今日(2016年12月18日日曜日)は日本基督教団西千葉教会(千葉市中央区)の主日礼拝に初めて出席させていただきました。柏市の借家から片道40キロ(80分)でした。「ヨセフの決断」と題する木下宣世牧師の慰めに満ちたアドベント説教によって新しい力を得ました。ありがとうございました!
2016年12月18日日曜日
2013年3月の研究発表のレジュメを公開しました
| (左から 田上雅徳 芳賀力 野村信 関口康) |
「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義(2013年)」
当日のプログラム
司会
田上雅徳(慶應義塾大学教授)
「カルヴァンの創造論の歴史的意義」
芳賀 力(東京神学大学教授)
「モーセの異邦人伝道(カルヴァンの創世記理解)」
野村 信(東北学院大学教授)
「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」
関口 康(ファン・ルーラー研究会代表)
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「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」(2013年)
関口 康
序
事前に芳賀力先生と野村信先生の講演レジュメを読ませていただく機会を得た。何を語るべきか考えあぐねていたが、ようやく心が定まった。
カルヴァンの学会でファン・ルーラーの神学についての研究発表をすることは「欄外注」以上ではありえない。問題は、カルヴァン学会の関心とファン・ルーラーの神学の接合点はどこにあるのかということであった。
しかし、芳賀先生は「カルヴァンの中にあった被造世界の肯定という萌芽はやがて一般恩恵論という形で大規模に開花することになる」という重要な命題を提示してくださった。そして一般恩恵論の弱点を克服する鍵は「三位一体論的創造理解」にあることを示唆してくださった。
また、野村信先生は、被造世界についてカルヴァンが、必ずしも明瞭に神の栄光を見ることはできないが、それをおぼろげには映していると見ていたことを「カルヴァンの自然神学」という言葉で表現してくださった。そしてカルヴァンが被造世界を「神の栄光の劇場」(theatrum gloriae Dei)として肯定的に見ていたことを紹介してくださった。
これらの問題についてファン・ルーラーはどのように考えていたのだろうか。この問いに光を当てることで「欄外注」の務めに仕えることにした。そのうえで表題に掲げたとおり、ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義を明らかにしてみたい。
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2016年12月17日土曜日
クリスマスを間近にして思うこと
家族それぞれ学校やら職場やらいろいろなので、昨夜はひとり激辛カップ麺「蒙古タンメン中本」で空腹を満たす。年末まであとひとふんばり。うちの人たちも似たような状況なのだろう。基本がリア充なので週末に不意にぼっちにされると軽く落ち込む。ボッティチェリ。とか書いているうちに、ぼっち終了。
一夜明けて「睡眠の質」という検索語で最初に出てきた記事を読む。睡眠の質を悪化させる原因に「仕事や心配事を考える」とある。「明後日説教しなければ」と悩みながら休む金曜の夜は睡眠の質が下がる。「明後日説教しないでいい」ときの金曜の夜は質が上がる。それを今朝実感した。すっきりさわやか。
数日前から「しゃべる目覚まし時計」というフリーソフトを利用させていただいている。これはいい。スリープ状態のPCを自動的に立ち上げてくれて、ロボ声やおっさん声で「朝ですよ!起きてください!」と大騒ぎしてくれるので起きざるをえない。しかし今朝は目覚ましなしだった。だって土曜日だもの。
初めて明かすが、ちょうど1年前の今日(2015年12月17日木曜日)立ち寄った「サイゼリヤ高田馬場南店」は当時の「日本基督教団東京教区事務所」の斜向かいにあった(現在は後者が移転)。サイゼリヤのランチでしっかり腹ごしらえしてから私の教師転入願に関する東京教区三役との面接に臨んだ。
書斎のベランダから見える快晴の富士山の今日(2016年12月17日土曜日)。昨年のクリスマスイヴ(2015年12月24日木曜日)に今の借家に引っ越したばかりのころ毎日のように写真を撮っていたのがもはや懐かしい。来週の土曜日か。腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして、急いで食べたのは。
西洋起源の哲学や宗教を考える場合、紛らわしい日本語は西洋の言葉に戻して考える必要があろう。カルヴァン的な意味の「予定」はpredestinationだが、ライプニッツ的な意味の「予定調和」はpre-established harmonyなので、同じ「予定」でも意味も内容も全く違う。
書いても仕方がないことだが、何度も書いてしまう。外国から伝来した宗教を教える者の外国経験が人生51年で20日なのは、まあ仕方ない。いつまでもうさんくささがつきまとうのはそのせいかもしれないが、ごめんなさいと謝るしかない。地味に生きる道が、少なくとも私にはふさわしいと自覚している。
わしは今日もリア充じゃ。お昼はもんげーうめーナポリタンじゃった。妻が作ってくれたし、みんな揃っとったけーな。朝ほど富士山は見えんよ―になってしもーたけど、天気はえーし、気持ちえーが。明日は教会どけー行こーか。アドベントじゃしな。遠くの教会に行っちゃろか。そういう気分じゃが。なー。
(訳)私は今日も人生の幸せを味わっている。昼食は愛妻の絶品ナポリタンを家族みんなで堪能した。遠景の富士山は昼過ぎにはかすみに隠れてしまったが、大空は雲ひとつなく爽快だ。明日はどこの教会のアドベント礼拝に出席させていただこう。久しぶりに遠くまで車を走らせるとするか。そういう気分だ。
もとからクリスマス騒がない系だが、ますますそうなった感あり、ブキミなほど静かだ。教派や教会の系統の話ではなく個人的な話。偉い先生が書いておられたが、キリスト誕生の祝いはキリストにプレゼントする日ではあっても、我々がプレゼントをもらう日ではないだろうと幼いころから信じてきたくちだ。
前世紀「最大の神学者」と称された人に対して個人的に批判的な立場だが、その人が「サロン的教会」を「ブルジョア的」などと批判していたのは胸がすいた。クリスマス騒ぐ系の教会さんはこれからもその線でがんばられたらいいと思うが、個人的には今年からそういうのなくなったので正直ほっとしている。
教会こそ毎年毎年飽きもせずキリストは飼い葉桶に寝かされた飼い葉桶に寝かされたと説教し続けているのに、教会こそぬくぬくとクリスマスにこそごちそうを頬張るというのは結局なじめなかった。キリストはそうだったが我々は違っていいという論法も耳にしたが、得心はしなかった。主張もしなかったが。
まあもうでも、どうでもいい。昨年のクリスマスイヴを経て、この日に新しい意味が個人的に与えられた。だれも巻き込んでいない。小さな記念日となった。「どういう意味があるのか」と尋ねられたら、少しかっこつけてこう応えることにしよう。「これは過越だ!解放の祝いだ!」と。だれも文句は言えまい。
