ヘブライ人への手紙11章17~19節
関口 康(日本基督教団教務教師)
「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」
今日はヘブライ人への手紙を開いていただきました。中身に入っていく前に、この手紙の緒論的なことについて、いくつかのことを申し上げておきます。
1つめは、この手紙の著者はだれかという問題です。そもそもこの手紙のどこにも差出人の名前が記されていません。ですから、この手紙の著者は不明であると言えば済むことです。しかし1箇所だけですが、パウロの弟子の「テモテ」の名前が出てきます(13章23節)。それでパウロが書いたものかもしれないと考える人はいます。しかし、かなり以前から言われているのは、ヘブライ人への手紙はパウロ書簡ではないということです。16世紀の宗教改革者カルヴァンもパウロでないと考えています。
2つめは、たとえこの手紙の著者がパウロでないとしても、だからといってパウロ書簡よりも価値が低いとか、読む価値がないというような考え方をすべきでないということです。私はどちらかといえばそのように考えてしまうほうの人間ですので、自戒をこめて申し上げておきます。大昔からパウロ書簡であると言われていたものが最近の研究によって「これはパウロの偽名書簡である」などと言われると、私はがっかりします。急に価値が低いものになったような気がします。しかし、重要な問題は「誰が書いたか」よりも「何が書かれているか」です。
もともとヘブライ人への手紙をパウロ書簡だと考える人はほとんどいませんでしたので、どうしても今日話さなければならないことではないかもしれません。とにかく申し上げたいのは、ヘブライ人への手紙はパウロ書簡より価値が低いとか読む価値がないというような見方をするのは偏見に満ちていて間違っているということです。
3つめは、この手紙の中で歴史的に最も危険視されてきたのはどの箇所かです。それは6章4節から6節までに書かれていることです。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。
ここに確かに書かれているのは、「一度救われた人がその後堕落したら、その後に悔い改めることはもはや不可能である」という意味のことです。それは間違っているのではないかと言われてきました。そのように言われるなら、イエスの教えにもパウロの教えにも共通する「神の無条件の赦し」という点と著しく矛盾することになるのではないかと考える人が出てくるのは、ある意味で当然です。
しかし、この点についても、カルヴァンは、この箇所(6章4節以下)を理由にヘブライ人への手紙を退けるべきではないと述べています。なぜカルヴァンを引き合いに出すのかといえば、カルヴァンの教えを広めたいからではありません。この議論は大昔からあり、16世紀にもあり、いまだに十分な解決に至っていないものの、かなり解決済みの問題であるということをご理解いただきたいからです。
カルヴァンは次のように書いています。「要するに、使徒は私たちに、悔い改めは人間の意志によるものではなく、神が信仰からすっかり堕ちてしまってはいない人々にだけ与えたもうということを諭すのである。この諭しは私達にはひじょうに有益である。一日また一日と延期することによって、私たちがますます神から遠ざかることのないためであるから。(中略)もし、だれかその滅びから立ち上がる者がいたら、その点では他の点で大きな罪を犯していたにしても、全く反逆してしまったわけではないと言うべきである」(『カルヴァン新約聖書註解Ⅷヘブル書・ヤコブ書』久米あつみ訳、新教出版社、1975年、152~153頁)。
途中で省略した箇所には、人間の回心は並大抵のわざではない、神のわざであると記されています。つまり、カルヴァンが言っているのは、悔い改めも回心も人間の努力ではなく、神のみわざであるということです。
わたしたちの教会の現実に照らし合わせていえば、たとえば、あの人は何年も教会に来ていないし、連絡もとれなくなっているし、「私はもう信仰を捨てた」と自分で言っているのだから、そういう人はもう救われないのだ、滅びに至るのだなどと安易に考えてはならないということです。
私の過去の牧師としての経験の中で出会った人の中に、こういう方がおられました。「私は20歳で洗礼を受けました。しかし、その後50年教会から離れていました。しかし、その50年間、教会のことを忘れたことはありませんし、信仰を失ったことはありません。もう一度教会生活を始めたいです」と言われ、復帰願いを出されました。
