2011年6月17日金曜日

もうね、今日から村上春樹先生の生徒ですよ

二泊三日の会議(日本キリスト改革派教会の臨時大会)から夕方帰ってきました。

テーマは「東日本大震災」。教派あげての支援体制を整えました。

なるほど事件は会議室では起きませんが、会議室でできることをしてきました。今日から現場に戻ります。

ところで、びっくり。

私のブログを読んだ実家の両親が、実兄が読み終わったという村上春樹さんの小説を、ぬあ、ぬあんと、25冊も(!?)送ってくれました(ぐはあ)。

というわけで、これからしばらく、『ねじまき鳥クロニクル』はじめ25冊を、ねじりはちまきで読むことにします。

まずは『風の歌を聴け』(1979年)からだと、めくりはじめています。が。

あらら、けっこう面白いぞと、さっきからズイズイ引き込まれています。

2011年6月11日土曜日

村上春樹を読んだことがない

言わないほうが身を守れるというか、沽券を保てる気がしなくもないが、つい自慢したくなる無知というのがあります。言いたくて言いたくて仕方がない。

以前、「丸山真男を読んだことがない」と書いたことがあります。しかし、それに匹敵するくらい恥ずかしい、私のもう一つの事実は「村上春樹を読んだことがない」です。

「読んでみよう。読まなければ。読まずにいられるか」と、過去何度か村上春樹氏と向き合う気持ちになったことがないわけではない。何冊かは買って持ってもいる。しかし、パラパラめくってみても、食指が動かない。興味がわく単語が見当たらない。心のどこにも引っかかってこない。自分の読解力の無さのせいにして、放置したまま、20年ほど過ごしてしまいました。

タイトルくらいは知ってるんですけどね。ノルウェイとか、ねじまき鳥とか、ハードボイルドとかね。

最近のも知ってますよ。1Q84、でしたっけ。私が東京で学生を始めたのが1984年ですから、当時の何かを彷彿するような内容があるのだとしたら(読んでいないので、そういうことが書かれているかどうか知りませんが)、もっと興味があってもいいはずなんですけどね。

なんででしょうかね。小説はけっこう読んでいましたよ。中学か高校くらいの頃にいちばん興味を抱けたのは星新一さんのショートショートでしたね。あれは、ほんとに面白かった。真似はできないけれど、自分も何か書いてみようという気持ちにさせてくれるものがありました。

でも、村上春樹さんの本は、みんな読んでいるらしいのに、私は読めなかった。何を言いたいんだか分からなかった。

しかし、一昨日(6月9日)の村上氏のバルセロナでのスピーチは、素晴らしかったですね。とてもいいと思いました。村上氏の言葉に、生まれて初めて共感できました。

「被爆国日本は、核に対するノーを叫び続けるべきだった」(大意)。こういうふうに端的に語ることができる人だということを、今まで知らずにいたことを恥じました。だからといって、「ここは一つ、村上小説を読んでみよう」という気にはなれないのですが。

そうですね、持って回った話というのが、とにかく嫌いなのかもしれません。村上氏の小説を読めなかった理由はそれだけではない気もしますが、少なくとも理由の一つにそれ(回りくどいよ!)があるかな。

結論から言ってほしい。そんなこと言ったら小説なんか成り立たないと言われればそれまでですが。

村上氏が一昨日受賞なさった何とか賞は、もちろん氏の作品への評価なのでしょうけれど、それよりも今回のスピーチが評価されるべきです。あのスピーチにこそ、だれかが賞を授けるべきです。

久々のブログ更新です 第11回アジア・カルヴァン学会韓国大会報告

久しぶりにアジア・カルヴァン学会のブログが更新されましたので、謹んでお知らせいたします。

ニュースレター『常に新たに』第7号(最新号)には今年1月、韓国で開催された「第11回アジア・カルヴァン学会韓国大会」の詳しい報告が掲載されています。野村信先生、久米あつみ先生、菊地純子先生、豊川修司先生、青木義紀先生の報告文があります。ぜひどなたもご一読ください。

また、ブログには、毎年6月に好評開催されている日本カルヴァン研究会(会場 青山学院大学)の「休会」も報じられています。ご確認ください。

アジア・カルヴァン学会ブログのURLは

http://society.protestant.jp

です。「お気に入り」などにご登録いただき、毎日チェックしてみてくださいね。それではまた。

2011年6月8日水曜日

近日中に新設予定の「復興庁」(仮称)への要望事項

近日中に新設予定の「復興庁」(仮称)への要望事項

(1)「復興のための自衛隊員」には迷彩服(国際的には「戦闘服」を意味するはずです)ではなく、我々一般市民に安心を与える服を着てほしい。

(2)「大連立」には賛成しかねますが、もし成立し(てしまっ)た場合にも、数の力で「憲法改正」など絶対しないことを、国民の前で約束してほしい。

「復興庁」なのか「復興府」なのかはともかく、そういうものが作られることになると言われる「復興基本法(案)」なるものの内容を、我々一般市民はどこで確認することができるのでしょうか。

とにかく首相の権限が高められるらしいですね。それはつまり、首相の「自衛隊の最高指揮監督権」を、そして、自衛隊そのものを「増強」することを帰結せざるをえないのではないかと、法案を手にすることができない一般市民として勝手に予想しています。だからこそ「石破茂首相」というような下馬評が出てきているのでしょう。

そして、そういうことになりそうだからこそ、我々にとって気になるのが、「改憲論者」が提唱する「大連立」が導こうとしている(ように見える)「自衛隊増強」の行き先はどこなのか、ということです。