一夜明けて「睡眠の質」という検索語で最初に出てきた記事を読む。睡眠の質を悪化させる原因に「仕事や心配事を考える」とある。「明後日説教しなければ」と悩みながら休む金曜の夜は睡眠の質が下がる。「明後日説教しないでいい」ときの金曜の夜は質が上がる。それを今朝実感した。すっきりさわやか。
数日前から「しゃべる目覚まし時計」というフリーソフトを利用させていただいている。これはいい。スリープ状態のPCを自動的に立ち上げてくれて、ロボ声やおっさん声で「朝ですよ!起きてください!」と大騒ぎしてくれるので起きざるをえない。しかし今朝は目覚ましなしだった。だって土曜日だもの。
初めて明かすが、ちょうど1年前の今日(2015年12月17日木曜日)立ち寄った「サイゼリヤ高田馬場南店」は当時の「日本基督教団東京教区事務所」の斜向かいにあった(現在は後者が移転)。サイゼリヤのランチでしっかり腹ごしらえしてから私の教師転入願に関する東京教区三役との面接に臨んだ。
書斎のベランダから見える快晴の富士山の今日(2016年12月17日土曜日)。昨年のクリスマスイヴ(2015年12月24日木曜日)に今の借家に引っ越したばかりのころ毎日のように写真を撮っていたのがもはや懐かしい。来週の土曜日か。腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして、急いで食べたのは。
西洋起源の哲学や宗教を考える場合、紛らわしい日本語は西洋の言葉に戻して考える必要があろう。カルヴァン的な意味の「予定」はpredestinationだが、ライプニッツ的な意味の「予定調和」はpre-established harmonyなので、同じ「予定」でも意味も内容も全く違う。
書いても仕方がないことだが、何度も書いてしまう。外国から伝来した宗教を教える者の外国経験が人生51年で20日なのは、まあ仕方ない。いつまでもうさんくささがつきまとうのはそのせいかもしれないが、ごめんなさいと謝るしかない。地味に生きる道が、少なくとも私にはふさわしいと自覚している。
わしは今日もリア充じゃ。お昼はもんげーうめーナポリタンじゃった。妻が作ってくれたし、みんな揃っとったけーな。朝ほど富士山は見えんよ―になってしもーたけど、天気はえーし、気持ちえーが。明日は教会どけー行こーか。アドベントじゃしな。遠くの教会に行っちゃろか。そういう気分じゃが。なー。
(訳)私は今日も人生の幸せを味わっている。昼食は愛妻の絶品ナポリタンを家族みんなで堪能した。遠景の富士山は昼過ぎにはかすみに隠れてしまったが、大空は雲ひとつなく爽快だ。明日はどこの教会のアドベント礼拝に出席させていただこう。久しぶりに遠くまで車を走らせるとするか。そういう気分だ。
もとからクリスマス騒がない系だが、ますますそうなった感あり、ブキミなほど静かだ。教派や教会の系統の話ではなく個人的な話。偉い先生が書いておられたが、キリスト誕生の祝いはキリストにプレゼントする日ではあっても、我々がプレゼントをもらう日ではないだろうと幼いころから信じてきたくちだ。
前世紀「最大の神学者」と称された人に対して個人的に批判的な立場だが、その人が「サロン的教会」を「ブルジョア的」などと批判していたのは胸がすいた。クリスマス騒ぐ系の教会さんはこれからもその線でがんばられたらいいと思うが、個人的には今年からそういうのなくなったので正直ほっとしている。
教会こそ毎年毎年飽きもせずキリストは飼い葉桶に寝かされた飼い葉桶に寝かされたと説教し続けているのに、教会こそぬくぬくとクリスマスにこそごちそうを頬張るというのは結局なじめなかった。キリストはそうだったが我々は違っていいという論法も耳にしたが、得心はしなかった。主張もしなかったが。
まあもうでも、どうでもいい。昨年のクリスマスイヴを経て、この日に新しい意味が個人的に与えられた。だれも巻き込んでいない。小さな記念日となった。「どういう意味があるのか」と尋ねられたら、少しかっこつけてこう応えることにしよう。「これは過越だ!解放の祝いだ!」と。だれも文句は言えまい。
2016年12月15日木曜日
ゼレの神学を読むとファン・ルーラーの神学の限界が見える
ドロテー・ゼレの神学に感じる魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係がある。1929年生まれのゼレは1928年生まれのモルトマンやパネンベルクと同世代。1886年生まれのカール・バルトと1908年生まれのファン・ルーラーの年齢差と、ファン・ルーラーとゼレの年齢差が、ほぼ同じ。
バルトとファン・ルーラーの間も、ファン・ルーラーとゼレやモルトマンやパネンベルクの間も、ほぼ20歳ずつ離れている。バルトの世代とゼレの世代は40年差。その中間にファン・ルーラーが立つ。神学原理の問題までを世代論に還元すべきではないが、神学の文脈の違いは世代と無関係ではありえない。
どのようにいえば今書いていることを感覚的にご理解いただけるだろうか。たとえば私は現在51歳。その私をあくまでも仮にであるが「ファン・ルーラー」の位置に置くとしたら、今の70歳さんたちが「バルト」で、今の30歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」という関係になる。
またこれも仮の話、51歳の私を51歳の「バルト」の位置に置くとしたら、今の30歳さんたちが「ファン・ルーラー」で、今の10歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」になる。感覚は人それぞれだろうが、50代の人にとって「かわいい」のは30代ではなく10代のほうだろう。
「かわいい」かどうかなどははっきり言えばどうでもいい話だし、定義不能で意味不明だということも分かっているつもりだが、神学も人のすることである以上、人間固有の感覚や感情と無関係でもない。自分がしてきた仕事を受け渡す次世代の相手はだれかを選ぶときなどに、その手のことが作用したりする。
逆の視点はどうだろう。10歳さんから30歳さんと50歳さんが、あるいは30歳さんから50歳さんと70歳さんがどう見えるだろうか。たとえばどちらに「権威」を感じるだろうかとか、どちらに「模範」を見出すだろうかとか、どちらに「魅力」を覚えるだろうかとかを考えてみるとよいかもしれない。
ほぼ最初から脇道にそれていたので、もう戻れそうにない。ゼレの神学に感じている魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係ある。ファン・ルーラーがカール・バルトの神学と全面的に対決した(それはナチスに与することを意味しない)第一波だとすれば、ゼレやモルトマンやパネンベルクは第二波。
その闘争においてファン・ルーラーはもっぱら孤軍奮闘だったのに対し、ゼレやモルトマンやパネンベルクはかなり支援者を集めえた世代と言える。偉大な世代の人々が大学や教会の要職を引退する。彼らの功罪の「罪」の面に悩まされ抜いた人々が、新しい偉大な世代となる。中間世代は悩み抜く仕事を負う。
