2013年10月5日土曜日

再会の日を楽しみにしていてください

みなさん、ありがとうございます。

「自主規制」の理由は、書いたとおりです。

「ぼくにとってのネット活動が一円の収入にもつながらないこと」

が理由なので、その問題の解決策を探るための休止です。

早い話、

「収入につながるようなネット活動」をめざします。

「関口康 ステマ化計画」です。

それが何を意味するのかは、再会後のお楽しみ、ということで。

ワルイ話でもクライ話でもありませんので、

そのことだけは、どうかご信頼ください。

ぼくひとりなら、飲まず食わずでも言論活動続けられるんですけどね。

修学期の最終段階を目前にした子どもたちを前にすると、

そうも行かなくなりました。

それも、あと数年で過ぎ去る(子どもたちの修学期と共に終わる)

ごくわずかな一過性のことなのですけどね。

そして、(なるべくポジティヴな語調で書いておきますが!)

ぼくらが味わっている苦労は、

ぼくだけのことではなく、牧師だけのことでもなく、

おそらくは現在と将来の多くの家庭にとっての大問題でもある

と思っています。

なので、

この時期をぼくらが何とかして乗り越えることができたなら、

今度は

ぼくらが「これから苦労する方々」を物心両面で助け、支える側に回ることができる

と信じています。

苦労の中で、いろんなノウハウを身につけていますからね。

「最強の牧師」としてカムバックしますよ(たぶんね)。

みなさんのご多幸をお祈りしています。それでは、また。

2013年10月5日

関口 康

2013年10月4日金曜日

謹告

がっかりさせてしまうかもしれませんが、やっぱりお伝えしておきます。

まだこれからどうなるかは分かりませんが、

年末くらいまでを一応のめどにして、ネット活動を自主規制してみます。

ぼくにとってのネット活動が一円の収入にもつながらないことが理由です。

牧師のくせにお金のことなど問題にしたくはないのですが、

子どもたちの教育費に死ぬほどお金がかかる時代に

牧師として召され、かつ家族がいることを、後悔したくはないのです。

「ネットをやめたら収入が増えるのか」と問われると答えに窮しますが、

「試しにやめてみる」というくらいの意味です。

パソコンは仕事に使いますので、メールのやりとりは続けますし、

「カール・バルト研究会」も続けます。

しかし、「楽しいやりとり」は禁欲します。

お聞き苦しいことばかりですが、どうかお許しください。

2013年10月3日木曜日

日記「トンバルデンィヴの『論概學哲』にプチ興奮しています」


学生時代に購入し、読まずに放置していた岩波文庫をパソコンで拡大して読んだら、けっこう面白い内容であることが分かり、プチ興奮しているところです。

トンバルデンィヴの『論概學哲』の部一第(と表紙に書いているのだ)です。初版が1936年(昭和11年)の岩波文庫版です。速水敬二、高桑純夫、山本光雄訳です。

以下、「序論」の中から引用します。ただし、漢字や仮名を新しくしたり、文章表現を現代的なものに変えました。また、読みやすく改行を多くしたり、句読点の位置や数を変えたりしました。

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ヴィンデルバント『哲学概論』序論より

事実、この意味で難解なのは哲学ではなくて、学校臭味を洗い落して周囲の生きた思索と自由に接触し得ないような、どこか欠陥のある著者としての哲学者たちであろう。

彼らの晦渋も、ある意味では言い逃れの立たぬものではない。彼らが、それ自体としては断じて抗議される言われのない権利や要求をしばしば用いすぎたのは確かである。

言うまでもなく、学的に形成された概念を日常生活の不正確な表現や俗語から区別するために、それに独自の名称を与え、これによってできるだけ混同や乱用を防ぐことは、場合によっては必要である。

そしてこの目的のためには、経験が教えるように、また心理学で容易に説明しうるごとく、死語から取られた外来語が最も適している。けだし、これらの語は、何か独立なかつ自分のうちに固定したものとして、現代の言葉の流れから明瞭に区別されるからである。

我々はかかる術語をつくることを科学者、解剖学者、生物学者等々には常に何の躊躇もなく許している。しかるに、このことは哲学者にはとかく禁じられがちで、哲学者がこの権利を用いすぎれば、快くは思われない。

このことは哲学から見れば不都合ではあるが、善く考えれば気持ちの悪いことではない。なぜというに、哲学者の取り扱う事物が誰にでも関係をもち、従ってまた誰もが近づきうるものであり、またそうならなくてはならないし、このためにはまた誰にでもただちに理解される言葉で言い表されなくてはならぬ、という考えがそこに現れているからである。

ただし、この考えは全く正しいものとは言えない。むしろ哲学に対してこそ、まさにそれが常識になじまれた事物を取り扱うという理由で、この考えを与えられたままの粗雑、不正確から学問上使用できる概念にまで改造するという全く特別な課題が存するのである。

