2017年5月9日火曜日

私は復活の神学のほうがいいや

Windows10 Creators Updateの「ディスプレイ夜間モード」は眠い

幸い私は、というか牧師たちは(とあえて言わせてもらう)「自分がどこから来てどこへ行くのか」を知っている。自分の出発点を覚えているし、目標も分かっている。そういう心の支えがあるので、たとえ生活環境に乱高下があろうと、大いに狼狽えはするが(するんだ)、自己崩壊まではなかなか至らない。

私は復活の神学のほうがいいや。十字架上で絶望して絶叫した存在のままでいてくれるメシアのほうが自分と重ね合わせられる身近な存在なので、自分以上の存在を認めなくて済んで「慰められる」のでプライドが傷つかなくて済むかもしれないが、そういうのはごめんだ。プライドなんかいいかげん捨てろよ。

メシアは復活したが40日したら「昇天」して弟子たちの前から姿を消した。弟子たちは結局置いてきぼりにされたし、自分たちで全部やらなくてはいけなくなった。それが大事なんだよ。「慰め」で終わるとか、はあ?だよね。ありの~ままで~レリゴーレリゴーって言ってもらえるの未成年までじゃないの。

宗教はアヘンだと言った人がどういう理由や根拠でそう言ったのかを調べたこともないし興味もないが、分かるところは大いにある。ありの~ままで~レリゴーレリゴーの線で、あなたのままでそのままで受け容れられているとか言ってもらえる「慰め」だろ。まずいよね。人の自立と成長を阻むものがあるよ。

そういうのがイヤだから牧師になったんだけど。牧師の説教がどうしても納得できなくて、だけど教会や聖書の教えそのものが間違っているとは思えなくて、だったら自分で調べるしかないじゃんという結論が出て、自分が牧師になろうと思っただけだ。それが自立と成長でしょうに。「慰め」が動機ではない。

他人の失敗談とか大好きな人たちいるよね。自分と同じだと「慰め」られるようだけど。一緒にしないでほしいんだけど。そのうち思いっきり振り切って逃げられるよ。そのときまたそのプライド傷つくんじゃない。もっとどん底味わうよ。その覚悟があるならいいけど。「慰め」で終わるなよ、お願いだから。

日本だけではないと思うがとりあえず日本で牧師をしている者たちは、そもそもの最初からマイノリティの極致だったし、ずっとそうだし、死ぬくらいまでそうなので、要は基本が最底辺だということで、乱高下の「高」の状態をほとんど知らないし、ほとんど信用していないところがある。それが強さになる。

それと、神学や教会論を「狭く」切り取ってとらえる立場に立つとか、ピンポイントの聖書箇所についての釈義的な大発見の上に立つ神学(〇〇の神学)のようなものに全体重を乗せてしまうと、自己矛盾に耐えられない状況が訪れるのが早まる可能性が高いので、「論理的な自己崩壊」は比較的起こりやすい。

その手の「狭い」神学にありがちな「あれか・これか」の決断主義はナイーブになりやすい。「あれも・これも」受け容れる包容力というか、ルーズさを身につければ、少なくとも「論理的に」自己崩壊することは免れられる可能性が高くなるし、交友関係が広がり、助け合いの幅が広がる。これも強さになる。

Windows10のCreators Update(バージョン1703)をインストールしたとき加わったらしき「ディスプレイ夜間モード」という新機能に昨夜気づいてさっそく試している。睡眠障害の原因になるブルーライトを抑えているのは分かるが、これなんだか眠くなる。やる気スイッチオフ。

2017年5月8日月曜日

Nobody calls me chicken

最近は毎週のようにどこかの教会で説教させていただいている。定住牧師不在の教会の場合、聖書や信仰についての質問にお応えする日もある。「わたしたちも牧師さんたちがおっしゃることを理解したいと思っているんですよ。質問しやすい先生でよかった」と言われたときはうれしかった。怖くないからね。

