2009年11月6日金曜日

「10年後の」民主党に期待します

民主党政権が誕生した日に「民主党に期待します」と書きました。もちろん本心から書きました。しかし意図的に書かなかったというか、いったんは書こうとして「いや、今はよそう」と思いとどめた部分がありました。あまり遅くなると「あとだしジャンケン」のようになってしまいますので、そろそろ白状します。

迷った言葉は「10年後の」でした。初めから「10年後の民主党に期待します」と書くつもりでした。応援したいと思ったのは「現在の」ではなく、「次の次の次くらいの」民主党です。まだテレビで顔を見たことがない議員たちと、これから議員になる人たちとに期待しています。

もちろんそのために必要なことは、「民主党政権」なる今の状況を、とにかく10年間維持することです。くだらないスキャンダルに足をすくわれたりしないこと。そのうえで、日本を「前時代的なもの」に戻さないことです。ところが、今の政権中枢にいる民主党の人々は、私に言わせていただけば(私が何も言わなくとも)「前時代的なもの」で満ち満ちています。共感していただける方は多いでしょう。

しかし「だから民主党も同じだ。権力を握った人間の末路はあんなもんだ。政治がどうなろうと日本は何も変わらない」と見るのか、それとも「いや、それは違う。新しい時代に芽生えたものを大事に育てていくべきだ」と思い定めるのかで、これから先の我々の生き方に小さからぬ違いが出てくるであろうとさえ感じています。

現在テレビに顔を出しておられる政権担当者の方々に感じる「前時代的なもの」が、ご両親のお言いつけ(帝王教育?)を素直に守っておられる結果なのか、それともどこかで教え込まれた結果なのかは分かりません(「インターネット時代における帝王教育の不可能性」参照)。

しかし「化石」とまでは言いませんが、ちょっとありえないくらい耐えがたい古さがあります。その正体はまだ見えませんが、いま感じていることは「民主党」の看板を預けることを躊躇せねばならないほどの帝国主義(Imperialism)です。

「帝国主義的民主主義」は完全な概念矛盾です。しかし、そういうものの残滓(ざんし)を民主党の現執行部には感じます。その様相たるや、まさかとは思いますが、「民主主義を勉強しろ!」と親や教師たちから体罰でも受けながら育てられたのかなと心配になるほどです。さまになっていない口先だけのデモクラシー。羊の衣を着た狼。博愛主義の体裁をとった任侠道。

それと、現執行体制に「思想が無い」とは言いませんが「浅い」とは感じます。目先のこと、小手先のことしか考えていない様子がありありと伝わってきます。学生時代は数学と英語とスポーツは得意だったという感じ。見るからにスマートでカッコイイ。教え込まれた事柄についての正確な反復と高速演算の能力は高い。体脂肪率が低くて、テレビ映りがよい。しかし、思想家然としたところがほとんど無い。

もし「官僚に頼らない政治」を本気でめざしておられるなら、すなわち、「事情通の方々に原稿を書いていただくことを前提としない政治」を本気で実現したいと思っておられるなら、もっともっと自分の頭と心で考えなくてはならないはずです。付け焼刃では何も切れません。国会議員自身が思想的に「深い」ものを持たなければ。

私の思いを率直にいえば、政治を行う人は「組織神学」を徹底的に勉強すべきです(政治には組織神学が「役に立つ」とはっきり言ってくれる佐藤優さんを応援しています)。

「組織神学」を学ぶ以外に政治に関する真の意味での「深い」問題解決はありません。教会と神学が二千年来教えてきたことは「神の法(ロー)」であり、「神の統治(ポリティクス)」であり、「神の経綸(エコノミー)」であり、「神の弱者救済(エイド)」です。

法と政治と経済と福祉は「三位一体の神の視点から」徹底的に考え抜かれる必要があります。その神に愛と恵みと喜びがあるのですから、政治のめざすべき目標もまた、愛と恵みと喜びに満ちた社会と個人なのです。それが我々キリスト教会の確信です。

10年後の民主党が「キリスト教民主党」になっているというような妄想を抱いているわけではありません。それどころか、10年後の日本に「キリスト教会」がなおきちんと立っているかどうかのほうを心配しなければなりません。

しかし、10年後の政権与党担当者に期待していることは「神学をしっかり学んだ政治家」であってほしいということです。神学は「誰でも取り組むことができる」という意味で普遍的なものです(「説教と神学は誰でもできる」参照)。そしてきちんと勉強するにはどんなことでも10年かかる。つまり、今から猛勉強を始めていただけば10年後には使い物になるでしょう。そういう人を私は陰ながら応援したいと願っています。

民主党の幹事長なる御仁が、本日、和歌山県高野町で次のように語ったと朝日新聞が伝えました。

「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点仏教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ。欧米人に仏教の神髄を説いてやるのは非常に意義がある。大変うれしい。排他的なキリスト教を背景とした文明は今、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ」。

まさにこれです、何十年も我々を苦しめてきたものは。根も葉もないデタラメな当て推量。世界の40億人ほどの宗教を「排他的」の三文字で十把ひとからげ。右も左も分からない子供じゃあるまいし、67年も生きてきて、国家権力の絶頂点にまで達しながら、まだこんなことを言っているのかと思うと、ため息が出ます。

くだらない。「排他的」なのは貴方だ。「キリスト教もイスラム教も」知りもしないような人には言われたくない。

私が期待しているのは「10年後の」民主党です。低劣な恐怖政治を克服した後に姿を現す、真に民主主義的な民主党。「次の次の次くらいの」民主党。まだテレビで顔を見たことがない議員と、これから議員になる人たち。その方々には、今しばらくの苦難のときを、忍耐と勇気をもって乗り越えていただきたいものです。

