2015年4月8日水曜日

要するにduplex ordoの問題に最も関心があります

葛藤と苦悩は深まるばかりです
「いま自分が最も信頼している神学体系」の意味であれば、最も愛読している組織神学は、私はやはりファン・ルーラーのものです。私がここ何年も最も悩んでいる問題でありながらなかなか手を付けることができないのは、duplex ordoの問題です。その問題にファン・ルーラーが苦しんだのです。

ダブルスタンダードとかダブルバインドとかいえば、だいたいぴんと来る人は多いでしょう。duplex ordoを硬く訳せば「二重基準」でしょうか。ファン・ルーラーがこの概念を持ち出すとき強く考えていたのは、近現代のデモクラティックな社会の中の「国立大学神学部」の存立の意義の問題です。

日本には「国立大学神学部」そのものは存在しないわけですが、文科省が考える「科学・学問」の枠組みと代々の教会が「神学」という形でとらえてきた「科学・学問」の本来の姿との間の著しい葛藤と苦悩を伴う相互関係の問題と同じです。しかし私は、その葛藤と苦悩を肯定的にとらえたいと考えています。

葛藤が無くなってしまうことが悪い意味でのカルト化であると私は受けとめています。葛藤がない形で文科省的なるものと同化したうえで「教会の神学」の外套をまとっているだけなのもカルト化でしょうし(なぜならそれは「神学」を偽装する必然性がないのに忍び込んで来ているだけの怪しい存在なので)。

葛藤がない形で文科省的なものを全否定し、全面対決姿勢をとるのもカルト化でしょう(なぜなら「エセ科学」のくせに「神学」を名乗りたがっているだけの怪しい存在なので)。葛藤があるということは、神学のプライドはズタズタに傷つけられっぱなしですが、それを肯定的に受けとめたいという意味です。

こんなことをいくら書いてもよく分からないと思いますが、分からないようにわざと書いていますので(分かるように書くと差しさわりがある話ですので)、「何を言ってるのか分からない」という感想が正解です。ファン・ルーラーに限らず、こういう問題で葛藤しうる人、苦悩しうる人を、私は尊敬します。

フィリピの信徒への手紙の学び 05

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フィリピの信徒への手紙2・1~11

関口 康

この個所のパウロの思いを代弁していえば、次のようなことになると思われます。教会に集まる者たちは自分のことにしか関心がないようであってはならない。教会のみんなが心を一つにしなければならない。そのために求められるのは、我々がみな謙遜になることである。その謙遜の模範を示してくださったのがイエス・キリストである。キリストは我々の人生の模範であり、謙遜の模範である。キリストが示してくださった謙遜の模範に従って生きることは、教会の一致のために重要である。

しかし、残念なことに、パウロはこの個所で「教会」という字を用いていません。とはいえ、ここで考えなければならないことは、そもそもこの手紙がフィリピの教会に宛てて書かれたものであることです。この手紙に「あなたがた」とあれば、直接的にはフィリピの教会の人々のことです。加えて、当時「教会」に属していたすべての人々のことです。
さらに、もう一つの点が重要です。それは、教会はキリスト者の集まりであり、同じ信仰をもって集まっている人々の団体ではありますが、現実の教会の中にはさまざまな考え方や立場の人がいるということです。

パウロが書いていたのは、キリストを宣べ伝えることを「ねたみと争いの念にかられてする者」もいれば「善意でする者」もいるということでした。「愛の動機」からキリストを宣べ伝える人もいるが、「不純な動機」からする人もいる。「だが、それがなんであろう」とも書かれていました。「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と。

しかし、パウロが喜んでいることと、教会の中にいろんな考え方や立場の人がいて不一致や分裂に陥ることとは、区別して考えなければならない面があります。不一致や分裂の状態を放置しておくこと自体が良いことであるとは言えないからです。