ようやく入手しえたゼレの何冊かの著書の日本語版を見るかぎりファン・ルーラーからの引用は見当たらない。しかしゼレがファン・ルーラーを知らないことはありえない。同世代のモルトマンやパネンベルクはファン・ルーラーを読んだし、引用したし、評価した。そのことをゼレが知らなかったわけがない。
ただゼレはファン・ルーラーに言及しない。もしかしたら興味がない。あるいは反発か無視か。理由は分からない。ただ私にある程度分かるのは、ファン・ルーラーは教会と神学の専門用語(ジャーゴン)にとどまり続けたのに対し、ゼレは教会と神学の外に向かう言葉を用いたことに違いがあるということだ。
ファン・ルーラーの神学の限界は、彼の神学では教会と神学の内部にいる人のことはある程度説得できるとしても、外部に持ち出すことはほとんど全く不可能である点にあると思う。そこがゼレの神学は圧倒的に違う。ゼレの神学は教会と神学の外部にいる人にも必ず届く。その信頼に足りる十分な内容がある。
以上、半分ねながら書いた駄文なので、ご放念いただきたい。
バルトとファン・ルーラーの間も、ファン・ルーラーとゼレやモルトマンやパネンベルクの間も、ほぼ20歳ずつ離れている。バルトの世代とゼレの世代は40年差。その中間にファン・ルーラーが立つ。神学原理の問題までを世代論に還元すべきではないが、神学の文脈の違いは世代と無関係ではありえない。
どのようにいえば今書いていることを感覚的にご理解いただけるだろうか。たとえば私は現在51歳。その私をあくまでも仮にであるが「ファン・ルーラー」の位置に置くとしたら、今の70歳さんたちが「バルト」で、今の30歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」という関係になる。
またこれも仮の話、51歳の私を51歳の「バルト」の位置に置くとしたら、今の30歳さんたちが「ファン・ルーラー」で、今の10歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」になる。感覚は人それぞれだろうが、50代の人にとって「かわいい」のは30代ではなく10代のほうだろう。
「かわいい」かどうかなどははっきり言えばどうでもいい話だし、定義不能で意味不明だということも分かっているつもりだが、神学も人のすることである以上、人間固有の感覚や感情と無関係でもない。自分がしてきた仕事を受け渡す次世代の相手はだれかを選ぶときなどに、その手のことが作用したりする。
逆の視点はどうだろう。10歳さんから30歳さんと50歳さんが、あるいは30歳さんから50歳さんと70歳さんがどう見えるだろうか。たとえばどちらに「権威」を感じるだろうかとか、どちらに「模範」を見出すだろうかとか、どちらに「魅力」を覚えるだろうかとかを考えてみるとよいかもしれない。
ほぼ最初から脇道にそれていたので、もう戻れそうにない。ゼレの神学に感じている魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係ある。ファン・ルーラーがカール・バルトの神学と全面的に対決した(それはナチスに与することを意味しない)第一波だとすれば、ゼレやモルトマンやパネンベルクは第二波。
その闘争においてファン・ルーラーはもっぱら孤軍奮闘だったのに対し、ゼレやモルトマンやパネンベルクはかなり支援者を集めえた世代と言える。偉大な世代の人々が大学や教会の要職を引退する。彼らの功罪の「罪」の面に悩まされ抜いた人々が、新しい偉大な世代となる。中間世代は悩み抜く仕事を負う。
ようやく入手しえたゼレの何冊かの著書の日本語版を見るかぎりファン・ルーラーからの引用は見当たらない。しかしゼレがファン・ルーラーを知らないことはありえない。同世代のモルトマンやパネンベルクはファン・ルーラーを読んだし、引用したし、評価した。そのことをゼレが知らなかったわけがない。
ただゼレはファン・ルーラーに言及しない。もしかしたら興味がない。あるいは反発か無視か。理由は分からない。ただ私にある程度分かるのは、ファン・ルーラーは教会と神学の専門用語(ジャーゴン)にとどまり続けたのに対し、ゼレは教会と神学の外に向かう言葉を用いたことに違いがあるということだ。
ファン・ルーラーの神学の限界は、彼の神学では教会と神学の内部にいる人のことはある程度説得できるとしても、外部に持ち出すことはほとんど全く不可能である点にあると思う。そこがゼレの神学は圧倒的に違う。ゼレの神学は教会と神学の外部にいる人にも必ず届く。その信頼に足りる十分な内容がある。
以上、半分ねながら書いた駄文なので、ご放念いただきたい。
2016年12月12日月曜日
新しい時代の到来(千葉英和高等学校)
ルカによる福音書2章8~12節
関口 康
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」
今日の説教に「新しい時代の到来」というタイトルを付けたのは、「アドベント」という言葉の意味が「到来」だからです。「待つ」という意味はありません。「待つ」ではなく「来る」です。救い主イエス・キリストの誕生は「新しい時代の到来」を意味する。それが「アドベント」の意味です。
私の妻は保育士です。子どもたちが小さい頃は子育てに専念していました。息子が中学校に入学し、娘が小学校の高学年になったときから保育士の仕事を始めました。ちょうど10年前です。
保育士の仕事にもいろいろあります。現在は発達障がいを持つ子どもたちの施設で働いています。その前は児童養護施設で働いていました。複雑な事情の子どもたちの世話をしています。
しかし、妻の仕事の具体的な内容については、私は何も知りません。いろんな仕事に当てはまることでもありますが、妻の仕事には「守秘義務」があります。仕事上知りえたことを第三者に漏らしてはなりません。それは夫婦であっても親子であっても同じです。
学校の先生も同じです。学校の先生にも「守秘義務」があります。私も家でもどこでも学校のことは何も話しません。ですから、私と妻が家にいるときは、お互いにずっと黙っていることが多いです。それでいいのです。そういう仕事なのですから。
こういう話をするのは、皆さんの将来の進路選択や職業選択の参考にしてほしいという願いがあるからです。直接的な意味で保育士になってほしいという意味ではありません。私が言いたいのは、日本の中にも、小さいときから親子の関係や自分自身の体や心のことで激しく悩み苦しんでいる子どもたちがたくさんいるということを知らずにいないでほしいということです。そして、もし可能なら、そのような子どもを何らかの仕方で助ける仕事をぜひ目指してほしいということです。
先々週の礼拝にお招きした日本国際飢餓対策機構の方の話には、心を激しく揺さぶられました。飢餓で命を失う子どもたちが日本国内に大勢いるとは言えないでしょう。しかし、日本には問題がないということはありえません。人に言えない事情も多くあるのですが、だからこそ人知れず多くの子どもたちが小さいときから激しく苦しみ悩んでいます。
その中には皆さんと同世代の子どもたちがいます。皆さんの弟さんや妹さんの世代、あるいはもっと小さな子どもたちもいます。その子たちのことを他人事だと思わないでほしいです。きつい言い方になりますが、「そういう家庭環境に生まれてしまった子どもたちは、はい残念でした。でも、ぼくは、私は、ラッキーでした」というような考え方は捨ててほしいです。
