「新約聖書は旧約聖書の巻末語句小辞典にすぎない」
「終末においてイエス・キリストは受肉を解消する」
「共産主義はキリスト教よりもブルジョア的である」
どれも60年くらい前(1950年代~60年代)のファン・ルーラーの発言です。
失言や軽口やジョークではありません。
用意周到に、神学的に徹底的な熟考を経たうえで語られたものでした。
しかし、当時はずいぶん叩かれたようです。
まあ、仕方ないですね。
彼はもちろんこれらのことを意図があって言っています。
ある特定の言説に対する明確な批判をこめて、これらの命題を主張しました。
60年前のオランダにインターネットがあったら、
ファン・ルーラーのブログやツイッターは
しょっちゅう「炎上」していたことでしょう。
最近は「炎上ビジネス」というのもありますね。
でも、ファン・ルーラーは、その種の悪どい仕掛け人ではありませんでした。
1970年12月に62歳で亡くなりました。生前は神学者としては孤立無援でした。
でも、今は違います。
今では、オランダでは20世紀の「三大」神学者の一人と呼ばれています。
「炎上」や孤立を恐れず、真理を追い求め、揺るがなかったからではないか。
ぼくはこういう人を尊敬します。オランダにかぶれているのではありません。
2013年6月10日月曜日
医薬品のインターネット販売については、全面解禁でいいと思いますよ
医薬品のインターネット販売については、全面解禁でいいと思いますよ。
一般市民としては、とにかく安きゃいいんですよ。
不況の中、どれだけ追い詰められた生活をしているか、分かってるんでしょうかね。
医者も薬局も、病院も製薬会社も、その人たちの利益を守って来た政治家たちも、もう十分すぎるほどもうけたでしょ。これ以上どれだけもうけたいんでしょうかね?
もうけてもうけて、持ってない人間を見くだして。なにが楽しいんでしょうかね。
要らない医者とか、要らない薬局とか、少し淘汰される必要もあるんじゃないでしょうかね。
そりゃおカネ持っている人は長生きするでしょうよ。手厚い医療と、手厚い看護を受けられますからね。
そういう人たちだけが特権的に生き残る社会になっていくことがお望みなら、まあ別にそれもいいんでしょうけどね。
でも、上の人たちだけが生き残った社会は、競争もっと激しくなりますよ。
「下には下がいる」とか言いながら、下の人たち見て、見くだして、慰められることなんて、無くなりますよ。
ほんと、たいへんですな、上の人たちは。
ぼくらは、早く死ねますよ。ありがたや、ありがたや。
一般市民としては、とにかく安きゃいいんですよ。
不況の中、どれだけ追い詰められた生活をしているか、分かってるんでしょうかね。
医者も薬局も、病院も製薬会社も、その人たちの利益を守って来た政治家たちも、もう十分すぎるほどもうけたでしょ。これ以上どれだけもうけたいんでしょうかね?
もうけてもうけて、持ってない人間を見くだして。なにが楽しいんでしょうかね。
要らない医者とか、要らない薬局とか、少し淘汰される必要もあるんじゃないでしょうかね。
そりゃおカネ持っている人は長生きするでしょうよ。手厚い医療と、手厚い看護を受けられますからね。
そういう人たちだけが特権的に生き残る社会になっていくことがお望みなら、まあ別にそれもいいんでしょうけどね。
でも、上の人たちだけが生き残った社会は、競争もっと激しくなりますよ。
「下には下がいる」とか言いながら、下の人たち見て、見くだして、慰められることなんて、無くなりますよ。
ほんと、たいへんですな、上の人たちは。
ぼくらは、早く死ねますよ。ありがたや、ありがたや。
自主オフ日は「自叙伝ツイート」
「自叙伝ツイート」と呼んでおきます。とくに脈絡はありません。
だけど、逆に言わせてもらえば、
ソーシャルで「自分のこと」を書くのを自主規制してしまうと、
書けること何が残るんだろ?と思いますけどね。
個人情報保護の観点からいえば、自分以外の人について、めったなことは書けない時代です。
唯一残るとしたら「公人の批判」かな。だけど、それだけに限定した使い方というのも味気ない。
というわけで、今日は自主オフ日です。気分はかなり逃避気味。デトックス。
自己中で申し訳ありません。
-------------------------------------------------------------
関口 康 @ysekiguchi
ぼくは相当すきま人生だと思ってきたけど、すきまの探し方に二種類あるとふと気づきました。その区別を字にするのは難しい。従来「ノーマル」とされてきた領域の外にすきまを見つける人もいるけど、ぼくはそうじゃない。月並みだけど「灯台下暗し」。陳腐すぎて誰も寄りつかないからすきまの宝庫です。
関口 康 @ysekiguchi
こういうの書くと、心理学とかやってる方には、ぼくの性格や背景などをすぐ見抜かれちゃうのかもしれませんが、ぼくは子どもの頃からほとんど常に、修学旅行とかに行くと、最後の一人が寝落ちするまで起きて話し、いちばん最後に寝るタイプでした。それが何を意味するのかは、ぼくには分かりません。
関口 康 @ysekiguchi