実際、パウロ自身も、不純な動機からキリストを宣べ伝える人がいることをパウロは「喜んでいる」と確かに書いていますが、喜びと同時に「苦しみ」も告白しています。パウロはまさか不一致や分裂に幸福を感じていたわけではなく、苦しんでいました。しかしこの苦しみは「神の恵み」として与えられたものなのだ、そうなのだ、そうなのだと自分に言い聞かせていた面があったに違いありません。

だからこそパウロは教会の一致の必要性を力説しています。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と書いています。「幾らかでも」は受け取り方によっては相手を低く見る表現にもなるので要注意です。原文を見ると「幾らかでも」(ティス)は「キリストによる励まし」の前にも「愛の慰め」の前にも「“霊”による交わり」の前にも「慈しみや憐れみの心」の前にもあります。繰り返しには強調する意図があります。「幾らかでも」をパウロは強調しています。幾らかでもあれば大丈夫だ、という意味でもありますが、そのわずかなものさえないようなら危険信号だ、という意味でもあるでしょう。

しかし、そのようなものをあなたがたが「幾らかでも」持っているならば、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とパウロは書いています。「同じ思い」や「同じ愛」と言う場合の「同じ」の意味は、教会におけるキリスト者同志の中での共通性です。強く勧められていることは、教会内部の一致です。一致し、協力して伝道に励むことです。それがパウロの喜びにもなると言われているのです。

「幾らかでも」が強調されていることには、さらに別の意図があるかもしれません。あくまでも一つの可能性ですが、いわば教会の中の温度差の問題です。教会の中には、非常に熱心な人もいるし、熱心さにおいて温度が低めの人もいます。熱心でありたいという願いはあっても、今の事情がそれを許さないという人もいます。

そのような事情のすべてをパウロはよく分かっているのです。だからこその「幾らかでも」です。パウロにとっては、伝道の動機が純粋であるか不純であるかは関係ないと書いているのと同様、熱心の温度そのものも問題にしたくないのです。「幾らかでも」あれば十分である。熱心の温度が低いことが教会の一致を乱してよい理由にはなりませんが、温度が高いからと言って温度が低い人を一方的に裁いてもよい理由にもならないということになるでしょう。

しかしまた、この問題についてパウロは、今日の個所に限っては、どちらかというと温度を上げるほうではなく、下げるほうのこと、つまり冷静さを勧めているように感じられます。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって」とパウロは書いています。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とも書いています。これは明らかに、信仰の熱心さに伴いやすい傲慢さに対する戒めです。私は熱心な信徒である。がんばっている。よくやっている。この思いには落とし穴があります。他の人がしていることが小さく見えます。自分よりも熱心でない人の存在に苛立ちを覚えます。わたしがこんなにがんばっているのに、誰もついてきてくれないし、理解してくれないと寂しさや孤独感を覚えたりもします。その人々の思いは、理解できないものではありませんが、落とし穴に通じる道でもあります。

教会が壊れないようにパウロが勧めていることは、イエス・キリストの模範に従うことです。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」とある「それ」が指しているのは「へりくだって」です。謙遜であることです。つまり、「イエス・キリストの模範」とは「謙遜の模範」です。わたしたち人間が謙遜に生きるための模範をイエス・キリストが示してくださったのです。

謙遜は傲慢の反対です。矢印の方向が正反対です。「傲慢」は下から上へとのぼる道であり、「謙遜」とは上から下へとくだる道です。熱心であること、がんばることが悪いわけではありません。しかし、熱心であることの落とし穴は、熱心でない人を裁き始めることです。他人の存在が小さく見えはじめ、他人のしていることが取るに足りないものに思えることです。熱心であることはよいことでも、その中に利己心や虚栄心が混ざりはじめると厄介です。教会の中で競争心が渦巻き始めると厄介です。

イエス・キリストはそうではなかったということをパウロは訴えています。キリストは「神の身分」であられたのに、そのことに「固執」なさらず、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。