同じ理由で叱られることもある。「もっと指示すべきだ」とか「自信がなさそう」とか「優柔不断だ」とか。その先「無責任だ」「卑怯だ」あたりまで言われるとカチンと来て、怖くないキャラでカバーしようとしてもボロが出る。まあでも、このキャラはたぶん一生変わらない。上から言うとか、ほんと無理。

ネットのお友達に勧められて「貴族探偵」を観た。面白かった!木南晴夏さんの個人的なファンを自任。圧巻の名演技。「こういう人いるいる」と納得。リッチでゴージャスで大らかだけど、ゼンゼンいやみが無くて落ち着く。初回から観ればよかった。ネット配信もあるようなので、そのうちまとめて観よう。

「貴族探偵」視聴中
先月よりやる気が回復してきた。来週の礼拝説教は初めてお訪ねする教会。ふだんより緊張するので早めにしっかり聖書に取り組む。説教箇所をギリシア語から私訳し、長年愛用のオランダ語注解署を参考にしながら釈義と黙想。読み込むほど面白い箇所だ。Nobody calls me chicken.

「説教原稿」作成中

2017年5月7日日曜日

小金教会の主日礼拝に出席しました

日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)
今日(2017年5月7日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただきました。自宅(借家)から最も近い教会(1.2キロ)です。創立は1949年4月24日とのこと。今泉幹夫牧師の力強い説教を伺い、聖餐式にあずかりました。ありがとうございます。

2017年5月5日金曜日

最高のゴールデンウィークになりました

お茶の水といえば楽器の街
今日(2017年5月5日金曜日)は旅行中の友人Takeshi Hatayaさんと午前9時にお茶の水で待ち合わせ、朝食をご一緒した。「お茶の水の」吉野家で朝定食をいただき、「お茶の水の」スタバで冷コーをいただきながら語り合った。とても有意義で楽しかった。Hatayaさんありがとう!

八千代市市民会館(千葉県八千代市萱田町728)
今日の午後は「千葉英和高等学校吹奏楽部 第32回定期演奏会」(会場・八千代市市民会館 大ホール)に行った。新3年生も新2年生も元気そうで安心した。演奏はとても見事だった。たくさん涙が出た。劇の悪役が名演技だった。司会進行が丁寧で分かりやすかった。最高のゴールデンウィークになった。

2017年5月4日木曜日

日本聖書神学校に行きました

日本聖書神学校(東京都新宿区下落合3-14-16)
今日(2017年5月4日木曜日)は日本聖書神学校(東京都新宿区下落合3-14-16)を訪問した。訪問目的は神学校チャペルでの結婚式の見学。来月から司式者の中に加わることになった。結婚式司式の経験は教会でも一般の式場でも何度もあるが、毎回緊張する。気を引き締めて取り組む所存である。

2017年5月3日水曜日

上野で重要な会合に出席しました

ハードロックカフェ上野駅店(東京都台東区上野7-11-1)
今日(2017年5月3日水曜日)は久しぶりに上野に行き、重要な会合に出席した。何度目の開催だろう。待ち合わせは毎回「ハードロックカフェ上野駅店」(東京都台東区上野7-1-1)の前と決めてある。後代の歴史家はこの場所を「あの重要な会合に出席する人々の集合場所であった」と記すだろう。
日本基督教団下谷教会(東京都台東区東上野3-37-10)
集合時刻より早く到着したので、日頃の運動不足を解消するために上野駅周辺を歩くことにした。5分ほど歩くとなんと教会が。日本基督教団下谷教会(東京都台東区東上野3-37-10)だった。そのとき出席者のひとりから「まもなく到着」と連絡があったので駅へ引き返した。歩行距離1キロ。少なっ。

2017年4月30日日曜日

確かなる希望としての復活(千葉若葉教会)

コリントの信徒への手紙一15章20~21節

関口 康(日本基督教団教師)

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」

先々週の日曜日がイースター礼拝でした。私は日本基督教団下関教会(山口県下関市)から説教者としてお招きを受けて行ってきました。羽田空港から山口宇部空港までジェットに乗りました。帰りは新幹線でした。広島や岡山の実家にも立ち寄りました。そのような五泊六日の旅をしてきました。千葉若葉キリスト教会でもきっと盛大なイースター礼拝が行われたことでしょう。そういうわけで、皆さんに申し上げるのが遅くなりました。イースターおめでとうございます。

