2013年11月28日木曜日

ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由

言い訳は見苦しいかぎりですが、

ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由。

ファン・ルーラーは深い人なんです。

徹底的にどこまでも掘り下げようとする人です。

そのファン・ルーラー先生にすっかり触発されて、

ぼくまで掘り下げたくなってしまうんです。

書き方がけっこうアフォリズムで、

短くて鋭い言葉をパッパッパッと提示していくところは読むたびにうなるのですが、

説明も注釈もなしにパッパッパッとテンポよく来るもんだから、

日本人読者、というのはぼくのことですが、ぜんっぜん分かんないことだらけなんです。

とくに歴史上の人名とか、過去の神学概念。

それが注釈なしに出てくるもんですから、イチイチ調べなくちゃならない。

調べなくちゃならないって言っても、ぼくも怠慢なのが悪いんですが、

いろんな図書館を探し回るほどの機動力があればいいんですが、

それよりもネットで探して買っちゃう。

だけど、お金もかかるし、外国の書店から本が届くまでに時間がかかる。

今は子どもたちの教育費にお金がかかる時期なので、新しい本は全く買えない。


たとえば、この写真の本ですが、

左から

コクツェーユス『契約論』(現代オランダ語版)
ファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)
『リュースブルク全集』全四巻
ファン・ニーウェンホーフェ『リュースブルク研究』
シュレーダー『ファン・ローデンステイン研究』
ファン・ヘンデレン他編『第二次宗教改革研究』

みたいなものを集めてきましたが、これらの本は、

ファン・ルーラーの論文の中に「コクツェーユスは」とか「リュースブルクによると」とか「ファン・ローデンステインの言葉で言えば」とか「第二次宗教改革」の話がパッパッパッと出てくるので、

仕方なく購入したものです。

だって、訳書だって責任は重大ですよね。

訳者には意味も内容も分からないけど原著者が書いているから、そのまま「横のものを縦にしました」というわけには行かない。

ぼくは自分のブログには「そんなの知らねーよ」くらいの乱暴な言葉はいくらでも書いてきましたが、

もし将来、自分の訳した本が出版される日が来て、それを買ってくださる方がいて、その方から質問を受けたときに「そんなの知らねーよ」とお答えしたりは、ぜったいしません。そんな感じになるくらいだったら、出版しないほうがいいんです。

だけど、コクツェーユスも、リュースブルクも、ファン・ローデンステインも、第二次宗教改革も、一つ一つがものすごく深い思想世界を持っていますので、

そこにも引き込まれながら、それでもなお「本題の」ファン・ルーラーにぼくの集中力を戻していくというのが一苦労なんです。

たとえば、ぼくが持っている『リュースブルク全集』(写真中央の四巻本)は、とても美しい状態で保存されていた古書なのですが、

それは1940年代に出版された古い全集だったことが購入後に分かり(だから購入を後悔しているという話ではありません)、

今ではもっと新しい全集が出版されている、とか、

そういう情報を得ると、ファン・ルーラーとは全く無関係の問題なのですが、それはそれで興味がわいてきますし。

左から二番目のファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)についても、

この本の原著オランダ語版の原題はAmicitia Deiというのですが、

このラテン語の読み方をぼくらはアミキティア・デイだと思っていたら、

5年前に石原知弘先生と一緒にファン・アッセルト先生ご自身から「いやいや、その発音はアミシティア・デイだ」と教えていただいたり。

それで、また調べ直したら、同じラテン語でもキリスト教用語限定の発音方法があり、その場合はciはキではなくシだということが分かるとか。

もう、それはそれで面白くて仕方ないのですが、「本題の」ファン・ルーラーはそっちのけになってしまいます。

出版関係の方々にとっては、ぼくのような人間のすることは、利益には全くつながらないものなので、もうどうしようもないですね。

ぼくはスピードとか成功とか成果とか、そういうものとは全く無縁な人生です。マッドですね。松戸のマッド。

2013年11月27日水曜日

ぼくは「ブロガー牧師」ではありません

ぼくの管理しているブログの投稿数は、時々チェックしています。 

すべてぼくの自筆です(自筆って日本語で間違ってないですよね)。 

ぼくの管理しているブログの投稿数(2013年11月27日現在)

関口 康 日記          投稿: 1020 件
今週の説教           投稿: 210 件
超訳聖書             投稿: 3 件
カール・バルト研究会     投稿: 17 件
ファン・ルーラー著作集草稿 投稿: 20 件