しかし、私の話には、いつも続きがあります。これで多くの人々をがっかりさせてきました。

教会のほうは教会のほうで、以下のような考え方をしてこなかったでしょうか。

「仏教も神道も非常に排他的だ。その点キリスト教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ。日本人にキリスト教の神髄を説いてやるのは非常に意義がある。大変うれしい。排他的な仏教や神道を背景とした文明は今、日本社会の行き詰まっている姿そのものだ」。

これは民主党の御仁の言葉をそっくりそのまま書き換えてみただけのものです。「説いてやる」というあたりの不遜さもそのまま再現しました。

他人のせいにしたくはありませんが、今からちょうど150年前から日本伝道を開始した(当初は主にアメリカの)プロテスタント宣教師の「伝道精神」の中に、この種の不遜さが潜んでいなかったでしょうか。このような「伝道精神」を、日本の教会は、ほとんどそのまま受け継ぎ、それをかなり長い間、保ち続けこなかったでしょうか。

このことを完全に否定する自信は、私にはありません。教会の側にもいろいろと反省すべき点があるかもしれないと、今朝あたりから考え直しているところです。

とはいえ、民主党の御仁がこのたび突如として発した「バテレン禁制令」にも似た凶悪なメッセージは、かの「9・11」をイスラム教の仕業と見立て、また「イラク戦争」をキリスト教の仕業と見立てての単純な図式化ではないかと何となく想像いたします。だから「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ」となる。「あの連中と比べれば仏教は広い」となる。

このような図式化は、コンビニエンスストアの雑誌棚に立ち並ぶゴシップ系雑誌の表紙に大きな文字で書かれる見出し語にするにも躊躇がありそうな、全くのデマです。しかし、宗教についての知識に乏しい人々には「分かりやすい話だ」と歓迎されてしまうのかもしれません。

イスラム教徒のすべてが「9・11」の主犯者であり、キリスト教徒のすべてが「イラク戦争」の主犯者でしょうか。ありえない。この種の大衆扇動は、ものすごく危険なものです。正直、勘弁していただきたい。いずれにせよ、国家の最高権力者が口にすべき言葉ではない。民主主義の根幹を危険にさらします。

「民主主義ではない民主党」は、概念矛盾であり、何一つ期待できません。

それでは、我々教会の者たちが反省すべき点は何でしょうか。

私が考えさせられているのは、御仁がしたような「キリスト教とイスラム教は○○だ」という十把ひとからげと同じような「仏教は○○だ」「神道は○○だ」という括り方の乱暴さです。

それはちょうど、数年前に再流行した血液型占いのようなものです。「O型の人は○○だ」「A型の人は○○だ」「B型は○○だ」「AB型は○○だ」。まるで60億人のキャラクターがたった四種類しか存在しないかのようです。これは危ない。

しかし、このような仕分けを、なるほどたしかに、一度ならずキリスト教会自身もしてしまったことを否定できません。

たとえば、19世紀末から20世紀初頭にかけてオランダで活躍した改革派神学者アブラハム・カイパーがその著『カルヴァン主義』(Calvinism)に採用した方法は、いわば全世界の思想を「異教主義」「(ローマ)カトリック主義」「ルター主義」「カルヴァン主義」の四種類に区別したうえで「カルヴァン主義」の偉大さを説明するというものでした。

私自身はカイパーを「大衆扇動者」呼ばわりするつもりはありませんが、この種の議論をキリスト教会自身が続けるかぎり民主党の御仁に言い分を与えてしまうことになりかねません。

ちなみに、カイパーが『カルヴァン主義』で行った議論は、ドイツの宗教社会学者マックス・ヴェーバーやヴェーバーの友人だった神学者エルンスト・トレルチのお気に入りのところとなり、とくにヴェーバー経由で日本の碩学たちに受け継がれてしまっているものでもあります。ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はカイパーの議論なしには成り立たなかったものであると断言できます。

このように申し上げている私は、カイパーの議論の「危険さ」を指摘している以上、ヴェーバーやトレルチの議論も「危険」であると申し上げているのです。両者は一蓮托生の関係にあると言えます。

その意味では、日本においては「神学」や「キリスト教学」よりも(その外見上の「学術的客観性」ゆえに)はるかに好意的に評価されてきた「比較宗教学」や「宗教社会学」も、一定の役割があることを理解してはおりますが、そのうえでなお「きわめて危険である」と言わざるをえません。

宗教を「理念型」によって仕分けることは、国家権力者による宗教団体の「管理」を確保する方法であると思われます。しかし彼らに「できること」と「できないこと」、あるいは彼らが「してもよいこと」と「してはならないこと」があるということを、我々教会の者たちとしては、はっきり伝える必要があるでしょう。

しかし、教会自身の反省は、このたびの件に限っては、あまりしすぎる必要はないとも感じています。

このたびの問題は、政権与党の幹事長なる御仁が自分の置かれた立場をわきまえていないとしか思えないことを口にした(それは通常「失言」と呼ばれる)という点もさることながら、もう一つのより深刻かつ重大な点として、御仁が身を置く政権与党の名称が「民主党」(Democratic Party of Japan)であるということにこそあります。

こちらから喧嘩を吹っ掛けるつもりはありませんが、「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。欧米人に仏教の神髄を説いてやる」などとおっしゃった以上、まずは御仁自身の「仏教民主主義」なるものでも提示していただかなければ、フェアな話とはとても言えないでしょう。その際教えていただきたいことは、「仏教」がその教義においてどのように「民主主義」と結びつくのかです。あるいは、「仏教」がその教義において、現在と未来の「民主主義の国」をどのように形づくることができるのかです。

