2016年8月21日日曜日

神は世界を傲慢から救う(阿佐谷東教会)

日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区阿佐谷北5-13-2)
コリントの信徒への手紙一1章26~31節

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあがたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

阿佐谷東教会の皆さま、はじめまして。私はいま、千葉県八千代市にある日本基督教団関係学校である高校で聖書を教えています。日本基督教団教務教師の関口康と申します。今日はどうかよろしくお願いいたします。

なぜ私が今日、講壇に立たせていただいているのか。そのことを最初にお話しすることで自己紹介とさせていただきます。私は貴教会牧師の坂下道朗先生の東京神学大学の後輩です。いわばそれだけです。坂下先生からご連絡いただいたのは5月の半ばです。

しかし、その日から今日までの3ヶ月間、坂下先生と直接お目にかかる機会がついぞありませんでした。メールのやりとりだけでした。坂下先生とお会いしたのは27年くらい前です。それから一度もお目にかかっていません。

しかも、坂下先生は東京都内にご実家がおありで、東京神学大学にはご自宅から通っておられました。私は学生寮で6年間過ごしました。寮生と通学生は仲が悪いわけではありませんが、実はあまり接点がありません。

あともう一つ付け加えますと、私は1990年4月に日本基督教団の教師になりましたが、その7年後の1997年から昨年末(2015年12月末)までの19年間は、別の教派の教師をしていました。そして、この春に転入試験を受けて教団に戻ってきた人間です。

このことを言いますと必ず出てくる質問は、なぜ日本基督教団を出たのか、なぜ戻ってきたのかということですが、その質問にはっきり答えることができない人間です。転入試験で面接があり、その場にずらりと並んだ教師検定委員からその質問を受けましたが、そのときもはっきり答えることができませんでした。それで通してくださった教師検定委員会の皆さまに感謝しています。

日本基督教団が嫌になったから出て行ったとか、行った先の教派が嫌になったから教団に戻ってきたとか、そのようなことは考えたこともありません。自分の感情に任せて行動したつもりはありません。そのことはどうかご信頼いただきたく願っております。

私の話が長くなりました。申し訳ございません。先ほど司会者の方に朗読していただいたコリントの信徒への手紙一の1章26節から31節までを説明し、メッセージを述べさせていただきます。

最近の聖書学者たちは、新約聖書のいわゆるパウロ書簡の中のいくつかは、パウロが書いたものではなく、パウロの名前を借りた別の人が書いたものであるというようなことを盛んに議論する傾向にありますので、だんだん自信がなくなります。しかし、今日お読みしましたこの手紙のこの箇所は、使徒パウロが書きました。そのことを自信をもって堂々と宣言いたします。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい」(26節a)とあります。この訳で間違ってはいませんが、ずいぶん柔らかくなっています。「思い起こしてみなさい」は「見る」という言葉です。「召された」は「呼ばれる」です。声をかけられることです。私は坂下先生を通して神から今日の説教をするようにと命ぜられました。それと同じ意味です。何かの働きにつきなさい、この仕事をしなさいと、声をかけていただくことです。

そのときのことを「思い起こしてみなさい」と言われています。その意味は「見なさい」です。もう少し強く言えば「直視しなさい」です。直視するのは、その頃の自分自身のぶざまな姿です。なぜぶざまなのか。初めは何も知りません。どうすればよいかが分かりません。思い出すのも恥ずかしい。そのぶざまな姿です。

しかも、パウロが書いているのはキリスト者の信仰の問題であり、教会生活の問題です。「召された」は「呼ばれた」です。呼んだのは神さまです。「わたしに従いなさい」という、神の声なき声です。その神の声を、聖書を通して、教会を通して、説教を通して聴き、神に従うことを決心し、約束しました。キリスト者の過去には必ずそういう日があります。その日のことを思い起こしてみなさい。そのときの自分の姿を直視しなさい、と言われています。

それによって思い出される自分たちの姿はどのようなものでしょうか。それが次に書かれています。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません」(26節b)。

この「人間的に見て」も直訳すれば「肉によれば」です。「肉」(サルクス)という言葉が使われています。人間存在を構成する肉体です。その「肉」が「人間」という意味になります。べつに悪い意味ではありません。肉は汚らわしいから人間も汚らわしいという意味ではありません。

