2016年7月31日日曜日

本日ブログで公開した神学系拙文リスト

記事とは関係ありません
昨夜から今朝にかけて過去に雑誌に掲載された神学系拙文をいくつかブログで公開しました。本日公開分リストを作りました。下記の各タイトルをクリックすると各記事にジャンプします。

【本日ブログで公開した神学系拙文リスト(2016年7月31日)】

ファン・ルーラーの三位一体論的神学と参加的思惟(1998年)

今なぜファン・ルーラーか(2002年)

オランダ改革派の伝統と日本の教会(2002年)

書評 大木英夫著『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(2003年)

地上における神のみわざとしての教会―A. A. ファン・ルーラーの教会論の核心(2007年)

改革派神学・長老主義・喜びの人生―ファン・ルーラーから学びうること(2007年)

オランダの戦後復興を支えた声―プロテスタント神学者A. A. ファン・ルーラーの「ラジオ説教」(2009年)

書評 渡辺信夫著『カルヴァンの教会論』増補改訂版(2010年)

新約聖書は旧約聖書の「巻末用語小辞典」か―旧約聖書と新約聖書の関係についてのA. A. ファン・ルーラーの理解(2012年)

『改革派教会信仰告白集』を絶賛する(2012年)

豊島岡教会南花島集会所の主日礼拝に出席しました

今日(2016年7月31日日曜日)は日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)の主日礼拝(開始13時30分)に出席させていただきました。説教者は豊島岡教会の濱田美也子先生でした。素晴らしいご説教ありがとうございました。

日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)

今夜は親しい友人が遊びに来てくれたので、久しぶりにラーメン横綱松戸店(千葉県松戸市)に行き、ラーメンをいただきました。サイゼリヤ柏6丁目店(千葉県柏市)に移動し、ドリンクバーを注文して歓談しました。夏休みらしいことをやっとしました。

ラーメン横綱松戸店(千葉県松戸市)の美味しいラーメン

2016年7月30日土曜日

どのみち大言壮語なら

世界一うまかったマンゴー
受け取り方によっては負け惜しみのように響く可能性があることを書くが、自分の家族や親戚など「小さな」文脈の人間関係と、国や世界など「大きな」文脈の人間関係との間に、もう一段階、ある意味で「中間的な規模の」人間関係をしっかり築ける「どこか」がないと、人は大言壮語しやすくなると思う。

ご想像のとおり、いま考えているのはインターネットへの苦言の一種だ。インターネットは「中間的な規模の」人間関係を築く手続きを割愛し、あるいはその手続きを破壊してまで、家族や親戚など「小さな」文脈の人間関係から、いきなり国や世界など「大きな」文脈の人間関係へとジャンプする性質をもつ。

なぜ負け惜しみのように響くかもしれないと思うかといえば、「大きな」人間関係に対して昨年まであれほどあれだったのに、今年はさっぱりあれでないと自覚しているからだ。変節したわけではない。新しい「中間的な規模」の人間関係をしっかり築くことなしに「大きな」あれは無理だと思っているだけだ。

しかし、「小さな」人間関係から「大きな」人間関係へジャンプできるのは画期的で素晴らしいことではある。「私の妻は世界一美しい」と躊躇なく書くことができるし、「いま食べたマンゴーは世界一うまかった」と画像付きで見せびらかすことができる。

つまらない話を長く続けるつもりはない。大言壮語しやすいのはインターネットの特質だと思うので、ある程度はやむをえないし、そういうものだと受け容れるしかない。ただ、私が思うのは、どのみち大言壮語なら他の人が楽しくなるような話のほうがいいよねというくらいのことだ。ガチの大言壮語は引く。

2016年7月29日金曜日

「聖書の授業」と「学校礼拝」のハイブリッド関係

借家から見える夕陽
聖書の歴史的批評的研究は当然必要であると私は考えているが、それによって「歴史の真実」が分かるとは考えていない。理性の場である学校教育において聖書宗教をもし「単なる理性の限界内の宗教」(カント)へと切り詰めて提示するとしたらこういう感じになるというモデルを考案しているだけだと思う。