その意志を教会として受け容れました。その方は、その後はとても忠実な教会生活を送られました。人の目で見れば50年も教会を離れている人にはもはや信仰がないと見えるでしょう。しかしそういう見方をしてはいけません。だれが堕落した者かを見分けることは人間には不可能だからです。
ある意味で最も分かりやすい見分け方は、教会生活を続けているかどうか、日曜日の礼拝への出席を続けているかどうか、教会の献金を続けているかどうかかもしれません。それを続けていないから、あの人はもう堕落したのだ、あの人は天国に行けないのだなどという考え方がもし正しいなら、「教会とは行為によって救われることを教える団体である」ということを自ら主張しているのと同じです。礼拝出席という行為、献金という行為を怠っている人は救われないというならば。
しかし、聖書の教えはそういうものではありません。ヘブライ人への手紙の教えもまた、そういうものではありません。むしろ逆のことを言おうとしています。
ここまでお話ししたうえで、今日開いていただいた箇所の解説に入っていきます。ただ、これからお話しすることは、今の話の流れの続きです。3つカウントしました。4つめを申し上げます。
4つめは、ヘブライ人への手紙はどこが面白いかです。挙げていけばいろいろあります。しかしその中のひとつだけ言えば、ヘブライ人への手紙と呼ばれるだけあって旧約聖書がとても強調されていて、いわば旧約聖書の解釈に基づく説教のように読めることです。実際に、この手紙はいわゆる「手紙」ではなく「説教」であると考える人もいます。
今日開いていただいた箇所も説教です。新共同訳聖書が「信仰」という小見出しを付けている11章のすべてを本当は読みたいと思いましたが、長いので一箇所だけ読みました。アブラハムが神の命令で息子イサクを犠牲の供え物として献げる物語は、旧約聖書の創世記22章に出てきます。その物語の解釈に基づく説教が今日の箇所に記されています。
つまり、いま私が強調して申し上げたいのは、今日の箇所に記されているのはあくまでもひとつの解釈であるということです。「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」(19節)と記されていますが、そのようなことは創世記22章にはどこにも書かれていません。実際の文字としては書かれていないことについて、ヘブライ人への手紙の著者が想像して書いたのです。別の解釈も可能ですし、別の解釈は必ず退けなければならないわけでもありません。
「何を言っているのだ。ヘブライ人への手紙は新約聖書の権威ある正典だ。正典たる書物が示している旧約聖書の解釈は絶対的に正しいのであって別の解釈はありえない」という批判が出てくるかもしれませんが、そういう考えに立つ必要はないという趣旨のことを今申し上げています。
しかし、「これはあくまでもひとつの解釈である」ということを私がいま強調しているのは別の解釈を持ち出して主張したいからではなく、むしろ逆で、今日の箇所に記されていることは、これはこれでひとつの解釈として受け容れるべきだということを申し上げたいからです。
ヘブライ人への手紙の著者が11章全体で言おうとしていることの要点は「何が信仰なのか」ということです。最初に定義が記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(11章1~2節)。
自分自身が望み、希望、願い、祈りとして抱いているが、まだ見ていない。将来的には実現するかもしれないが、眼前の事実としては全く見えないし、具体的な姿を想像することすら不可能であると思うようなことは、わたしたちにもいくらでもあるでしょう。しかし、それが必ず実現するということを確信すること、それが「信仰」だということです。
アブラハムがイサクを神に献げた物語の内容は、話としてひどすぎます。神がアブラハムに星の数ほど子孫を与えると約束してくださったのに、アブラハムと妻サラの間に生まれた子どもはひとりでした。しかも、そのひとりの子どもを献げろと神が命じました。つまり殺せと命じました。
意味不明すぎて頭が混乱します。人間の論理は完全に崩壊します。自己破綻します。「たくさん子孫が与えられること」と「眼前のひとりごをその親自身が殺すこと」という絶対的に矛盾するふたつの命題が同時に提示され、それが両立するといくら言われても、それを受け容れることは通常無理です。
しかし、それをアブラハムは受け容れました。そこで人間の論理を放棄しました。「神が何とかしてくださる」というような信じ方をしました。しかし、それもまた、ある意味で人間の論理です。もし「神」がいなければ絶対に成り立たない論理ですが、逆にもし「神」がいるならば成り立つ論理です。人間の論理を超える神の論理、つまり「超論理」です。