最速の初動を見せてくれたトモダチ米軍の活躍は、「軍の力」というものこそがドラスティックな被災地復興をもたらすに違いないと印象づけることに十分に寄与したと思います。――が、しかし。

また、自衛隊が「増強」されることになれば、職探しに困っていた人たちの問題も解決する(かもしれない)し、規則正しい生活が身に着く(かもしれない)ので、だれきった(と言われ続けてきた)青少年に「秩序」を与えることができるし、何より政治家たちにとっては、まさに文字どおりの「権力」の増大を意味するでしょう。――が、しかし。

やはり気になるのは、「今の未曾有の国難を解決する」という、国民のだれにも異存のない目的のもとに、すべて良いことずくめの(ように見える)、あまりにもスッキリしている(かもしれない)「復興のための三段論法」には、必ずや大きな落とし穴があるに違いないし、実際にすでにどこかしら(否、あからさまな)危険なニオイが漂っているようだ、と感じることです。

それとも、全く違うのでしょうか。私の想像力があまりにも乏しすぎるので、単純な予想しかできていないのでしょうか。それなら、そのほうが良いに決まっています。全く異なるシナリオで思いっきり恥をかかせてほしいです。その恥ならば甘んじて受けます。私が願っていることは、日本は何があっても「憲法九条」を守り抜く国のままであってほしいという一点に尽きます。

私は「小金原九条の会」のメンバーですが、「メンバーだから」九条堅持を願うのではなく、「九条堅持を願っていたから」メンバーになりました。そのこと――憲法九条の問題――と「被災地復興」は本来全く無関係なことであるということも理解しているつもりです。しかし、それならばなぜ自衛隊員たちが「被災地」を「迷彩服」(これは元々「戦闘服」です)で歩き回っておられるのかがとても気になるという話に行き着いてしまうのです。

もちろん、政治家というのは賢い人たちですから、実際には憲法改正はしないでしょうし、まかり間違っても「日本軍」などと改称したりもしないでしょう。しかしまた、過去の経緯を鑑みれば、法文上の形式面はそのままにしておいて、実質面のさまざまな点で憲法九条の許容範囲を突破してきていることは周知の事実です。そういう中でこれから警戒が必要なのは、たとえば事実上の「徴兵制」導入に近づいていくような「被災地ボランティア義務化」のようなことでしょうか。まだよく分かりませんが、巧みな抱き合わせに要注意です。

私の文章を読んでくださった複数の方から、「迷彩服を普通の作業着に買い替える費用があるなら、復旧復興に回すほうがいい」と言われました。しかしあの迷彩服、わりとすぐに破れたりするそうです。新しいのに換える順に取り換えればよいのではないでしょうか。こう返事すると今度は「制服は全員がお揃いでなければ無意味である」とも言われました。しかし今でも迷彩服2式と、より新型の3式とが混在していて必ずしも全員が揃っているわけではないようです。

私が書いていることの趣旨は、分かりにくいでしょうか。「大連立」などという危険なことを画策しているときだからこそ、せめて被災地復興の場では迷彩服を脱いでいただいて、「自衛隊は軍隊ではない」ということを、はっきりさせてもらいたいと言っているのです。

「自衛隊は軍隊ではない」というのは政府の矛盾した答弁なのであって、それにお前は同調するつもりなのかという趣旨のご意見もいただきました。私の趣旨は政府答弁のオウム返しではありません。全く正反対です。なるほど現時点では詭弁かもしれない政府答弁の矛盾を解消するためにこそ、せめて被災地支援の場では戦闘服を脱いでいただいて、「自衛隊は軍隊ではない」ということをはっきりさせていただきたいということです。これは心からのお願いです。

「自衛隊は軍隊である」と明言する方からも意見をいただきました。そういうことをおっしゃる方の次なる言葉は、「世界の常識はこれこれこうだ」です。なるほど憲法九条は世界の常識ではありません。我々は、世界の常識(国際的には圧倒的多数派)を果敢に退け、憲法九条堅持(国際的には圧倒的少数派)を言い続けていこうとしているのですから、肩身が狭いのは常に我々のほうです。

服装の問題は、もちろん美意識の問題です。感性の次元の話。十人十色。私自身は、軍服や制服というもののすべてを否定しているわけでもありません。ただ、迷彩色(カムフラージュ)を、なぜ「敵国の攻撃があるわけでもない」被災地復興のために着なくてはならないのかと疑問に思い、強い不快感を覚えているだけです。

現地でがんばっておられる自衛隊員たちを、いささかでも貶す意図はありません(これは決して誤解のないようお願いしたいです)。彼らに迷彩服の着用命令を出している人たちに文句を言っているだけです。


2011年6月7日火曜日

「迷彩色の大連立」には賛成しかねます

「大連立」には賛成しかねます。意図と目的が分かりません。

大震災後、被災地を直接訪問して感じたことは「迷彩服」の人たちのあまりの多さでした。自衛隊員のご苦労には感謝しています。しかし、迷彩服は不気味でした。別の服は無いのでしょうか。もし大連立が「日本軍再建」のような方向に向かう意図をもつなら、反対せざるをえません。

うちの子たちには「迷彩色」をファッションとして着てはならないと、厳しく言い渡しています。何をそんなにカッカしているのかが分からないらしく、怪訝な顔で見返してきますが、私は譲りません。迷彩色(カムフラージュ)に「隠れる」という意味以外、何があるでしょうか。被災地復興のどの場面で、どこで、だれから「隠れる」必要があるでしょうか。もし着るなら「防護服」ではないかと思いました。