「ノブリス・オブリージュ」というフランス語の言葉を皆さんはご存じでしょうか。英語でいえば「ノーブル・オブリゲーション」です。日本語には訳しにくい言葉ですが、その意味は「恵まれた人こそが社会的に果たすべき義務が重い」ということです。税金の額だけの問題ではありません。もし皆さんが「ぼくは、私は、ラッキーでした」と思うなら、そのような人こそが、そのようなことを考えることすらできない苦しい立場にいる人々のことを助けることについて大きな義務を負うべきです。
進路選択や職業選択について私が何か言うと、それは押し付けだ、指図するな、個人の自由だとお叱りを受けることがありますので、このことも慎重に言わなければなりません。押し付けるつもりも指図するつもりも全くありません。ただお願いしたいだけです。
今月初めに行われた学校のクリスマス祝会の「ページェント」(キリスト降誕劇)は本当に素晴らしかったです。感動しました。私は昨年までは在校生の保護者として毎年参加していましたので、4年連続で観させていただきました。どの年の作品も素晴らしかったですが、年々パワーアップしていると思います。
しかし忘れてはならないのは、ページェントが教えてくれたのは「最初の」クリスマス、つまりイエス・キリストの誕生の日の出来事は、本校のページェントの盛大さとは全く正反対と言えるほど寂しいものだったということです。
ヘロデを上手に演じてくれた名役者を悪者にする意図はありません。しかしイエスが生まれたのは裕福で贅沢なヘロデの側ではありません。正反対です。「こんな服で、こんな身なりで救い主に会いに行ってもいいのだろうか」と悩む羊飼いたちに涙が出ました。人の心の叫びが聞こえました。
しかしまた、そのような人々のもとでこそ、そのような人々のためにこそ救い主がお生まれになったのだと天使が教えてくれました。そうであることのしるし、その証拠は、幼子イエスが家畜小屋の飼い葉桶に寝かされていることであると教えてくれました。
その幼子イエスの姿は、裕福と贅沢のまさに正反対です。裕福と贅沢が悪いと言っているのではありません。しかし、世界には、そして今の日本にも、そうでない人が大勢いるし、多くの子どもたちが苦しんでいるということを深く考え、真剣に向き合うことなしに自分の裕福と贅沢だけを追い求めようとするならば悪いです。いいわけがないではありませんか。
そのことをクリスマスが、そして幼子イエスが、今日あなたに問いかけています。そのことを覚えて過ごすクリスマスでありたいと願います。
(2016年12月12日、千葉英和高等学校 学校礼拝)
関口 康
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」
今日の説教に「新しい時代の到来」というタイトルを付けたのは、「アドベント」という言葉の意味が「到来」だからです。「待つ」という意味はありません。「待つ」ではなく「来る」です。救い主イエス・キリストの誕生は「新しい時代の到来」を意味する。それが「アドベント」の意味です。
私の妻は保育士です。子どもたちが小さい頃は子育てに専念していました。息子が中学校に入学し、娘が小学校の高学年になったときから保育士の仕事を始めました。ちょうど10年前です。
保育士の仕事にもいろいろあります。現在は発達障がいを持つ子どもたちの施設で働いています。その前は児童養護施設で働いていました。複雑な事情の子どもたちの世話をしています。
しかし、妻の仕事の具体的な内容については、私は何も知りません。いろんな仕事に当てはまることでもありますが、妻の仕事には「守秘義務」があります。仕事上知りえたことを第三者に漏らしてはなりません。それは夫婦であっても親子であっても同じです。
学校の先生も同じです。学校の先生にも「守秘義務」があります。私も家でもどこでも学校のことは何も話しません。ですから、私と妻が家にいるときは、お互いにずっと黙っていることが多いです。それでいいのです。そういう仕事なのですから。
こういう話をするのは、皆さんの将来の進路選択や職業選択の参考にしてほしいという願いがあるからです。直接的な意味で保育士になってほしいという意味ではありません。私が言いたいのは、日本の中にも、小さいときから親子の関係や自分自身の体や心のことで激しく悩み苦しんでいる子どもたちがたくさんいるということを知らずにいないでほしいということです。そして、もし可能なら、そのような子どもを何らかの仕方で助ける仕事をぜひ目指してほしいということです。
先々週の礼拝にお招きした日本国際飢餓対策機構の方の話には、心を激しく揺さぶられました。飢餓で命を失う子どもたちが日本国内に大勢いるとは言えないでしょう。しかし、日本には問題がないということはありえません。人に言えない事情も多くあるのですが、だからこそ人知れず多くの子どもたちが小さいときから激しく苦しみ悩んでいます。
その中には皆さんと同世代の子どもたちがいます。皆さんの弟さんや妹さんの世代、あるいはもっと小さな子どもたちもいます。その子たちのことを他人事だと思わないでほしいです。きつい言い方になりますが、「そういう家庭環境に生まれてしまった子どもたちは、はい残念でした。でも、ぼくは、私は、ラッキーでした」というような考え方は捨ててほしいです。
「ノブリス・オブリージュ」というフランス語の言葉を皆さんはご存じでしょうか。英語でいえば「ノーブル・オブリゲーション」です。日本語には訳しにくい言葉ですが、その意味は「恵まれた人こそが社会的に果たすべき義務が重い」ということです。税金の額だけの問題ではありません。もし皆さんが「ぼくは、私は、ラッキーでした」と思うなら、そのような人こそが、そのようなことを考えることすらできない苦しい立場にいる人々のことを助けることについて大きな義務を負うべきです。
進路選択や職業選択について私が何か言うと、それは押し付けだ、指図するな、個人の自由だとお叱りを受けることがありますので、このことも慎重に言わなければなりません。押し付けるつもりも指図するつもりも全くありません。ただお願いしたいだけです。
今月初めに行われた学校のクリスマス祝会の「ページェント」(キリスト降誕劇)は本当に素晴らしかったです。感動しました。私は昨年までは在校生の保護者として毎年参加していましたので、4年連続で観させていただきました。どの年の作品も素晴らしかったですが、年々パワーアップしていると思います。
しかし忘れてはならないのは、ページェントが教えてくれたのは「最初の」クリスマス、つまりイエス・キリストの誕生の日の出来事は、本校のページェントの盛大さとは全く正反対と言えるほど寂しいものだったということです。
ヘロデを上手に演じてくれた名役者を悪者にする意図はありません。しかしイエスが生まれたのは裕福で贅沢なヘロデの側ではありません。正反対です。「こんな服で、こんな身なりで救い主に会いに行ってもいいのだろうか」と悩む羊飼いたちに涙が出ました。人の心の叫びが聞こえました。
しかしまた、そのような人々のもとでこそ、そのような人々のためにこそ救い主がお生まれになったのだと天使が教えてくれました。そうであることのしるし、その証拠は、幼子イエスが家畜小屋の飼い葉桶に寝かされていることであると教えてくれました。