ここでパウロが描いているのは、キリストがたどられた道です。その意図は、イエス・キリストは「人間になられた神」であるということです。本来神であられるべき方が、その立場にとどまることにこだわりをもたれないで、低きにくだられ、人間になられたのだ、と言っています。それが上から下へとくだって来る道です。傲慢が示す矢印とは正反対を向いた謙遜の道です。

パウロはこの文脈には書いていませんが、読み取ってよさそうな彼の意図は、ねたみや争いの念にかられて伝道する人々、自分の利益を求めて教会に集まる人々、利己心や虚栄心を満たすことばかり考え、わたしはあの人よりも優れた人間であると競争心を燃やす人々は、キリストがたどった道とは正反対の道、つまり、「何とかして自分自身が神になろうとする道」を進んでいるのではないかということです。

紙の本をいかにして擁護するかを考えています

「着た」のか「脱いだ」のか、それが問題だ

1年間、紙の本を「読んでいない」人が4割超える【国立国会図書館調査】
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/05/ndl_n_7008468.html


重要な記事が出ました。こういうのを待っていました。いい悪いの評価はともかく、趨勢をできるだけ冷静・正確に見守る必要があると思います。

これからどうなるのでしょうか。ネットの情報は速い。次々更新され、飽きない。反面、ネットは「テキストの確定」が困難であると私は考えています。「ネットのテキスト」は情報提供者側で容易に書き換えうるものです。その結果、「テキストに基づかないうろ覚えの議論」が増えるのではないでしょうか。

「とんでもない。うろ覚えの議論などするものか。すべてテキストに基づいて議論するに決まっている」と言うにしても、情報提供者側の更新頻度が高く、かつ他の情報との関連を考え始めてしまうや否や、ネット全体の情報量があまりに多いため、「テキスト斜め読みの議論」が増えるのではないでしょうか。

「テキストに基づかないうろ覚えの議論」や「テキスト斜め読みの議論」でお茶を濁している自覚がある人は聖書学者を見習うべきです。聖書に関して片言隻句と言うのは間違いですが、たとえば、パウロが書いたのはενかεκかが問題になります。意味は正反対ですので慎重かつ真剣な判断が求められます。

コリントの信徒への手紙二5章3節のことです。日本聖書協会の口語訳(1954年)の「それを着たなら、裸のままではいないことになろう」が、新共同訳(1988年)は「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」になりました。「着る」と「脱ぐ」は正反対。これがενとεκの差です。

「着たので裸でない」のは当たり前すぎて退屈な話ですが、「脱いだのに裸でない」(えっ?!)としたら尋常でない。興味津々の話になります。その違いは聖書学者の方々の緻密な研究の成果によります。ενとεκの差は、一ミリ足らずの線が引かれているかどうか。まさにミクロの世界。顕微鏡作業です。

この文脈で、なぜ聖書学者の話をしているのかといえば、「テキストの確定」に命をかけておられる方々の代表格だと思われるからです。ネットのテキストは、情報提供側で容易に書き換えうるものです。ブログでもPDFでも、黙って書き換えています。私もよくするので誰かを責めているのではありません。

「テキスト斜め読み」でなく「テキストを精読した上での議論」の場合でも、もしネットのテキストを用いるなら、情報提供者側で書き換えがなされていないかどうか、なされている場合どのヴァージョンを用いるかを徹底的に考える必要がありますが、問題は「それを聖書学者ほどまで徹底できるのか」です。

私は断然、紙の本の価値を擁護したいと思っている側です。しかし、最近買っている本は古本ばかり。著訳者や出版社や書店経営者の方々への貢献度が低すぎます。なので、かなり後ろめたいです。穴があれば入りたい。頭隠して尻隠さず。穴に詰まったクマのプーさん状態。申し訳ない気持ちでいっぱいです。


