本日12月3日(火)午後1時から3時まで国会議事堂の前にいました。
違憲国会での特定秘密保護法案の採決に反対します。
デモをテロと同一視し、民主主義に反するとみなす与党幹事長に抗議します。
以上、よろしくお願いいたします。
2013年12月3日
関口 康
2013年12月3日火曜日
2013年11月29日金曜日
二重予定論をファン・ルーラーはどのように受けとめたか
つい先ほどのことですが、京都在住の神学生の方からツイッターでご質問をいただきましたので、ツイッターでお答えしました。
質問は「二重予定論をファン・ルーラーや現代の改革派神学者はどのように受けとめているか」です。ぼくからの返信内容を以下にまとめておきます。ツイッターの性質上、粗い回答であることは、どうかお許しください。
----------------------------------------
ご質問ありがとうございます。
二重予定論は、バルト(主義者)と非バルト的改革派神学者とで、思想構造が全く違うことは明白です。ご承知のとおりバルトは「神は、イエス・キリストを遺棄に定めることによって、人間(全人類)を救いに定めた」という二重予定的万人救済論です。
このバルトの二重予定的万人救済論は、説教とかでしゃべりやすいし、とっても耳触りがいいので、20世紀の中盤から終盤にかけて、すっかりもてはやされましたが、どうも詭弁くささがぬぐえません。非バルト的な改革派神学者は、彼の二重予定論に立つことはできません。
さりとて、現代の(非バルト的な)改革派神学者は、16世紀のカルヴァンの「プリミティヴな」二重予定論のテキストをコピーして配布して、「これを受け容れなさい。そうすれば、きみも改革派教会のメンバーになれるからね」と言っているだけでもありません。
カルヴァンのいわゆる絶対的予定論(神が仁王立ちして人をヤギとヒツジに分けるの図)の危険性を最も早期に認識し、立ち向かう必要を自覚したのは、アルミニウスとその支持者(レモンストラント)です。レモンストラントとの論争の中で改革派教会は二重予定論の改善を続けてきました。
それで質問への答えですが、たとえばファン・ルーラーは二重予定論をどう考えたか。カルヴァン同様、あの人この人が選ばれているかどうかは「経験」で認識できるという立場でした。しかし、彼にとって重要な問題は、「永遠の選び」の永遠性は時間性とは矛盾するものだ、ということです。
我々がしばしば陥る罠は、「永遠の選び」と言いながら、それをまるで時間的な大昔のことであるかのようにイメージしているということです。ですが、「永遠」には過去も現在も未来もありません。「永遠」と「時間」は根本的に次元が違うのです。
ですから、ファン・ルーラーは先輩神学者ノールトマンスの「神はいちばん最後の瞬間に永遠のご決意をなさるのだ」という言葉に同意します。時間的な大昔に、ではなく、「いちばん最後の瞬間」に神の定めが明らかにされる。これはア・プリオリな決定論や運命論・宿命論とは異なる話です。
ぼくに分かるのはファン・ルーラーくらいです。他の現代の改革派神学者の二重予定論は分かりません。ファン・ルーラーの予定論テキストの一つを拙訳で公開していますので、ご一読いただけますとうれしいです。
「神の選び」(1958年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1958.html
ファン・ルーラーの二重予定論に対する見解を垣間見ることができるテキストの拙訳をもう一つ公開していますので、こちらもご一読いただけますと幸いです。
「ウルトラ改革派とリベラル派」の「3、予定理念からの論理的演繹」
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html
とりあえず以上です。長々とすみませんでした。
お答えになっていないようでしたら、どうかお許しください。
神学の勉強がんばってください。心から応援しています。ご質問ありがとうございます!