言うまでもないことですが、教会がイースターをお祝いするのはもちろん宗教的理由です。最近は日本の各地でイースターをお祝いしてくださる方々が増えているようですが、必ずしも宗教的理由ではないようです。しかし教会は間違いなく宗教団体ですので、遠慮なく宗教的理由でお祝いします。

イースターとは、イエス・キリストが死者の中から復活されたのは歴史的事実であるということを信じる人々の喜びの祝いの日です。その意味でイエス・キリストは「本当に」よみがえられたことを喜び、感謝する思いで、教会はイースター礼拝を毎年行っています。

しかし、教会がイースターをお祝いする理由は厳密に言うとそれだけではありません。少なくとももうひとつあります。それは何かといえば、イースターは「死者の中から復活したのは現時点ではイエス・キリストだけであるが、復活そのものはイエス・キリストだけで終わるものではない」ということを信じ、やがて訪れる将来において自分自身も復活するのだと信じる人々の希望の祝いの日であるということです。

私が今、やや早口で何を申し上げたのかは、きっとお分かりいただけていると信じます。それが、実は先ほど朗読していただきましたコリントの信徒への手紙一15章20節と21節に書かれている内容そのものです。それを私なりの言葉で言い換えて申し上げただけです。

まず20節を読みますと、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)と書かれています。重要な言葉は「初穂」です。この「初穂」は英語の聖書ではだいたいfirst fruitと訳されています。つまり「最初の果実」です。

ここで考えなければならないことは、イエス・キリストの復活が「最初」(ファースト)であるということは、その「次」(ネクスト)の復活もあるということです。最初の1つだけで終わるのではなく、2つ目も3つ目もあるし、もっとたくさんあるということです。

何がもっとたくさんあるのかといえば、それが復活です。何と驚くべきことに、イエス・キリスト以外にも復活する存在があるのです。イエス・キリストが「初穂」(ファーストフルート)ならば、「次の果実」(ネクストフルーツ)もあるのです。それが全人類です。何と驚くべきことに全人類が復活するのです。そのようなことを誰が信じられるだろうか、冗談は休み休みに言ってくれと、多くの人に思われるに違いないのですが、パウロが書いているのはそのようなことです。

しかし、驚くべきことはまだ残っています。それは、この箇所にパウロが書いていることの趣旨は「イエス・キリストの復活」のほうではなく「全人類の復活」のほうであるということです。「全人類の復活」は本当に起こるのだということを言うために、その根拠として「イエス・キリストの復活」を持ち出しているだけです。このような書き方をしている以上、どちらに強調点があるかといえば、前者ではなく後者であることは明らかです。

しかも、「イエス・キリストの復活」と「全人類の復活」を聖書に基づいて比較してみると、両者が全く同じことの単純な反復ではないことが分かります。聖書によると、「イエス・キリストの復活」は40日間弟子たちの前で起こりましたが、その後父なる神のもとへと昇天することによって弟子たちの前から姿を消し、見えなくなりました。しかし「全人類の復活」は、わずか40日で終わるような一時的な出来事ではなく、永久に続く出来事として理解されるべきものです。

ですから、次のように考えることさえできます。「イエス・キリストの復活」は、今はまだ起こっていないが将来起こるであろう「全人類の復活」にとっての「予告編」の意味を持っていました。しかし、それはまだ「本編」ではありませんでした。「イエス・キリストの復活」においては「全人類の復活」のさわりの部分をほんの少しだけ、ちらりと見せてもらえたに過ぎません。

さらに次のように考えることもできます。「イエス・キリストの復活」は、キリスト信仰全体の目標ではなく、途中の通過点にすぎません。キリスト教信仰の目標は「イエス・キリストの復活」を信じることのほうではなく「全人類の復活」を信じることのほうにあります。このように申し上げるからと言って、「イエス・キリストの復活」を信じることが重要ではないと言っているのでは決してありません。それを信じることも重要です。しかしだからといってわたしたちは「イエス・キリストの復活」のほうだけを信じて事足れりとすることはできません。