パウロが言いたいことは、はっきりしています。「わたしに従いなさい」と神からお呼びがかかり、その声に従うことを決心し、約束したときの自分自身の姿を思い出しなさい。目をそらさないで直視しなさいということです。

そして、ここに時間の次元がかかわってきます。時間的な過去の自分を思い出すことが求められています。今より若かった頃の自分の姿です。当時はまだ「知恵」も「能力」もあった。そういうことを皆さんは覚えているでしょう。忘れたとは言わせません。そのようにパウロは言おうとしています。また「家柄」というのは、自分の努力で得るものというよりは、親から譲られるものです。

しかし、思い出してみてください。あなたがたが神から召されたとき、「知恵」や「能力」や「家柄」のようなことが問われましたか、そんなことは問われませんでしたよねと、パウロは言おうとしています。そういうことが入会の条件ではなかったですよねと。あなたは「知恵」があり、「能力」があり、「家柄」もいい。そういうあなたにはぜひ教会に来てください。そうでない人はお断りいたします、などとは言われませんでしたよねと。

なぜそういうことを言われなかったのかといえば、教会はそういうことを問題にする団体ではないからです。そういうことが条件で入れるか入れないかが決まるような団体は「教会」ではありません。

そして、それは神のお考えだったのだということを、次にパウロは述べています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(27~28節)。

教会とはまさにそういう存在なのだということをパウロが言おうとしています。はっきり言いますと、世間的な目で見れば、教会は無学で、無知で、無力で、無意味な人たちがかき集められたような存在なのだと。はっきり言い過ぎでしょうか。

しかし、それこそが神の意図なのだとパウロは言おうとしています。それが神の御心であり、神のご計画です。そういう教会を作ることを、神がお求めになったのです。それは何のためでしょうか。神がなぜ教会を無学で、無知で、無力で、無意味な人の集まりにしたのでしょうか。パウロが記しているその理由は「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」(29節)です。

すなわち、その理由とは、世間的な価値判断の中で傲慢になっている人たちに対して神御自身が戦いを挑み、抗議するためです。そして傲慢な人に恥をかいてもらうためです。それによって神御自身が傲慢な人に「ちょっと、そこのあなた、もっと謙遜になってくださいよ」と言うためです。パウロが言おうとしていることは、そういうことです。

しかし、その教会も変質していきます。教会は世間から隔絶されて立っているわけではありません。たえず交流がありますので、明確な区別はできません。パウロがこのようなことを書いているのも、こういうことをわざわざ書かなければならないほどの変質がコリント教会の中に起こっていたからであると思われます。

だからといって、教会が世間と全く同じになってしまって、教会の中で、知恵や知識、能力、家柄の競争が始まってしまうなら、そういうことに欠けや引け目を感じている人々は、教会の中でも居場所を失ってしまいます。そのうち「私には生きている意味も価値もない」と言って絶望する人々が出てくることになります。

こういうことを言いますと、熾烈な競争の中に絶えず身を置いている方々から、「教会だけが特別ではない。甘えるな」と叱られてしまうかもしれません。しかし、そういう方々には申し訳ありませんが、もし教会までもがそのような「世知辛い」場所になってしまうなら、どこにも行き場がなくなるし、居場所がなくなる人々が必ず出てくるでしょう、ということは言わせていただきます。

もちろんそうは言いましても、教会が「世知辛い」ところであるかぎりは、世間と大差ありません。教会の中で競争しあっているようでは。私が過去に牧師として働いた教会で出会った人々の中には、「教会に来て本当によかったです。こんなに安心できるところは他にありません」とおっしゃる方が何人もおられました。そういう場所がわたしたちの人生の中に確保されていることが大切です。

そのような場所があることが、わたしたちにとって、たとえどんなことがあっても失望しないで生きていくことができる、希望の根拠になります。知恵も能力も家柄も、そのこと自体が問われることがない、そのこと自体で競争しあうことがない、そのような場所があるとしたら、それが「教会」です。

わたしたちの教会がこれまで以上にそのような教会になっていくにはどうしたらよいのかについては、私は何も言いません。もう時間切れです。あとのことは坂下先生にお任せいたします。

