2016年9月30日金曜日

今日もガーネット・クロウさんの歌に励まされて


画像とは全く関係ないが(ほんとに全く関係ない)、一日の仕事を終えてさて帰ろうかの瞬間、ガーネット・クロウさんの「タイムレス・スリープ」という歌(2001年)の「かろうじて憎しみに変えずいれた 私がんばれたよね?」という歌詞を、なぜか思い出した。日々穏やかでいられることが何より。

激辛のいやみ、えぐい皮肉、あとは逆説や罵倒や恫喝なんかで人が救われることはありえないと、ここ数年ずっと考えてきたつもりだが、そうでもないのかな。罵倒と恫喝は論外にしておくが、それ以外のそういうのにこそなんだか生き生きしはじめる人たちがいる気がしてきた。自信がなくなってきた。苦笑。

ネットつながりの方々との関係の話ではありませんので、どうかどうかご安心くださいませ。私は「ネットのことば」で傷つくような人間ではありません。言葉「だけ」ではなんともありません。寝そべっていたって、はなくそほじくりながらだって、どんなことでも書けるのが「字」であり「言葉」ですから。

語気を荒げて書くようなことではないが、「神ともにいます(インマヌエル)」は、論じることではなくて、信じることだと思いますよ、実際問題として。私信じてますからね。めっちゃ信じてます。「我ここに立つ。他にどうしょーもないけーな(語尾は岡山弁)」と宣言しつつ穏やかに日々過ごすためにね。

2016年9月29日木曜日

「その鍵は宗教ではない」のか

宗教というかピンポイントのキリスト教への侮辱を罪とせず、平然とと言うか一緒になって「そうそうごもっとも」とか頷きながら納得して聞いていたりするのは、キリスト教のプロテスタントの日本の人たちくらいかもしれません。私もだいたいどちらかといえばそのクチのほうです。いいんだか悪いんだか。 

唐突に書くが、私が高校生の頃は「共通一次試験」(センター試験の前身)真っ只中で、当時の先生がたの進路指導といえば進路未決定の生徒に同一偏差値の「医学部」と「法学部」のどちらかへの進学を勧めるといった具合。そういうのが「気持ち悪い」(ママ)と感じた私は、そういうのすべてからおりた。
9月27日
はっきりいえば、生徒本人の適性など全く眼中になさそうで「高偏差値の大学へ進学すれば明るい未来が待っている」式の進路指導をしていた。もちろんすべての高校がそうだったかどうかは当時の私には知るよしもなかったわけだが。当時の私が感じたことは、繰り返し書けば「気持ち悪い」(ママ)だった。

果たしてその結果はどうだったか。まだ「結果」も「結論」も出ていない段階だろうか。30年以上は経過したわけだが。「(当時の)高偏差値の大学へ進学すれば明るい未来が待ってい」たか。本当にそうだったか。真相はどうだったか。私と同じ今の50歳さんたちには、そろそろ答えられるのではないか。
9月28日
その答えを知ってどうのこうの言いたいわけではない。むしろ何も言いたくない。「そういうのすべてからおりた」私の弁解や自慢をしたいわけでもない。知りたいのは、現時点で高校の教員である私が、眼前の高校生たちに伝えるべき事実だ。ただそれだけだ。(大学の宣伝ではない)真実を知りたいだけだ。

実は意見を求めているわけでもない。いっそ黙って考えてもらいたいと願うばかり(高飛車な言い方で申し訳ない)。偏差の出やすい試験問題を用意して偏差と順位を競わせて勝敗を決めて「勝ち組」だ「負け組」だのラベルを貼るやり方はさすがにもう時代遅れだし、「嫌な社会」を作るだけだと思うばかり。
9月29日
偏差や順位や知能指数のようなものでは全く測ることができないが、仕事をやり抜き人生を生き抜くうえできわめて重要な力を養うための教育実践がもっと必要だ。すでに取り組みを始めている学校はあると思うし、少ないとは思わない。私も真剣に取り組んでいるつもりだし、良い結果が出始めていると思う。

宗教科の教員である私は「その鍵は宗教にある」と書くほうが安心してもらえそうだが、「その鍵は宗教かもしれないがそうでないかもしれない」としか書けない人間であることをお許しいただきたい。でも「そうだそうだ、その鍵は宗教ではない」とは言ってもらいたくない。遠慮して言わないでいるだけだ。