なぜ今、大連立なのでしょうか。大震災以前から大連立を唱えてきた人たちは必ず改憲論者であり、主張の核心は「九条改正」でした。トモダチ米軍の恩義に応えるべく、自衛隊は「日本軍」となり、真のパートナーとして国際正義に仕えるべきである。その共同訓練の演習場が被災地だ。もしそのようなシナリオを進めるための大連立だとしたら、私は反対です。

本気で聞いてみたいことは、被災地復興の場で、彼らはどうして「迷彩服」でなくてはならないのですかということです。もちろん隊員たちの個人的な希望ではなく、上司からの着用命令があるに決まっています。自衛隊員に「迷彩服着用」を命令する意図は何でしょうか。もし士気の問題だとしたら、その士気こそが問題です。「迷彩服を着なければ出てこない士気」(もしそういうものがあるならば)とは、いったい何なのでしょう。

なるほどたしかに、今は「平時」ではないのかもしれません。しかし、だからといって、今の日本は、言葉の通常の意味での「戦時」ではありません。自衛隊員が敵国の攻撃から「隠れる」ための迷彩服(カムフラージュ)を着なくてはならない状況は、今の被災地のどこにもありません(それとも、あるのでしょうか)。強いていえば、着用すべきは「防護服」でしょう。

おやおや、これを書いている間に、さっそく妨害が飛び込んできました。「日本軍再建」などとは誰も言っていない。思いこみはやめろ、と。「思いこみ」であると認めることは、やぶさかではありません。しかし、言わせてもらえば、これも「想定」の一種ですよ。「想定外だった。こんなはずじゃなかった」と、後になって慌てふためかないための、ね。

石原伸晃さんが先週(6月2日)の内閣不信任決議案の賛成演説の中で、「国民の原発に対する不安につけ込んで自分の人気取りに利用する姿は、共産主義の危機をあおり立て、その不安につけ込んで権力の座を掌握した独裁者ヒトラーとどこが違うのか」と言いました。政治とはまさにそういうものだと、物事の本質を知っている人らしい発言でした。

かつて菅さんも、伸晃さんのお父さん(慎太郎氏)をヒトラー呼ばわりしたようですね。2006年4月15日、仙台市内での講演で。当時の菅さんは民主党代表代行。「石原氏の目指す政治は、もしかしたらヒトラーのような自分の理想を権力で実現したい政治だ。権力を持つほど使い方を考えるのが(政治の)原点だ」(毎日新聞、2006年4月16日)。伸晃さんが「父の仇」を意識したのかどうかは藪の中です。

ここで笑っていいのか腹を立てるべきかは分かりません。しかし、要するに民主党も自民党も(元自民党の人も)お互いを「ヒトラーみたいなもの」と認識し、罵倒し合っていることが非常によく伝わってきます。「国民の○○に対する不安につけ込んで自分の人気取りに利用すること」あるいは「自分の理想を権力で実現すること」こそが政治の本質であるということを、彼らが認識している証左です。

自衛隊員の迷彩服については、以下の記述が参考になります。

「迷彩戦闘服は基本的に『戦闘』を目的とし、通常の作業等には使用されない予定であったが、2001年頃より中部方面隊や北部方面隊の一部部隊が通常勤務で使用したのを皮切りに全国の部隊で使用が開始され、現在では多くの部隊で日常的に着用されている」(Wikipedia「迷彩服2型」)。

つまり、迷彩服についての変化が、今からちょうど10年前(2001年)にあったということです。「あれ?迷彩服の人が急に増えたなあ。嫌だなあ」と感じた私のおぼろげな記憶とも合致しています。2001年といえば、総理大臣が森喜朗さん(4月26日まで)から小泉純一郎さんに替わった年。そして防衛庁(当時)長官は斉藤斗志二さん(4月26日まで)から中谷元さんに替わった年です。

それを着ている彼ら自身に象徴的な意図などはなくても、彼らの迷彩服が一般市民に威圧感を与えていることは否定できません。「頼もしい」?――それは何の頼もしさでしょうか。意味が分かりません。「迷彩服は単なる作業服である」?――そうでしょうか。通常の作業服ならば自衛隊員でない人でも持っていますが、迷彩色ではありません。「お金がかかる」?――そうでしょうか。自衛隊員分の「迷彩色でない」作業服を買い揃えるだけの話なのですが。

今回の被災地支援において最速の初動を見せたのが米軍だったことは確実です。「軍の力」というものを改めて思い知らされる場面になりました。しかし、「国民の○○に対する不安につけ込んで」次のアクションを起こす人は、石原伸晃さんの理屈のとおりなら、「ヒトラーとどこが違うのか」という話です。

私が大連立に不安をもつのは、今それを提唱している人たちが、大震災前から「改憲論者」だったからです。そんな人たちを、なんで信用できるんですか。どさくさに紛れて「憲法を変えましょう」と言い出しかねない人たちなのです。


2011年6月5日日曜日

人間の存在はこの上なく価値がある


コリントの信徒への手紙一6・12~14

「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」

いま短めに読みました。この個所にはキリスト教信仰の核心部分が端的に表現されています。ここで問題になっていることを少し丁寧にいえば、神がわたしたちに与えてくださる自由(キリスト者の自由!)と、その自由を間違った目的のために用いてしまう人間の罪との関係はどうなっているのかということです。しかし、こういうことをさっと言うだけでは何のことかお分かりいただけるはずはありませんので、これから説明いたします。

「わたしには、すべてのことが許されている」という一文にかぎかっこが付けられている理由は、分かりません。このような言葉が旧約聖書かあるいは新約聖書のどこかに書かれているのかと思って調べてみましたが、見当たりません。どこかから引用したことを示すためのかぎかっこではなさそうです。しかし、書かれているとおりの言葉が聖書に出て来ないとしても、この「わたしには、すべてのことが許されている」という一言こそが、神がわたしたちに与えてくださる自由を端的に表現していると語ることができます。わたしたち、キリスト者は、全く自由なのです。