「根拠のない自信をもっていて、どうにもならないくらい高慢臭を放っているんだけど、生き方はヘタで行き当たりばったりな人」か、それとも「物腰ソフトなベビーフェイスで近づいてくるので軒先を貸すと戦術的・戦略的に根こそぎ母屋をもって行く人」か、どちらか選べと言われると、う~んどっちかな。
関口 康 @ysekiguchi
数ページならともかく一冊の本を翻訳するとなると、切れ目ない数週間・数か月の「作業に没頭できる時間と空間」が不可欠と痛感。毎週日曜日の説教をしている牧師は、翻訳は定期的に中断せざるをえない。両立できる人は、脳内の「メモリ」のサイズが相当大きいのでしょう。ぼくはすぐ固まっちゃいます。
関口 康 @ysekiguchi
質問を受けたのでそれに答えるべく話しはじめると、ぼくが話しはじめた途端、チラチラ時計を見る人がいる。それも一人二人ではなく、けっこういるような気がするので、質問を受けるたびに「もう答えまい」と決意する。ぼくの答え方が悪いんでしょうけど、そんなにつまんない?(汗)
だけど、逆に言わせてもらえば、
ソーシャルで「自分のこと」を書くのを自主規制してしまうと、
書けること何が残るんだろ?と思いますけどね。
個人情報保護の観点からいえば、自分以外の人について、めったなことは書けない時代です。
唯一残るとしたら「公人の批判」かな。だけど、それだけに限定した使い方というのも味気ない。
というわけで、今日は自主オフ日です。気分はかなり逃避気味。デトックス。
自己中で申し訳ありません。
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関口 康 @ysekiguchi
ぼくは相当すきま人生だと思ってきたけど、すきまの探し方に二種類あるとふと気づきました。その区別を字にするのは難しい。従来「ノーマル」とされてきた領域の外にすきまを見つける人もいるけど、ぼくはそうじゃない。月並みだけど「灯台下暗し」。陳腐すぎて誰も寄りつかないからすきまの宝庫です。
関口 康 @ysekiguchi
こういうの書くと、心理学とかやってる方には、ぼくの性格や背景などをすぐ見抜かれちゃうのかもしれませんが、ぼくは子どもの頃からほとんど常に、修学旅行とかに行くと、最後の一人が寝落ちするまで起きて話し、いちばん最後に寝るタイプでした。それが何を意味するのかは、ぼくには分かりません。
関口 康 @ysekiguchi
「根拠のない自信をもっていて、どうにもならないくらい高慢臭を放っているんだけど、生き方はヘタで行き当たりばったりな人」か、それとも「物腰ソフトなベビーフェイスで近づいてくるので軒先を貸すと戦術的・戦略的に根こそぎ母屋をもって行く人」か、どちらか選べと言われると、う~んどっちかな。
関口 康 @ysekiguchi
数ページならともかく一冊の本を翻訳するとなると、切れ目ない数週間・数か月の「作業に没頭できる時間と空間」が不可欠と痛感。毎週日曜日の説教をしている牧師は、翻訳は定期的に中断せざるをえない。両立できる人は、脳内の「メモリ」のサイズが相当大きいのでしょう。ぼくはすぐ固まっちゃいます。
関口 康 @ysekiguchi
質問を受けたのでそれに答えるべく話しはじめると、ぼくが話しはじめた途端、チラチラ時計を見る人がいる。それも一人二人ではなく、けっこういるような気がするので、質問を受けるたびに「もう答えまい」と決意する。ぼくの答え方が悪いんでしょうけど、そんなにつまんない?(汗)
2013年6月9日日曜日
世界は激しい不条理で満ちています
ローマの信徒への手紙3・1~8
「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」
今日もまたローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に書かれていることを一言でまとめるのは難しいです。まるで目の前にいる人たちと対話しているかのような書き方です。原稿などは書かないで、全くのアドリブでフリートークをしているようです。話の筋があっちに行ったりこっちに行ったりしています。
それはもちろん、一つの可能性ではあります。しかし、私だけの感想ではありません。私以外にも今日の個所にパウロが対話している姿を見出している人はいます。一つだけ証拠を挙げておきます。それは、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(1~2節)以下にパウロが書いているくだりです。
「あらゆる面からいろいろ」というのは文字通り「たくさんのこと」という意味しかありません。しかし、これが面白いことになっています。パウロは、ユダヤ人の優れた点をたくさん指摘できますと言いながら、実際に指摘しているのは一つの点だけです。「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」というこの点だけです。第二や第三の優れた点を探しても見つかりません。
たくさん言えますよ、と言いながら、一つのことしか言っていません。こういうのは、原稿として書くとまずい文章であることに気づきます。しかし、もしパウロが、原稿なしのフリートークをしていると考えることができるなら、こういう矛盾は大目に見ることができます。