質問は「二重予定論をファン・ルーラーや現代の改革派神学者はどのように受けとめているか」です。ぼくからの返信内容を以下にまとめておきます。ツイッターの性質上、粗い回答であることは、どうかお許しください。
----------------------------------------
ご質問ありがとうございます。
二重予定論は、バルト(主義者)と非バルト的改革派神学者とで、思想構造が全く違うことは明白です。ご承知のとおりバルトは「神は、イエス・キリストを遺棄に定めることによって、人間(全人類)を救いに定めた」という二重予定的万人救済論です。
このバルトの二重予定的万人救済論は、説教とかでしゃべりやすいし、とっても耳触りがいいので、20世紀の中盤から終盤にかけて、すっかりもてはやされましたが、どうも詭弁くささがぬぐえません。非バルト的な改革派神学者は、彼の二重予定論に立つことはできません。
さりとて、現代の(非バルト的な)改革派神学者は、16世紀のカルヴァンの「プリミティヴな」二重予定論のテキストをコピーして配布して、「これを受け容れなさい。そうすれば、きみも改革派教会のメンバーになれるからね」と言っているだけでもありません。
カルヴァンのいわゆる絶対的予定論(神が仁王立ちして人をヤギとヒツジに分けるの図)の危険性を最も早期に認識し、立ち向かう必要を自覚したのは、アルミニウスとその支持者(レモンストラント)です。レモンストラントとの論争の中で改革派教会は二重予定論の改善を続けてきました。
それで質問への答えですが、たとえばファン・ルーラーは二重予定論をどう考えたか。カルヴァン同様、あの人この人が選ばれているかどうかは「経験」で認識できるという立場でした。しかし、彼にとって重要な問題は、「永遠の選び」の永遠性は時間性とは矛盾するものだ、ということです。
我々がしばしば陥る罠は、「永遠の選び」と言いながら、それをまるで時間的な大昔のことであるかのようにイメージしているということです。ですが、「永遠」には過去も現在も未来もありません。「永遠」と「時間」は根本的に次元が違うのです。
ですから、ファン・ルーラーは先輩神学者ノールトマンスの「神はいちばん最後の瞬間に永遠のご決意をなさるのだ」という言葉に同意します。時間的な大昔に、ではなく、「いちばん最後の瞬間」に神の定めが明らかにされる。これはア・プリオリな決定論や運命論・宿命論とは異なる話です。
ぼくに分かるのはファン・ルーラーくらいです。他の現代の改革派神学者の二重予定論は分かりません。ファン・ルーラーの予定論テキストの一つを拙訳で公開していますので、ご一読いただけますとうれしいです。
「神の選び」(1958年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1958.html
ファン・ルーラーの二重予定論に対する見解を垣間見ることができるテキストの拙訳をもう一つ公開していますので、こちらもご一読いただけますと幸いです。
「ウルトラ改革派とリベラル派」の「3、予定理念からの論理的演繹」
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html
とりあえず以上です。長々とすみませんでした。
お答えになっていないようでしたら、どうかお許しください。
神学の勉強がんばってください。心から応援しています。ご質問ありがとうございます!
2013年11月28日木曜日
ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由
言い訳は見苦しいかぎりですが、
ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由。
ファン・ルーラーは深い人なんです。
徹底的にどこまでも掘り下げようとする人です。
そのファン・ルーラー先生にすっかり触発されて、
ぼくまで掘り下げたくなってしまうんです。
書き方がけっこうアフォリズムで、
短くて鋭い言葉をパッパッパッと提示していくところは読むたびにうなるのですが、
説明も注釈もなしにパッパッパッとテンポよく来るもんだから、
日本人読者、というのはぼくのことですが、ぜんっぜん分かんないことだらけなんです。
とくに歴史上の人名とか、過去の神学概念。
それが注釈なしに出てくるもんですから、イチイチ調べなくちゃならない。
調べなくちゃならないって言っても、ぼくも怠慢なのが悪いんですが、
いろんな図書館を探し回るほどの機動力があればいいんですが、
それよりもネットで探して買っちゃう。
だけど、お金もかかるし、外国の書店から本が届くまでに時間がかかる。
今は子どもたちの教育費にお金がかかる時期なので、新しい本は全く買えない。
たとえば、この写真の本ですが、