「そんな危なっかしい考え方の人とは付き合えない。いつも賭けごと、ばくちをしているようなものではないか」と嫌われるかもしれません。しかし、そこで考えてみる必要があるのは、それならば人間の計画や計算がどれほど確実なものなのかということです。なんら確実ではありません。
アブラハムには神に逆らう選択肢がなかったわけではないし、そのほうが人道的に正しかったかもしれません。しかしアブラハムはそうしませんでした。「信仰でしか開かない扉」があることを知っていたからです。その扉を開けるにはおそらく「勇気」が必要ですが、その扉の向こうに進むべき未来があります。
(2017年1月22日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)
2017年1月21日土曜日
書斎のアイテム
ワンクリックがダブルクリックになり、いろんな記事に「いいね」を押しても取り消されるので、「いいね」連打。そのたびに通知をたくさん送るご迷惑をおかけしていた旧マウスの後任マウスを本日購入した。「本日より配属されたマウスです。よろしくお願いいたします」と挨拶してくれた。実力は未知数。
もう日が暮れたのか。明日の説教の準備がちっとも進んでいない。
今日購入したマウスの調子が良くて安堵。コーナン柏中新宿店で税込842円。今の自宅(借家)に入居後まもなく集合住宅ゆえ電波障害が起こりやすいことが判明して以来、マウスもキーボードもLANも全有線化。LANはPLC(電力線通信)で隣室の親機から有線接続。
今の自宅(借家)に入居後まもない頃、集合住宅ゆえの電波障害に苦しんだ末に導入したPLC(電力線通信)の子機はこれ。スイッチ切り替えにより親機としても使用可能。現在4機(親1、子3)使用してわが家の全PCのLANを有線化。PLC導入から1年経過したが、接続障害に悩むことはなかった。
新メンバーのマウスくんを迎えて喜んでいるのは旧メンバーたち。「これからよろしくね」と言っているのは、もう何年使っているか分からないほど長い付き合いのビデオ通話用マイク付きウェブカメラ。カールツァイス社製レンズ採用。「わ、すごくきれいに見えるんだけど」とみんなに言ってもらえる良品。
「ようこそマウスくん」と言っているのは、これまた長い付き合いの大型スピーカー。デジタルのクリアな音を迫力あるヴォリュームで再生できる。ガーネット・クロウさんの曲は当然いつもこれで。「午前5時です!朝ですよ!起きてください!」と毎朝騒ぐしゃべる目覚まし時計のおっさんロボ声もこれで。
もう日が暮れたのか。明日の説教の準備がちっとも進んでいない。
今日購入したマウスの調子が良くて安堵。コーナン柏中新宿店で税込842円。今の自宅(借家)に入居後まもなく集合住宅ゆえ電波障害が起こりやすいことが判明して以来、マウスもキーボードもLANも全有線化。LANはPLC(電力線通信)で隣室の親機から有線接続。
今の自宅(借家)に入居後まもない頃、集合住宅ゆえの電波障害に苦しんだ末に導入したPLC(電力線通信)の子機はこれ。スイッチ切り替えにより親機としても使用可能。現在4機(親1、子3)使用してわが家の全PCのLANを有線化。PLC導入から1年経過したが、接続障害に悩むことはなかった。
新メンバーのマウスくんを迎えて喜んでいるのは旧メンバーたち。「これからよろしくね」と言っているのは、もう何年使っているか分からないほど長い付き合いのビデオ通話用マイク付きウェブカメラ。カールツァイス社製レンズ採用。「わ、すごくきれいに見えるんだけど」とみんなに言ってもらえる良品。
「ようこそマウスくん」と言っているのは、これまた長い付き合いの大型スピーカー。デジタルのクリアな音を迫力あるヴォリュームで再生できる。ガーネット・クロウさんの曲は当然いつもこれで。「午前5時です!朝ですよ!起きてください!」と毎朝騒ぐしゃべる目覚まし時計のおっさんロボ声もこれで。
「次の仕事」を生み出すネット
| へぇ~ボタン(トリビアの泉) |
「私訳聖書」などはどんどん出てくればいいと思う。自分の翻訳でひと儲けしてやろうという野心でもあれば話は別だが、私訳のネット公開の自由はあるはずだ。だれもとがめはしないし、とがめる理由がない。聖書の原典テキスト(写本は無数にある)そのものは、もはや著作権を主張することはないだろう。
説教原稿を公開することも「情報の体系をネット上に構築すること」に該当する要素を含んでいるが、そうする場合は引用元の文献名や頁番号などを詳細に書くほうがよい。そういうのが「他の人に役立つ資料提供」になる。ネットで説教を読む人の多くは、その人自身の説教づくりの資料探しに追われている。