そのことを、誰かの言葉や著書を読みなさいで済ませるのではなく、御仁自身の言葉と著書で、『仏教民主主義』なるタイトルで世に問うていただきたい。そして世界に広がる「キリスト教民主党」(Christian Democratic Party)を支持する人々と国際的な対話を展開していただきたい。

せめてそれくらいはしていただかなければ、政治家としての御仁の発言は、無責任極まりない、世襲たちの酒席のたわごとであると言わざるをえません。おふざけにしては影響力が大きすぎる。意図的ならば悪質です。

「キリスト教とイスラム教に排他的要素がないか」と問われるならば、「なるほど、そのような要素は過去にあったし、現在もあるし、将来もありうるでしょう」とお答えします。しかし、「はて、仏教と比べられて云々されるほどの排他性が我々にあるだろうか」と自問するなら、「それほどでもない」と自答するでしょう。

フランシスコ・ザビエル初来日から数えれば四世紀、プロテスタント宣教師初来日から数えれば150年、「キリスト教」は「仏教と神道の国」から不当に締め出され続けました。この歴史的事実を知らない者は、この国にはおりません。

それとも、「仏教」と「民主主義」の関係は必ずしも明白ではないとお答えになるのでしょうか。たとえば「私は仏教徒ではあっても民主主義者ではない。キリスト教とイスラム教に対しては弾圧的な立場をとり続けることこそが日本の国益につながる」とお答えになるのでしょうか。

そのような思想をもちうる権利は万人に保障されていると思います。しかし、もしそうであるならば「民主党」なるものの責任ある立場にとどまることはできないでしょう。「民主主義」という看板を悪用することは許されないでしょう。

先に「政治を行う人は組織神学を学ぶべきである」と、論理的には飛躍していることを承知しながら書いたことの一切は、このあたりに結びつきます。キリスト教を批判してくださることも結構。我々にとっては、そのようなことは言われ慣れていることです。

求めているのはフェアな議論の場です。それを成立させるために、キリスト教を、その教義を、十分に学んでいただく必要があるでしょう。申し上げているのは、そのことだけです。

2009年11月3日火曜日

オランダ国王首相の名誉博士称号授与式に出席しました

このところ落ち着かず、なかなか思うように書けません。先々週は大阪や仙台までの出張がありました。今日も、新幹線で盛岡まで行かねばなりません(日本キリスト改革派盛岡教会の新会堂献堂式です)。

さて、そのようなあわただしい中ではありましたが、10月27日(火)慶應義塾大学で行われた、オランダ国王首相ヤン・ペーター・バルケネンデ氏への名誉博士称号授与式に出席することが許されました。忘れないうちに書きとめておきます。

授与式が行われたのは、バルケネンデ氏が天皇と鳩山首相との会談を行った翌日でした。私がそのような場所に立ち入ることができたのは、法学部政治学科の田上雅徳先生が推薦してくださったおかげです。ファン・ルーラーについての拙文が慶大通信教育部教材誌『三色旗』に掲載されたことを労っていただいた格好です。

しかし、もちろん、慶大からの正式な招待状をいただき、IDチェックを受けたうえで入場させていただきました。会場の慶大三田キャンパスには、どれだけいるか分からないほど大勢の私服警官たちが、鋭い目で見張っていました。

その授与式には、『三色旗』の同じ号に素晴らしい論文をお書きになった、千葉大学法経学部の水島治郎教授も出席しておられました。水島先生、初めてお目にかかれてうれしかったです!

そのバルケネンデ氏が授章のあいさつとしておっしゃったことは、特筆すべきものでした。かなり流暢な英語で能弁なスピーチをなさいましたが、もしタイトルをつけるとしたら、「アブラハム・カイパーと福澤諭吉」(!)と付けても良さそうな話でした。

カイパーが設立したアムステルダム自由大学はバルケネンデ氏の母校でもあります。また、カイパーが設立したキリスト教政党「反革命党」は、バルケネンデ氏の所属政党(現在のオランダ与党)である「キリスト教民主党」の歴史的ルーツでもあります。

そのようにバルケネンデ氏の存在と歴史的に関係が深いアブラハム・カイパーと、慶應義塾大学の創設者福澤諭吉氏との共通点を、バルケネンデ氏は熱心に語られました。「なんかスゴイことになってきたなあ」と、まるで我がことのように感激しました。

私は、現在の慶大教授会の政治学専攻の先生の中でアムステルダム自由大学で学んだ経験を持っておられるのは田上先生だけではないかと思いましたので、「いよいよ田上さんの時代が来ましたねえ」と肘でつついたら、怖い顔で睨み返されました。田上先生があの顔をするのは「望むところだ」と武者震いしておられるときだと、勝手に解釈しております。

2009年11月1日日曜日

信仰とは諦めることの反対である


ヨハネによる福音書9・1~12

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム――「遣わされた者」という意味――の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、『これは、座って物乞いをしていた人ではないか』と言った。『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。そこで人々が、『では、お前の目はどのようにして開いたのか』と言うと、彼は答えた。『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、「シロアムに行って洗いなさい」と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。』人々が『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と言った。」

今日から何回かに分けて、ヨハネによる福音書の9章を学んでいきます。この章は、時間をかけて学ぶ価値があります。私はこの章がヨハネによる福音書の一つの絶頂点であると信じています。ここではっきり分かることは、救い主イエス・キリストが父なる神のもとから地上に遣わされた目的です。そのことが見事に描かれています。ひとがイエス・キリストによって救われるとはどのようなことであるのかがよく分かります。ヨハネによる福音書を学び始めて以来、「この書物は難しい、難しい」と頭を抱えながらお話ししてきました。皆さんに我慢を強いてきたことをお詫びする必要があります。しかし、この9章は面白い!そのことをお約束いたします。