その幼子イエスの姿は、裕福と贅沢のまさに正反対です。裕福と贅沢が悪いと言っているのではありません。しかし、世界には、そして今の日本にも、そうでない人が大勢いるし、多くの子どもたちが苦しんでいるということを深く考え、真剣に向き合うことなしに自分の裕福と贅沢だけを追い求めようとするならば悪いです。いいわけがないではありませんか。
そのことをクリスマスが、そして幼子イエスが、今日あなたに問いかけています。そのことを覚えて過ごすクリスマスでありたいと願います。
(2016年12月12日、千葉英和高等学校 学校礼拝)
2016年12月11日日曜日
最後の希望の光(千葉若葉教会)
ルカによる福音書2章8~14節
関口 康
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
プロテスタントの教会にもいろいろありますが、「ふだんは教会暦のことなど全く無視しているのに、クリスマスとイースターとペンテコステばかり騒ぐのはいかがなものか」という意見が昔から根強くあることを皆さんもご存じだと思います。私もどちらかといえばそちらの影響を強く受けている人間ですので、アドベントになってもクリスマスになってもポカンとしているほうです。皆さんのお考えと違うようでしたらお許しください。
イエス・キリストの降誕の出来事を描いた聖書の箇所は、教会では何度も何度も読まれますので、さすがに聞き飽きたと思われる方が多いと思います。私も過去51年間教会生活をしてきましたので、50回はクリスマス礼拝をささげました。そのたびに同じ聖書の箇所が読まれますのでうんざりするのですが、今年の私はちょっと違います。新しい視点が与えられたという思いでいます。
新しいと言ってもそれほど新しくもないのですが、それは私にとっては新しい、とても新鮮な視点です。まだ先々週の12月2日金曜日に古書として入手して読み始めたばかりの本ですが、ドロテー・ゼレ先生の『神を考える 現代神学入門』(三鼓秋子訳、新教出版社、1996年)に書かれていることを読んで与えられた、私にとってはとても新しい視点です。
ゼレ先生は、ドイツで生まれ、アメリカのニューヨーク・ユニオン神学大学で教え、再びドイツに戻って活躍した女性の神学者です。1929年生まれとのことで、私の親とほぼ同世代の方です。そして、2003年に73歳で亡くなられました。
『神を考える』の日本語版の出版は1996年です。ちょうど20年前です。原著ドイツ語版の出版は1990年ですので26年前です。1990年といえば、私が東京神学大学大学院を修了して高知県の日本基督教団の教会の伝道師として仕事を始めた年です。当時の私は24歳で、現在51歳です。その頃のことを思い返すと、懐かしいと言えば懐かしい。しかし、教会と神学の歴史の長さを考えれば、ゼレ先生の神学はまだまだ新しい考え方です。
ゼレ先生の著書の日本語版は『神を考える』以外に、『苦しみ』(西山健路訳、新教出版社、1975年)、『働くこと愛すること』(関正勝訳、新教出版社、1988年)『幻なき民は滅びる 今、ドイツ人であることの意味』(山下秋子訳、新教出版社、1990年)などがあります。私が最初に購入したのは『苦しみ』ですが、ずっと前に購入しましたが全く理解できず、放置していました。しかし、やっと理解できるようになりました。ゼレ先生が何を言おうとしているのかが分かるようになりました。
そういうわけで今日は、聖書そっちのけでゼレ先生の本をずっと読んでいたい気持ちですが、そうも行かないと思いますが、今日はゼレ先生の文章を長めに引用することをお許しいただきたく願っています。以下のように記されています。
「一つ聖書の例を引いて、いろいろな神学的伝統における解釈の多様性を明らかにしてみたい。その例として、イエスが処女マリアから生れたという話を考えてみよう。正統主義は、この話を字句通りそのまま解釈する。イエスは処女から生れたのである。この教義的な表明は、アメリカのファンダメンタリストたちからは五つの根本的信条の一つとまでされ、信仰的財産に修正を加えようとする今世紀初めの自由主義的試みに対抗した」(65頁)。
解説の必要があるでしょうか。「正統主義」とか「ファンダメンタリスト」と呼ばれているのは聖書解釈の「保守的な」立場の人々です。「今世紀初め」は今では「前世紀の初め」です。引用を続けます。
「保守的な福音絶対主義の人たちの間では、処女降誕の教えはキリスト教信仰の本質的な構成要素とされ、これがなければ信仰は告白されることができない。この人たちにとって、信仰を決定する意味を持つのは戦争や大量虐殺の手段に対する態度ではなく、恐らく処女降誕の教えであろう」(65~66頁)。
ゼレ先生はこれを皮肉で書いておられるのではありません。全く書いてあるとおりです。「保守的な福音絶対主義の人たち」は、名指しは避けますが、つい最近まで私の身近なところにいましたので、私も肌感覚で分かります。真面目な人々ですが、ぞっとするところを持っています。引用を続けます。
「そこへ自由主義的な批評家がやって来て、聖書を開き、新約聖書の最も重要な記者はこの話を全く知らないか、或いは述べていないということを確認する。マルコはその福音をイエスが既に三十歳のときの受洗から書き始め、子供時代のことについては何も述べていない。マルコにとっては処女マリアに何があったのか、イエスがどのようにして生れたのかは、重要なことではなかった。ヨハネはイエスをずっと神のもとにおき、誕生の話を深く考えてはいない。それはパウロも全く同じである」(66頁)。
これは解説の必要はないでしょう。他の箇所にはっきり書かれていますが、「自由主義的な批評家」というのは、ゼレ先生が卒業したドイツのゲッティンゲン大学神学部や他のドイツの大学の神学者を指しています。引用を続けます。
「諸宗教をそれぞれの文脈において比較する、自由主義神学の副業であるいわゆる宗教史学派の助けを借りて、自由主義神学は処女降誕が古代ではかなり広まっていたモチーフであることを発見した。人々は好んで重要な人物や偉大な英雄が、処女から生れたと言ったのである。この各地で見られるモチーフは、父親が誰であるかはっきりとわかっている人でも、処女から生れたといわれるほど広く語られた。例えばソクラテスの父親も母親も私たちはよく知っているが、彼が死んで四百年のちには、処女降誕が語られた。ソクラテスの神性をより一層明らかに表すことができると考えたからである。したがってこのモチーフはユダヤ教ではなく、ヘレニズムに端を発したものであった。ヘブライの聖書は預言的に『おとめ』について語っている(イザヤ7・14)。そしてこのモチーフがルカの報告となって、教会史の中に入り込んできた。性や女性を敵視する響きは、聖書にはない」(66頁)。
「処女降誕物語」のヘレニズム起源説については、青野太潮先生も近著『最初期キリスト教思想の軌跡』(新教出版社、2013年)に書いておられます。ソクラテスが処女から生れたという話が実在することを知っている方々は、同じような話が聖書の中に紛れ込んできたことを証明できると考えておられます。私も特に異存はありません。しかし、ゼレ先生の意見は、ここから先です。
