2015年11月12日木曜日

信仰と理性のハイブリッドシステムを

某大学のオンデマンド講義を聴講しています
「非学問だからこそそれは信仰なのである」という感覚は、現代の教会に独特の敬虔を生み出してもいます。しかし、私の理想というか目標を言わせていただけば、「信仰と理性の調停しがたい対立」という図式を克服・修正して「信仰と理性のハイブリッドシステム」の道はないかと模索しているところです。

私が神学、とくに組織神学/教義学の観点から「信仰と理性の対立の緩和」によるハイブリッドを求める場合は、教義学のキリスト教的・三位一体論的な内的論理を徹底的に考えぬくことで「そうバカにしたものでもないのだな」と分かってもらう方式ですね。

あとはなんでしょうかね。ぱっと思いつくかぎりでいえば、組織神学/教義学も一夜にしてできたものではありませんので、過去の外国語文献を翻訳して読むという作業を、当然避けて通ることができません。文献収集にも、翻訳にも、解釈にも、国家予算規模の費用を投じても実際には全く足りないほどです。

そしてその組織神学/教義学の過去の営みが、かなりの面で、カントにせよヘーゲルにせよハイデッガーにせよ、日本で著名な哲学者たちの「反面教師」ないし「下敷き」の役割を果たしてきたのは確実であるはずなのですが、そちらの研究がいまだにほとんどなされていないのはアンバランスであるはずです。

日本の大学の哲学科に属したことはありませんので内情は分かりませんが、たとえば、ヘーゲルの精神現象学の「精神」(大文字のガイスト)がキリスト教の「聖霊」(大文字のガイスト)と全くつながりがないということはありえないと私なんかには思えますが、日本でどのように教えられているのかとか。

挑戦的な意図で書くわけではありませんが(ほんとに)、キリスト教の組織神学/教義学の方法論と伝統に基づく「聖霊論」(Pneumatologie)を深く考えることがほとんどないままで、ヘーゲルの「大文字のガイストの現象学」を正しく理解できるとは私には思えないとか。

もう一つあえて書くとしたら、これこそジャーゴンなのですが、キリスト教が言うところの「神」の定義そのものに躊躇なく踏み込む畏れ多い仕事をするのが組織神学/教義学の本来の務めですので、こうなったら神さまご自身に「信仰と理性の対立の緩和」をお願いすることをしていくしかないです。

今書いたことの意味は、宗教者が自分の神に「信仰と理性の対立が緩和されますように」と祈祷するという意味であってももちろん一向に構わないわけですが、そういうことよりも、「神の定義」において「人間」ないし「人間性」との対立概念として「神」をとらえすぎることの危険性を指摘するとかです。

問いの立て方としては、「神である」とはいつでも必ず「人間でない」という意味でなければならないかとか、神と人の関係をいつでも必ず受肉論(神にもかかわらず人になられた論)でとらえなければならないだろうかとか、それは信仰の名を借りたアンスロフォビア(人間嫌い)の可能性はないだろうかとかです。

こういう問いの立て方がありうることを私が考えはじめたのは、モルトマンをインスパイアしたとされるファン・ルーラーの本を読み始めてからです。ほとんど受け売りです。モルトマンの「共苦」はキリスト論の範疇だと思いますが、ファン・ルーラーはキリスト論のみで神人関係をとらえるのを嫌いました。

なぜなら、キリスト論においては(or/ おいてすら)神人関係は「対立概念」でしか捉えられてこなかったからです。神である「にもかかわらず」(notwithstanding)人になられたのがイエス・キリストですから。逆接・逆説が成立するのは神人関係が「対立関係」であるときのみです。

しかし、キリスト教の「神」は「三位一体」であると、大昔から教会は堂々と言い続けてきました。「キリストだけ」が「神」であるとは言ってきませんでした。お父さんも、聖霊も「神さま」だと言い続けてきました。その、とくに「聖霊」は「人になじむ存在」として聖書に描かれていたりします。

だって「聖霊」は、人の中に「宿る」(inhabit)のですから。inhabitatio Spiritus sancti(聖霊の内住)です。しかも、聖霊は人に向かって常にけんか腰ではないです。けんかっぱやい邪霊が人の中に宿られた日には、我々は即入院でしょう。やばすぎますよね。

人の「理性」と、人の中に「宿る」(inhabit)「神」である「聖霊」とは、仲良く「同棲」する関係です。もちろん、可能であれば公に「結婚」すれば気がラクになると思いますが、まあ事実婚というのも許容されると思いますよ。これはまじめな話ですからね。面白い話でもありますけどね。

この「理性」と「聖霊」(「聖霊」は「神さま」ですからね、そこお間違えなく)の「同棲」を認めてもらえるようになれば、「信仰と理性との対立の緩和」は、組織神学/教義学の側から、これまでよりももっと積極的に、かつむしろ率先した形で可能になるだろうと、私は虎視眈々、考えております。

自分で書いた「教義学のキリスト教的・三位一体論的な内的論理を徹底的に考え抜くことで「そうバカにしたものでもないのだな」と分かってもらう方式とは、要するにアンセルムスの「知解を求める信仰」(fides quaerens intellctum)ですね。信じますけど考え続けますよ方式。

