第八章 律法の成就
最終章にたどり着いた。本章の課題は、律法の成就に関する新約聖書の証言内容を要約すること、そして、本書の目標である啓示と現実の関係についての教義学的研究の全貌を暫定的に提示することである。
本書第一部で主張したことは、我々の問題を解決するために教義学という方法を用いることは十分に正当なことなので、その正当性を取り返さなければならないということであった。第六章や第七章も同様であったように、教義学者が聖書釈義や聖書神学の専門家たちと対話すると、黙って聴き従うことに困難を覚える。対話のもう一方の側の聖書学者はどうだろうか。彼は時々、自分の同僚である教義学者の書物から引用する。ただし、彼は一つの点で自分の家のルールを厳守する。彼はなるべく几帳面に、共観福音書とパウロ書簡とヨハネ文書とその他の文書を区別する。しかし、この区分には決定的な意味は無いのである。本書がこの結論部分で主張しなければならないことは新約聖書の統一性であり、もっと多くの神の真理である!生ける神は律法を用いて何をなされ、かつ律法において何を語られたのかを、新約聖書はどのように証言しているのだろうか。今こそ我々はその問題に意識を集中しなければならない。
本書第二部で主張したことは、我々の教義学的研究の全貌を提示する際に、この全貌はあくまでも暫定的なものにすぎないという点を強調しなければならないということであった。生ける神が律法を用いて何をなされ、かつ律法において何を語られたかを説明するのは容易なことではない。神の言葉の統一性を疑問視する声は、神学が高度に学術化した今日的な文化状況に至って初めてあがったものではない。我々はどんなときでもその問題に取り組まなければならないのである。またもう一つ考えなければならないことがある。この問題については、キリスト教会の長い歴史的格闘を経て出されてきた実に多くの異なる答えがある。この事情を知っている者たちは、地上に打ち建てられる神の国の中でモーセの律法に与えられる意義は何かという問いに対して十分かつ正確な答えを出しうるというような幻想を抱くことはないだろう。モーセの律法は神のみわざの中で、いろんな意味で謎に満ちた役割を果たすのである。いくつかの重要な視点を設けて、できるだけ多くの問題を提起するほうが、性急な答えを安易に出すよりも、はるかによいことなのである。
このような遠慮は必要なことでもある。我々が取り組んでいるこの問題には実に多岐にわたる問題点があるからである。我々はすでに三位一体論やキリスト論の問題を扱った。モーセの律法の意義についての問いに対する答えは、キリスト論に対しても三位一体論に対しても、新しい問いを提起している。その問いの趣旨を今すぐに説明することはできない。その問いの中身を明らかにすること自体はこの文脈の関心事ではない。多くの問題と共にその問いもあると言っているのである。私が考えているのは和解論であり、義認論であり、聖化論である。聖書論も然り。礼拝論や教会規程論、ひいては教会論全体が我々の視野にある。聖礼典の問題は重苦しいものでさえある。問うべきことはいくらでもあるのだ。律法論(de locus de lege)は他の教理と内容的に絡み合っている。その様相はこの一冊の教義学書の中で片付けることなど考えられないほどである。
本書の目標設定上の限定からしても、本書の教義学的性格からしても、教会史的考察の部分なしで本書を完結させることはありうることである。私が最も願っていたことは、社会の中での教会の制度と、教会をとりまく社会の制度との中でモーセの律法はどのような役割を持っているのかという問題を考え抜くことであった。しかし、このことは技術的に不可能であった。読者各位には、そこでどのようなことが話題にされるべきかを想像していただく他はない。我々の研究は公同教会に属する一教派だけに関係していればよいものではなく、主要なすべての教派に関係しているものでなければならない!さらに我々はこの問題について礼拝学的にも教会職制論的にも聖礼典的にも倫理的にも神秘的にも政治的にも文化的にも考え抜かねばならない!考えるべきことは教理史の問題ではないし、教会史の問題でもない。我々の関心は神の律法の歴史的性格と現実的価値にあるのである。とにかく一度、本書を終わらせなければならない。今書いているのは教義学の研究書である。これは教会史の情報についての価値判断の基準を探す仕事である。本書の中に聖書釈義と聖書神学に関する章を設けた理由は、聖書は教会よりも上に打ち建てられたものであるということ、そして教義学は証拠聖句によって導かれるものであるという我々の見解に関係している。
(つづく)