左から
コクツェーユス『契約論』(現代オランダ語版)
ファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)
『リュースブルク全集』全四巻
ファン・ニーウェンホーフェ『リュースブルク研究』
シュレーダー『ファン・ローデンステイン研究』
ファン・ヘンデレン他編『第二次宗教改革研究』
みたいなものを集めてきましたが、これらの本は、
ファン・ルーラーの論文の中に「コクツェーユスは」とか「リュースブルクによると」とか「ファン・ローデンステインの言葉で言えば」とか「第二次宗教改革」の話がパッパッパッと出てくるので、
仕方なく購入したものです。
だって、訳書だって責任は重大ですよね。
訳者には意味も内容も分からないけど原著者が書いているから、そのまま「横のものを縦にしました」というわけには行かない。
ぼくは自分のブログには「そんなの知らねーよ」くらいの乱暴な言葉はいくらでも書いてきましたが、
もし将来、自分の訳した本が出版される日が来て、それを買ってくださる方がいて、その方から質問を受けたときに「そんなの知らねーよ」とお答えしたりは、ぜったいしません。そんな感じになるくらいだったら、出版しないほうがいいんです。
だけど、コクツェーユスも、リュースブルクも、ファン・ローデンステインも、第二次宗教改革も、一つ一つがものすごく深い思想世界を持っていますので、
そこにも引き込まれながら、それでもなお「本題の」ファン・ルーラーにぼくの集中力を戻していくというのが一苦労なんです。
たとえば、ぼくが持っている『リュースブルク全集』(写真中央の四巻本)は、とても美しい状態で保存されていた古書なのですが、
それは1940年代に出版された古い全集だったことが購入後に分かり(だから購入を後悔しているという話ではありません)、
今ではもっと新しい全集が出版されている、とか、
そういう情報を得ると、ファン・ルーラーとは全く無関係の問題なのですが、それはそれで興味がわいてきますし。
左から二番目のファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)についても、
この本の原著オランダ語版の原題はAmicitia Deiというのですが、
このラテン語の読み方をぼくらはアミキティア・デイだと思っていたら、
5年前に石原知弘先生と一緒にファン・アッセルト先生ご自身から「いやいや、その発音はアミシティア・デイだ」と教えていただいたり。
それで、また調べ直したら、同じラテン語でもキリスト教用語限定の発音方法があり、その場合はciはキではなくシだということが分かるとか。
もう、それはそれで面白くて仕方ないのですが、「本題の」ファン・ルーラーはそっちのけになってしまいます。
出版関係の方々にとっては、ぼくのような人間のすることは、利益には全くつながらないものなので、もうどうしようもないですね。
ぼくはスピードとか成功とか成果とか、そういうものとは全く無縁な人生です。マッドですね。松戸のマッド。
ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由。
ファン・ルーラーは深い人なんです。
徹底的にどこまでも掘り下げようとする人です。
そのファン・ルーラー先生にすっかり触発されて、
ぼくまで掘り下げたくなってしまうんです。
書き方がけっこうアフォリズムで、
短くて鋭い言葉をパッパッパッと提示していくところは読むたびにうなるのですが、
説明も注釈もなしにパッパッパッとテンポよく来るもんだから、
日本人読者、というのはぼくのことですが、ぜんっぜん分かんないことだらけなんです。
とくに歴史上の人名とか、過去の神学概念。
それが注釈なしに出てくるもんですから、イチイチ調べなくちゃならない。
調べなくちゃならないって言っても、ぼくも怠慢なのが悪いんですが、
いろんな図書館を探し回るほどの機動力があればいいんですが、
それよりもネットで探して買っちゃう。
だけど、お金もかかるし、外国の書店から本が届くまでに時間がかかる。
今は子どもたちの教育費にお金がかかる時期なので、新しい本は全く買えない。
たとえば、この写真の本ですが、
左から
コクツェーユス『契約論』(現代オランダ語版)
ファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)
『リュースブルク全集』全四巻
ファン・ニーウェンホーフェ『リュースブルク研究』
シュレーダー『ファン・ローデンステイン研究』
ファン・ヘンデレン他編『第二次宗教改革研究』
みたいなものを集めてきましたが、これらの本は、
ファン・ルーラーの論文の中に「コクツェーユスは」とか「リュースブルクによると」とか「ファン・ローデンステインの言葉で言えば」とか「第二次宗教改革」の話がパッパッパッと出てくるので、