「考えるな、感じろ」というブルース・リー(燃えよドラゴン)だかマスター・ヨーダ(スターウォーズ)だかモーフィアス(マトリックス)だかのセリフと同じことをキリスト教の信仰に関して真顔で言う人と出会ったことがあり、耐え難い思いを抱いた日から私の目標がむしろ定まった面があったりします。

アンセルムスだって、理性による「知解」を続けていけばやがて「信仰」に至りうるとは言わなかったわけですよね。それは無理だ。だけど、「信じること」と「考えるのをやめること」とはイコールではないですよ。「考えたってどうせ分かんないんだから」と「だから考えるのをやめる」は別のことですよ。

しかも「信じますが考え続けますよ方式」だという場合の「考える」は、その考えていることの経路を字に書いて残していくことを当然含んでいるし、「思考のプロセスを書き残すこと」にこそ意味があると思います。結論よりプロセスに意味がある。正解なんかなくていいんですよ。どうせ分かんないんだし。

権威と伝統ある「命題」を無批判で受領して、その意味する内容や「論理」について考えることをやめ、ないし禁止され、ただ定期的にその「命題」をリズミカルに反復するような宗教や生活のあり方をおそらく「黙従」というのだと思いますが、そのほうがある意味でラクですが、私はその道には進みません。

私がけっこう長年、自分の目標としてきたつもりの「信じますが考え続けますよ方式」がアンセルムスの言うcredo ut intelligam(これの定訳は「知解するために信じる」でいいのでしょうか)と内容的に同じかどうかは正確には分かりませんが、方向性はたぶん共通していると思います。

考えるのをやめないでいれば、脳の老化対策になりますよね。いつまでも若々しさを保つことができますよ。結論出さなくていいんだってば。というか、出ないでしょ結論。自分が死んだらどこに行くのかとか、どこにも行かないのかとか。いや死なんでも、最も心和む人生とは何かとか。出ないですよ結論は。

若干きついことを加えるとすれば、キリスト教が反知性主義(アンチインテレクチュアリズム)に加担する場面があるとすれば、私が今書いている意味で「信じますが考え続けます」と言えなくなるときではないかと思います。信仰のすべてが理性の犠牲の上に生きているわけではない。両立しますよ、必ずね。

2015年11月10日火曜日

「人生をかける」と「生活がかかっている」は表裏一体です

記事とは関係ありません
しかし、私はカントの思想を知ること自体にさほど強い関心を持っているわけではありません。カントがDogmatiker(日本国内の定訳では独断論者ですかね)と呼んでいる中に間違いなく含まれているキリスト教の「教義学」(dogmatiek)ないし「組織神学」の権利を主張したいだけです。

しかもそれは私にとってはきわめて自己中心的なことです。私の実存、いえ私の生活がかかっています。それは私が「組織神学者」だとか「教義学者」だという意味ではなく(事実でないし、ジョークでも名乗ったことがありません)、私が学業を卒えた後に長年取り組んできた仕事の「根拠」にかかわります。

どこでも公開しているとおり、私は高校からストレートで「神学部神学科」に進学し、大学院は「神学研究科組織神学専攻」で、取得した学位は「学士(神学)」と「修士(神学)」です。中学一級、高校専修の「宗教」の教員免許は取得しましたが、他に持っている免許・資格は自動車の運転免許くらいです。

私と同じ経歴を持つ人は他にもおられるので、自分の特殊性を言い張りたいのではありませんが、「神学」の学位と「宗教」の教員免許が、より客観的な観点から見た私の仕事の「根拠」です。しかも、私が卒業した大学の入試偏差値などに興味がある方は、お知りになりたければネット検索ですぐ分かります。

それでも、あまり声を大にしては言いたくないことですが、教会の中だけにずっと引きこもっていられるなら、「神学」の学位と「宗教」の教員免許でこれからも末永く仕事をさせていただけるのかもしれません。しかし教会はそれほど甘くはありません。理由は割愛しますが。多分に内情暴露になりますので。

「神学」の学位と「宗教」の教員免許を持っている者が全く異質の業種の「仕事」に就くことも十分ありえることではありますが、ややもったいないことではあります。しかし、だからといって、教会の中だけにずっと引きこもっていることができず、教会の外で「仕事」をすることになる場合も十分あります。

学位や資格や免許などなくても就きうる「仕事」はあるし、過小評価する思いは皆無です。ただ、そういうもの(学位、資格、免許等)が要求される仕事「も」ある。その要求に対して「神学」の学位と「宗教」の教員免許の権利を主張せざるをえないというのが私の実存、いえ生活がかかっている関心事です。

「神学」だ「宗教」だをハナからアホ呼ばわりする方々の言説を見聞きしても、基本的には余裕の笑いを浮かべながら受け流すことが私にはできるつもりです。しかしそれが死活問題になるのは、「仕事」の根拠を疑われたり、生活基盤を剥奪されたりする場合です。そのときは笑っている場合ではありません。

「神学」と「宗教」だけの学位や免許だけを「仕事」の根拠にするのは危なっかしすぎるので、そんなときの保険のために、もっと世のため人のために役立つ学位や免許や資格を他にも取得しておくべきだという考えが当然すぎるほどあることも、よく分かっています。それは有り難いアドバイスでもあります。