ゆえに哲学にとっては、自らの労作の成果に哲学製というスタンプを押すことは常に権利であり義務であろう。ただし哲学概論にはこの実際上通用していない術語への手引きという課題が同時に生じてくる。

ところで、術語の最も深い音色は、それの根底をなすモチーフを生ぜしめた問題を熟考してのみ始めて理解される。ゆえにこの概論においてぜひなされるべきは、この問題やそれの学的取り扱いに精通することこれである。

ただし、これがためには特別な前提や才能は必要でなく、ただ根気強い自己訓練と真面目な思索があればよい。そしていかなる場合にも一つのこと、すなわちあらゆる先入見を放棄することが絶対に必要である。

自分自身ですでに考えておいたことを哲学から聞かんと要求し、あるいは単に期待するごとき人には今さら哲学の研究でもあるまい。従ってすでに一つの世界観をもち、かついかなる場合にもあくまでそれを信じていこうと決心した者は己が身のために哲学を全然必要としない。換言すれば、彼にとって哲学は、信じている上に実際証明されたという名誉が与えられる贅沢を意味するにすぎない。

この関係は、それが通例適用されがちな宗教上の独断的意見についてのみ言われることではない。むしろ、特に指摘しなければならぬことだが、日常の世界観や人生観のうちにすでに流布しているものに哲学で再会しようと思っている多数の人々の前提について何よりもまず主張されうる。

「この人は正しい。これは私がいつも主張してきたところだ」というようなことを口にするかの大衆の人気を博するのはもとより容易であるが、ただし、実際決して名誉ではない。これはたとえば、詩人の言うように、公衆の口に合う雑炊である。

およそ哲学を真面目にやろうとするほどの者は、哲学の光で世界や人生が今まで見えていたとは別な姿になることを覚悟しなければならぬ。必要な場合には、哲学に入門したとき持っていた前提を犠牲に供する心構えがなくてはならないのである。

2013年10月2日水曜日

コレコレ、みなさん、「教会の高齢化」を嘆くでない

ぼくが教会の中の具体的な話を書き始めると、

特定のだれそれさんの話だと分かってしまうので、

そういうことは書かないのですが、

まあ、べつに悪い意味で書くわけではないので、

ちょっとだけ許してくださいね。

70歳になって洗礼を受けてまもなく10年経つ方が

「若い人、教会来ないですね」と、よくつぶやかれるのです。

ぼくの父と同い年(1933年生まれ)の方です。

そのときぼくは、

反論のような意味では全くないのですが、

「○○さん(その方)も70歳まで教会来られませんでしたよね?」

と笑いながら言うことにしています。

ぼくは、教会は「一生もの」だと思っていますので、

一生のうちの、どの時点かで教会に深くかかわる時期と、

ちょっと遠ざかってしまう時期とあることは、

ある程度やむをえないことだと、考えています。

一生の間、全く同じテンションで教会に通い続けることができる人は、

「一人もいない」とは言いませんが、たぶん少ないです。

ぼくが松戸小金原教会に来て来年3月でちょうど10年になるのですが、

この10年間で洗礼を受けてくださった方の

多く(「ほとんど」と言っても過言ではない)が、

70歳以上の方です。

それが悪いなんてことは、ありえないです。

コレコレ、みなさん、

「教会の高齢化」を嘆くでない。

ぼくはポジティブですよ。

ウェルカム、アラセブ、アラエイティ、アラナイのみなさん\(^o^)/

日常の中で己が「職人芸」を見いだす(何を大げさな)


日本ヘルダー学会紀要『ヘルダー研究』第18号(2013年)を、

論文を執筆なさった先生からお贈りいただきましたので、

いまお礼のメールを書いていました。

メールですので、字数などを考えないで書きましたが、

3時間ほどかけて書き終えて(偉い先生宛てのメールを書くのは緊張します)、

それを送信したあと字数を数えてみたら、

毎週の礼拝説教原稿のフォーマット(A4判コピー用紙で40字×40行)の、

ピッタリ1頁分でした。

よく、学校の教員を長年続けておられる方々が、

一コマの講義の長さ(たとえば90分)が、カラダで分かるとおっしゃいますよね。

ぼくも何年か前から、毎週の週報を印刷するとき、

ぱっとつかんだ用紙の枚数が、

印刷すべき枚数(たとえば80枚なり100枚なり)とピッタリ、ということが

けっこう増えてきました。

ちょっとエラそうな言い方をお許しいただけば、

こういうのを「職人芸」と言うんですよね。

まだまだ修行が足りませんけどね。

2013年9月28日土曜日

半沢直樹と「キリスト教的なるものへの懐疑」などは全く無関係です

「半沢直樹と調達購買について」 坂口 孝則(未来調達研究所株式会社 取締役)