まさに書いているとおり「わたしたちには、すべてのことが許されている」のです。わたしたちには「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というタブーがないのです。あの日はいけない、この日はいけない。あの方向はいけない、この場所はいけない。そういうのが全く無い。あるいは、あれを食べてはいけない、これを飲んではいけない。そういうのも全く無い。他の宗教にはよくあるその種の拘束や束縛が、わたしたちキリスト者には全く無いのです。

そんなことはないだろうと、反発を受けるかもしれません。キリスト者こそが、あれもいけない、これもだめだと、そんなことばかり言ってきたではないかと。また、聖書の中には、あるいは、教会の教えの中には「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というような言葉がたくさんあるではないかと言われてしまうかもしれません。

なるほど、たしかにそうです。たとえば聖書には、有名なモーセの十戒が書かれています。皆さんがもっておられる今週の週報の最後の面にも十戒の全文を印刷してあります。「あなたは、殺してはならない。あなたは、姦淫してはならない。あなたは、ぬすんではならない。あなたは、隣人について、偽証してはならない。あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。」

たしかに、わたしたちには、すべてのことが許されています。しかし、殺してもよいわけではありませんし、姦淫してもよいわけではありませんし、ぬすんでもよいわけではありません。まさかそんなことまで許されているわけではありません。

しかし、もしそうだとしたら、わたしたちは少しも自由ではないと考えなければならないでしょうか。教会はいろんなことを禁止しているではないかと、反発されなくてはならないでしょうか。いやいや、ちょっと待ってくれ。いくらなんでもそういう理屈はないだろうということくらいは、聖書を毎週学んでいる人でなくても、常識で考えても理解していただけることではないかと思います。

詳しい事情を話しはじめますと長くなってしまいますので、途中の説明を省いた結論だけ申します。わたしたちが人を殺すということは、わたしたちが殺すその相手の自由を奪ってしまうことを意味します。また、それだけではなく、人を殺した人自身の自由が奪われることをも意味します。姦淫も、あるいは盗みも、偽証することも、むさぼることも、みな同じです。わたしたちは自由だ。しかし、その自由を間違ったことのために用いてしまうならば、その結果として、自分の自由も他人の自由も奪ってしまうことになるのです。

パウロが今日の個所に書いているのは、そのことです。わたしには、すべてのことが許されている。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」のです。神がわたしたちに与えてくださる自由を間違ったことのために用いるならば、それは自分自身と他人に対して被害をもたらす結果を生むことは間違いないわけですから、その意味では、わたしたちは何をしてもよいわけではないのです。神がわたしたちに与えてくださる自由は、罪を犯してもよい自由ではないのです。

いまわたしは「罪」と言いました。パウロが書いていることは、結局のところ、神がわたしたちに与えてくださる自由と、わたしたち人間が犯す罪との関係である、と説明することができます。そうしますと、今度は「罪とは何か」についての説明をしなくてはならなくなりますが、それも長くなりますので、途中の説明を省いて結論だけ言います。

私の結論は、罪とは自由の正反対であるということです。このことは前に一度、お話ししたことがあります。わたしたちにとって自由が遊びの本質だとしたら、罪は仕事です。いま私は「仕事が罪だ」と言ったわけではありません。それは主語と述語が逆さまです。「罪は仕事だ」と言ったのです。昔のテレビドラマに「必殺仕事人」というのがあったではありませんか。人殺しのことを「仕事」と呼んでいるのです。国際的なテロを働くような人たちは、綿密な計画を立てて、ありとあらゆる可能性を想定して行動します。そうでなければ彼らの犯行は決して成立しませんし、失敗に終わるでしょう。

あるいは、姦淫を犯すこと、不倫を働くこと。こういうのも、最初は遊びなのかもしれませんが、そのうち必ず仕事になります。こちらにもあちらにも嘘をつき、こちらにもあちらにも隠しごとをし、結局どちらも重くなる。どちらかを捨てざるをえなくなるし、どちらからも捨てられる。多くの人を傷つけ、家族を傷つけ、自分自身を傷つけて、何もかも破壊する。

盗みも、偽証も、むさぼりもみな同じです。自分の犯した罪を隠すために嘘をつき、その嘘を隠すために、また嘘をつく。ピノキオの鼻はどんどん伸びていくばかりです。

仕事は罪ではありません。そんなことを言ったら怒られてしまいます。しかし、罪は仕事なのです。人間は汗水たらし、苦労して罪を犯すのです。しかしその結果は常に悪いものです。罪の結果が良いことはありえません。自分自身を不幸にし、多くの人を不幸にするだけです。そんなことのためにも、人間は汗水たらすのです。まるで馬鹿みたいな話ですが、いったん罪の電車の中に乗ってしまうと、途中で降りられなくなってしまうのです。

今日の個所でパウロが書いているもう一つのことは、そのことです。わたしには、すべてのことが許されている。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。ここでパウロが「支配」という言葉で表現しているのが罪のことです。罪はわたしたちを自由にせず、むしろがんじがらめに支配します。電車の扉は、次の駅まで開かないのです。無理やり開けて、走っている電車から飛び降れば、死んでしまう。それほどに罪はわたしたちを支配するのです。乗ったら最後なのです。だから、わたしたちは、よくよく気をつけなければならないのです。