仕方なく購入したものです。
だって、訳書だって責任は重大ですよね。
訳者には意味も内容も分からないけど原著者が書いているから、そのまま「横のものを縦にしました」というわけには行かない。
ぼくは自分のブログには「そんなの知らねーよ」くらいの乱暴な言葉はいくらでも書いてきましたが、
もし将来、自分の訳した本が出版される日が来て、それを買ってくださる方がいて、その方から質問を受けたときに「そんなの知らねーよ」とお答えしたりは、ぜったいしません。そんな感じになるくらいだったら、出版しないほうがいいんです。
だけど、コクツェーユスも、リュースブルクも、ファン・ローデンステインも、第二次宗教改革も、一つ一つがものすごく深い思想世界を持っていますので、
そこにも引き込まれながら、それでもなお「本題の」ファン・ルーラーにぼくの集中力を戻していくというのが一苦労なんです。
たとえば、ぼくが持っている『リュースブルク全集』(写真中央の四巻本)は、とても美しい状態で保存されていた古書なのですが、
それは1940年代に出版された古い全集だったことが購入後に分かり(だから購入を後悔しているという話ではありません)、
今ではもっと新しい全集が出版されている、とか、
そういう情報を得ると、ファン・ルーラーとは全く無関係の問題なのですが、それはそれで興味がわいてきますし。
左から二番目のファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)についても、
この本の原著オランダ語版の原題はAmicitia Deiというのですが、
このラテン語の読み方をぼくらはアミキティア・デイだと思っていたら、
5年前に石原知弘先生と一緒にファン・アッセルト先生ご自身から「いやいや、その発音はアミシティア・デイだ」と教えていただいたり。
それで、また調べ直したら、同じラテン語でもキリスト教用語限定の発音方法があり、その場合はciはキではなくシだということが分かるとか。
もう、それはそれで面白くて仕方ないのですが、「本題の」ファン・ルーラーはそっちのけになってしまいます。
出版関係の方々にとっては、ぼくのような人間のすることは、利益には全くつながらないものなので、もうどうしようもないですね。
ぼくはスピードとか成功とか成果とか、そういうものとは全く無縁な人生です。マッドですね。松戸のマッド。
2013年11月27日水曜日
ぼくは「ブロガー牧師」ではありません
ぼくの管理しているブログの投稿数は、時々チェックしています。
すべてぼくの自筆です(自筆って日本語で間違ってないですよね)。
ぼくの管理しているブログの投稿数(2013年11月27日現在)
関口 康 日記 投稿: 1020 件
今週の説教 投稿: 210 件
超訳聖書 投稿: 3 件
カール・バルト研究会 投稿: 17 件
ファン・ルーラー著作集草稿 投稿: 20 件
だそうです。合計: 1270件ですね。我ながら呆れます。
投稿ごとに長短がありますが、平均の長さはどれくらいでしょうかね、全く見当つきませんが。
完全に当てずっぽうですが、
昔ながらの400字詰め原稿用紙4、5枚にはなるんじゃないでしょうか。
40字×40行にフォーマットしたA4判用紙1枚程度。
あれってA5判の本の2ページ分てことでしょ、雑に計算すれば。
だったらぼくはもう、2540ページくらいの本を書いた計算になるのかな(ならないよ!)。
すべてぼくの自筆です(自筆って日本語で間違ってないですよね)。
ぼくの管理しているブログの投稿数(2013年11月27日現在)
関口 康 日記 投稿: 1020 件
今週の説教 投稿: 210 件
超訳聖書 投稿: 3 件
カール・バルト研究会 投稿: 17 件
ファン・ルーラー著作集草稿 投稿: 20 件
だそうです。合計: 1270件ですね。我ながら呆れます。
投稿ごとに長短がありますが、平均の長さはどれくらいでしょうかね、全く見当つきませんが。
完全に当てずっぽうですが、
昔ながらの400字詰め原稿用紙4、5枚にはなるんじゃないでしょうか。
40字×40行にフォーマットしたA4判用紙1枚程度。
あれってA5判の本の2ページ分てことでしょ、雑に計算すれば。
だったらぼくはもう、2540ページくらいの本を書いた計算になるのかな(ならないよ!)。
ぼくの「視野」からカルヴァン先生がいなくなりました
今日の午後、一時間ほどかけて、牧師室(書斎)の本棚の整理をしていました。
字で説明するのは難しいのですが、牧師室は「コ」の字型になっていて、
「コ」の字の上の横棒に「デスクと応接室」があり、
「コ」の字の縦棒と下の横棒に逆L字形に「本棚」があるという構造になっているため(この説明で分かります?)