「私は18歳のときに持ったキリスト教への疑念を思い出すことができる。私が砕くことができなかった石(一番大きなものではなかったが、しかし一つの石であった)の一つが、私には理解できないこの処女降誕であった。なぜこのことを信じなければならないのか、解らなかった。処女から生れたイエスのほうが、父親がいるイエスよりも立派だというのか。それが私の救い、罪と悲しみからの解放に何の役に立つのか、私は理解しなかった。この信仰的財産がヘレニズム的解釈の一つに過ぎず、私がキリスト者であることにとって本質的なことではないということを自由主義神学を通して知ったとき、私がどんなに解放されたと感じたかを、今でもはっきりと覚えている。自由主義のパラダイムは、人間をしばしば信仰の躓きから解放してくれた」(66~67頁)。
しかし、ここでゼレ先生のお話は終わりません。ここから先が最も大事です。
「しかし、ラテン・アメリカの解放の神学では全く違っている。処女降誕のモチーフは不必要なものとされるのではなく、解放闘争の中へと組み込まれている。決定的なことは、解放者は貧しい人々の間でこの世に生れたということである。ラテン・アメリカでは多くの人々が未婚の母から生れ、父親を知らない。保護や援助を当てにすることができないまま、子どもを生む若い女性がいるという状況がごく普通なのである。彼女は困難に陥っており、恐らくエリサベトのような年上の女友達に助言を求めるだろう。彼女は見捨てられ、不貞を罰せられるのではないかと不安に思っている。これらはすべて私たちの社会にもある正常な状況である。この状況は解放の神学では次のように受け入れられている。マリアは私たちのうちの一人であり、彼女は光を、解放者を、救済者を生んだと。彼女に受胎を告げる天使は、『ソレンチナーメの農民の福音書』では、『反体制的』と見られている。『そしてマリアもまた、この知らせを聞くと、すぐに反体制的になる。彼女は地下組織に加わったかのように感じていたのではないかと思う。解放者の誕生は、秘密にされていなければならない』」(67頁)。
どうでしょうか。全く受け入れられないでしょうか。私はとても魅力を感じる解釈です。
「これはこの物語への全く新しい近づき方である。貧しい人たちから、しかも貧しい人々に属する女性という最も貧しい人々の立場から考えているという点で、全く異なっている。このような意味で、処女降誕の話が自由主義のように不必要なものとして批判されるのではなく、正統主義的パラダイムとつながりを持ちつつ、しかし同時に、貧しい人たちから、そして貧しい人たちのためにという新しい解釈の枠組みの中で、新しく解釈されている。そこからは性への敵意と支配ではなく、反体制と抵抗が伝わってくる。自由主義神学にとって処女降誕は、取り去ってしかるべき躓きの石である。解放の神学にとってそれは、一個のパンである」(68頁)。
今日開いていただいた聖書の箇所は処女降誕には直接関係ありませんが、まさに「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」イエス・キリストがお生まれになったことが分かるように記されている箇所です。この最も大切な視点の意味を教えてくれたゼレ先生の著書に感謝しつつ、皆さんにもご紹介したいと願った次第です。
明日(12月12日)は学校礼拝で私が説教します。そこでも私はこのことを話したいと考えています。
イエス・キリストは「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」お生まれになりました。イエスの両親も、イエスの誕生を祝いに来た羊飼いたちも、貧困と孤独の中にいた人々でした。イエスが最初に寝かされたのは、家畜小屋の飼い葉桶でした。夜通し働いていた羊飼いたちを明るく照らしたのは、夜空の星と「主の栄光」でした。後者はもしかしたら「マッチ売りの少女」(アンデルセン作)が最期に見た光のようなものかもしれません。
学校礼拝で話そうと思っているのは次のようなことです。「私は貧しくもないし、孤独でもない」と思える人は幸いです。しかし、そうでない人々のことを深く考え、真剣に向き合うことができないような心の持ち主であるなら不幸です。そのことをクリスマスが、そしてイエスがあなたに問いかけています。どういうふうに聞いてもらえるでしょうか。
イエス・キリストは、貧しい人々にとっての最後の光、最後の望みです。「私は貧しくないから関係ない」でしょうか。「私が貧しくなることはありえない」でしょうか。そんなことはないのではないでしょうか。そのようなことを考えながら過ごすアドベントでありたいと願います。
(2016年12月11日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)
関口 康
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
プロテスタントの教会にもいろいろありますが、「ふだんは教会暦のことなど全く無視しているのに、クリスマスとイースターとペンテコステばかり騒ぐのはいかがなものか」という意見が昔から根強くあることを皆さんもご存じだと思います。私もどちらかといえばそちらの影響を強く受けている人間ですので、アドベントになってもクリスマスになってもポカンとしているほうです。皆さんのお考えと違うようでしたらお許しください。
イエス・キリストの降誕の出来事を描いた聖書の箇所は、教会では何度も何度も読まれますので、さすがに聞き飽きたと思われる方が多いと思います。私も過去51年間教会生活をしてきましたので、50回はクリスマス礼拝をささげました。そのたびに同じ聖書の箇所が読まれますのでうんざりするのですが、今年の私はちょっと違います。新しい視点が与えられたという思いでいます。
新しいと言ってもそれほど新しくもないのですが、それは私にとっては新しい、とても新鮮な視点です。まだ先々週の12月2日金曜日に古書として入手して読み始めたばかりの本ですが、ドロテー・ゼレ先生の『神を考える 現代神学入門』(三鼓秋子訳、新教出版社、1996年)に書かれていることを読んで与えられた、私にとってはとても新しい視点です。
ゼレ先生は、ドイツで生まれ、アメリカのニューヨーク・ユニオン神学大学で教え、再びドイツに戻って活躍した女性の神学者です。1929年生まれとのことで、私の親とほぼ同世代の方です。そして、2003年に73歳で亡くなられました。
『神を考える』の日本語版の出版は1996年です。ちょうど20年前です。原著ドイツ語版の出版は1990年ですので26年前です。1990年といえば、私が東京神学大学大学院を修了して高知県の日本基督教団の教会の伝道師として仕事を始めた年です。当時の私は24歳で、現在51歳です。その頃のことを思い返すと、懐かしいと言えば懐かしい。しかし、教会と神学の歴史の長さを考えれば、ゼレ先生の神学はまだまだ新しい考え方です。