だそうです。合計: 1270件ですね。我ながら呆れます。

投稿ごとに長短がありますが、平均の長さはどれくらいでしょうかね、全く見当つきませんが。 

完全に当てずっぽうですが、

昔ながらの400字詰め原稿用紙4、5枚にはなるんじゃないでしょうか。

40字×40行にフォーマットしたA4判用紙1枚程度。 

あれってA5判の本の2ページ分てことでしょ、雑に計算すれば。 

だったらぼくはもう、2540ページくらいの本を書いた計算になるのかな(ならないよ!)。

ぼくの「視野」からカルヴァン先生がいなくなりました


今日の午後、一時間ほどかけて、牧師室(書斎)の本棚の整理をしていました。

字で説明するのは難しいのですが、牧師室は「コ」の字型になっていて、

「コ」の字の上の横棒に「デスクと応接室」があり、

「コ」の字の縦棒と下の横棒に逆L字形に「本棚」があるという構造になっているため(この説明で分かります?)

「デスクと応接室」の側から見える本棚は、ほんの一部分だけです。

それで工夫を要するのは、「デスクと応接室」の側から見える部分、つまり、デスクで仕事中の「視野」にどんな本を置くか、です。

これまでも、いくつかのパターンがありました。しかし、今日の整理の目的は、はっきりしていました。

それは、デスクで仕事中の「視野」を「組織神学」の本で埋め尽くすことでした。

その代わりに犠牲になったのがカルヴァンです。

これまでは、さすがにカルヴァンは外せないでしょうと、常に見える位置に必ず置いていました。

しかし、本日の大移動により、

カルヴァンは16世紀に生きた「過去の人」で、つまり「歴史神学」の研究対象であるということで、

「壁の向こう」にある歴史神学コーナーへとおいやられてしまいました。

しかし、正直に言いますと、

カルヴァン先生の視線から解放されて、ほっと安堵しています。

まあ、みんなカルヴァン先生の(不肖の)後継者ですけどね。

學生時代の思ひ出


講義名は忘れましたが、

『宗教の神学』(ヨルダン社、1985年)を出版なさった直後である、

ということだけは、よく覚えています。

当時の肩書きは、なんでしたっけ、

たぶん「国際基督教大学教会牧師、宗教部長、教授」くらいですかね、

そういうお立場で、

ご自身の母校でもある東京神学大学で、

ぼくらを相手に講義してくださったときの

毎回うれしそうなお顔を、今でも忘れることができません。

今からだいたい30年前ということですよね、

なんだか大昔のことになりました。

その講義の中で繰り返し強調されていたことは、

「戦前にバルト、バルトと言っていた日本の牧師や神学者たちが、

戦争が始まりそうになった途端、

口をつぐんでしまい、戦争協力にひた走った」ということです。

「あんな人たちはインチキなんだよ」と、おっしゃっていました。

今のぼくらの眼前の光景は、どうなんでしょうね。

ぼくは、自分が卒業した学校から

本当に「卒業」してしまう人間であるということを

改めて昨日、強く自覚しました。

学校なんかにいつまでも縛られて生きていきたいとは思わないもの。

同窓会とかまっぴら。

幼稚園から大学まで、そういうのに出たことないです。

あ、ちょっと脱線しました。

今が「戦前」だとは考えたくないです。

そんなこと、考えたいわけないじゃん。

イヤです、ありえねえ。これからも戦争しない国でいてください日本。

だけど、いよいよ変な感じになってきました。

それはぼくだけの個人的で特殊で異常な感覚じゃないと思う。

かなり多くの人と共有できている感覚だと思う。

だけど、もう「口つぐんでる」んじゃないかなという雰囲気を感じるのは、

ぼくの気のせいでしょうか、

「バルト、バルトと言っていた」人たち。

ぼくの恩師に喝破してもらいたいです、

「あんな人たちはインチキなんだよ」ってね。

ま、「ぼくの気のせい」ということにしておきますね、とりあえず。

ぼくは「カール・バルト研究会」やってますけどね、

バルトの神学には批判的です。「批判的カール・バルト研究会」です。

でも、彼の行動は尊敬しています。

尊敬したうえで、ぼくなりに見習っているつもりです。

2013年11月26日火曜日

違憲状態国会の違憲状態議員による強行採決は犯罪だ

違憲状態国会の違憲状態議員による強行採決は犯罪だ。

司法がんばれ。東京地検特捜部がんばれ。

法の精神を守れるのは、あなたたちだけだ。

まして特定秘密保護法案だ。

違法国会の違法採決で成立した法で、違法政府の秘密をすべて隠せてしまう。

そんな法案の強行採決などしてしまえば、この国はその日から無政府状態だ。

そういうことができてしまうなら、

その政府とその法案に賛成した国会議員を、心底から軽蔑する。

この本はぼくの宝物です(読めないけど)