イースターをお祝いする目的も同じです。「イエス・キリストの復活」をお祝いすることだけではなく、少なくとももうひとつあると申し上げたとおりです。それは、将来における「全人類の復活」を期待することです。イースターは、わたしたち自身の復活を待ち望む将来をめざす希望の祝いです。それは「イエス・キリストの復活」をお祝いすること以上に重要です。

私が言いたいのは次のようなことです。「イエス・キリストの復活」はありえないことだが、不合理なことであっても、理性を犠牲にして無理やりにでも信じ込むことがキリスト教信仰の本質なのだ、という仕方で、ようやくのところ「イエス・キリストの復活」を信じることができたというだけでキリスト教信仰が完結するわけではないということです。キリスト教信仰には、もっと大きな、人をつまずかせる要素があります。それが「全人類の復活」です。

歴史的な事実としては、「全人類の復活」についての思想はパウロが生み出した思想ではないし、新約聖書の著者たちが発明した思想でもありません。それは旧約聖書の時代からあり、サドカイ派を除くユダヤ教の人々に広く受け入れられていた思想でした(ヘンドリクス・ベルコフ『確かなる希望』藤本治祥訳、日本基督教団出版局、1971年、42頁)。事柄の歴史的な順序としては、「全人類の復活」を信じる信仰は「イエス・キリストの復活」を信じる信仰より古いです。

これで分かるのは、イエス・キリストの復活の事実が「全人類の復活」を信じる信仰を生み出したのではなく、順序はその逆であるということです。「全人類の復活」を信じる信仰が先にあり、それは「本当に」起こるのだということを、「イエス・キリストの復活」を目の当たりにした人々がその確証を得たと信じて受け入れたということです。

今日なぜ私がこのようなことをしつこいほど繰り返し強調するのかについても申し上げておきます。

「イエス・キリストの復活」を信じるだけならば、ある意味で簡単なことです。自分に当てはめて考えることをしなくて済むからです。イエス・キリストはわたしたちにとって他人ですから、他人事として考えるだけで済ますことができます。「へえ、そんな不思議なことがあったのですね。神さまの力はすごいですね」と言っていればいいだけです。

しかし「全人類の復活」は違います。他人事で済ますことができません。なぜなら、全人類の中にあなたも私も含まれるからです。あなたも私も復活するのです。そのようなことを本気で信じなければならなくなります。そのほうがわたしたちにとって、「イエス・キリストの復活」を信じることよりも、はるかに難しいはずです。

しかし、難しいことをわたしたちは信じかつ受け入れる必要があります。そうでないかぎり、復活がわたしたち自身の希望にならないからです。なぜ他人事で済ましてはいけないのでしょうか。そのことを最後に申し上げておきます。そのことを理解するために、今日の箇所の31節に書かれていることが重要です。

「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(31節)と書かれています。その説明が22節にあります。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(22節)。

論理は単純です。「死が一人の人によって来た」と言われている中の「一人の人」とは最初の人類アダムです。「アダムによって死が来た」とはアダムが罪を犯したためすべての人に死が定められたという意味です。しかし、その死の定めを打ち消すために「一人の人」イエス・キリストが来ました。イエス・キリストが来てくださったので、すべての人から死が取り除かれた、ということです。

ここで考えなければならないのは、アダムによって何が始まったのかということです。この箇所には記されていませんが、それが「罪」であることは明らかです。アダムの「罪」によって「死」が来ました。しかし「キリストによってすべての人が生かされることになる」。その意味は、キリストによって「罪」が除去されるならば「死」が除去される、ということです。

そしてそれでわたしたちが理解すべきことは、「全人類の復活」を信じることは、全人類が罪から完全に取り除かれ、罪から解放される日が来ることを信じるのと同じであるということです。つまり、わたしたちは、「罪」との関係で「死」を、そして「復活」を理解する必要があるということです。