「デスクと応接室」の側から見える本棚は、ほんの一部分だけです。
それで工夫を要するのは、「デスクと応接室」の側から見える部分、つまり、デスクで仕事中の「視野」にどんな本を置くか、です。
これまでも、いくつかのパターンがありました。しかし、今日の整理の目的は、はっきりしていました。
それは、デスクで仕事中の「視野」を「組織神学」の本で埋め尽くすことでした。
その代わりに犠牲になったのがカルヴァンです。
これまでは、さすがにカルヴァンは外せないでしょうと、常に見える位置に必ず置いていました。
しかし、本日の大移動により、
カルヴァンは16世紀に生きた「過去の人」で、つまり「歴史神学」の研究対象であるということで、
「壁の向こう」にある歴史神学コーナーへとおいやられてしまいました。
しかし、正直に言いますと、
カルヴァン先生の視線から解放されて、ほっと安堵しています。
まあ、みんなカルヴァン先生の(不肖の)後継者ですけどね。
學生時代の思ひ出
講義名は忘れましたが、
『宗教の神学』(ヨルダン社、1985年)を出版なさった直後である、
ということだけは、よく覚えています。
当時の肩書きは、なんでしたっけ、
たぶん「国際基督教大学教会牧師、宗教部長、教授」くらいですかね、
そういうお立場で、
ご自身の母校でもある東京神学大学で、
ぼくらを相手に講義してくださったときの
毎回うれしそうなお顔を、今でも忘れることができません。
今からだいたい30年前ということですよね、
なんだか大昔のことになりました。
その講義の中で繰り返し強調されていたことは、
「戦前にバルト、バルトと言っていた日本の牧師や神学者たちが、
戦争が始まりそうになった途端、
口をつぐんでしまい、戦争協力にひた走った」ということです。
「あんな人たちはインチキなんだよ」と、おっしゃっていました。
今のぼくらの眼前の光景は、どうなんでしょうね。
ぼくは、自分が卒業した学校から
本当に「卒業」してしまう人間であるということを
改めて昨日、強く自覚しました。
学校なんかにいつまでも縛られて生きていきたいとは思わないもの。
同窓会とかまっぴら。
幼稚園から大学まで、そういうのに出たことないです。
あ、ちょっと脱線しました。
今が「戦前」だとは考えたくないです。
そんなこと、考えたいわけないじゃん。
イヤです、ありえねえ。これからも戦争しない国でいてください日本。
だけど、いよいよ変な感じになってきました。
それはぼくだけの個人的で特殊で異常な感覚じゃないと思う。
かなり多くの人と共有できている感覚だと思う。
だけど、もう「口つぐんでる」んじゃないかなという雰囲気を感じるのは、
ぼくの気のせいでしょうか、
「バルト、バルトと言っていた」人たち。
ぼくの恩師に喝破してもらいたいです、
「あんな人たちはインチキなんだよ」ってね。
ま、「ぼくの気のせい」ということにしておきますね、とりあえず。
ぼくは「カール・バルト研究会」やってますけどね、
バルトの神学には批判的です。「批判的カール・バルト研究会」です。
でも、彼の行動は尊敬しています。
尊敬したうえで、ぼくなりに見習っているつもりです。
2013年11月26日火曜日
違憲状態国会の違憲状態議員による強行採決は犯罪だ
違憲状態国会の違憲状態議員による強行採決は犯罪だ。
司法がんばれ。東京地検特捜部がんばれ。
法の精神を守れるのは、あなたたちだけだ。
まして特定秘密保護法案だ。
違法国会の違法採決で成立した法で、違法政府の秘密をすべて隠せてしまう。