イエスさまが歩いておられたとき、その道の脇に「生まれつき目の見えない人」と呼ばれていた男の人が座っていました。その人を見たイエスさまの弟子たちが、イエスさまに次のような質問をしたというのです。「ラビ」とは教師のことです。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と彼らは言ったのです。

この質問の意図は、わたしたちにとって馴染み深いものです。「わたしたち」とは日本人のことです。それは、「生まれつき」の病気や障がいの持ち主はいわゆる何かのばちが当たった人なのだという考え方です。私はこういう考え方がとにかく大嫌いです。聞くたびに嫌な気持ちにさせられます。絶対に受け入れるべきではない、非常に間違った考え方です。いわば「異教的な因果応報論」です。しかし、わたしたちはこの言葉を何度となく聞かされてきました。その意味で馴染み深い言葉です。

ただし、このとき弟子たちは、少しくらいは慎重に物事を考える力を持っていたようです。この人の生まれつきの病気は、何かのばちが当たった結果であるに違いないと、このような考え方を彼らはしました。しかしまた、このとき弟子たちは、いくらなんでもこの人が生まれる前にこの人自身が罪を犯すということは、たぶんないだろうと、これくらいのことは頭に浮かんだ様子です。「お腹の中で罪を犯す人間」というのがいて、そのような本人が絶対に自覚しようのない罪に対する罰を神さまがくだされたその結果が「目が見えない」という彼の生まれつきの病気であるというような奇妙な三段論法を思い描くことは、いくらなんでもできないと思ったようです。

それで彼らがその次に考えたことは、本人の罪でないならば、やはりあの人の両親かということでした。しかし、彼らがたどり着いた結論は、本人かそれとも両親かの二者択一であったということは間違いなさそうです。だからこそ彼らはイエスさまにこのような質問をしたのです。

いま申し上げたことは、もちろんあくまでも私の想像です。彼ら自身がイエスさまに期待した答えは、彼が受けている罰の原因は、彼自身の罪ではなく、彼の両親の罪にあるということではなかっただろうかと私は考えます。本人が生まれる前に罪を犯すということは、どう考えてもありえないことです。ばかげているとしか言いようがありません。

しかし、両親の罪であると言われる場合には、どうでしょうか。もしかしたら多くの人が納得してしまうかもしれません。単に宗教的な「神の罰」という話としてだけではなく、たとえば遺伝の話、あるいは今の人が言うところの薬害の話、あるいは妊娠中にかかった病気や怪我や事故の話、あるいはいわゆる「生活習慣病」と呼ばれるようなものを両親またはどちらかの親が持っていて、そのせいで子どもが苦しみを味わっているのだというような話。あえて名づけるとしたら「医学的な因果応報論」です。このような話になっていきますと、そのような子どもたちを持っている親たちの中には、とても肩身の狭い思いにどんどん押しやられていくものを感じる人が出てくるでしょう。

こういう話になってきた場合には、「全く身に覚えがないか」と問われると、そうとも言い切れないと感じるであろう親たちは決して少なくないはずです。いまさら責められても自分たちから生まれた子どもに対して何をどうしてあげることもできないのだけれども、「お父さん、お母さん、あなたがたにも責任があります」と指摘する人がいれば、心の中で悲鳴をあげながらではありますが、「なるほど言われるとおりかもしれない」と認めざるをえないものを持っている親たちはいるのだと思います。

しかし、まさにいまさら責められてもどうしてあげることもできないと思うのが親でもあります。生まれてきた子どもが自分に似ていると、親たちはたいてい喜びますが、子どもたちには迷惑な話かもしれません。子どもたちが思春期になる頃に「あなたの子どもとして生まれてきたことが残念だ」と言われてしまう日が来る(すでに?)かもしれません。

しかし、そんなことをお互いに言いあってみても何一つ状況は変わりませんし、幸せになる要素は何にもありません。ただ傷つけあい、ただ嫌な思いをし、子どもたちも親たちも、泣きわめくくらいしかなすすべがありません。「あの人の病気はだれの犯した罪のばちですか。本人ですか、両親ですか」。誰のせいなのか。誰が悪いのか。こういう問いかけ自体が大きな落とし穴であり、罠です。問うことそれ自体を禁じることはできませんが、問うてみたところで、誰も幸せになりません。

もしこの問いにイエスさまが「それは本人ですよ」と、あるいは「それは両親に決まっていますよ」とお答えになったとしても、それによって弟子たちに何が分かるというのでしょうか。そもそも彼らはこの質問によって何を知りたかったのでしょうか。生まれつき目の見えないという人がもう二度と生まれないように、再発防止策(?)でも考えたかったのでしょうか。そのような医学的関心からでしょうか。いや、そんなはずはありません。おそらくはただの興味本位です。あるいは、イエスさまの弟子である人々は同時に聖書を学ぶ人々でもあったわけですから、「この障がい者の問題」を聖書的に考えるとしたらどのような答えが出るだろうかというようなことを考え始めたのです。私自身は、そのような考え方や態度や物の言い方が、本人に対しても、親たちに対しても、いかに失礼で迷惑なものであるかと、常日頃から感じています。

弟子たちの言葉をお聞きになったイエスさまが怒りを覚えられたかどうかは分かりません。しかしイエスさまがおっしゃった言葉は、かなり激しい勢いで、弟子たちの前にまるで仁王のようにお立ちになっておっしゃっているように思います。そして、イエスさまは、生まれつき目の見えない人と、その人の両親が置かれた苦しい立場を強く弁護し、かばおうとして、おっしゃっています。そのように捉えることは間違ってはいないだろうと私は信じます。