(2016年8月21日、日本基督教団阿佐谷東教会主日礼拝)

2016年8月20日土曜日

美味しい焼肉弁当をごちそうになりました

昨日と今日、「請われて」アルバイトに行きました。1月から3月まで勤めた建設会社でブログ作り、スキャナー設定、公式書類ひながた作り、OSアップデート等をお手伝いしました。美味しい焼肉弁当をごちそうになりました。ありがとうございました。
とても美味しかった焼肉弁当

半世紀の半生記の反省期

今年の夏休みは「一に反省、二に反省、三四がなくて、五に反省」。ただただひとり部屋に引きこもって過去と向き合っています。ブログのアクセス数が上がっている理由はさっぱり分かりませんが、過去20年のネット歴、8年半のブログ歴で初めてです。


半世紀の半生記を綴った自己紹介

2016年8月19日金曜日

「歴史的資料」が見つかりました!

「東京神学大学学科履修表(学部)」(1987年後期)
探せば出てくるものですね。私の東京神学大学学部4年後期(つまり卒業時)の履修表(成績表)。当時の履修学科の「体系」が分かります。もちろん本当は私の当時の成績が書かれていますが消しました。成績がよかったことを自慢するようでしたので笑。

この「歴史的資料」に基づいて昨日ブログにアップした私の自己紹介の文章を以下のように訂正しておきました。

関口 康 自己紹介
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/p/blog-page_17.html

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(以下、訂正版)

東京神学大学で履修した講義は以下のとおり(記憶が誤っている点は後日訂正)
「Ⅰ 一般教育科目」
・第1類
 国文学 川 鎮郎
 哲 学 近藤勝彦
 倫理学 岡野昌雄
 心理学 三永恭平
・第2類
 法 学 最上敏樹
 社会思想史 梅津順一
 宗教社会学 大西直樹 
・第3類
 物理学 原島 鮮
 精神医学 赤星 進
・第4類
 キリスト教通論 北森嘉蔵
 聖書通論Ⅰ 左近 淑
 聖書通論Ⅱ 松永希久夫
 聖書歴史(旧約)左近 淑
 聖書歴史(新約)山内 眞
「B 外国語科目」
 英 語Ⅰ ゴードン・レーマン
 英語実践 ゴードン・レーマン
 ドイツ語Ⅰ 近藤勝彦
 ドイツ語Ⅱ 加藤常昭
「C 保健体育科目」
 保健講義
 体育実技
「Ⅱ 基礎教育科目」
 神学通論 熊澤義宣
「Ⅲ 教職課程」
 教育原理
 教育心理学
 宗教科教育法
 道徳教育の研究
 教育実習(聖学院高等学校で実施)
「Ⅳ 専門科目」
〈A 聖書神学〉
 旧約緒論 左近 淑
 旧約神学 船水衛司
 ヒブル語 未履修
 ギリシア語 平野 保
 新約緒論 松永希久夫
 新約釈義 竹森満佐一
 新約神学 平野 保
 新約原典講読 平野 保
 神学書講読(英)ゴードン・レーマン
 神学書講読(独)川村輝典
〈B 組織神学〉
 組織神学Ⅰ(教義学)大木英夫
 組織神学Ⅱ(倫理学)佐藤敏夫
 組織神学Ⅲ(弁証学)大木英夫
 神学書講読(英)大木英夫
 神学書講読(独)熊澤義宣
〈C 歴史神学〉
 教会史Ⅰ(古代教会)徳善義和
 教会史Ⅱ(中世教会)徳善義和
 教会史Ⅲ(宗教改革)徳善義和
 教会史Ⅳ(近代教会)ヘンリー・フレンチ
 教会史Ⅴ(日本教会)鵜沼裕子
 宗教史Ⅰ デイヴィッド・リード
 アメリカ教会史 古屋安雄
 英国教会史 八代 崇
〈D 実践神学〉
 実践神学概論 加藤常昭
 キリスト教教育概論 小林公一
 牧会心理学 三永恭平
〈G 学部演習〉
 組織神学 近藤勝彦
 歴史神学 赤木善光
「大学院博士課程前期課程科目」
 説教学 山口隆康
 牧会学 山口隆康
 礼拝学 竹森満佐一
 組織神学演習 大木英夫
 修士論文指導演習 近藤勝彦
など