一つ思い当たる問題は国公立学校と私立学校の違いにある。国公立学校で聖書を「単なる理性の限界内の宗教」へと切り詰めて教えても問題はない。しかし、私立でキリスト教主義を掲げる学校の場合は「学校礼拝」が行われる。その礼拝の説教や賛美や祈祷においては「理性を超える」言葉が必ず用いられる。

つまり、私立のキリスト教主義学校においては、授業では「理性の限界内の宗教」として聖書を教え、学校礼拝(単位としては「授業」)では「理性を超える」言葉を語ることになる。それが悪いわけではない。このハイブリッド感をうまく伝えられるかどうかが教員の力量にかかっていると思っているだけだ。

2016年7月27日水曜日

読解力の問題

教務教師現況報告在中
話の勢いだかなんだか「だったら新しい教会作ればいいじゃん」みたいなことを言われた。いやいやいや。あのねそゆこと急に言わないでくださる心臓止まるからね。こういう軽薄なノリで書いていいようなことですらないし。そんな教会だれもこないし。軽薄派教会だよねそれ。ケイハクハキョウカイ。あっ。

昨夜「日本基督教団教務教師現況報告」をやっと書きおえた。教団年鑑の基礎資料になるらしい。今日投函した。教団事務局総務部教務係の担当者様、ご査収いただきたく、どうかよろしくお願いいたします。

そこに「ドグマ」があって初めて「ドグマ」を解体し、無効化するための「批判」の意義と役割が遺憾なく現れると思うのだが、そもそもそこに「ドグマ」はもはや存在していないのに、それがまるで存在するかのように「仮想敵」として想定する「批判」が独り歩きし、跋扈する状態は、いかがなものだろう。

人生に「リセット」はないという言説はまあ正しいと思うが、私の現実を言わせていただけば、学校教員歴1年目、日本基督教団教師復帰後歴1年目の「新入り」50歳だったりするので、感覚的には「ほぼリセット」に限りなく近い。「右も左も分からぬペーペーでございます。よろしくお願いしまっす」感。

「あのー私関口と申します。歳とりすぎて、高校生のみなさまのお気持ちをさっぱり理解できなくて悩んでいまっす。高校生のみなさま本当に申し訳ありません。初心にたちかえって勉強しなおしますので、夏休み明けはせめて授業中は目を覚ましていただきたく、なにとぞどうかよろしくお願いします」。

教員が100パーセント低姿勢という「土下座教育」というのを新しい教育理論として採用してもらえないだろうかと思ったりしなくもない。

「あのー私関口と申します。19年も離れてしまい、日本基督教団のみなさまのお気持ちをさっぱり理解できなくて悩んでいまっす。日本基督教団のみなさま本当に申し訳ありません。初心にたちかえって勉強しなおしますので、なにとぞどうかよろしくお願いします」。

牧師が100パーセント低姿勢という「土下座伝道」というのは、新しい伝道理論でもなんでもない。ややもすれば「アタマの下げ方が足りない」みたいなことを暗に言われる。

べつに書いていいと思うし、文句でも批判でもないが(断じて)、今年6月に行われたはずの「日本基督教団新任教師オリエンテーション」の案内が、私には届かなかった。転入者は参加することになっているはずだが、「2回めの参加はない」という判断だったのだろうか。もし案内くれば有給とる気でいたが。

そうだ、思い出した。今日、職員室隣席の英語の先生から「関口先生、今日は毒気が強いですね。ポイズンが」と言われた。なんで分かったの。笑。

2016年7月25日月曜日

本当に「君の名は希望」なのか

4年2ヶ月使用してきた私のケータイ(まだまだ使える)
ぎゃあああ。仕事終わって借家に帰って書斎の座椅子に座ったら、後ろからカール・バルトの教会教義学の原著第三巻第二分冊のぶっといのがすううっと滑り落ちて来て、背中にぶつかって来たああ。八百頁もあるうう。嘘八百かああ。八百万のなんとかかあああ。痛てええ。血が出るうう(血は出てません)。