仮に百歩譲ってそれが本人の罪によるものであろうと、両親の罪によるものであろうと、共通しているのは、そのことが分かったところで、だれも幸せにならないという点です。たとえば、こういう話を聞くことがあります。「あの人は熱心なクリスチャンなのに、どうしてあんな重い病気にかかっているのだろうか。やはり神などおられないのか。それともあの人は自分や家族が犯した罪の罰を受けている、とでも考えるべきなのか」。もちろんこういうことを“考えること”が絶対に許されないとは思いません。“考えること”は万人に許された自由です。しかし、問題はこの先です。わたしたちは、自分の頭で考えたことを何でもかんでも口に出して言ってよいわけではありません。こういうことを言うと、いつ・だれが・どのような形で傷つくだろうかと、それこそ深く考えなければなりません。

弟子たちが「神などおられない」と考えることは無かったかもしれません。そのように考えることは、神を信じる彼らにはできなかったでしょう。その選択肢を選ぶことは、弟子たちにはなかったでしょう。しかし、その選択肢を選ぶことができないからこそ、的外れな責任追及の矛先が本人や両親に向かってしまうことはありえたでしょう。「神」を疑うことはできないゆえに、とことん「人間」を責め続ける。そのような「神中心的因果応報論」に陥ることがありえたでしょう。

すべての不幸は人間の罪の結果であると考えることが全く間違っていると申し上げているわけではありません。しかし、そのことと、何か特定の病気や障がいが、あの人・この人が犯した罪の結果として起こったことなのだと、そのような結び付け方をして誰かを傷つけることとは、全く違うことなのです。しかし、このような一種独特の歪んだ考え方、間違った信じ方が弟子たちの中に染み付いてしまっていたかもしれない。この個所を読む限り、そのように考えてみることもできそうなのです。

病気や障がいの中で苦しんでいる人々の側からすれば、それはあなたのせいだ、自業自得だと言われることに反論するのは難しいと感じるでしょう。あるいは、誰かのせいだ、親のせいだと言われることにも、言い知れぬ苦痛を味わうことでしょう。この病気が、障がいが、動かしがたい事実として、自分の目の前に立ちふさがっているかぎり。責められれば責められるほど絶望するしか道が無くなるのです。明るく生きること、いや、生きることそれ自体を諦める以外の道を奪われてしまうのが、我々のよく知っている「因果応報」の考え方です。

しかし、イエスさまのお答えは、絶望の闇を払いのけるものでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

もう時間ですので、続きは来週お話しします。最後に一言だけ申し上げておきたいことは、イエスさまがこの人の前でおっしゃったことは、「お上手な言い方をなさった」というような次元で捉えてはならないものであるということです。その人の苦しみの原因を美しい言葉で解釈してあげた、というようなことではありません。事実として神の業がこの人に現れました。彼は神を信じるようになりました。それによってこの人は「諦めること」をやめました。それが彼の救いになったのです!

(2009年11月1日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年10月31日土曜日

説教と神学は誰でもできる

ともかく願っていることは「神学の価値を安く見積もらないでください」ということです。「教会の生命としての神学」に手抜き工事があるような教会は、まともな教会にはならないし、教会堂その他の見てくれが立派なだけの張り子の虎にすぎません。そんな程度のもので「神の栄光を表す教会」と言えますかと、問うてみたい。



いずれにせよ、教会は神学をなめないほうがいいと、私は思います。神学なき説教は空言です。説教が「神学的に見てまともでない」教会は、そもそも「教会」ではありません。神学とは日々の苦闘の賜物なのです。苦もなく、どこからともなく自動的に繰り出されてくるようなものではないのです。どこかに勘違いがありはしませんか。



「説教なんて誰でもできる」と思われていることは、好ましいことでもありますので、その見方は甘受します。事実、牧師たちは「誰でもできること」をやっています。長老たちにも、日曜学校教師たちにも、すべての教会員にも、「説教すること」は可能です。「上手に話すこと」なら、牧師たちよりはるかに優れた人たちが、どの教会にもいます。



ただし、「説教ができる」とは「神学ができる」ということとほとんど同義語です。神学も「誰でも」できます。ぜひ今すぐに取り組みを始めてください。多くの人たちが神学に真剣に取り組むようになれば、「神学なしにも説教はできる」という誤解や甘い見方から我々は全く解き放たれるでしょう。そのような日が来ることを心待ちにしています。



しかも、「神学」は、大学や神学校の在学中にだけ取り組むものではありません。「在学中は神学研究に熱心でしたが、卒業後、教会の牧師になってからは、神学どころじゃなくなりました」と言い出す教師たちが多いことも私はよく知っています。同業者ですので、その気持ちが全く分からないわけではありません。



しかし、はっきり言っておきます。「神学どころじゃない」人は、たぶん「説教どころじゃない」のです。「説教どころじゃない」人は、たぶん「教会どころじゃない」のです。そういう人はたぶん「牧師どころじゃない」人なのです。その人はたぶん、自分の本務とは別の何ごとかに熱心に取り組んでいるのです。



2009年10月30日金曜日

具体的なモデルはある

「お金、お金、お金。」などと書いた途端、今やすっかり悪役キャラでしょう。私はだれから何と思われようと構いませんが(これまでも恥の多い生き方をしてきましたので少し慣れました)、「神学にどうしてそんなにお金がかかるの?」と見ている人々がいるとしたら、その考えを根本的に改めていただきたいという思い余っての「お金。お金。お金。」です。