久しぶりにアルバイトに行きました

今日(2016年8月19日金曜日)は久しぶりにアルバイトをしてきました。1月から3月までの無職期間にお世話になった建設関係の会社から「請われて」行ってきました。お昼にごちそうになったお弁当が美味しかったので、記念写真をアップします。
美味しかった久しぶりのアルバイト先でごちそうになったお弁当

2016年8月18日木曜日

ブログに「自己紹介」ページを新設しました

実家周辺の現在の景色(2016年2月撮影)
夏休みにしかできないことをと思い、過去50年余の人生を回顧し、時系列順に並べました。あれもこれもときりがないので、とりあえずの公開です。人の前で誇れることは何もありませんが、主の前に恥じるところはありません。

【1965年】

岡山県岡山市に生まれる(11月16日)
自宅は岡山市南部の児島湾干拓によって造成された新興住宅地の一角
両親が所属していた日本基督教団岡山聖心教会(岡山市)に生後まもなく通いはじめる

続きは「自己紹介」ページで

2016年8月17日水曜日

「分かりやすい説教」の落とし穴

この角度はジャンプ台のようだ
出るかレジェンドの新記録
意図的といえば意図的であるが、私の説教へのほめ言葉として「ギリシア語も神学用語も専門用語も出てこない(ので良い)」というのがある。ほめていただけるのはうれしいことだが、そのように言ってくださる方がこれまで聴いてこられた説教はどういうのだったのだろうと、やや心配になる場面でもある。

たしかに私はそういう言葉を意図的に避けている。いばるわけではないが、そういう知識がないわけではない。しかし説教を専門用語で埋め尽くしてどうするという思いが強くある。英語を全く知らない人に英英辞典を読めと言っているのと大差ないではないか。それを読むための辞典がさらに必要ではないか。

もちろん、専門用語を用いる以外に事柄に即して「正確に」語るすべが無い場合はあるし、少なくない。だれが言ったか「神」は「神」以外の概念で正確に説明できそうにない。例の「存在の類比」(analogia entis)を用いて「神」は「エンペラー」のような存在だとやるとファシズムになる。

「とにかく分かりやすくあれ」という考えは危険な面をもつ。それはティリッヒが「神は霊なり」はGod is MindともGod is intellectとも訳せないし、ヘーゲルの精神現象学はPhenomenology of the Mindとは訳されなかったと言っていることに通じる。

しかしそのことと、説教原稿をギリシア語と神学用語と専門用語で埋め尽くすのを是とすることとを我々は区別しなくてはならないということは直感的には分かる。後者は端的に怠慢を意味する。説教の本来の目的であるギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)を怠っている。あるいは衒学。

説教における衒学の問題は、これはこれで深刻で厄介ではある。需要と供給のバランスがとれている場合すらあるし少なくない。知的好奇心が常に刺激されるようでないかぎり食指が動かないタイプの人はいるので、そのニードを満たすには衒学系説教は有効である。平易な説教は聴くに値しないというわけだ。

するともしかして理想的な説教とは、ギリシア語と神学用語と専門用語で埋め尽くされているようでないが、「神」が「神」以外の概念に置き換えられていない点で事柄に即して「正確」であり、かつギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)に果敢に取り組んでいるようなそれかもしれない。

しかし説教において最も難しいのは、ギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)をどうするかだ。「救い主が人の身代わりに犠牲として死したこと」を今の人に「分かりやすく」説明する。たとえば「それは我々が救い主を見習って人の身代わりに犠牲として死すべきことを意味する」とやる。

あるいはそうでなく、「それは、我々の身代わりに犠牲として死した救い主とまるで同じような姿で我々の身代わりに犠牲として死した人々を、我々の救い主を我々が礼拝するのと同じような思いで崇敬することを意味する」などとやる。これでもうほぼ論理的に分かりにくくなっているが、分かる人は分かる。

私は今、それでいいのか?(いいわけがない!)と強い疑問符をつけたいがために書いている。ならばお前に別の解決策があるのかと問われても、まだその十分な答えがないままであるが、内心にわいてくるのはやや憤りに近いほどの拒絶感だ。いずれにせよ人の犠牲死への美化が起こっていると思えるからだ。