本当にパウロは、ただ一つのことしか言っていません。ユダヤ人の優れた点は、彼らに神の言葉がゆだねられたことにあります。神の言葉とは聖書の言葉です。彼らには聖書があります。その証拠は、彼らが割礼を受けていることです。彼らは聖書の御言葉に基づいて割礼を受けました。これは先週の個所に書かれていたことの繰り返しです。
しかし、彼らは割礼という外見上のしるしを持っているにもかかわらず、彼らの内面において神に背いている。罪を犯している。それでパウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2・28~29)と書いたのです。
ですから、この「内面がユダヤ人であること」が「神の御言葉をゆだねられている人であること」と同じ意味になります。逆の順序で言えば、神の御言葉である聖書の教えに忠実に従って生きている人々こそ「ユダヤ人」と呼ばれるにふさわしい人々であるとパウロは言っています。しかし、現実のユダヤ人はその意味での「ユダヤ人」ではないと言っているのです。
しかし、そうしますと、その次に必ず問題になることがあることをパウロは知っています。それは、ユダヤ人に聖書の御言葉をおゆだねになった神は、彼らが神に背く者になるであろうということを、あらかじめ見抜くことがおできにならなかったのか、という問題です。つまり、責任の所在は聖書の御言葉をゆだねる相手を選び間違えられた神の側にあるのではないのか、という問いです。
そのような問いが人々の心の中に浮かんでくるということはパウロには分かっていました。そのあたりのことを取り上げているのがパウロの次の言葉です。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない」(3~4節)。
ここでパウロが「神の誠実」と言っているのは、神がユダヤ人に神の御言葉である聖書の御言葉をおゆだねになったことを指しています。神は、御自身の御言葉をおゆだねになった相手である人間を信頼されるのです。ユダヤ人なんか信じられるかと、はなから疑い、ばかにし、斜めから付き合うというようなことをなさらず、彼らをどこまでもまっすぐに見てくださり、信頼してくださり、どこまでも誠実に向き合ってくださったのです。結果的にユダヤ人は神に背いて生きる者になりました。しかし、それはユダヤ人を信頼した神のせいなのか、つまり、神が悪いのか、神がばかなのか。そういうふうに言うことはできないはずであると、パウロは言っているのです。
もちろん、悪いのは「ユダヤ人」のほうです。神の御言葉をゆだねられるほどに神から信頼されているのに、その神を裏切ってしまう、そういうことになってしまう人間が悪いのです。信頼した神の側が悪いという理屈は成り立ちません。そのあたりのことをパウロは次のように言っています。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)。
なぜ神が悪いという話になってしまうのでしょうか。裏切るのは人間です。罪を犯すのは人間です。しかし、わたしたちはついそこで自己弁護をしたくなります。次のようなことを考えはじめてしまいます。
「だって、神さまなのでしょう。神さまが人間をお造りになったのでしょう。そうであれば、もし神さまが人間に罪を犯してもらいたくないのであれば、そもそも人間を、罪など犯すことができない存在にお造りになればよかったではありませんか。しかし、そうはなさらず、人間を、罪を犯すことができる存在にお造りになったのは、神ではありませんか。だったらやはり、人間をそのような者としてお造りになった神が悪いのである。我々のせいにされても困りますよね」とかなんとか、
そういうふうに、どこまでも自分の罪の責任を神になすりつける屁理屈をこねることになるでしょう。
しかし、それは違うと、パウロは言いたいのです。その理屈はおかしいです。完全なる責任転嫁です。そのような理屈がまかり通るならば、人はどんどん罪を犯すようになるでしょう。
「私が罪を犯したのは私のせいではありません。神が私のことを、罪を犯さざるをえない人間にお造りになりましたので、私は罪を犯しているのです。わたしたちが罪を犯すことは、神の御心なのです。だから、罪の責任は神さまがすべてとってくださいます。私のことを責められても全くのお門違いです」とかなんとか、
こんなふうな話になっていってしまうでしょう。
このような責任転嫁の論理をあやつって人が罪を犯すことを是認し続けようとする人間の心の中の悪連鎖を、パウロとしては何とかして断ち切ろうとしているのです。そのことを、声を大にして訴えているのです。それが今日の個所に書かれていることの主旨です。
続く個所に書かれていることも、内容的には同じことの繰り返しです。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょうか。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。
