テモテへの手紙一4・11~16
「これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」
いまお読みしました個所、なかでも11節の御言葉は、私にとっては非常に思い出深い御言葉です。しかし、その思い出には証拠が残っていません。まさに記憶の中だけのことになってしまいました。そして、その記憶も、もしかしたら正確でないかもしれません。
実を言いますと、この御言葉は、私がおそらく生まれて初めて(?)自分のものとして手に入れた(このあたりの事実関係が怪しいのですが)旧約と新約の両方がある聖書の最初の空白のページに、当時私が通っていた教会の牧師が筆で書いた文字として記されていたものでした。
それはたしか私が中学か高校の頃から持っていた聖書です。たぶん親が買ってくれたのだと思います。なぜその聖書を中学か高校の頃に買ったと分かるのかといえば、私は高校を卒業してすぐに東京神学大学に入学しましたが、入学当初にはかなりボロボロだったので、同じ年に入学した一人の人から「おお、しっかり勉強してきたな」と冷やかされました。そんなふうに言われたことを覚えていますので、その聖書を買ったのが中学か高校の頃だったらしいことは分かります。
しかし、その聖書はもう私の手元にありません。ボロボロになったので捨てました。いつ捨てたかは覚えていませんが、捨てた記憶がはっきり残っています。捨ててしまってもう手元にありませんので、その聖書にこの御言葉が記されていたということの証拠がありません。しかし、その記憶だけは鮮明に残っています。当時の口語訳聖書からの引用でした。「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」。そのように書かれた牧師の字が、私の聖書の最初のページに書いてあったのです。
なぜ私がそのことを覚えているのかといえば、とにかく自分の聖書を開くたびに、その御言葉が目に入っていたからであることはもちろんです。しかし、もう一つ、この御言葉を見るたびに、なんとも表現しがたい悔しい思いを味わっていたからです。だからよく覚えています。もっといえば、この御言葉を見るたびに、苛立つ気持ちがあったのです。
その理由の一つは、私が洗礼を受けた年齢が早かったことにあります。私は小学校に入る前のクリスマス、6歳の誕生日を迎えたばかりの頃に、幼児洗礼ではない成人洗礼を受けました。そういう洗礼を認めてくれる教会だったので、そういうことになりましたが、改革派教会の洗礼の考え方とは違うところがありますので、皆さんに同じことを勧める意図はありません。
しかし、私は洗礼を自分で志願して受けたことだけは間違いありません。志願した日の記憶がはっきり残っています。自分で洗礼を受けたいと言いました。だから責任は自分にあるのです。
しかしその後、中学生か高校生になった頃の私に立ち向かってきたのが、この御言葉でした。「年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、信者の模範になりなさい」。
そんなこと言われてもどうすればよいのか分からないというのが、正直な思いでした。私が幼いころに通っていた教会は、わりと規模の大きな教会でしたので、いろんな人がいました。年齢層は、上は80歳か90歳くらいの方々から、下は0歳児まで。その中で「信者の模範になりなさい」と言われても困る。心底、途方に暮れる思いになりました。真剣に悩んだ言葉なのですから、忘れることなどできるものですか。
この御言葉を書いてくれた牧師は、私がそこまで思い詰めるとは思っていなかったのではないかと思います。しかし、それはその牧師自身の言葉ではなくて聖書の御言葉なのですから、牧師の手からは離れています。だからその牧師には責任はありません。
しかし、今日のこの夕拝説教の聖書個所を決めるために、この個所を改めて読み直してみて、はっと気づかされるものがありました。しかし、それは別に、びっくりするようなことではありません。考えてみれば当たり前のことです。
それは単純な話です。この御言葉はやはり、使徒パウロが若き同労者テモテに書き送ったものであるということです。そして、テモテの仕事は伝道であり、教会の牧師としての仕事であるということです。「年が若いということで軽んじられてはならない」のは伝道者のことであり、教会の牧師のことです。「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で信者の模範になること」が求められているのは教会の牧師です。誰にでも当てはめることができる話ではないのです。
そして、今回特に気づかされたことは、この二つのこと(若さゆえに軽んじられてはならないこと、信者の模範になるべきこと)は、すぐ後に記されている「わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」という御言葉から切り離すことはできない、ということです。
たとえて言うなら、テモテは神学校を卒業したばかりの伝道者であり、教会の牧師の仕事を始めたばかりです。その彼は、当然のことながら信者の模範になることが求められてはいました。しかし、どんな仕事でも、それを始めたばかりの人にできることとできないことがあるわけです。テモテには、まだできないことがあったのです。
できることとできないこととがある中で、パウロがテモテに求めたのは「わたしが行くときまで聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」ということでした。経験不足のテモテにできないことを「しなさい」とパウロは言いませんでした。今のあなたにできることをしなさいと言っているのです。それは聖書に専念することです。御言葉の説教に集中することです。
それは若い今のあなたにもできることです。御言葉の教師として召された者である以上、そのことができないようでは困ります。しかし、教会の中には説教以外にもいろいろな課題があります。説教以外の部分の中には、経験豊富な牧師でなくてはできないことがあるかもしれません。もしそれをまだできないのならば、無理をしなくてもいいし、背伸びしなくてもいいです。その部分は、わたしが行ったときにフォローし、カバーするので、大丈夫だから、安心しなさいと言っているのです。
これで分かるのは、パウロが書いていることは無理難題ではなく、むしろ現実的なことであるということです。ついでに言えば、経験不足の若い牧師を軽んじる傾向がある教会に対する苦言も含まれています。パウロが最も恐れているのは、牧師の失敗や過ちによって教会が壊れてしまうことです。そうならないように、経験不足の若いテモテをかばい、支え、励ますことがパウロの意図です。
(2013年3月24日、松戸小金原教会主日夕拝)