というあたりまでを深夜から未明にかけて、書斎の座椅子にすわったまま何度も寝落ちながら考えていた。その先が続かないのだが。何も見えていないわけではない。字にすることに心理的抵抗が起こり、いつもそこで止まってしまうという意味で。眼前の厚い壁に行く手を阻まれていると感じるという意味で。

2016年8月16日火曜日

タイムマシンよどこへ行く

楽しい会合でした
昨日は久しぶりに電車に乗った。新御茶ノ水駅から旧御茶ノ水駅(そんな駅名はないです)に乗り換えた。新旧の切り替えは緊張の瞬間だ。車内放送で「ゲームアプリをご利用の際は周りのお客さまのご迷惑にならないようにご注意ください」とアナウンス。私も気を付けなくちゃとガラケーの画面を確認した。

久しぶりに電車に乗ると緊張することがもう一つある。残金を確認せず改札を通ろうとすると通れるときと通れないときがある。通れないときは悲惨だ。頑丈なバーでブロックされ、「チャージしてください」という音声とチャイムが鳴り続け、後ろの人の舌打ち音が追い討ちをかける。昨日は。いや書かない。

久しぶりの電車に乗って出かけ、目的地の最寄り駅に無事到着した。駅ビルは様変わりしていたが、駅前商店街の雰囲気は30年前とあまり変わっていない。変わっていないと言えば今日の私の格好は何だ。喪服。学校も毎日喪服。夏休みも喪服。汎用性高すぎ。いつも同じ服のザッカーバーグと呼んでほしい。

久しぶりの電車で出かけた先での昨夜の会合は、楽しかった。おいしいごちそうをいただきながらいろいろ話し込んでいるうちに、借家の最寄り駅まで帰ってくれる電車に乗り遅れた。7キロ歩いた。この距離を歩くのも久しぶりだった。帰宅後まもなく夜が明けた。やっと本格的に夏休みらしいことができた。

2016年8月15日月曜日

世界の中心で「学問とは何か」をさけぶ(セカチュー)

長い長い暗闇のトンネル
私の夏休み5日目。といっても昨日は教会の礼拝で説教させていただきましたので、原稿作成と演述(私は馴染めない言葉づかいです)に費やした時間は休みなのかどうなのか。それはまあいいや。今日は自分の寝具(毛布など)の洗濯をしています。家事に費やす時間は休みなのかどうか。それもまあいいや。

批判は学問にとって大事だと思うが、あまりにも限られた少人数の集団の中でそれをするとすぐ騒ぎになるし、どれほど匿名性を確保しようとしても各方面の責任者や興味本位の人が特定作業を開始するし、通報義務があるかのように本人や「主だった人たち」に伝える。別件で尋問され生活基盤を剥奪される。

めったに名指しで人を批判しないのは、遠慮しているのでも恐れているのでもない。日本の思想風土がそうだとまで言ってよいかどうか分からないが、人格(persona)とわざ(opera)の区別が十分認識されていないところで批判を行うと、まるで人格攻撃をしているかのように誤解されるからだ。

書かずもがなではあるが、「○○氏の考えは間違っている」は「○○氏批判」ではなく「の考え批判」なのである。この区別を十分にしてもらえない思想風土の中で、批判活動は難しい。早い話、○○氏にその考えを改めてもらいたいと言いたいだけであって、○○氏の存在を否定しているのでもなんでもない。

まあただ全く分からないわけでもない。学問というのは長い長い暗闇のトンネルの中で孤独を味わい、そのトンネルをやっと抜けても待ち受けているのは無理難題ばかりで、自分のあとに残せる新しい認識はわずか。批判なんかされた日には人格否定されたときと同然の激憤を覚えることになるのかもしれない。

でも、なんていうか、それに耐えてこその学問だろ、とも思う。その意味では本当はもっと名指しで、または本人を前にして批判してあげるほうがいいのかもしれない。「この集団をだめにしたのはあなたの思想ですよ」と。そろそろそういう時期が来ているのかもしれない。心して準備しなくちゃ。勉強勉強。