ここで言われていることを理解するのは少し難しいかもしれませんが、丁寧に考えれば理解できると思います。
罪を犯した人間に対して、神はやはり、怒りを発せられるし、裁きを行われるのです。もしそうでないならば、神は人間が罪を犯すことを見て見ぬふりなさっていることになり、事実上、罪を犯すことを許しておられることになります。そうなりますと、神はいわば人間と共犯者であるということになってしまいます。それは結局、「やはり悪いのは神である。神がばかなのである」という話になってしまいます。しかし、そういうことはありえないでしょうと、パウロは言いたいのです。
しかし、それでは、人間はなぜ罪を犯すことができるのでしょうか。先ほども触れましたが、もし神が人間を、罪を犯すことが不可能な存在にお造りになっていれば、不可能なことを可能にする人間が一人もいなければ、この世界に罪など無かったのではないか、という理屈に対して、わたしたちはどう答えればよいのでしょうか。
ここから先は、非常に謎めいた部分に立ち入ることになります。神はなぜ人間を、罪を犯すことができる存在に創造されたのでしょうか。もし神がそのような者として人間を創造なさらなかったら、殺人も戦争もない、罪も悪もない世界になったかもしれないのに。これを世界の不条理の問題と呼ぶことができるかもしれません。
聖書はこの問いかけに、はっきり答えを出してくれているようでもあり、そうでないようでもあります。しかし、とにかく一つだけははっきりしています。それは、神は人間を機械仕掛けのロボットや、全く意志を持たない操り人形のような存在としてお造りになったわけではない、ということです。
石(いし)には意志(いし)はないと思います(だじゃれを言っているのではありません)。しかし、人間には意志があります。神は人間に意志を与えてくださいました。それでは、なぜ神は人間に意志をお与えになったのでしょうか。
神の願いは、わたしたち人間が自分の意志を用いて、自由に喜んで感謝して神の御言葉に従う生き方を選びとってほしいということです。「せざるをえない」から神に従うのであるとか、「させられている」からしているとか、そういうことではなく、自発的にうれしそうに従ってほしいのです。
そのように神が人間に願われたことに、わたしたちは感謝すべきです。この私を、全く意志のないロボットや操り人形のようなものではない存在として造ってくださった神にわたしたちは感謝すべきです。しかし、その感謝を忘れて懲りずに罪を犯してしまうのがわたしたち人間でもあります。
ここまで言ってもなお、屁理屈極まりないことを言い出す人がいることも、パウロは知っています。「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしは罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(7~8節)。
何を言っているのでしょうか。意図は次のようなことです。神が人間を信頼してくださっていることが「神の誠実」であるというならば、神の信頼を人間が裏切り続け、罪を犯し続けることによって「神の誠実」が際立つことになるでしょう。だったら、神さまが誠実な方であることを際立たせるために、わたしたちはどんどん罪を犯しましょう、という話です。
これは完全に、話のすり替えです。お話になりません。
(2013年6月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年6月7日金曜日
「第10回 カール・バルト研究会」(ニコ生神学部で生放送)は無事終了しました!(動画あり)
「第10回 カール・バルト研究会」(グーグルプラス ハングアウト)は
無事終了しました。
「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!
(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063
(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766
※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。
無事終了しました。
「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!
(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063
(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766
※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。
「第10回 カール・バルト研究会」報告(ニコ生神学部生出演)
「第10回 カール・バルト研究会」(グーグルプラス ハングアウト)は
無事終了しました。
「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!