今かなりややこしいことを言いましたが、ご理解いただきたいのは、ひとつのことです。それは、「全人類の復活」と信じることと「世界と人類からすべての罪が取り除かれること」を信じることは同じことである、ということです。そういう日が必ず来ると信じることが必要なのです。

罪は永遠の存在ではありません。罪の力に飲み込まれてはいけません。罪に市民権を与えて当然視してはいけません。「人類が罪を犯すのは当然なのだ」とか「やむをえないことなのだ」などと言って是認してはいけません。そのようなことを聖書が教えているわけではありません。

しかも、わたしたちは、自分自身は罪に対して無抵抗であり、人生の最期の最期のぎりぎりまで罪の甘い蜜を味わい尽くしながら、天国に行きさえすれば罪から自由になれるなどと考えるべきではありません。神にお委ねするだけではなく、わたしたち自身も、罪の力、悪の力に対して徹底的に抵抗しなければなりません。

わたしたちは主の祈りにおいて「御国を来たらせたまえ」と祈ります。「我らを試みにあわせず、悪よりすくいいだしたまえ」と祈ります。このように祈りつつ生きていくわたしたちの人生の将来に「復活の日」が訪れます。

罪は完全に滅ぼされ、世界と人類の中から完全に取り除かれる日が来ます。罪が取り除かれれば、わたしたちが死ぬこともなくなります。その意味での「完全な救いの日」が来ます。それが「全人類の復活」です。

(2017年4月30日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年4月25日火曜日

それよりとにかく生きようぜ


大人であることと、親であることと、牧師であることと、学校の教員であったことの共通点は、自分はもはやいなくても世界は存在し続けるし、子どもは大人になるし、教会も学校も活発な活動を続けていることをこそ喜ぶべき存在であることだ。「おれが育てた」わけでもない。寂しくはあるけどね。ぐすん。

自分の存在には宿命論的な意味での「必然性」(necessity)はないという意味で「私は必要ない」と私が考えることができるのはファン・ルーラーの神学を学んだおかげだ。ものすごく楽になれる。私の存在は神の遊び(「神のいたずら」と訳しても構わない)であり、神の贅沢(luxe)なのだ。

ついでに言えば、私が存在する「意味」もないとファン・ルーラーに教えてもらった。何のために生まれて何のために生きるのか。答えられないなんてそんなのは嫌だとアンパンマンのようなことを問うても答えはない。必然性も意味も問わずに済むなら全く自由に生きることができる。ひたすら楽しめばよい。

冷たい話でも詭弁でもない。子どもを産まなければならない大人はいないし、生まれなければならなかった子どももいない。何人子どもを産まなければならないと決められている親はいないし、何人目に生まれなければならないと決められた子どももいない。必然性はない。すべては自由だ。どうぞご自由に。

そうは言っても子どもはいつか親に、そしてひょっとしたら神に、なぜ私を産んだのか、こんなふうに産んだのかと問う日が来る。「こんなふうに」と問われても親は「知らんがな」としか答えようがない場合が多いだろうが、「なぜ」には何らかの言葉はあろう。「いてほしいと思ったんだよ」くらい言える。

どれほど難しく突き詰めて考えようと、我々自身の存在の根拠ないし少なくとも出発点は、その程度のことでしかない。それ以上の何を求めるか。私の人生に何の意味と必然性があるのか。生きる意味が分からない人生に価値はないのか。そんなことはないだろう。これは悟りでも開き直りでもないと私は思う。

今書いているのは辞世の句ではない。おいおいまだ殺すなよ。強いて言えば人生の意味というのは人生の最期に分かるものかもしれないと若干期待しているところはある。最期まで分からないわけだ。だったらまだ考えるのは早すぎる。四の五の言うのは構わないが、それよりとにかく生きようぜ。飯食おうぜ。

2017年4月23日日曜日

神の恵みによって今日の私がある(千葉本町教会)