今日は疲れちゃいましたので、そろそろ休みます。

今日の最後にオタク的なコレクション紹介。


レオンハルト・ラガツ著
『神の国のための戦い ブルームハルト父子、そしてもっと先へ!』
(初版1922年、第二版1925年)

「こんな本を持ってるぜぇ」と見せびらかしたいだけです。

ぼくはドイツ語は苦手ですので。

2013年11月25日月曜日

実践神学概論の参考書

神学の第四部門としての「実践神学」の一教科としての「実践神学概論」に該当する文献で

ぼくが持っているのは、この写真に写っている本です。


8冊ありますが、翻訳本を含んでいる8冊ですので、実際には5冊です。

左から

ロスカム・アビンク『神学諸科解題』
『実践神学 ロスカム・アビンク教授退任記念論集』
ヘイティンク『実践神学』(オランダ語版、英語版)
ブラウニング『基礎的実践神学』
イミンク『信仰論』(オランダ語版、英語版、日本語版)

ロスカム・アビンク教授(1914-1996)はフローニンゲン大学で教えました。

ヘイティンク教授(1938-)はアムステルダム自由大学で教えました。

ブラウニング教授(1934-2010)はシカゴ大学で教えました。

イミンク教授(1951-)は現在プロテスタント神学大学の学長です。

それぞれの実践神学概論に、その著者独特の文体や論調があり、個性の強さを感じます。

強いて言えば、論理的に最も整理されているのは、ヘイティンク先生の『実践神学』だと思います。

聖書コーナーです


あくまでも相対的な話ですが、

オランダ語の教義学の本の話よりは、もう少し共感を得られやすい写真を公開します。

「聖書コーナー」です。

カイパーとバーフィンクの本です


本棚の話題は反応が温かいので、もう少し続けます。

この写真に写っている範囲内にあるのが、

「アムステルダム自由大学」を設立したカイパーと、

カイパーの同僚バーフィンクの本です。

ぼくが持っているカイパーの本は、

左から

『一般恩恵論』全3巻(オランダ語)
『天使論』(オランダ語)
『聖霊論』(英語版)
『カルヴァン主義』(オランダ語版、英語版、日本語版)

などです。

カイパーについて書かれた本(伝記、思想)もあります。

真ん中の黒っぽい四巻本から始まり、その右にあるのが

バーフィンクの本です。

その四巻本が『改革派教義学』(オランダ語)です。

その右側に、同書の英語版を並べています。

あとは

『啓示の哲学』(オランダ語版、日本語版)
『改革派組織神学』(日本語版、原題『神の偉大さ』)
『賛美の供えもの』(オランダ語版)

です。バーフィンクの伝記や研究書もあります。

2013年11月24日日曜日

惜しみなく分け与えなさい

テモテへの手紙一6・17~21

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」

いまお読みしました個所も「聖書はすごい」と思わされるところです。二千年も前に書かれたものなのに、まるで今のわたしたちの状況を手に取るように見ているかのようなことが書かれています。

今は深刻な格差社会です。アメリカで年収が上がっている人は上位1%だけだそうです。100人に1人は右肩上がりの裕福な生活をしているのかもしれませんが、99人はそうではないのです。日本も今すでに、ほとんど同じ状況ではないかと思います。

1%の人になるための競争を、早い人は幼稚園の頃から始めています。負けないように、蹴落とされないように、必死でがんばっています。がんばることが悪いと言いたいのではありません。しかし、お金は天下の回りものだと、昔から言われてきたではありませんか。ある人の分が多ければ、他の人の分は少なくなるのです。

今の日本の経済政策はお札をたくさん印刷してお金を増やし、それで経済を活性化することだそうですが、それはただのごまかしです。いま本当にしなければならないことは、上位1%の人たちの年収を守ることではなく、99%の人々になるべく公平に配分することです。