でも今日はまもなくお出かけ。やっと夏休みらしいことを(おいそれ何度言った)。一人を除く全員が歳上なので「旧友」と言ってよいかどうか微妙だが、そういうところ。「懐かしい」かどうかも微妙。すべて微妙。「来るな」と思われていそうだけど行く。家族には「終電までには帰ります」と伝えてある。

2016年8月14日日曜日

友達を作りなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)
ルカによる福音書16章8~9節

「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」

今日の説教のタイトルは、先ほど司会者の方に朗読していただいた聖書の箇所からそのまま引用したものです。イエス・キリストのお言葉です。しかし「友達を作りなさい」という言い方はいかにも居丈高な響きがあるような気がしましたので、タイトルを決めるときに迷いましたが、思い切って付けました。

しかしそれ以上に、この箇所を選ばせていただくこと自体に大いに迷いがありました。なぜ迷ったかはお分かりいただけると思います。たとえたとえ話であるとはいえ、わたしたちの救い主イエス・キリストともあろう方が、犯罪者とまでは言えないかもしれないとしても、明らかに「不正を犯した」人のことを引き合いに出した上で、そういう人をほめるようなことをおっしゃっているからです。

これは大問題です。とんでもないことです。一緒くたにしてよいかどうかは分かりませんが、首相経験者が「ナチスに学べ」と言って大問題になりました。大問題になって当然です。もちろんイエスさまは犯罪や不正そのものを肯定しておられるのではありません。そんなことをすればイエスさまの教えはすべて台無しになってしまいます。しかし、イエスさまは今日の箇所で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というような、ほとんど確実に誤解を招くようなことをおっしゃっています。

私はいま「誤解」と言いました。本当に誤解かどうかはよくよく考える必要があります。よくよく考え、よくよく説明すれば、イエスさまが不正そのものを肯定しているのではないということを理解していただけるだろうと私は確信しています。しかし、お忙しい方々や、イエスさまに敵意や反発を持っている方々にはそういう説明を聴いていただけないので、誤解されたままになってしまいます。

なぜこれでイエスさまが不正そのものを肯定していることにはならないかといえば、イエスさまは富の本質を言っておられるからです。富と不正は切り離すことがきわめて難しい関係にあるということです。不正から完全に切り離された純粋な富などはどこにも存在しないということです。しかし、それは富そのものが犯罪や不正であるという意味ではありません。お金そのものが汚いという意味ではありません。お金が汚いのではなく、お金を扱う人間の心が汚いのです。

流通しないお金に価値はありません。全く使われることのない死蔵金はまさにただの紙切れであり、ただの金属片です。富は流通してこそ価値があります。人の手から人の手へと渡されてこそ、初めて意味を持ちます。そして、そうしている間に罪や不正が紛れ込んできます。紛れ込むのは当然であると言っているのではありません。罪や不正を肯定する意味では全くありません。それがまるで当然のことであるかのように言って、市民権を与えるようなことをしてはいけません。

しかし、断じてそういう意味ではないとしても、だからといって富と不正が完全に無関係になることはないとイエスさまが考えておられることは間違いありません。それが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスさまがおっしゃっていることの前半の「不正にまみれた富で」の意味です。

しかし、この御言葉でイエスさまがおっしゃっていることの主旨は、後半の「友達を作りなさい」のほうです。そして、その「友達を作る」ための手段として「不正にまみれた富」を用いなさいとおっしゃっているわけです。しかしその意味は、友達を作るために用いる富は「不正にまみれた富」だけであって、不正にまみれていない富は友達を作るために用いてはいけませんというような意味ではありません。それは支離滅裂です。まるで冗談です。もちろんそういう意味ではありません。

だからこそ私が先ほど説明させていただいたことが意味を持つと思います。不正にまみれていないような富はこの世には存在しないのです。すべての富が不正にまみれているのです。なので、イエスさまの話を曲解して、不正にまみれた富は友達を作るために使ってよいが、不正にまみれていない富は友達を作るために使ってはいけないというような詭弁を弄することはできないのです。

それはともかくイエスさまのおっしゃっていることの主旨は「友達を作りなさい」ということです。それははっきりしています。しかも「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっています。つまり、友達を作ることと、そのためにお金を使うこととを明確に関連づけておっしゃっています。