組織神学に限ってはなるべく一次資料を確認したいと願っているだけです

組織神学のテキストを読むために机上に常備している6冊の辞書

いかにもこれ見よがしっぽく机上に並べている6冊の辞書を、私は案外頻繁に用いています。語学は苦手です。だからこそすべての単語を辞書で確認します。そういう癖がつきました。左からフランス語、ドイツ語、オランダ語、英語(2冊)、ラテン語です。

聖書の言語(ヘブル語、ギリシア語)の辞書は、机の近くですが別の場所に置いています。机上に常備している6冊の辞書は、組織神学テキスト用です。オランダ語辞典(左から3番目、緑)を最初に買ったのは1997年5月ですが、使い過ぎでボロボロになったので、2006年9月に2冊めを買いました。

『オーレックス英和辞典』は無作為に買いましたが、編集方針が気に入りました。まえがきに次のように書かれています。今の時代にふさわしい姿勢であると思います。

「外国人学習者といえども、英語を使うときに、性別や人種、障害者などに関わる差別表現について無自覚でいることはもはや許されないが、一部で行き過ぎとの批判もあって、自らの立場をどこに定めたらよいのか分かりにくい時代になってきている。そこで本辞典では、性差別につながる恐れがある語には、男女一方の立場に偏しない中立的な代替表現を挙げ、人種差別などに関わる語・表現には、注記を付して注意を喚起した。」

『羅和辞典』(右端)は昔の田中秀央編も持っていますが、机上には水谷智洋編を置いています。フランス語はかすりもしないほど全く読めませんが、ファン・ルーラーのオランダ語テキストにフランス語が(ドイツ語も英語もラテン語も)説明なく突如登場することがありますので、やむをえず持っています。

私は語学は苦手です。そうであることを、ネット越しでない私を直接知っている人は、みなさんご存じです。しゃべれませんし、聞き取れませんし、書けません。使い物になりません。しかし、かろうじて「読むこと」は、辞書と首っ引きで時間かけてよいことを許していただくかぎり、なんとかしてきました。

しかし、いつも間違ってばかりで叱られることが多いので、心はとっくの昔に折れています。私は翻訳者になれると思っていないし、外国かぶれではないし、奇をてらったことを狙う気などは全くないです。ただ、組織神学に限っては、疑問を放置せずに、なるべく一次資料を確認したいと願っているだけです。

2015年4月7日火曜日

ピューリたん、いいね!

人生は面白いことだらけです。いやほんとに。

ピューリたん、かわいかったです。応援しなくちゃ。

確かに外見は変わりました

サイズが小さくなっただけです
「スマホをやめるか、大学をやめるか」。そのような時代錯誤の二者択一は愚の骨頂だというのが私の立場です。しかし私も、子どもたちの将来について心配の要素がないわけではありません。というか常に心配でイライラしています。しかし、実際に変わったのは「外見」だけだと自分に言い聞かせています。

我々の親より上くらいの世代の人たちがある時期からこぼし始めた不満は「病院に行って長い待合を経ても、医者たちは我々の顔ではなくパソコンの画面ばかり見るようになった」ということです。そのことをこぼす人たちは、その勢い「牧師たちもそうだ」と言いたげなので、耳が痛い話として私は聞きます。

確かに「外見」は変わったからです。今は教会でも、かかってくる電話といえば、セールスか迷惑ファックスくらい。ほとんどの連絡はメールかSNSかビデオ通話。説教や論文の原稿書きも。息抜きの音楽や映画も。かなり長い時間を「パソコンの画面ばかり見る」生活に置き換えられて(しまって)います。

「スマホ」はパソコンの全機能を持ちつつ、デバイスのサイズが小さくなっただけです。我々が子どもの頃は寝っころがって紙のコミックを読んでいたのが、今の子どもは寝っころがってスマホでコミックを読むように「外見」が変わっただけです。甘すぎる見方かもしれませんが。私はダメ親かもしれません。

2015年4月5日日曜日

復活の希望 イースター礼拝

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

マルコによる福音書16・1~20

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を来た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」と。』婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくななこころをおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。」