しかし、私が求めてきたことには、優れた先例とすべき具体的なモデルがあります。それは、東京の信濃町教会様が設けておられる「神学教育助成資金」です。



日本基督教団信濃町教会「神学教育助成資金」
http://www.shinanomachi-c.jp/jyosei.html



このことを日本キリスト改革派教会の教師である私がどうして知っているのかといえば、ネットで検索すれば誰でも探せるという面もありますが、私の場合はその理由ではありません。数年前、ある方の紹介を受けて、私が「代表」をしている研究会の名前で申請してみたことがあるからです(残念ながら落選となりましたが)。



この「神学教育助成資金」の「改革派神学」に特化された制度をつくることが、我々にどうしてできないでしょうか。できないはずがないと考えている私は甘いでしょうか。「盗用」は許されませんが、もしゼロから考えはじめることが難しいとしたら、初動段階では信濃町教会様の模範的先例に倣えばいいのです。「神学」とあるところを「改革派神学」に、また「信濃町教会」とあるところを「日本キリスト改革派教会」なり、「○○中会」なり、「神戸改革派神学校」なりに、それぞれ書きかえるだけです。



あとは、このファンドを管理する委員会を作り、委員長を決めるだけ。初めての取り組みにはさまざまな不安が伴うでしょうから、運営上の問題点をあらかじめ信濃町教会様にご指導いただくこともよし。そこまで行けば、あとはゴーサインを待つばかりです。



信濃町教会様、申し訳ありませんが、以下に引用させていただきます。



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信濃町教会の「神学教育研究資金」



信濃町教会は、神学的自覚に立った宣教と教会形成を促進するため、【神学教育研究資金】を設け、[A]研究助成、[B]出版助成の対象企画を募集いたします。ふるってご応募ください。               



[A]研究助成の対象
 教会と神学に関する個人研究または共同研究



[B]出版助成の対象
 神学上の優れた著作。広く宗教学や精神史の領域にまたがる研究も含みます。
 日本語による原稿で、出版社が決定しているものに限ります (申請は一出版社一点に限ります)。



★ 助成金額
 1件につき50~100万円の範囲で助成いたします。
 なお、「研究助成」の場合、その成果を何らかの形(公刊、報告書、講演)で報告して頂きます。



★ 申請に必要なもの
 ① 規定の申請書(お申し出により郵送)
 ② 出版助成の場合 原稿を3部(コピー)



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(引用終わり)



2009年10月29日木曜日

神学、神学、神学。お金、お金、お金。

前稿は「何のために頑張って来たのかが分からなくなってしまいました」で終わってしまいました。気持ち自体は書いたとおりですが、ここで終わってしまっては、まるで今の私が絶望のどん底にでもいるかのようです。そういうことにしておいて(私が「絶望のどん底にいる」ふりをして)同情者を募るという手を使うというやり方も要検討課題かもしれませんが、そういう姑息っぽいやり方は私のポリシーに反します。



というか、関口という人間は「同情しがいのない人間」であるということが個人的に知っている多くの人に認識されてしまっていますので、同情作戦は完全な無駄骨に終わります。見た目的(みためてき)には私は元気そのものなのです。内心ではどんなに落ち込んでいても、はた目には何事も無かったかのようです。しかし、それはそれは私にとっては突然飛んできたパンチでした。「効いていませんか」と問われれば「いいえ。かなり」とお答えするでしょう。



今年の夏頃のことです。私自身もそのために力を注いできた“小さな神学共同体”が一夜にして崩壊するというひどい目に遭いました。こういうところに個人名を書くわけにはいきませんので詳しいことは何一つ書くことができませんが、どのようなことがあったのかを日本キリスト改革派教会の人たちは知っています。



最愛の妻に言わせると「そんなに簡単に崩れるようなものは、最初から大したものじゃなかったのよ」とのことですので、なるほどそうかもしれないと諦めることにしました。



その意味ではもう諦めたのですから、後ろを振り向きたいとは思いません。まさに「無かったことにする」しかない。しかし、言葉にならない空虚感を抱えて、ひたすらため息とうめき声を吐き出すばかりです。「言葉」が信頼を失ったのです。すると、どうなるか。「あなたがたが何を言っても無駄である。なぜなら、あなたがたの口から発せられる言葉自体がもはや信頼できないのだから」というダッチロール状態に陥り、墜落の一途を辿らざるをえません。



私が求めてきたことは「神学研究の経済的根拠」です。「全額個人負担の神学」が、どうして「教会の学」でありうるのでしょうか。これこそ概念矛盾というのです。



最も理想的にいえば「教会の学(Wissenschaft der Kirche)としての神学」は、中会(presbytery)こそが営むべきです。そして「中会が神学を営む」と私が言う場合の意味は「中会の経常会計から神学研究活動を支出する」ということです。その方法としてともかく思いつくのは、以下の四つの方法です。



■方法1
中会に「改革派神学研究ファンド」(仮称)を設置し、同ファンドを管理・運営する委員会を中会内に設ける。そして神学研究に取り組んでいる人々を同ファンドが(厳正な審査を経て)経済的に支援する。



■方法2
中会に「改革派神学研究委員会」(仮称)を設ける。同委員会は神学研究の場(講演会、シンポジウム、原書講読会など)を自ら提供しつつ、中会内の「神学に関する経済的ニード」(資金不足を理由に頓挫している神学研究者たちのニード)があれば、支援の方法を検討・善処する。



■方法3
改革派神学研修所の「○○教室」を有志で設け、最寄り中会との連携の可能性を模索しながら、自主的な神学活動を続ける。



■方法4
改革派神学研修所または神戸改革派神学校の「エクステンション制度」を利用する。年に数回程度、研修所または神学校から神学教師を派遣してもらい、中会主催の、または自主的な講演会を開く。



ちなみに、これら四つの方法の順序は、上から「お金がより多くかかる順」です。「■方法4」には自己負担的要素はありませんが、自由裁量度は低くなります。



今年崩れ去ったのは、「■方法3」です。いろいろあって、あれよあれよの間に「閉鎖」を余儀なくされました(これが私の憂鬱の原因です)。



しかし、これで終わりではありません。少なくともあと二つの方法が残っていますし、もっと多く残っています。



「お金、お金、お金。」と書きますと、自分がまるで拝金主義者になってしまっているようで本当は嫌なのです。私ほどお金そのものに執着のない人間はいないでしょうに!