そんな法案の強行採決などしてしまえば、この国はその日から無政府状態だ。
そういうことができてしまうなら、
その政府とその法案に賛成した国会議員を、心底から軽蔑する。
司法がんばれ。東京地検特捜部がんばれ。
法の精神を守れるのは、あなたたちだけだ。
まして特定秘密保護法案だ。
違法国会の違法採決で成立した法で、違法政府の秘密をすべて隠せてしまう。
そんな法案の強行採決などしてしまえば、この国はその日から無政府状態だ。
そういうことができてしまうなら、
その政府とその法案に賛成した国会議員を、心底から軽蔑する。
この本はぼくの宝物です(読めないけど)
今日は疲れちゃいましたので、そろそろ休みます。
今日の最後にオタク的なコレクション紹介。
レオンハルト・ラガツ著
『神の国のための戦い ブルームハルト父子、そしてもっと先へ!』
(初版1922年、第二版1925年)
「こんな本を持ってるぜぇ」と見せびらかしたいだけです。
ぼくはドイツ語は苦手ですので。
今日の最後にオタク的なコレクション紹介。
レオンハルト・ラガツ著
『神の国のための戦い ブルームハルト父子、そしてもっと先へ!』
(初版1922年、第二版1925年)
「こんな本を持ってるぜぇ」と見せびらかしたいだけです。
ぼくはドイツ語は苦手ですので。
2013年11月25日月曜日
実践神学概論の参考書
神学の第四部門としての「実践神学」の一教科としての「実践神学概論」に該当する文献で
ぼくが持っているのは、この写真に写っている本です。
8冊ありますが、翻訳本を含んでいる8冊ですので、実際には5冊です。
左から
ロスカム・アビンク『神学諸科解題』
『実践神学 ロスカム・アビンク教授退任記念論集』
ヘイティンク『実践神学』(オランダ語版、英語版)
ブラウニング『基礎的実践神学』
イミンク『信仰論』(オランダ語版、英語版、日本語版)
ロスカム・アビンク教授(1914-1996)はフローニンゲン大学で教えました。
ヘイティンク教授(1938-)はアムステルダム自由大学で教えました。
ブラウニング教授(1934-2010)はシカゴ大学で教えました。
イミンク教授(1951-)は現在プロテスタント神学大学の学長です。
それぞれの実践神学概論に、その著者独特の文体や論調があり、個性の強さを感じます。
強いて言えば、論理的に最も整理されているのは、ヘイティンク先生の『実践神学』だと思います。
ぼくが持っているのは、この写真に写っている本です。
8冊ありますが、翻訳本を含んでいる8冊ですので、実際には5冊です。
左から
ロスカム・アビンク『神学諸科解題』
『実践神学 ロスカム・アビンク教授退任記念論集』
ヘイティンク『実践神学』(オランダ語版、英語版)
ブラウニング『基礎的実践神学』
イミンク『信仰論』(オランダ語版、英語版、日本語版)
ロスカム・アビンク教授(1914-1996)はフローニンゲン大学で教えました。
ヘイティンク教授(1938-)はアムステルダム自由大学で教えました。
ブラウニング教授(1934-2010)はシカゴ大学で教えました。
イミンク教授(1951-)は現在プロテスタント神学大学の学長です。
それぞれの実践神学概論に、その著者独特の文体や論調があり、個性の強さを感じます。
強いて言えば、論理的に最も整理されているのは、ヘイティンク先生の『実践神学』だと思います。
登録:
コメント (Atom)