今日はイースターです。わたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする日です。教会のイースター礼拝は、毎年行っています。それはイエスさまの復活の意味を毎年思い起こすためです。

イエスさまは十字架にかかって死んだ方だ、死んだ方だという話は多くの人が知っていることです。キリスト教といえば十字架というほどに、イエスさまの十字架上の死はよく知られています。しかし、その十字架上で死んだイエスさまが三日目に復活されたということが、聖書に記されています。その聖書に記されていることに基づいて、わたしたち教会はイエスさまの復活を信じ、お祝いしています。

しかし、聖書に記されているのはそのことだけではないと言わなければなりません。イエスさまが復活されたことが、聖書に記されています。それはそのとおりですが、聖書に記されているのはそれだけではありません。聖書に記されているもう一つの重要なことは、イエスさまの復活の話を聞いた多くの人はその話を信じなかった、ということです。たとえば、先ほどお読みしました個所に「信じなかった」という語が3回繰り返されています(11節、13節、14節)。

もしかしたら、みなさんの中に、聖書の中にそういうことが書かれているのをお読みになると慰められるという方がおられるのではないかと思います。イエスさまが復活されたことを信じなかった人がたくさんいた。私もそうだ。私も信じられない。でも、私だけが信じられないわけではなかった。二千年前から信じない人はたくさんいた。ああ、よかった、ほっとした。私だけが信じられないわけではなかった。そのことに慰めを覚える方がおられると思います。

聖書の中に復活を信じなかった人のことがたくさん描かれているのは、私は大切なことだと考えています。なぜかといえば、復活は信じるか信じないかの問題であるということです。信仰の問題です。イエスさまが復活したと信じる人と信じない人とがいるということです。それは信仰の問題であり、宗教の問題です。物理の問題でも、科学の問題でもありません。STAP細胞のようにイエスさまがどのようにして復活したかを科学的に証明してみよと言われても、それは無理です。そういう話ではないからです。

こういうふうに言いましても教会の中では問題にならないと思います。しかし、信仰を持たない人たちにとっては、それならば、そういう話は我々には関係ないことであると思われるかもしれません。復活というのは、信者の心の中の出来事であって、それは現実に起こったことではないのだから我々には関係ないことなのだと。

実際にそのように考えた人たちは大勢います。それは、今の人たちは疑り深いから疑う人が多いが、昔はそうではなかったというような話ではありません。二千年前の聖書の登場人物たちの中にも信じられなかった人は大勢いたのです。弟子たちも例外ではありません。

イエスさまの復活の話を聞いても信じなかった人たちは、それではその人たちは復活のことを話す人たちの言葉をどのように聞いたのかといえば結局そういうことです。それは信者の心の中の出来事なのであって、現実に起こったことではない。いちばんストレートに言えば、単なる気休めであると考えたのです。

しかし、問題はそれでいいかどうかです。信仰は気休めだ、宗教は気休めだ。現実にはないことを、ただの気休めとして思い込んでいるだけだ。そのように考えたい人たちの気持ちも私には分かります。私も現代人の一人です。中学でも、高校でも、徹底的な無神論教育、科学教育を受けた人間です。

宗教は気休めだ。死者が復活することなどありえない。イエス・キリストの復活は現実には起こらなかった。そのようなうそを教会は二千年も教え続けてきた。そのように言いたい人たちが大勢いることを私はよく分かっているつもりです。そして、ある意味で理解できるところもあります。

しかし、そういう見方を私は受け入れることができません。教会はうそをついていません。イエス・キリストが復活したということが聖書に書かれています。だからこそ教会は復活を、聖書に基づいて信じています。そしてそれは、逆に言えば、もし聖書に書かれていなければ、教会はそれを信じることの必然性もないということでもあります。

しかし、教会はそのことを信じます。イエスさまの復活を信じます。なぜなら、ちょっと不謹慎な言い方かもしれませんが、そのほうが面白いからです。死んだ人が生き返るという話のほうが楽しいからです。それを信じることによってわたしたちは希望をもつことができます。