大げさにいえば18世紀啓蒙主義以降「信仰と理性」だ「神学と学問」だと抽象的に表現されてきたことを学校界で実体的に認識させられている。否定的な意味ではない。学業成績を保つことと聖書をポジティヴに学ぶことは「両立」するかどうかという問いだと思えばよい。ナニ両立するに決まってるじゃん。

ぜひ次は「ドラクエGO」をお願いしたいです。なんといっても「教会」がありますからね。物入れ小怪獣探しでうろうろされるよりは「よみがえり」のために来てもらえるほうが、教会としては歓迎ムードかも(謎

そりゃ私は日本がキリスト教国になるまでがんばるに決まってるわけで、そこを言わずにむにゃむにゃ言ってカムフラージュして人畜無害のふりする意味が分からないわけで。しかもそれを「洗脳」なんていう非道な手段を用いずにやるという。電極埋め込みとかすることですよ「洗脳」。するわけないじゃん。

お友達から教えていただいた「ポケストップGO」サイトによると、今のうち(借家)の向かいのマンションや最寄りの特定郵便局がポケストップになっているらしい。そういえばクチ半開きで歩きスマホしてる人いるいる。うちが7階建ての6階なので、上から見ると笑える。これがホントの「上から目線」。

自分にとっては文字通り死ぬか生きるかで恥も外聞もブライドも捨てて必死に得たし守ろうとしているものを、自己都合でひょいと捨てようとしているように見える人がいると、けっこう心理的にダメージ受けるものだなと思った。いやまあ、ありもしないことまで詮索されても困るので、一般論として書くが。

衝動的に入札ボタンを押してしまった本を、ライバルがひとりも現れぬまま今夜落札した。エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(深井智朗訳、春秋社、2015年)。この論文の白水社版(森田・高野訳)はコピーしか持っていなかった。ああまた背後から滑り落ちてくる物体が増える。

昨夜から今日にかけて何度となく思い浮かぶメロディが何の曲かを思い出せず、ミドミ(http://www.midomi.co.jp/ )に鼻歌を吹き込んでも判明せず、一日考え込んでいたが、それが今やっと分かった。なんのことはない、なんとか46(また思い出せない)の「君の名は希望」だった。

ふだん社会的な発言が多く、人権やジェンダーに鋭い感覚を持っているように見える人が、牧師家族の話になり、なかでも牧師が夫側にいる妻の立場にいる人のことになると「それは別の話」のようになっていくのは歯がゆいし、不可解でならない。そういうところで、なんちゃって社会派であることがバレる。

教会を求める祈り


不遜な意味ではないつもりですが、私の心の奥底に押しても引いても、自分でも他人にも動かすことができないチャーチマンシップのようなものがどんと腰を据えてしまっているので、どんなに忙しくてもたとえやや死にそうでも、なんとかして教会に行きたいし、御言葉の奉仕をしたいという願いがあります。

就寝前の祈り。私にいくらチャーチマンシップがあるといっても、他に誰もいない「ひとり教会」を言い張るつもりはない。二人三人のいるところに、と言われても、たとえば家族だけで「教会」を言い張るつもりもない。それは「教会」ではない。ネット越しで。違う。教会を。教会を。教会を。笑うでない。

2016年7月24日日曜日

主日礼拝(出席/説教)についての今後の予定


親愛なる各位

私は現在「日本基督教団教務教師」の立場にあり、担任教会がありません。そのため、松戸市内の日本基督教団の教会を中心にいろんな教会の礼拝に出席しています。

依頼に応じて教派を超えて説教奉仕をさせていただいています。今後の予定は下記のとおりです。説教予定のない日曜日はすべてフリーです。貴教会の主日礼拝の説教者として小さなしもべを用いていただけますと幸いです。

2016年7月24日

日本基督教団教務教師 関口 康(yasushi.sekiguchi@gmail.com

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主日礼拝(出席/説教)についての今後の予定(関口 康)