しかし、そこであえて踏みとどまる。「神学」と「宗教」の権利を主張する。文科省が認定しているからどうのと言いたいのではないのですが、「神学」の学位と「宗教」の教員免許はアカデミックな価値があると、猛烈な逆風の中で言わせていただく。この主張が認められたらそれ自体が革命だと思うのです。

まあでも、私は、自分で料理を作った写真をfacebookに載せたり、9割9分ジョークしかネットに書かない、ほとんどずっと教会に引きこもりっぱなしの、世のため人のためには何の役にも立っていない、ただの「ブロガー牧師」ですけどね。はっはっは(ひきつった自虐の笑い)。

まあ私も、今は7割主夫のような感じなので、引きこもりと言っても、炊事、洗濯、掃除、家計管理、支払い、送り迎え、みたいなことでけっこうバタバタしてはいるのですが、「がっぽり稼いでくる」とか、そういうのはできないですね。笑。その分、節約して、支出を抑えているわけですが。笑。

ですし「がっぽり稼いでくる牧師」というのがどうも、私の良心回路(キカイダー搭載)が「それ概念矛盾だろ」という独り言をやや大声で叫びながら、速攻でパンチアウトすべき敵だと自動認識してロックオンするんですが。困ったなあ。私ね、たぶん牧師に向いてないんですね。気づくのが遅すぎるぜ。笑。

2015年11月9日月曜日

「古書をヤフオクで落札した瞬間」から「商品が手元に届く瞬間」までの心理分析

ハンナ・アーレントの『カント政治哲学の講義』(叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1995年)を落札し、郵便局ATMから古書店のゆうちょ銀行口座(旧ぱるる)に送金しました。古書店から「非常に良い」と評価していただきました。カントとヘーゲルの日本語版全集はいつか手に入れたいです。

カントにも、ハンナ・アーレントにも、もちろん興味があっての落札ではありますが、もっと手前に引いたところで、そもそも大学の講義というのはどのように組み立てられているのかを知りたいという関心が私にはあります。それが大学未満の学校(小中高など)でも、教会でも、応用できると思うからです。

それと「18世紀ビッグネーム氏の○○論」について20世紀ビッグネーム教授が解説している本を21世紀の我々が読む、というこの遠近感が、どう表現したらいいのかうまい言葉を思いつきませんが、とてもいい感じです。万華鏡をのぞいているようなキラキラ感がありますね(全くうまくない言葉です)。

カント、カントと私がずっと言っているのは、バルトもティリッヒもカント、カント言っていたわけで、形而上のことを学問研究の範疇に含めてよいかどうかという結局あの問題を避けて通れる現代の牧師も神学者もいないだろう(そもそもそれを「問題」として認識できない向きは別)と思っているからです。

「カント、カントと言われたら答えてあげるが世の情け」と昔のポケモンのロケット団っぽい言い方でごまかして逃げることにしますが、モルトマンへの関心も基本は同じ。「神とかマジ無理」という一般的言説も、無神論も、結局、形而上の事柄が学問の対象でありうるかという問題と深く結びついています。

「カント、カントと言われたら答えてあげるが世の情け」と昔のポケモンのロケット団の口真似で書いた以上、いちおう解説めいたことを書いておきます。全く厳密な言い方ではありませんが、「形而上」と「形而下」の区別というのは「超自然」と「自然」の区別だと言えば当たらずといえども遠からずです。

敬語表現を割愛して書けば、人の目に見えない神が世界を創造したらしいとか、水をぶどう酒に変化させた人がいるらしいとか、死んだ人が生き返ったらしいとか、天国とやらで人が今でも生きているらしいとか、そういう系のことが「超自然」であり「形而上」です。そのようなことが聖書に書かれています。

そういう「形而上」なり「超自然」なりの事柄は非学問であり、現代人にとっては「お話しにならないアホ話」だと認識することをセオリーとすることを、人類史上初めて主張したとは全く言えないものの、理論的・哲学的に言い切った重要な人物が、18世紀の哲学者インマヌエル・カント氏であるわけです。

そういうカント氏の言い分を、完全に否定するか、一部受け入れるか、全面的に受け入れるかという「問題」が、19世紀にも、20世紀にも、そして現在、21世紀にも、変わらずに、「聖書」を「神さまの言葉だ」と信じている人たちにとって完全には無視できない仕方で、襲いかかってきているわけです。

いやまあ、無視したければ無視しても構わないのですが、その場合は「あなたアホなんですね」と速攻で決めつけてくる人たちがいるわけです。アホアホ言われることに慣れている人たちは本格的に無視してもいいのですが、しつこいヘイトスピーチみたいなものですから、気に障る人は無視できないわけです。

分かりやすいか分かりにくいか分からない説明で申し訳ないのですが、まあとにかくそういうことを、私はアホみたいに考え続けているわけです。アホアホすみません。

「形而上」ないし「超自然」を学問の対象であると主張することでアホアホ言われようと、もしかすると自分自身は全く傷つかないという人の場合でも、アホアホ言われるたびに傷ついている教会員と共に痛み苦しむことが、現代の牧師や神学者に求められている基本姿勢ではないかと、私は考えるほうです。