(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063
(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766
※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。
無事終了しました。
「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!
(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063
(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766
※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。
「デフレか、リフレか」と言われても「はぁ?」なぼくです
これは昨夜の食事です。
妻(保育士)は保育園の夜勤。三人で食べました。
用意したのはぼくですが、自作してません。すいません。
サラダ以外はスーパーのお総菜です。
サラダもすでに千切りされているパックものです。
ぼくがしたのは、トマトを切ったことだけです。
おっと、とんかつも切りました。ソースかけた。
経済学は分かりません。
「デフレか、リフレか」と言われても「はぁ?」です。
でも、そうね、
ものが安いと、自作が億劫になるかもしれませんね。
モチベが上がらないです。
2013年6月6日木曜日
日本に「宗教ブーム」が起こってもキリスト教への順風にはならないだろうと痛感する今日この頃です
ぼくが最近、痛感(?)していることは、
もし仮に、21世紀の日本で「宗教ブーム」なるものが起こっても、キリスト教への順風にはならないでしょ、ということです。
何十年か前までのヨーロッパの教会のように税金(教会税)で支えられてきたのではない、
信者の純粋に自発的な参加によって営まれる教会形態をもつ、
アメリカ経由の日本教会は、
その歴史のほぼ初めから、一種の自由競争原理が事実上持ち込まれた形で営まれてきたわけですから、
ブームが来ると、必ずや「勝ち負け」が問題になりはじめる。
だけど、この自由競争原理における「勝敗」という事の決め方が、どうにもこうにも教会にそぐわない。
うちの教会の年間予算規模はいくら、会員数いくら、教会の歴史何年。
ぼくらは上から何番目。
だから、何?
そういうこと言わなきゃ、まだいいんですけどね。互いが互いを尊重しあう自由選択原理ならば。
でも、そういうふうにはなりにくいですよね。数字はリアル。無視はできない。
「それは宗教です」というのが、今ではほとんど悪口の意味でしか言われなくなっていることを、ぼくはやっぱり悲しいと思っています。
教会というかキリスト教が「宗教」というラベルでカテゴライズされることには釈然としないものが、ぼくにもあります。
でも、その思いはたぶん、
仏教や神道やその他の教義・教説とはクオリティが違うので、というような(鼻もちならない)発想から出ている可能性があります。ぼくの場合は、です。
「宗教じゃない」と言ってみたところで、じゃあ何なのかと、看板をいろいろ掛け替えてみても、
結局、仏教や神道、あるいはイスラム教やヒンズー教と同じあるいは近接したラベルを貼られることになるだろうと思います。
オランダの大学の例で言えば、
やってることは結局「神学部」と同じだと思うんですけど、
faculteit van godgeleerdheid(神学部)のgodgeleerdheidは「宗教」(religie)の意味でもあるので、
キリスト教以外の宗教も含めた「宗教学部」になりました。
それは19世紀くらいの話です。
20世紀になると、事実上同じ内容のことをlevens- en wereldse beschauungen(人生観・世界観)とか呼び替えてみたり、
さらに最近では、geesteswetenschap(精神科学)をやってます、というような看板の掛け替えをやっているところもあるようです。
でも、発想の根本は古代からほとんど変わっていないので、なんだかな、と忸怩たる思いが残り続けます。
「宗教ブーム」が眉唾ものだと言いたいのではありません。
キリスト教への順風にはならないでしょと、上に書いた文字どおりのことを、ただ考えているだけです。
もし仮に、21世紀の日本で「宗教ブーム」なるものが起こっても、キリスト教への順風にはならないでしょ、ということです。
何十年か前までのヨーロッパの教会のように税金(教会税)で支えられてきたのではない、
信者の純粋に自発的な参加によって営まれる教会形態をもつ、
アメリカ経由の日本教会は、
その歴史のほぼ初めから、一種の自由競争原理が事実上持ち込まれた形で営まれてきたわけですから、
ブームが来ると、必ずや「勝ち負け」が問題になりはじめる。
だけど、この自由競争原理における「勝敗」という事の決め方が、どうにもこうにも教会にそぐわない。
うちの教会の年間予算規模はいくら、会員数いくら、教会の歴史何年。
ぼくらは上から何番目。
だから、何?