このようなことをイエスさまからはっきり言われると、あるいはこのようなことが聖書に書かれているのを読むと驚く人は多いはずです。「イエスさまも結局お金ですか。教会も宗教も結局お金ですか」と言われてしまうでしょう。さまざまな批判や反発を受けることになるでしょう。そのことをイエスさまはご覚悟のうえでおっしゃっています。

しかし私はいま、いくらか大げさな言い方をしています。大雑把に言っているところもあります。お金にかかわる問題はとてもデリケートな問題ですので、できるかぎり丁寧に話す必要があります。私が誤解されるのを最も恐れているのは、イエスさまが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっていることを、言葉の順序を逆にして「友達を作るために不正にまみれた富を使いなさい」と言い直しても同じかどうかという点です。

それはどういうことかといえば、イエスさまがおっしゃっていることを「友達を作るためにお金を使うのは当然だ」と言い直し、「お金を使わないで友達などできるはずがない」と言い直し、「あなたはケチだから友達ができないのだ」と言い直す。イエスさまのおっしゃっていることを、そのような話へと変換することが可能かどうかということです。

皆さんはいかがでしょうか。もちろん私はいま、みなさん自身はどのようにお考えになりますかと問いたくて、このような挑戦的な言い方をしています。友達を作るために全くお金を使わないような人に友達などできるはずがないと、そのように思われるでしょうか。そして友達作りのために大事なのは結局お金だと。どんなにきれいごとを言おうとも結局この世はお金だと。

そういう価値観、そういう人生観、世界観をイエスさまが教えておられるでしょうか。イエスさまがそのことを肯定しておられるでしょうか。この箇所を読んで、イエスさまはわたしたちの味方だ、わたしたちの現実をよく分かっておられる、親近感がわく、というような話をしてしまってよいのでしょうか。私が問うているのはそのことです。

私の結論を言わせていただけば、それは違います。そんなことをイエスさまはおっしゃっていません。お金など使わなくても友達はできます。かえって「金の切れ目が縁の切れ目」というような関係になってしまっている相手は「友達」ではありません。少なくとも関係が対等ではありません。常にどこか必ず上下の関係であり、支配・非支配の関係なのであって、言葉の健全な意味での「友達」ではありません。

ですから、私はこの箇所に書かれていることをそういう話にしてしまわないほうがよいと考えます。お金を使うかどうかそのこと自体は、実は重要ではありません。重要なのは「友達を作ること」です。そのために手段を選ぶ必要はなく、どんな卑怯な手を使おうと、不正を働こうと一向に構わないので、とにかく「友達」を作りなさい、という意味ではありません。そんなふうにして作った関係の相手は「友達」でも何でもないです。それは話がおかしすぎます。冷静に考えれば分かることです。

たとえ話の中身に入るのが後回しになりました。ある金持ちに一人の管理人がいました。その管理人が主人の財産を無駄使いしていたというわけです。これがすでに「不正」です。そのことを主人に告げ口する人がいました。それで主人は管理人を解雇することにし、もう仕事を任せておけないので会計報告書を提出するようにと、管理人に命じました。

すると管理人は、自分は土を掘る体力もないし、物乞いをするのは恥ずかしくて嫌だと考えました。それで思いついたのが、主人のお金を貸した相手をひとりひとり呼んで、それぞれが借りているお金の金額を書き換えなさいと言い、主人に黙って割り引いてあげたというわけです。それぞれの負担を軽くしてあげたわけです。そのようにして多くの人に恩を売っておけば、主人が自分から仕事を取り上げたとき、その人たちが自分を助けてくれるだろうと考え、実行したというわけです。

お金を借りていた側の人々は、もちろん大喜びです。命乞いをしたいと思っていた人々が、まさに命を助けられた思いだったでしょう。そのようなことをした管理人のやり方を、主人が誰から教えてもらったかは分かりませんが、とにかく知る。内緒だったはずですが、また告げ口する人がいたのでしょう。しかし、そのことを知った主人が、その管理人のやり方をほめたというのです。

その後どうなったかは分かりません。管理人のやり方をほめた。いいぞ、よくやったと。それでもこの主人はこの管理人を解雇したのか、それとも解雇せずにそのまま仕事を続けさせたのか。それは分かりません。