その意味では、牧師はらくなものです。いざとなれば教会の中にずっと引きこもっていれば済んでしまうようなところがありますので。批判の矢面にいるのは世間のアバンギャルドで仕事している方々です。アホアホ言われるだけならまだしも、即解雇、免許・資格・学位などの剥奪、生活基盤喪失の世界です。

「そんな免許なら剥奪されちゃえば~。牧師になれば~」とか、やすやすと言いのける人をたまに見かけますが、大丈夫かと、正直心配になります。「牧師はらく」の意味は、まるで「窓のないモナド」のように体系的に自己完結した思想の中に引きこもっても文句言われない可能性があるということだけです。

かえってそのほうが「純粋な信仰者」に見えて尊敬される可能性さえあるかもしれません。窓をチコッと開けると、そこから死に至る毒ガスがどどっと押し寄せてくることが分かっているだけに。でも、その毒ガスも、即致死量なのか、まあしばらくは死にはせん(長年浴びると死ぬ)レベルなのかによります。

「外に出て浴びろよ」と言いたくなることがあります。他人に対してというより、自分自身に。問題はむしろ、窓をしめきって外部から押し寄せる毒ガスから自分たちを完全に遮断している気でいるその室内が、酸欠で窒息状態であったり、じめじめと湿気て、きのこが生えていたりする、そちら側にあります。

いま書いたような問題群が、ほぼ物心つく頃から今日に至るまで私の心を悩ませ続けている「カント問題」の核心部分です。小中高と公立学校で学んだことと関係あるかどうかは分かりません。ただし、「物心つく頃からカントを私は読んでいた」という意味では全くありません。そんなわけないじゃんね。笑。

話が飛躍するかもしれませんが、私、「ホンマでっかTV」(フジテレビ)というのがわりと好きで、時々観ているのですが、あれに出てくる脳科学者の澤口俊之氏が「あくまでも脳科学的に言えば、ですけどね」という口上でいろいろ言う、あの姿勢はいいなと思っている者です。

お互いを潰し合い、自分の論拠で他者の論拠を打ち消して自分の論拠だけを「上書き保存」するようなやり方ではない。いろんなシステムが共存することを許容する。そのすべてのシステムを統括・支配するより高次のシステムの考案者に自らなろうとしない。

神学は歴史をさかのぼれば、そういう「より高次のシステム」であろうとした時期があることは明白ですよね。「神学は諸学の女王、諸学は神学のはしため」と真顔で言っていた時期がある。その意気やよし、ですが、その後崩壊。

最近ではだれだろう、立花隆さんあたりがユビキタスなんとかみたいなことを言って全体統合のシステムを考える。あるいは、グーグルがすべての情報を支配する位置に立とうという意思を持っているのかな、分かりませんけど。でも、それもまた、全体の中の一パートにすぎない。

そういう単純だけど「謙遜や忍耐」を求められる位置づけをお互いに持ちあえるようになればいいのかな、みたいな。最後は個人の心の倫理のような話なのかもしれません。人の道をはずれていないかどうか、みたいな。

無事に届きました。ハンナ・アーレントの『カント政治哲学の講義』(叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1987年)。古書店さま、ありがとうございます。私のカントコレクション(カンコレ)の29冊目。次は本丸、カント全集行くか(無謀)。


インマヌエル・カントの/についての著作

(左から)

Kritik der reinen Vernunft(純粋理性批判)
Critique of Pure Reason(純粋理性批判)
Critique of Practical Reason(実践理性批判)
Critique of Judgement(判断力批判)
Religion within the Boundaries of Mere Reason
          (単なる理性の限界内の宗教)
講談社学術文庫『純粋理性批判(一)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(二)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(三)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(四)』天野貞祐訳
岩波文庫『道徳哲学』
岩波文庫『道徳形而上学原論』
岩波文庫『純粋理性批判(上)』篠田秀雄訳
岩波文庫『純粋理性批判(中)』篠田秀雄訳
岩波文庫『純粋理性批判(下)』篠田秀雄訳
岩波文庫『実践理性批判』
岩波文庫『判断力批判(上)』
岩波文庫『判断力批判(下)』
岩波文庫『プロレゴメナ』
岩波文庫『啓蒙とは何か 他四篇』
岩波文庫『永遠平和のために』
岩波文庫『美と崇高との感情性に関する観察』
岩波文庫『人間学』
中公パックス世界の名著『カント』
B. バウフ『インマヌエル・カント 人とその思想』
カウルバッハ『インマヌエル・カント』
量義治『カントと形而上学の検証』
小倉貞秀『カント倫理学の基礎』
熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』
ハンナ・アーレント『カント政治哲学の講義』

2015年11月7日土曜日

息を止めてモルトマンへジャンプする心境というか

モルトマンを読むのを我慢している状態なので、コメントするのも控えますが、説教集や講演集とかは「超訳」のほうが合うと思います。「最近の教会の牧師たちの説教、はっきり言っておもしろくないんですよね。私も若い頃は牧師をやりましたし、今でも日曜日の礼拝には出てますけどね」みたいな訳し方。

