2014年11月8日土曜日

日記「長期的視野をもってネットに書いてきたことの『文脈』を説明する方法に悩む日々です」

ブログに書いた「超訳聖書」が独り歩きしたことがあります。

あれは「翻訳とは何か」と考えての「例示」でした。それは拙ブログの長年の読者の方には分かることでした(私の「ネットに字を書く」という行為は18年も続けてきたことです)。山岡洋一先生の示唆に基づき「金子武蔵型」でなく「長谷川宏型」で訳すとこうなるのではないかと、大まじめに考えた「例示」でした。

しかし、最近ネットを始めたばかりの(高齢の)方々が「超訳聖書」だけをご覧になったようです。文脈がある話を、文脈を知らない人が、突如つまみ食いをするとどういうことになるか、ネット生活が長い方々にはお分かりになると思います。実は相当ひどい目に会いました。説明するのに時間がかかりました。

ひどい目に会ったのは、昨日今日の話ではありません。もうずっと前のことです。ほとぼりが冷めたので、書く気持ちが湧いてきました。

その点では、紙の本は「文脈」の説明がしやすくていいなと思います。前後関係が目で見える。部分的に切り取って「お前こんなこと書いただろ」とか持ち出されても、その紙の本一冊を《法廷》に提示すれば、たちどころに疑惑がとける。しかし、ネットの書き物は分断されやすい。都合よく引用されやすい。

しかし、今さらネットから撤退する気はないし、これからはネットからの撤退は廃業に近いものがあると思うので、どうしたものか日々悩んでいます。しばしば考えこむことは、長期的視野をもってネットに書いてきたことの「文脈」を説明する方法です。

紙の本を出すためには、汲めども尽きぬほどの「財力」が必要です。すべて自費で本にして、売れずにほとんど戻ってきたものを長期保管できる倉庫を持っているような人しか、紙の本は出せない。今書いていることはほとんど皮肉と嫌味です。でも外れているとは思いません。かなり当たっているはずです。