あれこれ考えているうちに、いつの間にか眠っていた。朝まで目を覚ますことはなかった。気がつけば、パソコンが、部屋や机のライトが、エアコンが、どれもこれもつけっぱなし。ガーネット・クロウさんの曲は流れっぱなし。家族は仕事や私用。私は明日の礼拝の説教準備。よくねたので、体調はいい感じ。
2017年1月19日木曜日
個人の趣味も長く続ければ何かにはなる
| ファン・ルーラーに関する拙論を掲載していただいた雑誌 |
それにしても、今ほどまでに教会からも学校からも組織神学への関心が失われている只中に呆然と立ち竦んでいると、組織神学は個人の趣味でしかないと見られているのかもしれないという疑念が確信に変わる。現実の組織神学は「書斎の本の並べ方の順序の研究」のようなものかもしれないが、まあそれでも。
組織神学のすべてがそうだという意味ではないが、私が関心を抱くようなタイプの組織神学は、出版社の経営危機を救うほどに飛ぶように売れるようなものではないし、学校や教会を人気スポットにするほど魅力的な内容でもないので、「個人の趣味然」とした紹介の仕方や営み方を細々と続けていくしかない。
そのようなことをずっと続けても鳴きもしないし飛びもしないものだと自分でも分かっているつもり。まあでも、人類史の中から完全に失われるようなことがあってはならない息の長い営みではあるだろうと、自分に言い聞かせている。20年研究を続けてもタテに立つ厚さの本にならない怠慢を許してほしい。
しかし小さな声で言いたいのは、私の仕事上の資格や免許(車の運転免許を除く)のいわば唯一の根拠は「大学と大学院で組織神学を勉強したことがある」ことだったりはする。そこから数えれば30年、ファン・ルーラーに特化した研究の開始時から数えれば20年。個人の趣味も長く続ければ何かにはなる。
「ファン・ルーラーの著作」のアドレスを変更しました
拙ブログの「ファン・ルーラーの著作」ページのアドレス(URL)を変更しました。旧アドレスは削除となります。画像データを増やしました。これからもよろしくお願いいたします。
ファン・ルーラーの著作
http://yasushisekiguchi.blogspot.com/p/vanrulerjp.html
『カイパーのキリスト教的文化の理念』(1939年)
『宗教と政治』(1945年)
『政治は聖なる事柄である』(1946年)
『よみがえれ喜びに』(1947年)
『ヴィジョンと展望』(1947年)
『国家と啓示』(1947年)
『律法の成就』(1947年)
『夢と形』(1947年)
『神の国と歴史』(1947年)
『新しい教会規程における告白教会』(1948年)
『教会の宣教(アポストラート)と教会規程草案』(1948年)
『被われた存在』(1949年)
『現代における執事職の基礎と視座』(1952年)
『特別職と一般職』(1952年)
『百年後の司教杖』(1953年)
『宣教(アポストラート)の神学』(1953年)
『われらの父よ』(1953年)
『世にかかわる勇気を持て』(1953年)
『中高等教育のキリスト教化』(1954年)
『信仰告白はどのような役割を果たすか』(1954年)
『キリスト教会と旧約聖書』(1955年)
『政府とヒューマニズム』(1955年)
『司牧書簡の背景』(1955年)
『安心して楽しみなさい』(1955年)
『世界においてキリストが形を取ること』(1956年)
『最も大いなるものは愛』(1957年)
『プロテスタンティズムと動物保護』(1957年)
『国民教会について語ることにまだ何か意味があるか』 (1958年)
『教会の政治的責任』(1963年)
『ローマ・カトリック教会との出会いにおけるプロテスタンティズムの立場』 (1965年)
『人生の愚かさ』 上巻(1966年)
『人生の愚かさ』 下巻(1966年)
『神学における人間性』(1967年)
『われ信ず』(1968年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第1巻(1969年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第2巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第3巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第4巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第5巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第6巻(1973年)