今の国内の政治情勢の中で、教会に通っているクリスチャンや牧師さんが、

「どう考えてもさすがにヤバイ。政治こわれすぎ。なにかしなくちゃ」

と重い腰を上げてみたものの、どの政党も右すぎるか、他宗教か、左すぎるように見えて見えて仕方なく、とてもじゃないが応援する気になれない。

まして「神とかマジ無理」とか「宗教こわい」とか「キリスト教こそ諸悪の根源」とか言っている人たちと組んだら、何を言われるか分からない。

「あんたかりにもクリスチャンなんでしょ。政治力学の数合わせのためなら無神論者とでも組めるわけ?」

とか口汚く罵られるんだろうなあ。

でも、けっこう当たってるんだよな、あの人たちの言い分。「もっと言ってもっと言って」と言いたくなるくらいに。政治のスタンスだけいえば、ほぼドンピシャだし。でも「無神論」ていうのが、どうもなあ。困ったなあ。

みたいなことでお悩みの方に「モルトマン」が効くかもしれません。

(副作用が出た場合は服用を中止してください。)

ああ読みたい。けど我慢我慢。いま手が離せないことがありまして。

ぜひブックレポート書いてください。シェアさせていただきます。人任せ。

日本の教会でより大きな運動を起こすためにはすでに広く出回っているテキストに基づく議論でなければならないと思います。カール・バルトでもいいのですが、いかんせん世代が違いすぎる。バルトが知らないインターネットをモルトマンは知っている。モルトマンの感性は我々とほとんど同じだと思います。

ダメだ、モルトマンを読んでいる。『十字架と革命』(新教出版社、1974年)。それと訳者・大庭健氏の解説に「うわあ」という言葉にならない思いを抱きながらも魅了されてしまっている。まあでも、今日予定していたことは無事完了。なんとか道が開けそうだ。Taking a New Step.

これしかないので、長いお付き合いの方には「またか」と飽きられるほどしつこい感じになりますが、私とユルゲン・モルトマン先生の一緒に写らせていただいた写真は、これです。



詳しい状況は、以下のとおり。

2008年12月10日(水)オランダ・アムステルダム自由大学(Vrije Universiteit te Amsterdam)で「ファン・ルーラー生誕100年記念」(ファン・ルーラーは1908年12月10日生まれです)で開催された「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler congres)の主催者から私の個人名宛てに招待状が届きましたので(事実)、これは「来い」ということだなと自分で思い込み、人生初の単独(ひとり)オランダ旅行を敢行した次第。

そんな光栄な国際学会に、せっかく日本から(多額の旅費を投じて)行くのだから、挨拶ぐらいせなあかんやろと、事前に主催者にメールを送り、スピーチさせてほしいと、私から頼み込んだ次第。

そして、英文のスピーチ原稿をアメリカ人宣教師にネイティヴチェックをしていただいたうえで、事前に主催者にメールで送り、オッケーをいただいた次第。(国際ファン・ルーラー学会でのスピーチ全文

そしたら、12月10日(水)当日、国際ファン・ルーラー学会のすべてのプログラムが終わる最後の最後に、プロテスタント神学大学総長ヘリット・イミンク先生が私をオランダ語で200人(後日主催者発表)の神学者(学会出席者)に紹介してくださったうえで、私の登壇となった次第。

国際学会の会場には、ファン・ルーラーの子どもさんたちもおられたし、国際学会のメイン講師としてドイツから招待されていたユルゲン・モルトマン先生もおられる前で、ウルトラ下手な英語で私が5分ほどのスピーチをさせていただいた次第。

そして、国際学会閉幕後、アムステルダム自由大学の別室で、オランダ、ドイツ、アメリカ、南アフリカ、日本(!)などの出席者200人によるレセプション(ビール、ワイン、ウィスキーなど)があり。

すっかり気持ちよくなったあと、「さて帰りましょうか」と、私と一緒に出席した石原知弘先生(改革派教会)と青木義紀先生(同盟基督教団)とでアムステルダム自由大学の玄関広間でウダウダしていたら、その玄関広間のベンチで、「ユルゲン・モルトマン先生」が、おそらく「次のレセプション」(二次会)に行くタクシーを待っておられた次第。

その姿を見た私、関口康が、石原先生と青木先生に耳打ちし、「ぎゃー、あれモルトマン先生だよね。ツーショット撮らせてもらおうよ。たぶんもう二度と会えないし。ゼッタイチャンスだよ。ぼくドイツ語できないから、先生たち交渉してよ」とけしかけた次第。

石原・青木両先生は、しぶしぶモルトマン先生のところに行ってくださり、交渉成立。それで実現したツーショット(フォーショット)写真です。

ですが、私は最初、4人の中の向かって(めっちゃ遠慮して)左端に立とうとしました。そしたら、写真左端のブリンクマン教授(アムステルダム自由大学神学部組織神学正教授)が、私の体をがっとつかみ、ご自分と入れ替えて、「きみはここだ」とモルトマン先生の隣りに押し込んでくださって実現した「写真」です。

なお「ファン・ルーラー研究会」は、昨年(2014年)10月27日に正式に解散しました。「ファン・ルーラー研究会」は、今は一人一人の心の中で活動しています。



誤解がありませぬように。モルトマンを私は初めて読もうとしているというわけではないのです。30年以上前から買って読んでいるし、ある人々からすれば過去の人扱いではないかと思います。私もどちらかというとずっと反発を感じてきたほうです。この人とは与すまいと決意していた時期があるほどです。