【2016年】

 7月31日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
 8月 7日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 8月14日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 8月21日(日) 日本基督教団阿佐ヶ谷東教会(説教)
 8月28日(日) 日本基督教団千葉北総教会(説教)
 9月 4日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 9月11日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 9月18日(日) 未定
 9月25日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
10月 2日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
10月 9日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
10月16日(日) 未定
10月23日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
10月30日(日) 未定
11月 6日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
11月13日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
11月20日(日) 未定
11月27日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
12月 4日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
12月11日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
12月18日(日) 未定
12月25日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)

【2017年】

 1月 1日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 1月 8日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(説教)
 1月15日(日) 未定
 1月22日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 1月29日(日) 未定
 2月 5日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 2月12日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(説教)
 2月19日(日) 未定
 2月26日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 3月 5日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 3月12日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 3月19日(日) 未定
 3月26日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)

【参考リンク】

関口 康 2016年度礼拝説教予定
関口 康 2016年度教会出席記録

千葉北総教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年7月24日日曜日)は日本基督教団千葉北総教会(印西市)の主日礼拝に出席させていただきました。大串眞牧師のいつもながら丁寧な説教で心満たされました。千葉英和高校の生徒たちが教会訪問に来ていました。ありがとうございます。


午後は千葉英和高校軽音楽部の引退ライブに駆けつけました。会場はチャペル。3年生部員たちにとっての最後のステージ。プロ並みの大迫力の生演奏を堪能しました。けいおん部のみなさん、ありがとうございます。

2016年7月18日月曜日

姦通を犯した女性の物語について

記事とは関係ありません
姦通を犯した女性を前にイエスが「あなたがたの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい」と言い、そこにいた人が一人また一人と去ったあと「わたしもあなたを罪に定めない」と言ったのはイエスの思想である以上にイエスの実践だった。考えただけではなく、女性の生命を守るための行動だった。

内容の軽重はともかく罪を犯した者の罪を無条件に赦してしまえば社会の秩序は保てないし、被害者の無念は晴れないので、イエスの思想に反対であるという立場はよく分かる。しかし、イエスはどんなに反対されても姦淫を犯した女性の生命を守る側に立った。それはイエスの思想ではなく実践だったからだ。

イエスはマッチョだった論を展開したいのではない。だけど、頭より口より体が先に動いた人だったのではと思う。論より実践が先。なんだかんだ言っている相手を無視するために(としか言いようがない)地面に何かを書いている姿はユーモラスでさえある。相手の論に乗らない。屁理屈に屁理屈で返さない。

その意味ではイエスは野球部向きかもしれない。もちろんスポーツ全般なんでも。相手バッターがボールを打った瞬間にダッシュ。全速で走りながらボールの落下点を予測、ジャンプしながらキャッチ。スポーツ音痴の私には全く不可能だが、球技の選手はそれをいつもする。立ち止まって考えるヒマなどない。

自分の目の前で今まさに処刑されようとしている人がいて、なおかつ、その人の生命を守らなければならないという判断をした場合、立ち止まって考えるヒマはたぶんない。えっと、法に照らし合わせてどうだろう、論理的整合性はどうだろう、などと考えているうちに、その人の処刑は終わってしまうだろう。

どうするか。野球部作戦だ。相手バッターがボールを打った瞬間にダッシュ。全速で走りながらボールの落下点を予測。ジャンプしながらキャッチ。相手の屁理屈が始まった瞬間にダッシュ。処刑する人とされる人の間に体をはさみながら議論の落下点を予測。話が飛躍していようとお構いなしに逃げ道を確保。

だれかの生命を守り、そのだれかの未来を生み出す努力には、その人の側に立ってその人を守ろうとする人自身の生命が脅かされるという皮肉な側面が絶えずある。その脅威に耐えられるようになることが、人としての成長ではないか。人を生み(狭義の出産に限らず)育てる役割を担いうる大人になるための。

しかしイエスは、だからといって、どんな人でも自分と同じようにできるとは考えていない。人をかばうどころか自分のことも持て余すほど余裕がない我々人間の現実を、イエスは熟知している。だからイエスは我々の屁理屈を無視する。たいていそれは我々の自己弁護にすぎない。傾聴に値しない戯言なのだ。