『ファン・ルーラーとの対話』(1969年)
『聖書との交わりの形成』(1970年)
『なぜ私は教会に通うのか』(1970年)
『使徒の権威において』(1971年)
『喜びをもって信じる』(1971年)
『マルコ14章』(1971年)
『マルコ14章(続)・15章・16章』(1972年)
『祝祭としての人生』(1972年)
『死は打ち負かされた』(1972年)
『幼子のように喜ぶ』(1972年)
『切り口鋭く』(1972年)
『詩編を物語る』(1973年)
『全地よ喜びの叫びをあげよ』(1973年)
『輪舞』(1974年)
『マルコの歌』(1974年)
『待望と成就』(1978年)
『炎のような舌』(1980年)
『日々の黙想』(1989年)
『ファン・ルーラー著作集』第1巻 神学の本質(2007年)
『ファン・ルーラー著作集』第2巻 聖書と啓示(2008年)
『ファン・ルーラー著作集』第3巻 神、創造、人間、罪(2009年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻上 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻下 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第5巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第6巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第7巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第8巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第9巻(未刊)
『創造から神の国まで』 (2008年)
ファン・ルーラーの著作
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『カイパーのキリスト教的文化の理念』(1939年)
『宗教と政治』(1945年)
『政治は聖なる事柄である』(1946年)
『よみがえれ喜びに』(1947年)
『ヴィジョンと展望』(1947年)
『国家と啓示』(1947年)
『律法の成就』(1947年)
『夢と形』(1947年)
『神の国と歴史』(1947年)
『新しい教会規程における告白教会』(1948年)
『教会の宣教(アポストラート)と教会規程草案』(1948年)
『被われた存在』(1949年)
『現代における執事職の基礎と視座』(1952年)
『特別職と一般職』(1952年)
『百年後の司教杖』(1953年)
『宣教(アポストラート)の神学』(1953年)
『われらの父よ』(1953年)
『世にかかわる勇気を持て』(1953年)
『中高等教育のキリスト教化』(1954年)
『信仰告白はどのような役割を果たすか』(1954年)
『キリスト教会と旧約聖書』(1955年)
『政府とヒューマニズム』(1955年)
『司牧書簡の背景』(1955年)
『安心して楽しみなさい』(1955年)
『世界においてキリストが形を取ること』(1956年)
『最も大いなるものは愛』(1957年)
『プロテスタンティズムと動物保護』(1957年)
『国民教会について語ることにまだ何か意味があるか』 (1958年)
『教会の政治的責任』(1963年)
『ローマ・カトリック教会との出会いにおけるプロテスタンティズムの立場』 (1965年)
『人生の愚かさ』 上巻(1966年)
『人生の愚かさ』 下巻(1966年)
『神学における人間性』(1967年)
『われ信ず』(1968年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第1巻(1969年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第2巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第3巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第4巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第5巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第6巻(1973年)
『ファン・ルーラーとの対話』(1969年)