しかし最近、次第次第にですが心境の変化が起こってきました。モルトマンを読もうという気持ちとそれは深い次元で連結しています。モルトマンは私にとって、ある「一つ」の目的意識をもって読めばやっと意味が分かるという感じです。それは「一つ」だけです。その代わりその点は頑固なまでに明確です。

その「一つ」でモルトマンと合わない人は、彼の思想世界にたぶん一歩も入れないし、入る必要はないとずっと感じてきました。やっと読む気になったのは、「機が熟した」というか、彼を支持すべきかもという思いが生じているというか、他に道が残されていないようだと追い詰められているというか、です。

まあ、今はまだ、何を書いても暗号文を書いているような感覚があるので、「たとえを用いないで」話せる日が来るのが待ち遠しいです。待っていてくださいね、モルトマン先生、もう一度お会いしたいです。地上で。ドイツに行ったことないので、お金貯めて遊びに行きたいです。よろしくお願いいたします。

2015年11月4日水曜日

「今こそモルトマンを読むべきだ」と焦りながら手をつけられないでいる

やっと届きました、ユルゲン・モルトマンの説教集。古書店さま、ありがとうございます。

私が所蔵しているモルトマン先生の本はこれで15冊目です。まだまだ少ないです。ちょっとマニアックに原著出版年順に並べました。

ユルゲン・モルトマンの著作
(左から)
Theologie der Hoffnung(希望の神学), 1965.
『希望の神学』1968年(原著1965年)
『現代に生きる使徒信条』(共著)、1975年(原著1967年)
『神学の展望』1971年(原著1968年)
『十字架と革命』1974年(原著1970年)
Theology and Joy(神学と喜び), 1973 (Original German Version, 1971)
『人間』1973年(原著1971年)(※上の写真にはありません)
『キリストの未来と世界の終わり』1973年(原著1972年)
『聖霊の力における教会』1981年(原著1975年)
『神が来られるなら』1988年(原著1975年など)
『三位一体と神の国』1990年(原著1980年)
『二十世紀神学の展望』1989年(原著1984年など)
『創造における神』1991年(原著1985年)
『今日キリストは私たちにとって何者か』1996年(原著1994年)
『いのちの泉』1999年(原著1997年)

「今こそモルトマンを読むべきだ」と焦りながら手をつけられないでいる。モルトマン44歳の作品『十字架と革命』(原著1970年、日本語版1974年)の中の「無神論者との出会い」と「キリスト者とマルクス主義者の批判的連帯のために」という2つの章の趣旨をよく考える必要があると思っている。

前者の趣旨は「キリスト者は無神論者を敵視することはできないし、してはならない」ということであり、後者の趣旨はタイトルどおり、キリスト者とマルクス主義者の「批判的」連帯への模索である。今こそホットなテーマではないか。しかし、一筋縄では行かない問題であることは、依然として間違いない。

今こそモルトマンを読まなければと焦りながら手をつけられずにいるのは、読み始めると止まらなくなるほど面白すぎるからである。文句を言いたくなる部分もたくさんあるが、それは違う、モルトマンが我々にものすごく激しく文句を言っているのだ。現代の教会と牧師に対して、厳正な抗議をしているのだ。

2015年11月2日月曜日

作文の書き方(不定期)

本文とは関係ありません
私はネットだけに書いているわけではないが、比率としてはネットが多い。リアルで/に口下手で、子どもの頃の吃音の後遺症がまだあり、電話をかける前に原稿を書いていた時期が過去にあるほどで、字で思いを伝えるほうが対面よりもはるかにらくだ。ネットでリアルなしゃべり方ができるし、してしまう。

でも、字は字なので、対面でしゃべるのとは違う。それは当然そうだと思っている。ただ、字で思いを伝えることを何年も続けていると(ネット20年目)、文体は変わるし、変えたくなる。語順や語尾や感嘆文などでいろいろ細工したくなる。その影響がリアルの作文、説教や論文の文体のほうにも出てくる。

最近、ひとりで面白がって試してみているのは、facebookのコメントのやりとりのようなところで、相手のお名前を文章の途中に入れてみることだ。「たしかにそうなんですよね、○○さん、それよく分かります。教えてくださり、ありがとうございます。」のような書き方。ちょっぴり欧米風かなと。

主語と述語を逆さまに書いてみるのも悪くない。初めての相手にそういう文体はよしたほうがいいだろうが、ネットで長い付き合いのある相手であれば内容や意図が伝わらないことはないと思う。「面白くないんだよね、そういうのは」とか。「美味しかったです、今日のラーメンは」とか。さてどうだろうか。

私は自分でもかなり間違うくせに、他人の話のテニヲハや熟語や慣用句の言い間違いが逐一気になるほうだ。でも滅多なことではその人に訂正を求めたりはしない。もしかしてその相手の言い方のほうが、たとえセオリーどおりでなくても内容的に考えると正しいかもしれないと考えこんでしまうほどルーズだ。

だけど、自分は他人の言葉づかいを逐一チェックして訂正させるようなことを滅多にしないほどルーズでも、すべての人が私と同じでないことも分かっているつもりなので、私は他の方々にチェックの手間をお取らせしないよう可能なかぎりセオリーどおりの日本語でしゃべりたいし、書きたいと考えてはいる。