コリントの信徒への手紙一15章9~11節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」

千葉本町教会のみなさま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。この教会で説教させていただくのは2回目です。今日もどうかよろしくお願いいたします。

前回は2月19日でした。大きく変化したのは私の立場です。高校で聖書を教える常勤講師でしたが、代用教員でした。3月末で契約期間満了となりました。現在は日本基督教団の無任所教師です。しかし、心配はしていません。主が必ず任地を与えてくださることを信じています。みなさまにもぜひお祈りいただきたく願っています。

さて、先ほど朗読していただきましたのは、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一15章9節から11節までです。パウロが記しているのは謙遜の言葉です。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(9節)。

しかしそのパウロが間髪入れずに続けているのは、使徒としてのプライドに満ちた言葉です。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」(10節)。

パウロが記しているのは、使徒の中で最も小さい者である私は他のすべての使徒よりもずっと多く働いてきた、ということです。このように書いているパウロの気持ちを、私はよく理解できるつもりです。聖書の言葉を自分に引き寄せすぎる読み方は慎むべきですが、他人事とは思えません。

私は神の教会を迫害したことはありません。しかし、私はもともと日本基督教団の教師でしたが、一昨年末までの19年間は日本基督教団を離れ、他の教派の教会の牧師として働いていました。そして昨年4月、日本基督教団に教師として復帰しました。教団にとって私は昨年戻ってきたばかりの新人教師です。しかし、私のプライドに賭けて言わせていただけば、昨年1年間、教団のどの教師よりも多く働かせていただきました。この点でパウロと一致していると思っています。

しかし、このようなことを私が言いますと、おそらく日本基督教団の先生がたの心中は穏やかではないでしょう。私が申し上げているのは冗談のつもりはないし、誇張でもないつもりです。しかし、こういうことは自分で言わないほうがよさそうです。ある意味でいやらしい言い方です。

みなさんにご理解いただきたく願っているのは、今日の箇所にパウロが書いているのもそのようなことだということです。ある意味でいやらしい言い方です。それを分かっていただきたくて、私の話をしました。自分で言わないほうがよさそうなことです。他の使徒と比較して自分の働きの大きさを語れば、他の使徒から激怒を買うのは目に見えています。そういうことをパウロは書いているのです。

ですから、わたしたちがよく考えなければならないのは、なぜパウロはこのような刺激の強いことをわざわざ書いているのか、です。その理由ないし動機は何でしょうか。

私が思うのは、パウロが書いているのと同じことを、パウロ以外の別の使徒たちも大いに言うべきであり、書くべきであるということです。パウロ先生はずいぶんひどいことをお書きになっている。何をおっしゃいますやら、私のほうが多く働きましたよ。わたしたちを侮辱しないでいただきたいと、そのように他の使徒たちも大いに主張すべきです。

すべてお互いさまです。他の人よりも自分が最も多く働いている。そのように主張する権利はすべての人に保証されています。どうぞご自由に。

そこで起こるのは良い意味での一種の競争心です。もちろん悪い意味にもなるでしょう。しかし、競争心を持つことがいつでも必ず悪いわけではありません。競争心は向上心に通じますので。それは学校でも会社でも社会でも同じです。教会だけが別世界でしょうか。そんなことはありません。

パウロがここまで言うならわたしたちも負けないようにもっと多く働こうではないかと、他の使徒たちは刺激され、発奮したでしょう。彼らは大いに刺激されなければならないし、発奮しなければなりません。パウロがこのようなことを書いている理由ないし動機は、まさにこの点にあると思います。

そして、やや強めの言い方をお許しいただけば、パウロが書いているのは、他の使徒たちに対する批判ないし抗議を含んでいる言葉でもあります。それは同時に当時の教会のあり方そのものに対する批判ないし抗議を含んでいます。

あなたがたは怠けている。もっと働くべきだと言っているのです。「わたしたちにはこれ以上することがない」と思い込んでいる。いくらでもできることはあるのに。あぐらをかき、手をこまねいて、教会の中の気の置けない仲間内だけに引きこもり、世に出て行かない、伝道しない。それでいいのか、いいはずがないだろうと言っているのです。