『聖書との交わりの形成』(1970年)
『なぜ私は教会に通うのか』(1970年)
『使徒の権威において』(1971年)
『喜びをもって信じる』(1971年)
『マルコ14章』(1971年)
『マルコ14章(続)・15章・16章』(1972年)
『祝祭としての人生』(1972年)
『死は打ち負かされた』(1972年)
『幼子のように喜ぶ』(1972年)
『切り口鋭く』(1972年)
『詩編を物語る』(1973年)
『全地よ喜びの叫びをあげよ』(1973年)
『輪舞』(1974年)
『マルコの歌』(1974年)
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『炎のような舌』(1980年)
『日々の黙想』(1989年)
『ファン・ルーラー著作集』第1巻 神学の本質(2007年)
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『ファン・ルーラー著作集』第4巻上 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻下 キリスト、聖霊、救済(2011年)
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『ファン・ルーラー著作集』第6巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第7巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第8巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第9巻(未刊)
『創造から神の国まで』 (2008年)
2017年1月15日日曜日
古本屋でもカオスでもない私の書斎
拙ブログにも楽屋裏があり、どの記事にどれだけアクセスがあったかが分かる。各記事のアクセスは少ない。寂しくはない。世と人に役立つことを書いていないので当然だ。なるべく目立たないことを書こうと意識している。騒ぎになることは絶対書かない。
古本屋ではない。私の書斎。カオスではない。多様性。
増強の願いはある。たとえばシュライアマハー。今あるのは『宗教論』(日本語2種)、『独り語る』(日本語2種、英語)、『解釈学の構想』、渡邊泰三『シュライエルマッヘル』、A. A. Vogelsangの博士論文『シュライアマハーの説教』(オランダ語、1916年)。もうちょっと欲しい。
カール・バルトの(「についての」含む)本は180×90cmの本棚の奥側をすべて提供しても足りず、前側まで要求してきた。さすがは前世紀「最大」の神学者だ。『教会教義学』の英語版は持っていない。デジタル版には興味ない。バルト関係の蔵書リストは作っていないが、そろそろ必要かもしれない。
そう。こんなに邪魔な存在でも紙の本の蒐集にこだわり、デジタル版に興味ない理由は、本は内容だけがデータではないからだ。本の存在そのものがデータだ。どうしてこういう装丁なのか、どれくらい邪魔な存在かも重要なデータ。写真を撮ればある程度のイメージは保存できるが、撮影者の主観にとどまる。
古本屋ではない。私の書斎。カオスではない。多様性。
増強の願いはある。たとえばシュライアマハー。今あるのは『宗教論』(日本語2種)、『独り語る』(日本語2種、英語)、『解釈学の構想』、渡邊泰三『シュライエルマッヘル』、A. A. Vogelsangの博士論文『シュライアマハーの説教』(オランダ語、1916年)。もうちょっと欲しい。
カール・バルトの(「についての」含む)本は180×90cmの本棚の奥側をすべて提供しても足りず、前側まで要求してきた。さすがは前世紀「最大」の神学者だ。『教会教義学』の英語版は持っていない。デジタル版には興味ない。バルト関係の蔵書リストは作っていないが、そろそろ必要かもしれない。
そう。こんなに邪魔な存在でも紙の本の蒐集にこだわり、デジタル版に興味ない理由は、本は内容だけがデータではないからだ。本の存在そのものがデータだ。どうしてこういう装丁なのか、どれくらい邪魔な存在かも重要なデータ。写真を撮ればある程度のイメージは保存できるが、撮影者の主観にとどまる。
勝田台教会の主日礼拝に出席しました
今日(2017年1月15日日曜日)は日本基督教団勝田台教会(千葉県八千代市勝田台北3-13-5)の主日礼拝に出席させていただきました。少し(いやかなり)遅刻してしまって申し訳なかったのですが、水谷勤牧師はじめ教会の皆さまがとても温かく歓迎してくださいました。ありがとうございます。