みんなが完全に等分に分ければよいというような単純な話ではありません。しかし、持っている人が持っていない人に対して「あの人たちは頑張らなかったからこうなったのだ。自業自得なのだ」とだけ言って済ますことはできません。そちらのほうも単純な話ではないのです。

しかし、そのように単純に考え、実際にそのような言葉を口にし、持っていない人を見くだし、傷つける。まさにそれが、今日の聖書の個所で言われている、この世で富んでいる人が陥る「高慢」の意味だと思います。

「不確かな富に望みを置くのではなく」と書かれています。「富」はたしかに「不確かな」ものです。株をなさる方々は、株の価値は秒単位で変動しているものであることをご存じでしょう。悪口を言いたいわけではありませんが、株で利益を得ようと思うことは、賭博をするのと変わりません。会社で無理やり株を買わされている方々も多くおられると思うので、本当にこれは悪口で言っていることではありません。ただ、株の運命そのものは、一寸先は闇です。これは悪口ではなく事実です。

株も投資も非常に危険なものです。賭博は論外中の論外です。人より多くのお金を持つことが悪いわけではありません。しかし、大切なことは、いかに人より多くのお金を持つかではなく、そのお金で何をするかです。人それぞれの生き方や価値観をとやかく言うと叱られますので、そういうことはしないでおきます。そこから先は、自分の頭と心で考えてくださいとしか言いようがありません。

今申し上げていることは、教会の皆さんに申し上げていることではありません。教会の皆さんはよく分かっておられる、あえて言う必要がないことばかりです。多くの財産を手にすることが悪いわけではありません。しかし、厳粛な事実は、それらはすべて、いつまでも自分のものであり続けるわけではないということです。わたしたちの命には必ず終わりの日が来るからです。そのときには、誰かに手渡さなければなりません。

しかし、それを誰に手渡すのでしょうか。わたしたちは10月に、キリスト教葬儀社の方に来ていただいて「遺言セミナー」をしました。講師の方から「遺言をちゃんと書いてください」と教えられました。何も書かなければ、法律に基づいて、自動的に財産分与がなされます。それでも構いません。しかし、世のため、人のために遺す分はないのでしょうか。あるいは、神さまのため、信仰のために遺す分は。

こういう話をしますと「おやおや、牧師が信者に金銭を要求しているぞ」というような話になってしまいかねないので、私は本当はこんなことをあんまり言いたくないのです。しかし、教会は非営利団体です。皆さんの献金、あるいは寄進のみによって支えられている存在です。それ以外にどうすることもできません。皆さんの生活に負担をおかけしようなどという気持ちは全くありません。しかし、教会「も」助けていただきたいのです。今はこのようなことを真剣にお願いしなくてはならない状況でもあります。

長男が中学に入ったときからですから、もうかれこれ7年前からということになります。妻が仕事をするようになりましたので、私が家事をするようになりました。結婚して22年になりますが、最初の15年間は、私は家事を全くしませんでした。だから、今はお詫びのような気持ちでやっています。ほとんど毎日買い物に出かけ、妻が留守の日はごはんを作り、皿を洗い、洗濯し、掃除し、朝はゴミ出ししています。

偉そうに言うつもりはありません。当たり前のことなのです。それを15年間も全くしたことがなかったことのほうが問題です。妻には本当に申し訳ないことをしました。

自分で家事をするようになって、「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置く」(17節)という御言葉の意味が沁みるように分かります。高級な食材を使えば美味しい料理ができるのは当たり前です。私が追求しているのは、いかに安い食材で美味しい料理を作れるかです。お肉や野菜の安売りの日は何曜日かというようなことも、だんだん分かってきました。そういうことを全く知らないで生きてきたことのほうが問題です。大失敗です。

「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」の意味は、「わたしたちに高級なものをいつもくださり、贅沢な生活をさせてもらえる神」ということではないと思うのです。そういうのは全く正反対です。楽しくありませんし、実は豊かでもありません。いろいろと自分で考える必要がないからです。

私は今、楽しくて仕方がないです。自分でいろいろなことができるようになりました。ありがたいことです。遅ればせながら、毎日の家事に人生の喜びを見いだしている今日この頃である、ということを、この機会にお話ししておきます。

(2013年11月24日、松戸小金原教会主日夕拝)