ただの当てずっぽうだが、自分がしゃべるときに、テニヲハや熟語や慣用句でどれほど言い間違いがあっても全く気にならない人は、たぶん吃音にはならないと思う。一瞬の脳内エラーのようなものかも。バグ。もしかしてセオリーの言い方や文法と違うかもと、迷いがよぎるたびに、つっかえてしまうのでは。

私の吃音の話になってしまったが、こういうことを書くと「よい治し方がありますよ」とか「あの病院に通ってみられたら」とか、ご丁寧に指南してくださる方がまれにおられるが、そういうのは勘弁してもらいたい。「うるさいよ」とかすぐキレるので取り扱い注意。笑。言いたいのは、そこではないわけで。

しゃべるように書き、書くようにしゃべる。それがたぶん、作文力が伸びる最短コースではないかと私は考える。吃音の人は、自分の吃音どおりに書けばいいかもしれない。「えーと、あのー、そ、そうですよね。んま、まあ、なんとなく分かりますよ」とか。その原稿を読めばいい。もっとひどくなるのかな。

教会と学業の両立

小学生が書いてくれました
いま教会で通常の日曜学校とは別に中学生向けの入門クラスを私が担当しているが、「分かる」とか「面白い」と言ってくれる。詳しいことは書けないが、公立中学に通い、公立高校を目指している子たちだ。私の基本スタンスは、公立学校の教育内容を全否定するような「神学」に立って話さ「ない」ことだ。

厳密な話をしているのではない。たとえば、文科省の学習指導要領に忠実にそった「神学」(もしそんなのがあるとすれば)に立って話「す」というような意味では全くない。そもそも学習指導要領を見たことがない。もう30年以上前だが、私も小中高は公立学校だった。その頃の感覚を忘れていないだけだ。

なぜ私が公立学校の教育内容を全否定するような「神学」に立って話さ「ない」で中学生たちの入門クラスをするのかといえば、理由は単純。その子たちが学校に行くのが嫌にならないようにすべきだと思うからだ。少し大げさに言えば、教会の使命は人を神のもとから世へと「派遣」することだと思うからだ。

中学生向けの入門クラスのことを先に書いたが、日曜学校の小学生たち向けの説教も月3ペースで私がしているが、基本スタンスは同じにしている。その子たちが学校に通うのが嫌になるような教え方はしない。「世との妥協」を教えているつもりはないが、歯車の噛み合わせのようなことを常に意識している。

別言すれば「世との妥協」ではないが「世離れ」しないように教える。そのような意識で、子どもたちにも大人たちにも話すように私はしている。このような私の基本スタンスは、ある見方をすれば、おそらく「リベラル」と評される。面と向かって私に「リベラル」というラベルを貼った人は、まだいないが。

どんなラベルを貼られようと私は構わない。教会と学業の両立ができるようになってもらいたいという願いが間違っているとは思わない。子どもたちにはある意味で過酷かもしれないが、プロテスタントらしく「世俗内的禁欲」の線で教える。勇気をもって大胆に世へと突入してほしい。それは不信仰ではない。

2015年11月1日日曜日

牧会祈祷

天の父なる御神よ

今日は秋の特別集会として、敬愛する横田隆先生をお迎えして礼拝をささげることが許されました。午後にも講演会を行います。心から感謝いたします。

天と地と海とその中にあるすべてのものを造り、保ち、統べ治めておられるあなたが御子イエス・キリストにおいて聖霊を通してわたしたちに与えてくださった豊かな恵みを、今日の礼拝を通しても深く味わい知ることができますようにお導きください。

今日の秋の特別集会の企画と準備をしてくださった伝道委員会の方々に特別の顧みがありますようお祈りします。

今日から11月です。2015年の歩みも残り2ヶ月となりました。今日まであなたが教会とわたしたち一人一人をお支えくださいましたことを感謝いたします。来年度の教会も力強く導かれますように、お祈りいたします。

わたしたち自身の日々の生活がこのようになんとか守られていますことを感謝いたします。しかし、体調不良の日もあります。重い気分の日もあります。起き上がることにも立つことにも困難を覚える日もあります。家族や友人や職場の人たちの中にも、苦しんでいる方が大勢います。どうかあなたが全能のそのみ力によって、わたしたちを助け、守り、苦しみの中から救い出し、平安で健やかな日々を与えてくださいますよう、お願いいたします。

日本と世界の平和のために祈ります。為政者が正しい政治を行おうとしないとき多くの人が苦しみ悶えます。この国が武力に頼らない国であることをわたしたちは誇りに思っています。どうか世界をお造りになったあなた御自身が、この世界を正しく整えてくださいますようお願いいたします。

礼拝の奉仕者のために祈ります。奏楽者の方々に、受付の方々に、説教してくださる横田先生に、また司式者の上にも、励ましと顧みがありますように。

また本日は聖餐式を執り行います。主イエス・キリストのお定めになった恵みの契約の儀式です。どうかわたしたちが心を新たにして、主の体と血にあずかることができますように。また、これから新たに洗礼を受け、あるいは信仰を告白して主の聖餐にあずかる兄弟姉妹を増し加えてくださいますように。そのための準備会を今行っていますので、出席者を励ましてくださいますように。