ゼレ先生の著書の日本語版は『神を考える』以外に、『苦しみ』(西山健路訳、新教出版社、1975年)、『働くこと愛すること』(関正勝訳、新教出版社、1988年)『幻なき民は滅びる 今、ドイツ人であることの意味』(山下秋子訳、新教出版社、1990年)などがあります。私が最初に購入したのは『苦しみ』ですが、ずっと前に購入しましたが全く理解できず、放置していました。しかし、やっと理解できるようになりました。ゼレ先生が何を言おうとしているのかが分かるようになりました。
そういうわけで今日は、聖書そっちのけでゼレ先生の本をずっと読んでいたい気持ちですが、そうも行かないと思いますが、今日はゼレ先生の文章を長めに引用することをお許しいただきたく願っています。以下のように記されています。
「一つ聖書の例を引いて、いろいろな神学的伝統における解釈の多様性を明らかにしてみたい。その例として、イエスが処女マリアから生れたという話を考えてみよう。正統主義は、この話を字句通りそのまま解釈する。イエスは処女から生れたのである。この教義的な表明は、アメリカのファンダメンタリストたちからは五つの根本的信条の一つとまでされ、信仰的財産に修正を加えようとする今世紀初めの自由主義的試みに対抗した」(65頁)。
解説の必要があるでしょうか。「正統主義」とか「ファンダメンタリスト」と呼ばれているのは聖書解釈の「保守的な」立場の人々です。「今世紀初め」は今では「前世紀の初め」です。引用を続けます。
「保守的な福音絶対主義の人たちの間では、処女降誕の教えはキリスト教信仰の本質的な構成要素とされ、これがなければ信仰は告白されることができない。この人たちにとって、信仰を決定する意味を持つのは戦争や大量虐殺の手段に対する態度ではなく、恐らく処女降誕の教えであろう」(65~66頁)。
ゼレ先生はこれを皮肉で書いておられるのではありません。全く書いてあるとおりです。「保守的な福音絶対主義の人たち」は、名指しは避けますが、つい最近まで私の身近なところにいましたので、私も肌感覚で分かります。真面目な人々ですが、ぞっとするところを持っています。引用を続けます。
「そこへ自由主義的な批評家がやって来て、聖書を開き、新約聖書の最も重要な記者はこの話を全く知らないか、或いは述べていないということを確認する。マルコはその福音をイエスが既に三十歳のときの受洗から書き始め、子供時代のことについては何も述べていない。マルコにとっては処女マリアに何があったのか、イエスがどのようにして生れたのかは、重要なことではなかった。ヨハネはイエスをずっと神のもとにおき、誕生の話を深く考えてはいない。それはパウロも全く同じである」(66頁)。
これは解説の必要はないでしょう。他の箇所にはっきり書かれていますが、「自由主義的な批評家」というのは、ゼレ先生が卒業したドイツのゲッティンゲン大学神学部や他のドイツの大学の神学者を指しています。引用を続けます。
「諸宗教をそれぞれの文脈において比較する、自由主義神学の副業であるいわゆる宗教史学派の助けを借りて、自由主義神学は処女降誕が古代ではかなり広まっていたモチーフであることを発見した。人々は好んで重要な人物や偉大な英雄が、処女から生れたと言ったのである。この各地で見られるモチーフは、父親が誰であるかはっきりとわかっている人でも、処女から生れたといわれるほど広く語られた。例えばソクラテスの父親も母親も私たちはよく知っているが、彼が死んで四百年のちには、処女降誕が語られた。ソクラテスの神性をより一層明らかに表すことができると考えたからである。したがってこのモチーフはユダヤ教ではなく、ヘレニズムに端を発したものであった。ヘブライの聖書は預言的に『おとめ』について語っている(イザヤ7・14)。そしてこのモチーフがルカの報告となって、教会史の中に入り込んできた。性や女性を敵視する響きは、聖書にはない」(66頁)。
「処女降誕物語」のヘレニズム起源説については、青野太潮先生も近著『最初期キリスト教思想の軌跡』(新教出版社、2013年)に書いておられます。ソクラテスが処女から生れたという話が実在することを知っている方々は、同じような話が聖書の中に紛れ込んできたことを証明できると考えておられます。私も特に異存はありません。しかし、ゼレ先生の意見は、ここから先です。
「私は18歳のときに持ったキリスト教への疑念を思い出すことができる。私が砕くことができなかった石(一番大きなものではなかったが、しかし一つの石であった)の一つが、私には理解できないこの処女降誕であった。なぜこのことを信じなければならないのか、解らなかった。処女から生れたイエスのほうが、父親がいるイエスよりも立派だというのか。それが私の救い、罪と悲しみからの解放に何の役に立つのか、私は理解しなかった。この信仰的財産がヘレニズム的解釈の一つに過ぎず、私がキリスト者であることにとって本質的なことではないということを自由主義神学を通して知ったとき、私がどんなに解放されたと感じたかを、今でもはっきりと覚えている。自由主義のパラダイムは、人間をしばしば信仰の躓きから解放してくれた」(66~67頁)。
しかし、ここでゼレ先生のお話は終わりません。ここから先が最も大事です。
「しかし、ラテン・アメリカの解放の神学では全く違っている。処女降誕のモチーフは不必要なものとされるのではなく、解放闘争の中へと組み込まれている。決定的なことは、解放者は貧しい人々の間でこの世に生れたということである。ラテン・アメリカでは多くの人々が未婚の母から生れ、父親を知らない。保護や援助を当てにすることができないまま、子どもを生む若い女性がいるという状況がごく普通なのである。彼女は困難に陥っており、恐らくエリサベトのような年上の女友達に助言を求めるだろう。彼女は見捨てられ、不貞を罰せられるのではないかと不安に思っている。これらはすべて私たちの社会にもある正常な状況である。この状況は解放の神学では次のように受け入れられている。マリアは私たちのうちの一人であり、彼女は光を、解放者を、救済者を生んだと。彼女に受胎を告げる天使は、『ソレンチナーメの農民の福音書』では、『反体制的』と見られている。『そしてマリアもまた、この知らせを聞くと、すぐに反体制的になる。彼女は地下組織に加わったかのように感じていたのではないかと思う。解放者の誕生は、秘密にされていなければならない』」(67頁)。
どうでしょうか。全く受け入れられないでしょうか。私はとても魅力を感じる解釈です。
「これはこの物語への全く新しい近づき方である。貧しい人たちから、しかも貧しい人々に属する女性という最も貧しい人々の立場から考えているという点で、全く異なっている。このような意味で、処女降誕の話が自由主義のように不必要なものとして批判されるのではなく、正統主義的パラダイムとつながりを持ちつつ、しかし同時に、貧しい人たちから、そして貧しい人たちのためにという新しい解釈の枠組みの中で、新しく解釈されている。そこからは性への敵意と支配ではなく、反体制と抵抗が伝わってくる。自由主義神学にとって処女降誕は、取り去ってしかるべき躓きの石である。解放の神学にとってそれは、一個のパンである」(68頁)。
今日開いていただいた聖書の箇所は処女降誕には直接関係ありませんが、まさに「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」イエス・キリストがお生まれになったことが分かるように記されている箇所です。この最も大切な視点の意味を教えてくれたゼレ先生の著書に感謝しつつ、皆さんにもご紹介したいと願った次第です。