2016年9月25日日曜日

再びこの地に思い出が刻まれました

今日の午後は「日本ルーテル神学大学跡地」に行ってきました。とか無邪気に書いていると、もうすぐ叱られそうですねすみません。昔の看板がガラス箱の中に静かに安置されていました。ルターが笑顔なのは歴史修正主義の疑いがあると、一緒にいた方(卒業生)と話しました。もっとコワモテだったはずと。





小金教会の「特別伝道礼拝」に出席しました

今日(2016年9月25日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の「特別伝道礼拝」に出席しました。借家から最も近い教会。説教は同教会牧師の今泉幹夫先生でした。力強い御言葉によって励まされました。礼拝後の愛餐会にも出席させていただきました。ありがとうございました!
日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)

「無料で効果的に」情報拡散する方法

ほとんど顧みられない地味なブログに起こった一瞬の出来事
私がブログを始めたのは2008年1月。最初は有料の「ココログ」を使っていました。無料の「ブロガー」に変更したのが2010年5月。それ以降の全期間で最多アクセスを得た記事は「転職のお知らせ」(2016年1月4日)でした。ほとんど顧みられない地味なブログに起こった一瞬の出来事でした。

ブログよりSNSのほうが簡単ですが、SNSの「最大の」欠点だと感じる「過去ログ検索の難しさ」がブログにないので、ブログを続けています。最近しているのはツイッターで断想を書き、フェイスブックでまとめ、コメントを参考にしながら書き直し、流れができたらブログに保存するというやり方です。

以前は、逆の順序で、まずブログに書いて、それをフェイスブックに貼り付けて拡散し、ツイッターで広報していました。後者は「三段ロケット方式」と名付けたことがありますが、前者は名前がまだありません。強いて言えば、ツイッターは「講義」、フェイスブックは「ゼミ」、ブログは「レジュメ」です。

お金がないので、どうしたら「無料で効果的に」情報拡散できるかをずっと考えてきました。

NO MORE 説教泥棒

内容とは関係ありません
他人の説教文書を盗用することの最大の問題は著作権の問題などでなく、目の前でその説教を聴く人々の顔や姿や生活を思い浮かべ当てはめながら書き下ろされたものではない点だ。書かずもがなだが、「当てはめ」は「当てこすり」ではない。その教会の寸法に合うオーダースーツを慎重に縫い上げることだ。

「オーダーメイドのスーツなど不要で、既製品で十分間に合うし、そのほうがむしろありがたい」などと言われてしまえば、大方の牧師は廃業を余儀なくされる。なかには、既製品のスーツのほうに自分の寸法を合わせるべくダイエットなさる御仁もいるだろう。オーダースーツが高くつくことは否定できない。

だが、牧師たちが受けてきた訓練は、自分の教会にぴったり合うスーツを縫い上げるためのものだ。いま書いているのはもちろん比喩だ。キツキツでもなくブカブカでもない、ちょうどよい寸法をさぐり当てる。着る人々の体型が変わるたびに採寸しなおし、微調整を重ねていく。盗用説教にはそれができない。

比喩はスーツでなくてもクッキーでもお好み焼きでもいい。甘すぎるクッキーや、焼いてから時間が経ってシナシナしているお好み焼きでも「おいしい」と思える人にはそれでいいかもしれない。だが各自の嗜好を熟知しつつぴったりの味で、つくりたて焼きたてのごちそうを出してもらえるほうがたぶんいい。

「牧師いらんかえ。教会いらんかえ」と闇夜に向かって叫びたい日曜日の未明の私。

2016年9月22日木曜日

高校と大学の関係、そして学校と教会の関係について

内容とは関係ありません
今年4月からの大きな変化は、わりと躊躇なく皮肉を書けるようになってしまったことだったりする。これまで気を使いすぎていたかも。これに慣れると戻れる気がしないので、ちとまずい。いまタイプミスで「わりとちゅうしょなく」と打ってしまったら「割と中所(´;ω;`)ウゥゥ」と変換した(無関係

つい最近お会いした大学の先生(私の大学時代の先生という意味ではない)が「翻訳は業績にカウントしてもらえない。とにかく論文を書かなくては」と言っていた。そういうものかと初めて知った。大学教員界は大変そうだ。高校教員界は、論文を書いても翻訳してもそれ自体が評価されることはたぶんない。