「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と続いています。パウロが「腹」という字を書くときの意味は、たいていの場合、狭い意味ではなく、広い意味です。「腹」は人間の欲求や欲望の象徴です。と言いますと、私はこの場から逃げたくなってしまいますので、このことをあまり強調したくはありません。しかし、ここでパウロが言いたいことは「食べすぎたらお腹が出っ張る」というような単純な話ではないと申し上げたいのです。

パウロがしているのは食べ物の話だけではありません。だからこそ、このあとすぐ、間髪いれずに「みだらな行い」の話が続いています。いわゆる三大欲求とは食欲、性欲、睡眠欲だと言われますが、睡眠の話をパウロはしていません。パウロがしているのは残りの二つの話です。人間が欲求や欲望を持つこと自体が悪いと言っているのではありません。わたしたちが人間であるかぎり、地上に生きているかぎり、そういうものと全く無関係に生きることは不可能です。その意味での避けがたさ、「欲求の不可避性」を指して、パウロは「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と言っているのです。

いま申し上げていることは日本では強調しておく必要があるかもしれません。クリスチャンというのは何も食べない人(?)であるかのように誤解している人がいないともかぎらない国の中では。

しかし問題は、そこから先のことです。ごく当たり前の話ですが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。自分自身を傷つけ、家族を傷つけ、多くの人を傷つけるほどの過度の欲求、過剰な欲望をもつことが悪いと言っているのです。そこまで行くと罪だと言っているのです。だからその次にパウロは「神はそのいずれをも滅ぼされます」と書いています。行きすぎた欲望追求は、神の厳しい裁きの座に耐えることができないのです。

だから、次の言葉が大事です。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」とパウロは書いています。「体」という字をパウロが書くときの意味も、たいていの場合、狭い意味ではなくて、広い意味です。わたしたちがよく言う「心と体」という区別を置いた上での「体だけ」の話をしているのではありません。そのような区別がパウロの考えの中に全く無いと言いたいのではありませんが、少なくとも今日の個所に「体」と書かれているのはもっと広い意味です。それはほとんど「人間の存在そのもの」を指していると言ってよいでしょう。

ですから、いま申し上げたことを踏まえていただいたうえで、パウロの言葉の中の「体」という字を「人間の存在」と言い換えていただけば、パウロの意図をよく分かっていただけるでしょう。実際に言い換えてみます。「人間の存在はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は人間の存在のためにおられるのです」。

いかがでしょうか。まだ日本語として分かりにくさが残っているようです。もう少し噛み砕く必要がある。それなら、これでどうでしょうか。

「わたしたちは、みだらな行いをするために生まれてきたのではない!

罪を犯すことが人生の目的ではない!

罪は人間の運命でも定めでもない!

人生の目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことなのだ!(ウェストミンスター小教理問答1)

わたしたちは、神を喜ぶために生まれてきたのだ!

神は、わたしたちの存在を喜んでくださるためにわたしたちを造ってくださったのだ!」

わたしたちの存在は、神の目から見てこの上なく価値があります。だから、みだらな行いはただちにやめなければならないのです。

(2011年6月5日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年6月3日金曜日

内閣不信任決議案「否決」に安堵しています

私は今のところ、いかなる特定の政党の支持者でも(党員でも)ありません。しかし、今回の内閣不信任決議案は否決されてほしいという願いをもちました。本日それが「否決」されたことを順当な結果と受けとめ、ほっと胸をなでおろしています。

午前中の段階で、もし不信任決議案が「可決」された場合は衆議院を解散し、総選挙するという意向を現首相が表明していると分かり、そんなことをやっているヒマはどこにもないと思いました。

とはいえ、これは皮肉だけではなくて、いくらか真面目な意味で、今の状況の中であえて火中に栗を拾いに行きたがっている、次期首相になりたい人の顔が見てみたい気はしました。そういう人がどこかにいたからこそ、現内閣を退陣に追い込みたかったのでしょうから。しかし、それって、だれだったんですかね。今もって謎のままです。

客観情勢だけいえば、菅さんのままにしておいてギャアギャア文句だけ言っているほうがはるかに有利な立場にとどまれることは間違いないのに、どうして野党はわざわざ不信任案なんか出すんだろうと、不可解さを否めずにもいました。

本会議前に行われた民主党代議士会のNHK中継を通じて首相の「決意」を聞いたとき、この線で進んでほしいと思いました。

もし政治的な意味での「最悪のシナリオ」があるとしたら、世論はそのようなシナリオを決して許さないと信じていますが、民主党側であれ自民党側であれ、ある種の「極右内閣」のようなものが誕生し、「被災地復興支援」の名のもとに自衛隊を「日本軍」にし、米軍との一体化を図り、徴兵制を目指す、というような流れでしょうか。

子どもたちの将来に、放射能不安だけでなく軍隊生活まで加わるのでは、たまったものではありません。

自民党副総裁なる大島理森氏の演説は、なかなか興味深いものでした。かなり皮肉をこめていえば、人の非をあげつらう手本を示してくださった感じです。しかしあれほどの(長々と、八つまでカウントしながら)「理由」を述べても、内閣不信任決議案を肯定する「理由」にはなっていなかったです。ただのお芝居でした。政治家より役者のほうが向いている人物だと思いました。

石原伸晃氏の演説は貧弱でした。菅さんに対する「ヒットラー呼ばわり」は、驚きをこえて違和感でした。

石原氏の演説の最中あたりだったかな、「小沢元代表、不信任案の採決欠席の意向 周囲に伝える」という一報が入りました。ほとんど驚きはありませんでしたが、小沢氏の政治生命の真の終焉を感じとりました。