しかし、これまで10年間、いえ、19年前に伝道の仕事に就いて以来悩み続けてきたのは、以下の問いです。



「神学研究に真剣に取り組まないかぎり、真の教会は立たない。しかも、神学研究を(非教会的な)大学教授たちの専売特許にさせないためには、とにかく教会の牧師たちが率先して神学に取り組むしかない。しかし、牧師たちには神学研究に必要十分な経済基盤がない。無い袖は振れない。たしかにそうではある。しかし、『無くとも振るべき袖がある』と言わなければならないのも神学である。神学を放棄することは教会を放棄するのと同義語である。ならば、我々はどうすればよいのだろうか」。



これを短く言えば、「神学、神学、神学。お金、お金、お金。」となるわけです。





2009年10月27日火曜日

砂上の楼閣

過去10年間求めてきたもう一つの願いは、我々の神学研究に「経済的裏打ち」が欲しいということでした。「神学、神学、神学」といくら叫び続けても、お金がなければ資料を購入することができないし、パンフレット一冊、自著一冊出版することもできません。資料的裏付けに乏しい本は、出版する価値がありません。紙資源の無駄であり、環境破壊以外の何ものでもありません。神学に関していえば、一冊の本を書くために数百万円規模の基礎資料が必要です。それくらいの費用がかかっていない本は、読む価値がありません。出版費用の問題は「印刷・製本費用」の問題だけではないのです。より深刻な問題は中身のほうです。



しかし他方、「本にならない神学」はいつでも必ず趣味、妄想の扱いです。実際これまで何度となく「関口牧師はなんだかいつもパソコンで遊んでばかりなんですね」と言われて悔しい思いをしてきました。これは私にとって最も言われたくない痛い言葉です。何度も言われてきましたのでいくらか打たれ強くもなりましたが、それでも実はいまだに寝込んでしまいそうなほどきついです。「本にならない字」をどれほどたくさん書こうとも、趣味、妄想のたぐいだと思われてしまうことに変わりはないのです。そういうことは自分自身が一番よく分かっていますので、これを言われると本当につらいです。私の最大の弱点です。



このところ日本のキリスト教出版社が進めている事業のひとつは、絶版となった名著の「オンデマンド化」です。あるいは世界的に見ても、版権の切れた名著の多くがインターネットで全文公開されるようになりました。しかし、我々の場合は、言ってみれば「初めからオンデマンド」です。一度もきちんと印刷・製本されたことがないし、表紙がついたこともない。物笑いの種以上のものになったことがない。



我々の言葉が「本にならない」理由は「お金がないから」です。私が求めてきたことを一言で言えば「改革派神学の日本における地位向上」です。そのために必要なことは「本にすること」です。そして、そのために「神学の研究ならびに出版資金を得るための制度を構築すること」が必要不可欠であると信じ、10年以上頑張ってきたつもりです。



その願いがもしかしたら実現するのではないかと期待できるまで状況が整ったのは、今年の前半のことでした。手が届きそうな距離にやっと近づいたと感じました。



しかし、この願いが、今年の夏頃、無残にも破壊されました。砂上の楼閣はあっという間に崩れ落ちました。そのことが夏以降、私の大きな悩みとなり、物事に取り組む意欲がガクンガクンと減退しています。何のために頑張って来たのかが分からなくなってしまいました。



正面玄関の改装

トップページ(旧「信仰の道を共に歩もう」)の名称を「改革派信仰の新しい視点」に変更し、デザインを更新しました。一応ここ(トップページ)が正面玄関からフロントにかけての場に当たる部分ですので、お客さまにはできればここから入っていただきたいなと思いつつ作りました。



「改革派信仰の新しい視点」
http://www.reformed.jp



mixi退会しました

mixiを退会しました。plaxoも退会しました。ブログの情報量や更新頻度も、これからは大幅に制限していくことにしました。



何度も書いてきましたとおり1998年以降インターネットにかかわるようになった動機は、苦しみと涙をもって地方伝道に従事している牧師と教会員に「神学」に関する情報を提供することでした。



そのために、最初はメーリングリスト、次にブログ、そしてmixiなどSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を用いてみました。その実験に成功したとは思っていませんし、満足感なども一向にありませんが、地方(≠首都圏ならびに大都市部)では得られないような質の情報提供をめざしてきたつもりです。喜んでくださる方々も少なからずいました。



地方伝道の何が苦しいのかといえば、情報不足が苦しいのです。情報格差による孤立感はとにかくひどいものです。他のことは大したことではありません。私も苦しみました。自ら苦しみながら、互いに助け合うことができる方法を模索しはじめました。しかし最初は何をどうしたらよいのか、さっぱり分かりませんでした。インターネットの活用方法が分かりませんでした。それでいろいろ手を出してみました。mixiもその一つでした。



ともかく、いつまでもダラダラ続けるつもりは最初からありませんでした。そろそろ潮時です。



2009年10月25日日曜日

伝道の神学 喜びの人生をめざす旅人の力

ファン・ルーラーが幼少期に通ったアペルドールン改革派教会
(2008年12月9日 関口康撮影)

