く昇ることができたとしても、失敗を恐れることがないですよ。失敗して落っこちても、元々のどん底の自分に戻るだけだから」という話をしました。
別に私のオリジナリティを主張したいわけではない、どこでもよく聞く、当たり前のような話です。
この話をしながら考えていたのは、拙訳でネット公開しているファン・ルーラーのショートエッセイ、「真理は未だ已まず」(1956年)のことです。
「真理は未だ已まず」(1956年) | ファン・ルーラー著作集草稿 (編訳)関口 康
ただし、この論文はしかめっ面で読むべきではなく、ユーモアとしてとらえるべきです。悪しからず。
私、来年で50歳になるので、50年教会に通ってきた人間だという自覚があるのですが、世間でよく言われる「宗教を逃げ場にする」という言葉の意味が感覚的に全く分からないのです。他の宗教のことは分かりませんが、キリスト教は何の逃げ場でもありえないです。少なくとも私はそう感じてきました。
その私の幼い頃からの感覚をズバリ言葉にしてくれているのが、ファン・ルーラーのこの論文です。よい論考に出会えて、私自身が喜んでいます。
「高校時代の成績」というものが、その人の人生のある部分を決定づけてしまう社会であることは事実かもしれません。しかし、そういう社会は、まもなく終わります。崩壊するでしょう。我々が考えなくてはならないことは、「そういう社会」が崩壊した後どうするかです。