ツイッターから転載。
Nei Fukui @NeiMuroya
自国語で大学の講義が「できない」ということはものすごく不幸なことですよ。たとえば学術用語の自国語訳が進んでいないから、自国語では大学レベルの講義が「不可能」であるような国はたくさんある。日本人には自国語での講義ができるのに、この特権を捨てる必要はどこにもない。
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これは内田樹先生がリツイートしておられたツイートです。
Nei Fukuiさんのおっしゃるとおりだと思いました。
オランダ語のテキストを前に「翻訳とは何か」という問いに苦しんできた者としては、なんだかまるで自国語で大学の講義をすることが恥であるかのように思ってるんじゃないかと疑わせるものがある最近の空気が、不愉快でたまりません。
それ「逆行」だと思うんです。「退化」です。学問の退化であり、学問の放棄です。
小うるさいナショナリストではないですよ、ぼくは。なにもかも漢字とひらがなで書けるような言葉に直せとか、そういうことを言っているわけではありません。「”ベースボール”と書いてはいけない。”野球”と書きなさい」みたいなことを言うつもりはない。「リツイート」とか書いてますし。
だけど、翻訳ってスゴイたいへんなことなんですよ。重労働だし、人生を賭けるだけの価値ある仕事なんです(翻訳を職業として選ぶことだけを言っているわけではありません)。
翻訳しながら、テキストに書かれている言葉の一つ一つの意味を徹底的に考えはじめるんですよ。
そういうことを「せずに済ませる」ことができるように、いまの大学が変質しているんじゃないですか。それを言いたいんです。