私個人は、原発問題を中心にすえた、最後の「みんなの党」の柿沢未途さんの言ったことが、いちばん説得力を感じました。原発問題は、民主党も自民党も、正面からは問えないようだと悟らせてもらえるものがありました。

それにしても、今日の「否決」の意味を理解するためには、豊かな想像力とレトリックが必要です。内閣不信任決議案の「否決」が現内閣の「信任」を意味しないことは明白です。現首相と現内閣はいずれにせよ近々辞めなければならない。「ただちに」辞めるべきではないという判断が出たというだけのことです。例の「ただちに~無い」です。

「ただちに~無い」というこのレトリックは、すっかり現内閣の十八番になってしまいましたね。「ただちに健康に被害は無い」然り。あまりにも不謹慎なので大っぴらには言えないでしょうけど、「ただちに~無い」は今年の(隠れた)流行語大賞ですね、きっと。

それから、これは今日の副産物のようなものですが、NHK記者の質問で、原口一博さんが次期首相候補に立候補した(させられた?)格好になりました。「絶対に逃げない」と言って(言わせて?)しまった。また、NHKは、不信任決議の投票前にも(小沢氏に近い)松木謙公氏を他の民主党議員が説得している場面を、しきりと映していました。露骨な世論誘導のように見えるので、NHKさんには、この手のやり方については控えめにお願いしたいですね。

NHKは本会議前の民主党代議士会の中継で、菅首相の決意表明後の質疑応答のとき、鳩山さんはともかく、あとは原口さんしか映さなかった。民主党幹部とNHKとのあいだで、菅さんから原口さんへの禅譲プランの裏約束でもあるのでしょうか。なんだか、そういうの、嫌だなあ。

原口さんは(政治の各論はともかくトータルな意味で)別に嫌いなわけじゃないんですが、NHK記者からの質問でも口走っておられた「日本維新の会」でしたっけ、あの「なんとか維新の会」というネーミングの団体が複数あるようですが、あれがかなり違和感あるというか、なんとも復古調というか、日本史の嫌な面を彷彿するんですよね。なんで「維新」なのかなあ?

2011年6月2日木曜日

「教会のストレス」を耐え抜いて初めて「神学」だ

まさに今、年に何度となく訪れる意識の拡散というか分散というかが起こっている状態なのですが、ある程度の統合というか連関というか予定調和というかが成り立っているというより、そこへと強引に引き寄せられているように感じられる(「壊れるなよ」という声がどこからともなく聞こえる)のは、どうしてでしょうか。

悔しがる資格はないし、その資格は自分にはないと、わりと早々と自覚できたからこそ、夢というか目標を、より狭く、より小さなものへと絞ったつもりだったはずなのに。なぜ悔しいんだろう、焦るんだろう。そして、できないんだろう。たちどまることは後退だ。だって、あの人は走ってるじゃないか!?

というようなことだったと思いますね、たしか。昨夜、しきりと書きとめておきたくなったこと。頭痛で(早くねろよ)断念したんだが。どうでもいいね、こんなこと。

今日は衝撃を受けた。受けてはならない衝撃だ(なぜなら失礼だから)。3月11日以来、一人の小説家が黙りこくっていると思っていましたが、それは違っていました。これほどまでに深く優しく。広告の文章と小説は、いや文学は違う。私には広告しか書けないと諦めていましたが、それも違う。苦しんでいないだけだ。それが分かった。もっと苦労して立とう。これだけやっても私はまだ苦しみ足りないのだろう。

自分で考えなくてはならない人(=すべての人)にとって宗教は、なるほどたしかに邪魔だ。キリスト教なんて最たるもの。「あつらえ向き」の答えがいくらでも取り出せる、というものでなくてはならないと自分で決めている。前提は取り払えない。でも「やっと分かったか」。このシタリ顔が嫌なのだ。そりゃ嫌だろう。

でも、教会は私の行く手を阻む。いや正確には「日曜日」が私の邪魔をする。それでいい。遠慮なくとめてくれ、この拡散の暴走を。教会は体を張って我々の行く手を阻む。我々は、自分で考えてもいい。いや、自分の頭と心で徹底的に考えなくてはならない。自分で考えたこと、そして書いたことだけが自分のものだ。しかし、だからこそ、邪魔が貴重なのだ。

邪魔、そしてストレスが貴重だ。不必要なストレスを抱え込み、必要なストレスは回避するのでは、無駄以外の何ものでもない。自分の頭と心で考え抜くことは、我々に必要なストレスだろう。隷属はみっともないじゃないか。なぜ回避するのか、なぜ自由を求めないのか。ヒマだから本を読むのではない。本を読む時間を、苦労して得るのだ。

しかし、それが教科書ならヒマなとき読めばいい。教科書を読む時間を苦労して得るのはバカだ。だって、そんなことは誰だって知っている。誰だって知っていることは他人に任せておけばよい。アングラもつまらない(そんな領域はもう無い)。まだ読んだことのないものを読め。手ずから辞書をめくれ。苦労せよ。

辞書をめくる時間を、喧噪の中にこじ開けろ!