夏休みのあいだ自分の勉強のために文科省検定済教科書の『倫理』の複数社のぶんを読み比べていた。それでお恥ずかしながら初めて知ったことだが、大学の先生たちだけで書いたものと、高校の先生が参加して書かれたものがあった。だからどうと言いたいのではないが、表現しにくい微妙な気持ちになった。

何を思ったかといえば私はどうやら権威主義者らしいということだ。大学の先生たちだけで書いた教科書のほうが、高校の先生が参加して書かれた教科書より信頼できそうだと、つい考えてしまう。厳密な比較ができたわけではないが、前者のほうが後者よりいくぶん読みやすいと感じたことは事実でもあった。

読みやすい教科書のほうに感じたことの中には「ああ、私も高校時代にこういうふうに教えてもらえていれば、もっと理解できただろうのに」という過去の恨みが含まれていた。後の祭りだが。結論を急ぐ必要はないが、教科書書きは現場主義より書斎主義(?)のほうがいいのかもしれないとさえ思わされた。

いま書いたことと直接関係はないが、夏休み中にもうひとつ、「高大接続」について文科省HPに掲載されているいくつかの文書をダウンロードして読んだ。センター試験を廃止して到達度テスト(ベーシックとアドバンス)のようなものに切り替える計画についても。これからいろいろと変わっていくようだ。

それでなんとなく思ったのは、「高大接続」だからこそ高校と大学は分業を徹底すべきなのだろうということだった。学校界のことは、入ったばかりなのでまだよく分からないが、高校には高校の、大学には大学の固有の課題がある。大学と高校の関係は単純な上下関係ではないと思う。取り組む課題が異なる。

教会界はどうか。「学校は教会ではない」のと同様「教会は学校ではない」。学問はしばしば宗教の腐敗をそしる。しかし学問も腐敗する。その監視役は宗教だと思う。教会は学校を「外から」見る。宗教の腐敗は学問が容赦なく指摘する。学問の腐敗は宗教が指摘する。そういう役割分担がありうるはずだ。

2016年9月19日月曜日

私は自由に書きたいことを書くだけだ

うちでマック。まっくのうち。
やっと今日の仕事が終わりました(仕事してたんかい)。三連休最終日は午後イチからずっと書斎に引きこもって仕事。やっぱりダメでした。連休知らずの長年の習慣に勝てませんでした。連休慣れしていない。連休を休みぬくためには連休の特訓をしなくちゃですね。行くぜ連休。根性入れろ。れんきゅ~っ。

ブログのことをあとちょっとだけ。ブログタイトルは試行錯誤を経て「関口康」になった。一時期「関口康日記」だった。説教は「今週の説教」、ファン・ルーラー関係は「日本語版ファン・ルーラー著作集草稿」というブログにそれぞれ分けて管理していた。分けるのが面倒くさくなったので一つにまとめた。

ブログタイトルに自分の名前だけを書くというのはヘンテコな感じかもしれないが、考えてみればツイッターだってフェイスブックだってみなさん自分の名前でやっておられるわけで。ひと昔前っぽい「電脳牧師なんちゃら関口のさわやかブログ」(?)みたいなネーミングは、小っ恥ずかしくて耐えられない。

ブログのアドレス(URL)をかっこいいのにしたいと考えていた時期もあった。有料のドメインを使っていた時期もあった。しかし、グーグルやヤフーで情報を探す人にとってはアドレス(URL)のかっこよさはどうでもいいことだと分かったので、そういうのは基本すべて、自分の名前を使うことにした。

それと、ブログのタイトルでもアドレス(URL)でも自分の名前を使うことにしたのは、ブログの全投稿はいかなる団体や組織をも代表しておらず、すべて個人的な発言であることを明示するためでもある。私はどこの教会の公式ホームページや公式ブログも、いまだかつて作ったことも管理したこともない。

私のセンスだけで言わせてもらえば、教会の公式ホームページであれ、公式ブログであれ、そのようなものに掲載するすべての記事は、定期的ないし随時開催される教会役員会(教派・教団によって呼称が異なる)の議決を経た相当厳密な意味での公式見解でなければならない。そこをスキップしてはならない。