もっと発奮せよ、もっと働け、しっかりせよ。「使徒たちの中でいちばん小さいものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」である私ごときから、このような厳しいことを言われないように。パウロが言いたいのは、このようなことです。

言うまでもないことですが、パウロの時代の教会は、当時の社会の中では圧倒的な少数派でした。その少数派である教会を、かつてはパウロ自身も迫害する立場にいましたので、そのことは彼の心の重荷であり続けたでしょう。しかし、それとこれとは話が別です。

そして、パウロは他の使徒たちを軽蔑していたわけではありません。むしろ尊敬していました。だからこそ、彼らの働きが自分よりも少ないと感じられることに我慢できなかったのです。

実際はどうだったでしょう。ある程度想像できるのは、当時の教会は守りの姿勢が強かったのではないかということです。当時の教会を二分した問題として知られているのは、ユダヤ人キリスト者の一部が、これから洗礼を受けて新しく教会に加わりたいと願っている異邦人に対して「洗礼だけでは足りない。割礼を受けなければならない」と主張しはじめた問題です。

使徒言行録15章が参考になります。最初の教会会議であるエルサレム会議で、その問題が取り上げられました。

ユダヤ人キリスト者の主張は、聖書に基づく神学的主張というより教会内の主導権争いの面が強かったと思われます。なぜなら、生まれてすぐに割礼を受けるユダヤ人に割礼の痛みの記憶はないからです。そのユダヤ人が異邦人に割礼を要求しはじめたのであれば、教会の敷居を高くして、異邦人が教会の中になるべく入りにくいようにしたのではないかと疑わざるをえないのです。

教会は伝道したいのでしょうか、伝道したくないのでしょうか。それがいま考えなければならない問題です。「伝道」とは、教会に新しい仲間が加わることを求めて働きかけることのすべてを指します。教会は新しい仲間を求めているのでしょうか。それとも、そうではないのでしょうか。

教会が新しい仲間を求めているならば、新しく入ってこようとしている人々のために自らの敷居を低くする必要があります。しかし「洗礼を受けるだけでは足りない、割礼を受けなければならない」と主張し始めた人々は、彼ら自身がどう考えてそのようなことを言い始めたかはともかく、結果的に事実上、教会の敷居を高くすることを要求した、としか言いようがないのです。

敷居を高くして、新しい人にとって入りにくいところにするほうが教会にとって楽な面があるかもしれません。教会生活が長く、聖書の知識に満ちた人々ばかりの教会であれば、一を聞いて十を知る人々の集まりになりますので、教会運営のようなことも、すべて身内意識を持ちうる同士のあいだで、あうんの呼吸で維持できるようになるでしょう、ある意味で。

しかし、それが教会でしょうか。伝道はどこに行ったのでしょうか。「伝道」とは、十を聞いて一も理解できない人々を教会に受け入れることです。パウロがその後半生において取り組んだ異邦人伝道とは、まさにそれです。それは、聖書の知識も教会の経験も全くない異邦人をイエス・キリストへの信仰へと導き、イエス・キリストの体なる教会に迎え入れることです。

そしてそれは同時に、わたしたち日本の教会が全力で取り組まなくてはならない働きであると私は信じています。そのためにわたしたちが何をすればよいのかを、よく考える必要があります。

今日の箇所の中でまだ触れていない問題があります。大事な問題ですが後回しにしました。それは10節にパウロが3度も繰り返している「神の恵み」についてです。「神の恵みによって今日のわたしがある」、「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず」、「働いたのは、実はわたしではなく、神の恵みである」とパウロはたしかに記しています。

不思議な言い方ではあります。他のすべての使徒よりもわたしのほうが多く働いたとまで豪語しているパウロが、自分が働いたのではなく、神の恵みが働いたのだと書いているのですから。

しかしこれが、わたしたちが伝道とは何かを考えるときに、とても大事な点です。パウロが書いているのは「神が働いた」ということではないし、「イエス・キリストが働いた」ということでもないし、「聖霊が働いた」ということでもありません。