今、また一人になった。朝考えていたことは全部忘れた。書いたことを読み返す気にはならない。これ、Twitterの特質かもしれないですね。思いつき、行き当たりばったり、出たとこ勝負。でも、書いたことはどこかに記録されている。「言質」はとられている。裁判ざたになったときは証拠として突き付けられる。

だから、Twitterに「失言」は書けない。緊張の連続のはずだ。しかし、それほどの疲労感が残らない。軽くハイのまま、いつまでも書き続けることができる。だからこそ流行するのだろうけど、だからこそ何か落とし穴がある(んじゃないかと警戒心が発動する)。これってなんなんだ、と空中に問いかける。

しかし、Twitterは、メーリングリストなどよりははるかに気楽だ。あれは「失言」どころか「誤字脱字」すら許されなかった。削除ができないから「先程のメールは削除してください。正しくは○○でした。謹んでお詫び申し上げます」と馬鹿丁寧な訂正状を送らざるをえなかった。メール数は余計増えるし、そんなことを書いて送っている自分が自分でウザくて仕方がなかった。

原発の問題に無理やり結びつけなくてもいいわけだが、「絶対に壊れないものなど地上には存在しない」のといわば同じで、「誤字脱字が一つもない完璧な書きものなど地上には存在しない」と言いたいくらいなのだから、メーリングリストのような「取り消しのきかなさ」は正直困る。もうあれには戻れないですね。

たった今、「メーリングリストにはもう戻れない」と書いたばかりですが、「取り消しのきかなさ」ゆえに強いられたあの緊張感こそが、私を飛躍的に成長させてくれたことも事実だったりはします。至るところ間違いだらけだったゆえに(今もね!)、年がら年中「お詫びと訂正」だらけだったけど(今もね!)必死でした。

逆に、メーリングリストが事実上ストップして以来、勉強も急ブレーキだ。「取り消しのきかなさ」は、参加者全員に絶えざる緊張を強いたが、頭の体操にはなった。大喧嘩になると、100人を超えるメーリングリスト上に「脱退させていただきます」というメールが送りつけられ、主催者は冷や汗を流した。

いくらなんでもあの緊張感を維持し続けることは本業に支障をきたすと、メーリングリストの継続に恐れを抱き、爾来、次なる「場」を探してきた。しかし、それが見つからない。2ちゃんねるは論外。mixiは匿名性が障害。FacebookとTwitterで実名顔出しが実現したが、どうも雰囲気が学術向きじゃない。

別に、FacebookとTwitterが学術向きでないことが「不満だ」と言いたいわけではない。私が探し求めてきた「場」とは程遠い感じがする、ということだけです。

「インターネットを使った共同研究会」としてたぶんいちばん優れているのは、「喧嘩しないメーリングリスト」ではないかと、そこに戻っていくものがありますね。でも、それはありえないし、メールの喧嘩は神経がもたない。学術の場は結局のところ、大学だ神学校だの「土地と建物」だ、ということに落ち着くのか。だとしたら、ネットは敗北ですね。

しっかし、今日、さむ!(ぶるる) 「夏」になったぜと、完全クールビズで半そでワイシャツだけで出たら、あの3月を思い出すくらいの寒さ。なんでだよ。疼痛はしりますよ。さっきから頑張って教会の牧師室で仕事してましたけど、もう牧師館に戻るしかないね。コートでも着こんで、家のパソコンで仕事続けます。

牧師館は教会と道を隔てた向かいにあるので、通勤時間は30秒だ。でも、雰囲気はまるで違う。集中力に大きな差が出る。さっき帰宅したときは「党首討論をやっている」という情報をえてテレビをつけてしまい、そのチャンネルが見当たらず、水戸黄門(西村晃バージョン)を見てしまいました。

というわけで、今日も「意識散りまくり」の一日でした。辞書は、一ページもめくれなかった。でも、これは何年も同じことを繰り返し書いていることですが、神学は「教会の学」ですからね、教会と伝道の仕事でシッチャカメッチャカで翻訳と研究が停滞するなら、これは本望と考えるべきなんですよ、これは真面目な話です。

教会と伝道の仕事をサボってでも語学と学問にひたすら沈潜できるのは、学生時代だけの特権です。学生時代に学問で悩まなきゃ、いつ悩むのよって話。でも再び毒舌っぽくいえば(全部が毒舌ですね、これ)、澱みない透徹した論理は「神学」には似合わない。「教会」との取っ組み合いのストレスを耐え抜いて初めて「神学」なんですよ(ね?)。

これ、私が松戸小金原教会と喧嘩している、という意味じゃないですよ。それは完全な誤解です。我々にとっては「中会」も「大会」も教会ですし、日本キリスト改革派教会だけが「教会」ではないわけですから、教派を超えた活動や交わりも十分すぎる意味で「教会」の範囲内です。

そういう意味では(そういう意味でだけ)「神学」は強者の学問かもしれません。「教会」は、いつの時代も頑固で、てこでも動かない。しかし教会も堕落と腐敗なしにはありえず正常化と改革が必要。「神学」が教会の現状追認の学なら、それは堕落の学なんです。常に改革され続けなければ「教会」じゃないですよ。


2011年5月27日金曜日

重要なことは破局で終わらなかった場合まで考え抜くことだ

「今年の夏、我々はもはや電気を使ってはならないのではないか」というくらいに思い詰めている人たちがいるようですね。

でも、電気は使えばいいです。問題はありません。「湯水」か「停電」かの二者択一なんて誰にも迫られてないはずです。適度な使い方でいいと思いますよ。

それとも、使わなければならない人に電気を残すために「ゼロ電」を迫られる人がいるとでも心配しておられるのでしょうか。それは無いですよ。現代社会で「ゼロ電」は死ですからね。それは無いです。

まあね、せめて7月、8月を迎えてみなければ、実際にどうなるかは分かりませんけどね。というか日本の場合、四季がはっきりしすぎてるので、せめて一年過ごしてみないとね。

想像力が豊かなことは、良いことですけどね。「想像」と「妄想」は同じですよ。我々にとって重要なことは、破局の場合だけで想像をやめず、破局で終らなかった場合まで考え抜くことです。