明日(12月12日)は学校礼拝で私が説教します。そこでも私はこのことを話したいと考えています。
イエス・キリストは「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」お生まれになりました。イエスの両親も、イエスの誕生を祝いに来た羊飼いたちも、貧困と孤独の中にいた人々でした。イエスが最初に寝かされたのは、家畜小屋の飼い葉桶でした。夜通し働いていた羊飼いたちを明るく照らしたのは、夜空の星と「主の栄光」でした。後者はもしかしたら「マッチ売りの少女」(アンデルセン作)が最期に見た光のようなものかもしれません。
学校礼拝で話そうと思っているのは次のようなことです。「私は貧しくもないし、孤独でもない」と思える人は幸いです。しかし、そうでない人々のことを深く考え、真剣に向き合うことができないような心の持ち主であるなら不幸です。そのことをクリスマスが、そしてイエスがあなたに問いかけています。どういうふうに聞いてもらえるでしょうか。
イエス・キリストは、貧しい人々にとっての最後の光、最後の望みです。「私は貧しくないから関係ない」でしょうか。「私が貧しくなることはありえない」でしょうか。そんなことはないのではないでしょうか。そのようなことを考えながら過ごすアドベントでありたいと願います。
(2016年12月11日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)
2016年12月10日土曜日
12月10日はファン・ルーラーの誕生日です
12月10日になると毎年書いていたことを、今年は書き忘れるところだった。12月10日は、20世紀中盤のオランダで活躍した組織神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の誕生日。今年で生誕108年となる。
8年前の2008年12月10日にアムステルダム自由大学で開催されたファン・ルーラー生誕100年記念「国際ファン・ルーラー学会」から招待状が届いたので出席した。私は初めてのオランダ。出席者200名中日本人3名。再来年2018年に生誕110年記念国際学会が開催されることを期待したい。
初めてのオランダでもっと写真を撮ればよかったと、後悔先に立たず。数が少ないので同じものを繰り返し公開するしかない。自慢の一枚は、宿泊先ホテルのすぐ近くだった国立美術館の前での写真。フェルメール展をしていたが一顧だにせず、石原知弘牧師と二人でファン・ルーラーゆかりの地めぐりをした。
2016年12月5日月曜日
今日の反省
お恥ずかしいことに今朝は寝坊してしまった。仕事には間に合ったので事なきを得たが、いつもより2時間も長く眠ってしまい、文字通り飛び起きた。毎朝ケータイのアラームで目を覚ますが、昨夜うっかりコートのポケットに入れたまま寝込んでしまったので、アラーム音が聞こえなかったことが原因だった。
それでもなんとか自力で目を覚ますことができて助かった。起きがけの半覚醒状態で見ていた夢の中で私がしゃべっていた。ぐっすり眠ってよく休んだ脳で、ものすごくよく考えて、理路整然と必死にしゃべっていた。実際に声をあげていた。内容は書けないが、はっきり覚えている。相手の顔まで覚えている。
このような状態に何か医学的な病名のようなものがあるのだろうかと今ふと考えた。午前0時には寝たはずなので、途中一度も起きずに7時間は眠っている。「熟睡後半覚醒状態真剣思索大声寝言症」だろうか。いや真面目に。その自分の大きな声で目が覚めた。自分の声がケータイのアラーム代わりになった。
今のケータイを使いはじめて4年半になる。何の不自由もない。ツイッターはできなくされたが(プリインストール版アプリが終了したため)、フェイスブックはできるし、写真も撮れるし、目覚ましになるし、計算機にもなる。なにより頑丈だ。コンクリート地面に何度落としたことか。全くびくともしない。
ケータイに限らず、どんなものでも基本、壊れるまで使う。ものを大切にする人間であるわけでなく、新しいのを買いに行くのが面倒なだけだ。買い物という行為を苦手としている。なので、壊れたときは困ってしまう。重い腰をあげて新しいのを手に入れるまで、一時的にそれが「無い」状態に陥ってしまう。
それでもなんとか自力で目を覚ますことができて助かった。起きがけの半覚醒状態で見ていた夢の中で私がしゃべっていた。ぐっすり眠ってよく休んだ脳で、ものすごくよく考えて、理路整然と必死にしゃべっていた。実際に声をあげていた。内容は書けないが、はっきり覚えている。相手の顔まで覚えている。
このような状態に何か医学的な病名のようなものがあるのだろうかと今ふと考えた。午前0時には寝たはずなので、途中一度も起きずに7時間は眠っている。「熟睡後半覚醒状態真剣思索大声寝言症」だろうか。いや真面目に。その自分の大きな声で目が覚めた。自分の声がケータイのアラーム代わりになった。
今のケータイを使いはじめて4年半になる。何の不自由もない。ツイッターはできなくされたが(プリインストール版アプリが終了したため)、フェイスブックはできるし、写真も撮れるし、目覚ましになるし、計算機にもなる。なにより頑丈だ。コンクリート地面に何度落としたことか。全くびくともしない。
ケータイに限らず、どんなものでも基本、壊れるまで使う。ものを大切にする人間であるわけでなく、新しいのを買いに行くのが面倒なだけだ。買い物という行為を苦手としている。なので、壊れたときは困ってしまう。重い腰をあげて新しいのを手に入れるまで、一時的にそれが「無い」状態に陥ってしまう。
ゼレさんの『幻なき民は滅ぶ』が届きました
本日(2016年12月5日月曜日)、ゼレさんの『幻なき民は滅ぶ 今、ドイツ人であることの意味』(山下秋子訳、新教出版社、1990年)が郵便受けに届く。古書で入手。私にとっては4冊めの蔵書。1990年といえば私が東京神学大学大学院を修了して高知県の教会の伝道師になった年。26年前。
ゼレさんの神学に言及しているファン・ルーラーの論文が古いほうの著作集(Theologisch Werk)にあるのを見たことがあるのでそれを捜すも、推定1トンの平積み蔵書に埋もれて見つからない。なんという不覚。もはや慟哭の境地。研究者を名乗る資格なしだ。冬休みになったら本棚を買う。
ゼレさんの神学に言及しているファン・ルーラーの論文が古いほうの著作集(Theologisch Werk)にあるのを見たことがあるのでそれを捜すも、推定1トンの平積み蔵書に埋もれて見つからない。なんという不覚。もはや慟哭の境地。研究者を名乗る資格なしだ。冬休みになったら本棚を買う。
2016年12月4日日曜日
ゼレさんの『働くこと愛すること』が届きました
本日(2016年12月4日日曜日)、ゼレさんの『働くこと愛すること 創造の神学』(関正勝訳、新教出版社、1988年)が郵便受けに届く。古書で入手。私にとっては3冊めの蔵書。ゼレさんはすでに物故者だが(2003年死去)、私の親の世代の人(1929年誕生)。心からの敬意をもって読む。
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