わたしたちは何もできませんし、何もいたしませんが、神が「わたしたちの身代わりに」伝道してくださいました、という話をパウロはしていません。「私と共に神の恵みが働く」の意味は、私は何もしないで、働かないで、あなた任せで神に委ねるという意味ではありません。

そうでなく、パウロが記しているとおり、今日の私を存在せしめている根拠として「神の恵み」があるという意味です。私の存在と常に共にあり、かつ私の働きを通して多くの人に「神の恵み」が伝えられていくという意味です。私の存在を抜きにして、私の働きなしに「神の恵み」が働いたとパウロが記していないことが重要です。「神の恵み」を我々の怠慢や引っ込み思案の言い訳にしてはいけません。

しかしまた、「神の恵み」は人の手を離れていきます。これが最も大事な点です。私が洗礼を授けた人は、私の弟子ではなく、イエス・キリストの弟子です。その人々は私の信者ではなく、神の信者です。教会は神の教会であり、イエス・キリストの教会です。

この基本が踏まえられていさえすれば、どんな競争心を働かせてでも、私が遠慮なくどんどん伝道してもよいのです。

(2017年4月23日、日本基督教団千葉本町教会 主日礼拝)

2017年4月21日金曜日

かかりつけのクリニックで定期検診を受けました

今日(2017年4月21日金曜日)の午前はかかりつけのクリニックで定期健診。身長体重測定、採血採尿検査、心電図、血圧心拍測定、腹部レントゲン等。結果は来週。胃十二指腸内視鏡検査(胃カメラ)は5月9日火曜日。自分の弱点を突き止めておくのは大事なことだと、理屈では分かっているつもり。

そして午後は、最寄りの郵便局でいろいろ手続き。必要なものをうっかり自宅(借家)に忘れたので、2往復した。そのようなことが簡単にできるほど近くて便利な郵便局だが、全業務が17時(ATMも17時30分)で終わる小さなところなので、最後は奥歯の加速装置のスイッチを押して走って息切れた。

2ヶ月くらい前「関口さんの書き込み、ちょいちょいネタが古い(笑)」と20代の若者に言われてしまったが、それがわしの売りじゃが(ここ岡山弁で)。もう本当に全く若くないんで、50代の人間に合った使い方をさせてもらうので。ガチとかブチギレとか変な言葉も使うけど。もんげーは古来の岡山弁。

昭和と言いたくない人間なので西暦を使わせてもらうが、私の生まれが1965年。それからをざっくり言えば、幼稚園児・小学生が70年代。中学生・高校生が80年代前半、大学生・大学院生が80年代後半。そんな感じなので、あの頃にドバッと出てきた新しいカルチャーの影響をひどく受けすぎている。

先週金曜日(4月14日)、1966年に刊行が始まった「サイボーグ009」(サンデーコミックス版、全15巻)を送料込み2,240円で入手。子どもの頃叶わなかった全巻購入がネットのおかげで実現。私はマニアではないが次第にマニアックになっていく性質を自覚しつつある。加速に気をつけよう。

我々の世代(1960年代生まれ)が小学生だった頃に、日本のキリスト教会がぐちゃぐちゃに壊れ始めた。日曜学校の生徒もどんどん減った。言っていることもやっていることも変わった。これは日本の教会史を学んで後からとって付けた感想ではなく、51年ずっと教会に通う中で感覚的に味わったことだ。

当時の変化との関係は明白ではないが、今の教会に50代の信者は少ない。だからこそ私は、50代の人間(キリスト者)としての発言の仕方をよく考える必要を感じている。年齢の問題ではなく世代の問題として。1960年代に生まれた者として体験した新しいカルチャーの中で、何を考え、何を語るかを。

いろんな教会のホームページを拝見していて「献金は寄付金や入場料ではない」だの「我々は○○ではない」だのと否定の言葉が目立つときはけっこう気になる。どう書いても誤解する人は誤解すると思うので、想定問答のような書き方は控えめにするほうが「より明るい調子の」ホームページになる気がする。