「破局オチ」という言葉があるかどうかは知りませんが、いわゆる「死にオチ」なら知ってます。「死にオチ」なんてイマドキ、辞書に載ってるんじゃないかなあ。もうそんな狭い世界のウフフ用語じゃないですよね。

そういうのは、もう十分見ましたよ。そして、うっぷ、もう飽きた。そういうのいいから、次、次ー!って気分ですね。

いま考えている「ゼロ年代」の克服の道は、まだ分かんないですけどね。「ゼロ年代」(いちおう2000年から2009年まで、としておきますね)と「イチゼロ年代」(こちらは私の造語。他のだれかが使っているかどうかは知らないです。まさに「今、ここ」の状況のこと)とのたぶん最も大きな違いは「実名顔出し」ですよね。FacebookとTwitterの普及が、時代を分けていると思います。

「ゼロ年代オタク」の基本は匿名性だったはず。2ちゃんねるとmixiどまり、かな。私はほとんど初めからネットで実名顔出しをしてきましたが、少数派でしたね。「著名人でもないくせにエラソウに」とか見てた人もいるんじゃないですかね。

「ゼロ年代」以前からのオタクの人もいますよね。オタクにも四層くらいありそうです。初代オタク(80年代以前)、次世代オタク(90年代)、「ゼロ年代」オタク(00年代)、「イチゼロ年代」オタク(10年代)。

四層というのは、オタク生活を始めた時期を言ったまでで、「初代」だった人が今でもオタクであり続けている場合は「初代」にカテゴライズすればいいんですよ。

それで、私は、「初代」から「ゼロ年代」までは、道具は変わっても「結果」は変わってない、と感じているんです。

90年代までと比べて「ゼロ年代」が手にした圧倒的に有力な武器はネットだったでしょ。でも、ネットはネットでも、「ゼロ年代」に至っても、こと日本人の場合、匿名性の限界内の悪あがきのまま。それでは世界を変えられない。匿名の「意見」なんて、だれも信用しなかったんです。

それに対して、昨年あたりから本格化した「イチゼロ年代」は、それまでとは違ってきているようだと感じます。それは「オタクをやめて世間に出る」という変化じゃありません。実名顔出しで「オタクのまま世間に出る」ようになったのです。

いま文章、ちょっと変だったかな。「ゼロ年代」までは「世間に出る」ためには「オタクをやめること」が求められましたが(と思いますが)、「イチゼロ年代」以降は、「世間に出る」ためには、ある意味「徹底的にオタクのままであり続けること」が求められている気がするのです。

ま、今日はこれくらいにしますね。ヒントは、世界の最先端の情報はどこで得られるか、ですね。私もまだ煮詰まってませんです。Googleが「アングラ領域」を無くしたという点を加えておきましょうか。


2011年5月26日木曜日

「電源コードにつながったエヴァンゲリオン」と「ネットの匿名掲示板」は大差ない

余談ですが、『ONE PIECE』はどっちですかね。私の範疇表に従えば、ONE PIECEの世界は、どちらかといえばエヴァンゲリオンの世界(ただ物だけの世界)に近いのですが、ルフィの腕が百メートルくらい伸びている場面とか見ると、やっぱりDEATH NOTEの世界に近いのかなと、迷いそうになります。

しかし、まあ、ルフィの腕なら何キロ伸びても驚きもしませんし、あっても許す。でも、ノートに誰かの名前を書いたら、書かれたその名前の人が死ぬなんてのは、無いですよ。道徳的に許せないとか、そういう話とはだいぶ違いますよ。

だから、ここで、せっかく面白い問題提起をしてくださったのだから、その宇野常寛氏の本の話に戻らざるをえない。そういう気色悪いノートが「ある」前提を抜きにしては成立しない夜神月の犯行を、碇シンジが「止める」必要はない。「そんなノートはない」と言って相手にしなければ、何も起こらないのです。

いま書いたことを、もうちょっと丁寧に書きなおしますね。碇シンジが「そんなノートはない」と言って、彼とは別の世界に住んでいるかもしれないが、ともかく出会ったことがないし、出会うことができない夜神月のことなどどうでもよいと言って相手にしなければ、碇シンジが住んでいる世界には何も起こらない、です。

私は断然、碇シンジの世界に住んでいます。死神だの悪霊だのは全く「見たこと」がありませんし、その声を「聞いたこと」もありません。「どうせフィクションだから」というオチで結構。しかし、たとえフィクションでも、碇シンジと夜神月は共存できませんよ。碇シンジの世界に夜神月は存在しえないし、逆も然りです。

したがって、論理的に整えていえば、「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、出会うことができない夜神月を、碇シンジは止めることはできないし、かかわることさえできないから」と言えるのではないかと、考えているところです。

ゼロ年代のデスノートって何だったんでしょうね。「ネットの匿名掲示板」なんて答えは駄目ですよ、それは違います。書いた人間は匿名で、だれかの実名や悪口を書きこんで、その書き込みを読んだ相手が自殺した、なんてのは、デスノートでも何でもない。電線越しにつながっている相手への直接的な、まさに「電撃」攻撃です。

「電源コードにつながったエヴァンゲリオン」と「ネットの掲示板」は本質的に同じだし、一ミリも超えてない。でも、DEATH NOTEは存在しないです。「ネットの匿名掲示板」(電源コードつき)は、DEATH NOTEとは全く異質なものなのです。

昨夜は船橋高根教会で東関東中会伝道委員会。早朝は教会の月報の原稿書き(巻頭言など3ページ分)。その後すぐに出かけ、午前中は松戸市PTA連絡協議会でした。ガガガガとラッシュで仕事していると、同時並行でいろいろ書きたくなるんですよね。

��続けましょう)