そういうこと言わなきゃ、まだいいんですけどね。互いが互いを尊重しあう自由選択原理ならば。
でも、そういうふうにはなりにくいですよね。数字はリアル。無視はできない。
「それは宗教です」というのが、今ではほとんど悪口の意味でしか言われなくなっていることを、ぼくはやっぱり悲しいと思っています。
教会というかキリスト教が「宗教」というラベルでカテゴライズされることには釈然としないものが、ぼくにもあります。
でも、その思いはたぶん、
仏教や神道やその他の教義・教説とはクオリティが違うので、というような(鼻もちならない)発想から出ている可能性があります。ぼくの場合は、です。
「宗教じゃない」と言ってみたところで、じゃあ何なのかと、看板をいろいろ掛け替えてみても、
結局、仏教や神道、あるいはイスラム教やヒンズー教と同じあるいは近接したラベルを貼られることになるだろうと思います。
オランダの大学の例で言えば、
やってることは結局「神学部」と同じだと思うんですけど、
faculteit van godgeleerdheid(神学部)のgodgeleerdheidは「宗教」(religie)の意味でもあるので、
キリスト教以外の宗教も含めた「宗教学部」になりました。
それは19世紀くらいの話です。
20世紀になると、事実上同じ内容のことをlevens- en wereldse beschauungen(人生観・世界観)とか呼び替えてみたり、
さらに最近では、geesteswetenschap(精神科学)をやってます、というような看板の掛け替えをやっているところもあるようです。
でも、発想の根本は古代からほとんど変わっていないので、なんだかな、と忸怩たる思いが残り続けます。
「宗教ブーム」が眉唾ものだと言いたいのではありません。
キリスト教への順風にはならないでしょと、上に書いた文字どおりのことを、ただ考えているだけです。
2013年6月5日水曜日
大学の教壇にゲストで立たせていただけることになりました
どうなることやら予測がつかないので、成り行きに任せていました。
いえ、その、まあ、今年度の(やや個人的なほうの)予定の話です。
PTA関係の活動はすべて引退。大会は無役。中会もわりとのんびり。
今月末と来月初めの2回、
人生初の(そして最後の)大学の教壇にゲストで立たせていただけることになりました。
あとはじっくり腰を据えて、ローマの信徒への手紙の連続講解説教でしょ、
そしていよいよファン・ルーラーの翻訳だなあ、と思っていた...
...のですが、
う~ん、ちょっと方向が変わって来たかも。
今年の後半も楽しくなりそうです。
(でも気が重い。うぅ)
幕の内弁当 398円 676キロカロリー
2013年6月4日火曜日
「今の日本ではキリスト者だからという理由で迫害されることはない」のですが
「今の日本ではキリスト者だからという理由で迫害されることはない」という言葉は、人口に膾炙していると思うし、ぼくもまあ、たまに言います。
で、そういう言葉を口にしているときのぼくたちは、だいたいちょっとヘラヘラ笑っている。
それが悪いわけではない。
ですが、どう言ったらいいのか、表現しにくいのですが、なんとも言えない違和感が、いつもつきまといます。
「人畜無害ですね」と言われているのとほぼ同義語だよな、と思うのに。
「あなたがたが何を言っても、何をしても、大勢に影響はありませんね」と見られていることを意味しているんじゃないかなと思うのに。
「まあ、今ぐらいの程度でやめといてね。それ以上になると叩くからね」と、ほとんど無言で警告されている面もあると思うのに。
まあ、人畜無害ですよ。大勢に影響ない。各個人の心の中の、密やかな趣味の範囲内。
でも、そこでなんとなくヘラヘラ笑ってしまう、ぼくたちのその顔が、ちょっとだけ悔しい気がしなくもありません。ぼくはね。
真剣でないという意味ではないんですけどね。真剣にヘラヘラ笑っている?という感じですかね。
あくまでもぼくの感覚です。
言い方を換えれば、今の日本でキリスト者や教会が迫害を受けないのは、今のまま放置しておいてもこの国を動かす力にはなりえないと思われているからじゃないでしょうか、という意味です。
Facebookのお友達が紹介しておられたので知りましたが、この国の「宗教分布図」は参考になると思います。
この分布状況は、これから100年経っても200年経っても変わらないだろうと思われているから、日本では今のところ迫害もされない。
今でも教会が迫害を受けている国や地域は、教会を放置するとその国を変えてしまうのではないかと思われているから、迫害を受けている。
違いますかね。
迫害は無いほうが、それは有難いし、助かります。
ですが、「かすりもしない」と思われている状態で(ヘラヘラ)笑っているのもどうなんだろうと考え込んでしまった、朝っぱらから憂うつな書き込みでした。
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