2017年1月14日土曜日
週末は「また」または「まだ」書斎整理
某社から書評依頼を一昨日いただいた新刊書の原著ドイツ語版を昨日の昼休みにアマゾンで注文したら24時間以内に自宅(借家)に届いたことに、ひたすら驚愕している。このウルトラハイスピード社会に全くついていけていない。恩恵を享受しているものの血圧の上昇を感じる。いやべつに血圧は関係ない。
週末は「また」または「まだ」書斎整理。左上から。すべて奥側。一列目プラトン、アリストテレス、フィヒテ、ヒューム、カント、ヘーゲル、デリダ、レヴィナス、ハーバーマス、ジンメル、フルキエ、ホルクハイマー、宗教学、政治学、社会学。二列目聖書学。三列目トレルチ、ヴェーバー、キリスト教史。
依然平積みだった本を整理中、昨冬お世話になった本を掘り出した。昨年すでに50歳だったので人生最初で最後の更新だった。25年どこに行ったか分からない状態で放置していた教員免許状のほこりをはたいて使うことになったのは神の恩寵としか言いようがない。更新講習修了認定試験は緊張しまくった。
15年も更新していない中学と高校の同窓会名簿。悪い卒業生で申し訳ない。
書斎がすっかり片付いたので、今夜も安心して眠れそうだ。
週末は「また」または「まだ」書斎整理。左上から。すべて奥側。一列目プラトン、アリストテレス、フィヒテ、ヒューム、カント、ヘーゲル、デリダ、レヴィナス、ハーバーマス、ジンメル、フルキエ、ホルクハイマー、宗教学、政治学、社会学。二列目聖書学。三列目トレルチ、ヴェーバー、キリスト教史。
依然平積みだった本を整理中、昨冬お世話になった本を掘り出した。昨年すでに50歳だったので人生最初で最後の更新だった。25年どこに行ったか分からない状態で放置していた教員免許状のほこりをはたいて使うことになったのは神の恩寵としか言いようがない。更新講習修了認定試験は緊張しまくった。
15年も更新していない中学と高校の同窓会名簿。悪い卒業生で申し訳ない。
書斎がすっかり片付いたので、今夜も安心して眠れそうだ。
2017年1月12日木曜日
うれしいことがありました
| 2017年1月12日午前6時40分、自宅(借家)にて撮影 |
今月で拙ブログが9周年を迎えたことも忘れていた。2008年1月1日に開設した。早くやめるつもりだった。1997年から始めたファン・ルーラーの翻訳の「翻訳調」を脱したく流暢な日本語を書けるようになるための練習帳だった。ブログをやめられないのは、いまだに流暢な日本語が書けないからだ。
今日うれしいことがあった。新刊書の書評の依頼を何年かぶりに受けた。もちろん即答で受諾した。そういう世界からは完全に忘れ去られたと思っていた。そういう世界に加えていただいたと実感したことは一度もないが。「軽薄だ」なんだと私を叩く人がいることを知っている。よく分かっているではないか。
2017年1月10日火曜日
「書斎の本の説明」への追記
このたび書斎の本を本棚に並べてみた感じでいえば、A5判ハードカバーの本1冊を500グラムとすれば、ひとつの本棚に前後入れれば(ひとつの棚に2列置く)120冊入るので500グラム✕120冊=60キロ。ハードカバーの本ばかりではないので、本棚1台につきざっと50キロの本があるとする。
その本棚をこのたび6.5台(うち半分量のもの1台)揃える。50キロ✕6.5台で325キロ。あとは押し入れにしまったのが150キロから200キロの間くらいありそうなので、全部でざっと500キロちょっと。「推定1トン」と言い続けてきたのは大げさすぎる目分量だったことになり申し訳ない。
500キロちょっとなら、私が5人と半分くらいいるだけなので、大したことない。むしろ安定感が出てしっかりすると思う。それと本棚そのものが1台28キロなので、180キロほど加わる。全部でざっと700キロ。私が8人いるだけだ。大したことない。床なんて抜けるわけない(だんだん自信ない)。
その本棚をこのたび6.5台(うち半分量のもの1台)揃える。50キロ✕6.5台で325キロ。あとは押し入れにしまったのが150キロから200キロの間くらいありそうなので、全部でざっと500キロちょっと。「推定1トン」と言い続けてきたのは大げさすぎる目分量だったことになり申し訳ない。
500キロちょっとなら、私が5人と半分くらいいるだけなので、大したことない。むしろ安定感が出てしっかりすると思う。それと本棚そのものが1台28キロなので、180キロほど加わる。全部でざっと700キロ。私が8人いるだけだ。大したことない。床なんて抜けるわけない(だんだん自信ない)。
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