人が死んだらすべて終わりでしょうか。わたしたちも死ぬのです。私も死にます。それで終わりでしょうか。わたしたちはもうすぐ終わるのでしょうか。それで何もかもパーでしょうか。そんなふうに考えることが楽しいでしょうか。思い残すことはない。やりたいことはすべてやった。あとは死ぬのを待つばかり。ああ、死んだらすべて終わる。さようなら。そんなふうに考えることは、楽しいでしょうか。嫌ではないでしょうか。死んだ人が復活する。まだ生き返る。永遠に生きている。そのように考えることができるならそのほうが楽しくないでしょうか。

もちろん、それは人それぞれかもしれません。しかし、教会は、そこでずいぶん楽観的なのです。面白くて楽しいほうの考え方をします。死んだらすべてが終わりなどというような陰鬱な考え方を、教会はしないのです。

いわばそれだけです。イエスさまがどのように復活されたのかとか、具体的な詳細なことについては、よく分かりません。聖書に書いてあるとおりではありますが、聖書に書いてあることしか分かりません。

人生について、命について、面白くて楽しいほうの考え方をしているだけです。死んだ人が復活する。そのようなことがもし本当に起こるならば素晴らしいことだと思っているだけです。そのようなことが、二千年前に起こった。イエスさまが復活した。そのことが聖書に書いてある。それを信じて生きていきましょう。教会が考えていることは、いわばそれだけです。

毎年のイースター礼拝には召天者のご遺族をご招待しております。わたしたち教会の死生観はいま申し上げたようなものです。非常に楽観的なものです。召天者の皆さまもまたイエスさまと同じように復活することを、わたしたちは信じています。

実は亡くなっておられないという話ではありません。わたしたちの目の前におられたあの方は、たしかに亡くなられました。しかし、その日で終わりではない。復活する。そのようにわたしたちは信じています。

そして、わたしたち自身も、です。わたしたちも復活します。私も復活します。もう結構だよと、言わないでください。もう早く終わらせてくださいよ。早く死なせてください。復活などさせないでください。そのように言いたい方がおられるかもしれませんし、その気持ちも私には分かります。

しかし、それは駄目です。わたしたちは死ぬことによって逃げ切ることはできません。生きている間にしなければならないことがあります。死んでも、復活させられて、後始末することが求められることがあります。自分が犯した罪の処理です。逃げても無駄です。神さまが追いかけて来て、わたしたちに最後まで責任をとらせます。そういうものだと思ってください。

イースターはおめでたい日であると言いながら、最後はだんだん恐ろしい話になってしまいました。しかし、復活はわたしたちにとって恐ろしい話ではなく、喜びと希望の根拠です。召天者のご遺族の皆さまの上に深い慰めがありますように、心からお祈りいたします。

(2015年4月5日、松戸小金原教会イースター召天者記念礼拝)

2015年4月3日金曜日

「本当のイースター」を教会で味わいませんか

復活の希望に輝いています
日本の有名人が国際「キリスト教」大学に入学したとか、日本のマスコミが突然「イースター」を言い出してくれるとかでも、教会には全く追い風が吹いてくる気がしないのは、ある意味で健全なことかもしれぬなと、悲痛な負けず嫌い発言。

アメリカの日本占領政策の最終段階に入った感じなんですかね、よく分かりませんが。だって、すごい急ですよね、「イースター、イースター」。我々教会がそれに反対する理由は全くないと思っています。教会には全く影響ないです。

そーそー、クリスマスと同じですよね。クリスマスのときのように言えばいいじゃないですか。「本当のイースターを教会で味わいませんか」。そういうことをチラシとかに書くと、教会の内部から「『本当の』とはなんだ、けしからん。世間に対する見くだしだ。教会の傲慢だ」と非難されるのがオチですが。