昔も今もとこしえに変わらぬあなたの愛と恵みに感謝し、我らの救い主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にささげます。

アーメン

2015年10月27日火曜日

この難局を乗り越えた先に希望があると信じよう

『30年代の危機と哲学』(イザラ書房、1976年)
『30年代の危機と哲学』読了。フッサール1、ハイデッガー2、ホルクハイマー1。ハイデッガーの「ドイツ的大学の自己主張」と「なぜわれらは田舎にとどまるか」は端的に面白い。「ドイツ民族統率者養成こそ大学の使命!」とアジった哲学者(前者)が、謝罪の明言はないが反省の色を示す(後者)。

職業柄かもしれない(そうでないかもしれない)が、変節する思想家を嫌いになれない。「勇気をもって大胆に変節せよ」と言いたくなる。それも、「我々は常に正義だ。真理は我らの手にある。誤謬の中にいるのは常にあなただ。ほら早く変節せよ」という意味ではない。そういうことは考えたことがない。

それにしても、変節は許容されるべきである。それが、その人自身の救済になり、かつ思想家と教師の影響下にある多くの人々の救済になる。今からでも、いつからでも、遅くない。その思想、その立場を、変えることはできる。

神学も同じだと考えざるをえない。神が変節することはさすがに考えにくい。しかし、神が人にとって捉えがたい(incomprehensive)存在であることは間違いないわけだから(間違いないと断言できるかどうかも考えなおす余地があるかもしれない)、人は幾様にも神を考えなおすことができる。

神は「捉えがたい」存在であるゆえに、人は神を幾様にも考えなおすことができる。と、ここで話を終わると不安がられることが多いことを知っている。しかし、あえてここで止める。安心を求め過ぎるのは我々の悪いくせだ。考え続けることをやめるべきでないのは、宗教も同じ。

気になって、フッサールとハイデッガーとホルクハイマーの年齢差を調べた。フッサール(1859年生まれ)とハイデッガー(1889年生まれ)は30歳差。フライブルク大学総長就任講演「ドイツ的大学の自己主張」のハイデッガーは43歳。ホルクハイマー(1895年生まれ)とハイデッガーは6歳差。

70代のフッサールと40代のハイデッガーと30代のホルクハイマーを想像すると、「白い巨塔」の東と財前と里見を、つい思い出してしまった。2003年版テレビドラマでいえば、石坂浩二と唐沢寿明と江口洋介。老教授と、野心満々の新進気鋭と、両方からいささか距離を置いて批判的に見ている同僚。

さて、今日は忙しい一日になりそうだ。もうお帰りになったが、朝から来客あり。これから出かけ、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはならない。書くべき書類(まだ白紙だが)も増えてきた。この難局を乗り越えた先に希望があると信じよう。各自やれることは、まだたくさんあるはずだ。私にもある。

2015年10月24日土曜日

作文の書き方(続き)

本文とは関係ありません
雑誌は「笑点の大喜利」にたとえられるのではと思います。いるのは司会者さんと噺家さんたちと座布団運びさん。司会者さんが編集長、噺家さんがメイン記事の書き手、座布団運びさんは書評の書き手。とか言うと怒られるでしょうか。そこで怒ると座布団運びさんに怒られますよ。座布団持っていかれます。

笑点の大喜利も計算しつくされた編集の世界ですよね。その中で、リーダーシップを持ちながら目立ちすぎてはいけない司会者さんと、目立つことで競い合う気がないなら出る意味がない噺家さんたちと、噺家さんより目立つことはゼッタイ許されないけど時々キラメク座布団運びさんの三者の絶妙のやりとり。

雑誌もそれと同じ。編集長がメイン記事の書き手たちより目立つ雑誌は純粋に個人誌というべきものですが、だったら編集長が全部自分一人で書けばと言いたくなるようなのもたまに見かけます。そういう雑誌は失敗作です。司会者の歌丸さんの独演会のようなもので、噺家さんたちはうちに帰っていいですよ。

しかも笑点の中で、その人がいなければ全体が成り立たないけど・他の出演者より目立つことはゼッタイに許されないのが座布団運びさん。その人の一人舞台になってしまったら全部ぶち壊し。そのあたりの自分に与えられた位置と役割を正確に理解して立ち回れる人が最適任者であるのは間違いないわけです。

それって、考えれば考えるほど、恐ろしいまでに難しい仕事だと私なんかは思うわけです。座布団運びくらい誰でもできるとか、とんでもない誤解です。その恐ろしいまでに難しい座布団運びの仕事が、雑誌で言えば書評の書き手ではないかと思うのです。あれなめたら、次のチャンスなんかゼッタイないです。

いま私の目の前に実例があって、当てこすりか、お小言を書いているわけではありません。ちょこちょこと、さらさらと、小さな小さな文章を締め切りを守って書くことを続けていく中で、でかいものを書かせてもらえるようになるのが「書き物の世界」の常ではないかと当たり前のことを考えているだけです。

いくらたとえと言っても、書評の書き手を笑点の大喜利の座布団運びさんにたとえるなんて、見当違いすぎて間違っていると、やっぱり怒られるかもしれません。私にはだれかをけなす意図はありません。ただ、メインの出演者を食ってしまうような大活躍は控えるほうがいいのではないかと言いたいだけです。