しかし、分かることがあります。それは、この主人がこの管理人のどこをほめたのかです。それははっきりしています。この管理人がお金というものの本質をよく知り、その使い方をよく知っているという点です。この点を主人がほめたのです。

無駄使いはしてしまうタイプです。お金儲けは得意ではありません。お金を減らすことはできても、増やすことができません。どんどん良い商品を生み出して、たくさんお客さんを増やして、がんがんものを売るというようなタイプではありません。その意味では商売にも営業にも向いていません。

収入が増えないのに給料ばかりとります。会社にとっては迷惑な存在です。家にいればひたすら浪費するタイプです。「ごはんできました。お風呂わきました」と呼んでもらうまで何もしません。ずっと自分の部屋に引きこもっているか、テレビを見ながら寝そべっているタイプです。

しかし、そういうことは全くできなくても、できることがあります。人の負担を軽くしてあげることができます。お金だけの話ではないです。だれかに対して自分から貸している、貸しがあるようなところを、許してあげることはできます。「返さなくていいよ」と言ってあげることができます。

それで感謝してもらうことはできます。貸した借りたの緊張関係を解消できます。そういう方法で仲間を増やすことができます。この管理人はそういうことができた人です。もちろんそのことを自分のお金でない主人のお金でしているところは問題ですが、ある意味で最もお金の使い方を知っている人です。

たとえば親子の関係はどうでしょうか。親は子どもの育成と教育のために莫大なお金を使います。それは親子の間の貸し借りの関係でしょうか。そのように考える子どもたちは当然います。さんざん世話になった親なのだから、恩返ししなくてはならないと。

そのように要求する親もいます。言葉や態度で要求しなくても、親の心の中に少しでもその要求があれば、子どもたちは必ず拘束されます。身動きがとれません。もし親子の関係が貸し借りの関係であるならば、子どもが親から借りていないものは何一つないからです。

もし「返せ」と言われるなら、返さなければならないわけですが、そこから先は親子の関係というよりも、ほとんど主人としもべの関係、あるいは雇い主と従業員の関係になってしまうと思います。

夫婦の関係はどうでしょうか。難しい要素は、もちろんたくさんあります。もともとは赤の他人でしたので。しかし、夫婦の関係は、貸し借りの関係でしょうか。

親子でも夫婦でもない人々との関係にまで視野を広げていくと、同じように考えるのは難しいかもしれません。しかし、教会はどうでしょうか。牧師と教会員との関係、あるいは教会員同士の関係は、貸し借りの関係でしょうか。そういう要素もたくさんあると思いますが、それだけでしょうか。

神と教会の関係はどうでしょうか。神とわたしたちひとりひとりの関係はどうでしょうか。それは貸し借りの関係でしょうか。「神さまに貸してやった。でも、私の思い通りにならないから返してくれ」というような話になるでしょうか。

もちろんいろんな考え方やいろんな立場があると思いますので、一概には言えません。ただ今日の箇所で重要なことは、イエスさまが教えておられるのは「友達の作り方」である、ということです。その意味をよく考える必要があります。

私にとっても他人事ではありません。今は学校で聖書を教える仕事をさせていただいていますが、有期の採用ですのでいつまで続けさせていただけるかは分かりません。教会の牧師の仕事を探していますが、なかなか見つかりません。しかし、土を掘る力はないし、物乞いするのは恥ずかしい。この不正な管理人は私自身の姿です。「土を掘れよ、物乞いをしろよ」と言われてしまうかもしれません。悠長なことを言っている場合ではありません。

それで私が、不正を働いてでも、と考えているわけではありませんので、どうかご安心ください。そのような不正は決して働いておりませんので、ご信頼してください。

残念ながら、がんがん稼ぐというようなタイプではありません。「がんがん稼ぐ牧師」とか「どんどん儲ける教師」というのは、どこか言葉の矛盾を感じてしまいます。しかし、人の負担を軽くするためのアイデアや方法なら、いろいろ思いつきます。提案し、実行できます。そういう面でお役に立てるようになれればいいなと願っています。

最後は私の話になって申し訳ありません。しかし、これは私だけではなく、私と同じくらいの世代の多くの牧師たちが同じように抱えている悩みでもあります。ぜひお祈りいただきたく願っています。

(2016年8月14日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)