http://www.insightnow.jp/article/7913

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番組を観ないで書いているとは思いませんが、

適当にでっち上げた文章だなと思います(上記リンク先参照)。

半沢直樹をそれほどじっくり観なくても、あの番組の高視聴率と、

この人が「見てとった」らしき「キリスト教的なるものへの懐疑」などは

全く無関係だということが分かったと思います。

前にも書きましたが、

半沢直樹はたしかにやられたらやり返したと思いますし、

倍返しをしたと思いますけど、

「同害報復」はしていません。

憎い相手に対して、指一本触れていないです(少なくともテレビでは)。

指一本触れずに、悪いやつらを倒しただけです。

それは視聴者にも分かったと思う。観てない人たちのことは分かりませんけど。

今のブームが「キリスト教的なるものへの懐疑」に見えるなら、

この人の「キリスト教」の理解は、よほど幼稚なものとしか思えないです。

放置しても構わなかったのですが、

半沢直樹の名誉のために、反論。

ぼくは半沢の姿に使徒パウロに近いものを感じました。

権力に立ち向かうにも「根拠」と「論理」が必要です。

徒党を組んでワーワー言うだけじゃダメなんだ。

逆に、「根拠」と「論理」さえあれば、

プレゼンの仕方次第で、少人数でも悪をきっちり倒せますよ。

ただし、自分も「出向」ですけどね。

「第16回 カール・バルト研究会」報告


本日(2013年9月27日金曜日)午後9時から11時30分まで、「第16回 カール・バルト研究会」をグーグルプラス・ハングアウトで行いました。

本日の参加者は以下の5名でした(五十音順、敬称は略させていただきます)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
齋藤 篤(ドイツ・ケルン市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道札幌市に出張中)

ホントに楽しく有意義な読書会でした。

ありがとうございました。

室井さんは上でがんばってください

このたび「関口 康 履歴書(2013年9月28日現在)」をまとめながら

改めて実感したことは、

やっぱりぼくはどこまで行っても青島くんであり、和久さんなのであって、

室井さんじゃないということです。

「ドブネズミみたいに美しく」(ぼくの中学の先輩の甲本ヒロトたんの歌の歌詞)もないけど、

手数で稼ぐ人間の限界は、とうの昔から自覚しています。

象牙の塔で、書斎の中で、抽象的な学問に没頭することを非難する声は大昔から絶えませんが、

そういうのはドブネズミのルサンチマンみたいなもので、

ならやってみろよ(できるものなら)と、

ぼくはやったこともなったこともないけど、象牙の塔の住人の方々の代わりに言いたいですよ。

「正しいことをしたけりゃ偉くなれ」は、16年前からの座右の銘です。

室井さんは上でがんばってください。おれたちは現場でがんばりますので。

「第16回 カール・バルト研究会」を行いました!


本日(2013年9月27日金曜日)午後9時から11時30分まで、「第16回 カール・バルト研究会」をグーグルプラス・ハングアウトで行いました。

本日の参加者は以下の5名でした(五十音順、敬称は略させていただきます)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
齋藤 篤(ドイツ・ケルン市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道札幌市に出張中)

ホントに楽しく有意義な読書会でした。

ありがとうございました。

2013年9月27日金曜日

『三島由紀夫全集』の思ひ出

過去のローカルな話ですが、

中学も高校も、自宅から10キロほど離れた学校に自転車で通っていたので、

行きはともかく、帰りはほぼ毎日、どこかに寄り道していました。

でも、実際の行き先が、中高生ごときにそんなにたくさんあるわけではない。

友人宅でしゃべるか、そうでなければ本屋かあるいは公立の図書館に行くか、

ほとんどそのどちらかでした。

本屋も次第にラップで包んだりして立ち読みをさせてもらえないようになり、

そうなるともう、ある意味で必然的・消去法的に

長時間とどまって「休憩」できる場所は、公立の図書館しかない、

という状況に追い込まれていきました。

冒険するタイプではないので、

学校と自宅を結ぶ直線から遠く離れたところまで飛び出していく勇気はない。

実際の行き先は、(以下すべて「岡山市立」)

中央図書館、幸町図書館、浦安総合公園図書館のどれかでした。

それはまさに、ぼくにとっては「帰路の休憩所」以上でも、それ以下でもありませんでした。

今さら文句を言いたいわけではないんですが、

「知的好奇心」を刺激してやまないキラキラ輝く本が立ち並んでいたわけではないです。

ぼく的には、本を読んでいるふりして休憩させてもらっているだけでしたので、

なるべく見た目が格好いい装丁の本を選ぶ傾向がありました。

そういうのをデンと机の上に置き、読むというより眺めているのが好きでした。

そういう「偽装用アイテム」として、ぼくがよく使わせてもらったのは、

『三島由紀夫全集』でしたね。

字をおっかけても全く頭に入らないし、興味もわかないんですけどね。

司書さんの目からはどんなふうに見えてたんでしょうね。

毎日のように汗だくで図書館に駆け込み、『三島由紀夫全集』を耽読している高校生。

思い出すだけで笑えますね。

つまらない話ですいません。