説教はどうなのか。私の考えでは説教は「牧師の個人見解」である。少なくとも教会役員会の議決を経なければ公開できないようなものではない。あえて著作権を言うなら、説教の著作権はすべて牧師個人にあると思う。ただし教会の公式ホームページのようなもので公開した場合は事情が変わってくるだろう。

しかし、今書いているのは、法律上の問題では全くない。私がブログのタイトルやアドレス(URL)に自分の名前を使っているのは、どこの団体も組織も代表していない一個人の発言として書いていることを明示するためにしていることだという点を、いくらか詳しく説明しようとしているだけのことである。

今年4月からブログでもツイッターでもフェイスブックでも「日本基督教団教務教師」をあえて名乗るようにしたが、この肩書きを見て「日本基督教団」という団体を代表する者であると思う人がいれば、それはよほど事情を知らない人である。分かる人には分かる。これは実は何をも代表しない肩書きである。

つまりは、私のブログの書き込みの全責任は「関口康」にある。いま言いたいのは、ただそれだけのことだ。私の発言の責任をだれにも転嫁するつもりはないので、だれひとり私に代わって(勝手に)責任を感じないでほしい。もちろん言葉は慎重に選ぶが、私は自由に書きたいことを書く。ただそれだけだ。

2016年9月18日日曜日

「ブログを続けてきてよかったです」のダークサイド

内容とは関係ありません
負け惜しみとしか読んでもらえそうにないが、牧師の存在の意味が無くなっているのは「教会的な」価値観が発揮される要素が「意味なし」と見られることと連動していると思う。私の体験ではないが、牧師招聘の際に神学校入学以前の学歴が問われたり、世間に通じる特技を求められたりするのは最たる現象。

字で書いてネットで開示するのはこれで10回目くらいだが、くれぐれも念を押したいのは、私はネットで伝道する気はないということだ。説教原稿を公開する主旨も繰り返し書いてきたとおり、説教後の「言った言わない」の不毛な論争に巻き込まれないための危機管理の一環であって、それ以外の意図はない。

説教者には、みずからの説教によってみずからの身を危険にさらすことを回避できないときがある。その説教者の人事権を握る人々の心地よさを保証するような言葉だけを語る説教者は真の説教者ではない。その人々にとってあからさまに不快な言葉を語ることがありうる。聖書がそう語るように強く促すからだ。

ただ、その場合でも説教者はみずから語った言葉に責任をとる必要があるので、その言葉をできるだけ広い範囲の人々に開示し、その言葉はその説教者の人事権を握る人々にとっては不快な言葉かもしれないが、今こそ語られるべき真理の言葉であることを理解してもらえる人々に共有してもらうことが肝要だ。

そのための現時点で最も有効な方法が説教原稿のブログ公開だ。説教者が密室で絞め殺されないために。「あなたは○月○日の説教でこう言った(我々に不都合な言葉を語った)。我々への当てこすりである」「いえ、そのようなことは申しません。それは誤解です」「いや、言った」。この不毛さよ!!

ブログに書いておけばね、「ブログ読んでください。他の多くの人も読んでますよ。私が本当にあなたがたの言うような意味のことを説教で語ったかどうかはその人々が判断してくれますよ」で済む。実際、ブログに説教を公開するようになって、その種の「哀れなほど不毛な」言った言わない論争が止んだ。

牧師が危機管理してはいけないだろうか。保身かもしれないが、説教原稿を広範囲に開示することで得られる保身なら「良い保身」(?)ではないだろうか。説教者の人事権を握る特定の少数者の歪んだ聴き方だけで説教の真価を判断されては困ることがありうる。真に悔い改めるべきは、あなたがたである。

しかし、このような辛辣なことも、今の私が一時的なのかどうなのか教会担任教師の職務から離れて学校の教務教師になっているゆえに書けることだと思う。50歳で50年教会に通ってきた「教会大好き人間」である私に、ここまでひどいことを書かさないでください、教会さま。よろしくお願いいたします。

豊島岡教会南花島集会所の「設立10周年記念礼拝」に出席しました

今日(2016年9月18日日曜日)は日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)の「設立10周年記念礼拝」に出席しました。説教者は笠原義久先生(日本基督教団信濃町教会牧師)でした。礼拝後の愛餐会にも参加させていただきました。

国道6号からよく見える玄関
美しく落ち着いた礼拝堂
美味しくて楽しかった愛餐会