まあ考えてみれば、「イースター」という言葉すら知らない人が国内に多い原因は、義務教育課程の教育内容から完全にシャットアウトしてきたからでもあるわけですよね。そのほうが異常でもあると思いますし、イースターは教会が占有するにはあまりにも大きすぎる普遍性を持っていると思いますけどね。

いつもなんだか皮肉っぽい言い方ですみません。実物の私は、そんなに皮肉っぽい人間ではないつもりなんですけどね。まじめに書いているつもりですが、どうも筆致が軽すぎて、よく叱られます。

神学のブームを待望する

『ボンヘッファー選集』(全9巻)を初めて購入しました

「また古本が増えてるよ」と呆れられそうですが、人生初『ボンヘッファー選集』(全9巻、新教出版社)を落札しました。うんと低価格で叩き売られていました。 

「人生初ボン 叩き売り 神学デフレ とどまることなし」 

もったいないことだと最近しきりに考えていることは、今ほど世界的に「神学」がデフレの時代は過去に無かったほどだと思うのに、その「神学」に取り組もうとする人があまりにも少なすぎるのではないかということです。安くて誰でも手に入れられるものには価値がないと考えてしまうのか。もったいない。

時代錯誤だよと思われるかもしれませんが、日本の大学でも、中学・高校でも、とくに国公立の伝統校の最難関クラスというのが、もともとどうして最難関になったのかといえば、税金で勉強させてもらえる分だけ「安かった」からでしたよね。夕方のデリカコーナーのタイムセール状況(そういう話なのか)。

使い道が分からないほどの資産をおもちの方は激安品あさりの必要はないでしょうけど(またそんなイヤミったらしい言い方して)、「神学」の古書が激安ですから、どんどん買うべきです。引退者の死蔵書が大量に売却されているようです。しかし必ず枯渇します。引退者自体が激減します。今チャンスです。

べつに「神さまの叩き売り」しているわけではありません、「神学」は神さまではありません。話はむしろ逆で、神さまでないものを神さまだ神さまだと思いこませようとする魔力をはらうために「神学」があるので、「神学」自体も正直に「ごめんなさい、ぼくも神さまじゃないです」と自白しなくちゃです。

「自炊」するのがいいか悪いかという問題に踏み込むつもりはありませんが、大昔の「巻き物」の読み方に戻る感じになりますよね。同時に視野におさまるのは、画面に映っているところだけ。複数のページや複数の本を同時に開いて並べて見比べるというふうな、体系的な読み方をするのが難しいと思います。

「もう持っている」と思っている人も、古書購入を考えるといいと思います。まさに死蔵しておられるならともかく、手垢でよごれているようなら、「古書で古書をアップデートする」ことができます。いま市場に大量に出回っている「神学」の古書は、きれいなのが多いです。読まれた形跡がないものが多い。

「神学」のブーム、起こりませんかね。「ないなあ」と思いながら書いてますけどね。

2015年4月1日水曜日

桜満開、聖書研究に没頭しています

「シロ」とは何か

今日の祈祷会の聖書研究は、長老が担当してくださいました。興味深かったのは、創世記49:10の「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」の「シロ」の意味は不明だが、「シロ」をメシア(キリスト)と理解することによって、これをメシア預言であると理解する伝統的な解釈があるというお話でした。

今それを調べています。dr. A. van Selms(POT:1967)によると「シロ」は「サイ・ロー」(say lo)に分割できる。それで訳せば「王笏と統治の杖はユダから離れない。それゆえ《表敬の寄贈品》は彼に届き、諸国の民は彼に服従する」(創世記49:10)になるとのこと。

おひるは阿藤店長のコンビニ店(デイリーヤマザキ松戸小金原店)の「筍ご飯の味わい弁当」(税込450円)です。これびっくりするほど美味しいです。量もぴったりで大満足。ちまたは桜満開のようですが、書斎に引きこもって聖書研究に没頭しています。