講演「伝道の神学 喜びの人生をめざす旅人の力」

関口 康

Ⅰ 「伝道の神学」の主体としての「地域性密着型中会」

この改革派神学研修所東北教室は、厳密に言えば東北中会とのダイレクトな関係にはない、あくまでも有志のグループであるという事情はよく理解しているつもりです。しかしまた、このグループが日本キリスト改革派教会東北中会に所属する教会・伝道所との緊密な関係の中で営まれて来たものであるということは明言してよいはずです。

私は以前、東関東中会議長書記団を代表して東北中会の定期会を問安させていただいたことがあります。そのときが東北中会の皆さまとの正式な形での初顔合わせでした。そのときの会場も、今日と同じ東仙台教会でした。その日を含めると、東関東中会のメンバーになって以来二回目の「東北中会訪問」ということになります。

私は、東北地方とは縁もゆかりもない岡山県岡山市の出身者です。しかしそのような私でも、日本キリスト改革派教会の教師にしていただいて以来、東北中会の諸教会のために祈らなかった日はありません。伝道の戦いにおいては同志であり、同労者であると信じています。伝道に伴う苦しみや悩みは、それに携わったことがある者にしか分かりません。私も今、毎日のように涙を流していますので、皆さんの思いは痛いほど理解しているつもりです。

「おやおや、東関東中会は東北中会よりもラクチンではないのですか」と思われてしまうかもしれませんが、決してそんなことはありません。都会には都会なりの悩みがあり、独特の誘惑や罠が手ぐすね引いて待ち受けています。伝道がラクチンな地域など、地上には存在しないのです。

しかしまた、この日本の国土環境や経済状況などを考えますと、首都圏の伝道と地方都市や農村部の伝道とを全く一緒くたに丸めてしまうような議論や、各地の個性や固有性や特色を完全に無視してアイロンやローラーのようなもので均してしまうようなやり方がきわめて乱暴であることも事実です。

イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを本旨とする「伝道」においても「地域性」(locality)というものが最大限に尊重される必要があると信じています。象徴的な言い方をお許しいただくなら、 伝道とは、飛行機の上から種をまき散らすような(大雑把で当てずっぽうな)仕事ではなく、ミミズの目を探すような(緻密で繊細な)仕事であると考えております。

東関東中会をわたしたちが2006年7月に設立したときに掲げた、自己紹介のための理念は「地域性密着型中会」(locality-oriented presbytery)というものでした。この理念を考えたのは私ですが、 初代中会議長になられた横田隆先生が、大会向けにお書きになった文章に採用してくださいました。

この「地域性密着」という表現は、私の中では、一般的な意味での「地域密着」とは異なる概念です。しかし、このことについては中会設立時点の私にはきちんと説明する場も立場も与えられていませんでしたので、一緒くたにされたまま誤解されています。

現に、たとえば「地域性密着型中会としての東関東中会」という言葉を見た他中会の人々の中に、「東関東中会のような地域癒着型で利益誘導型の中会では、日本キリスト改革派教会としてのアイデンティティを保つことができない」という理由で批判している人がおられるということを後で知りました。その話を最初に聞いたとき、私は心底がっかりしたのです。人間の耳と心というものは、かくも歪んでいるのかと。

そして、もう一つのことを考えさせられました。それは「それでは改革派教会のアイデンティティとは何なのか」ということでした。

改革派教会のアイデンティティとは何なのでしょうか。大会決議を守ることでしょうか。それならそれでも結構です。しかしそれでは大会決議とは何なのでしょうか。それは、都会の有力教会の多数意見を力任せに押し通すことであってはならないでしょう。そもそも大会決議なるものは、地方の教会の現実が反映されていないようなものであってはならないでしょう。「地域性密着型中会」が無いようであっては、健全な大会決議もありえないでしょう。

突き詰めていえば、「地域性」(locality)というものに関心を払わないような教会、すなわち、各中会の意見を反映することを怠る大会のもとにある一全体としての教派は、真の意味での「改革派教会」ではありえないでしょう。我々の大切な教派が、そのようなものになっては、あるいは「しては」なるまいと、私は考えました。

「地域性密着型中会」という東関東中会の理念を「地域癒着型中会」だとか「利益誘導型中会」などと聞きまちがえた人たちを責めたい気持ちは、私にはありません。故意や悪意であるとも思っていません。ただひたすら、ぜひ正しく理解していただきたいと願っているだけです。

しかしまた、私は今日ここに、東関東中会を代表して来ているのではなく、あくまでも個人的な奉仕として来ています。これから申し上げることはすべて、私の個人的見解にすぎません。誰とも相談していません。発言の責任もすべて関口個人にあります。

しかしまた、そうであるという事情をあらかじめしっかりと確認したうえで、私が掲げた「伝道の神学」というテーマの中には、私自身の眼前に常に現実に存在する「東関東中会」の存在が念頭にあるのだということも否定できない事実であると明言しておきます。

そしてもし可能でしたら、定期大会記録に明記されている東関東中会が掲げた「地域性密着型中会」という理念を思い起こしていただきたいと願っています。この理念の本当の意味は何なのかということを正しく理解していただくことが、今日の講演の第一の目標であると申し上げておきます。

そして、この講演の第二の目標として考えておりますのが、講演のタイトルとして掲げた「喜びの人生をめざす旅人の力」としての「伝道の神学」とは何かということを理解していただきたいということです。

もちろん第一の目標と第二の目標は直接つながっている関係にあると私は信じています。すなわち、第一の目標である「地域性密着型中会」とは何かを理解していただくことと、第二の目標である「伝道の神学」とは何かを理解していただくこととが、私の中ではっきりとつながっています。

第一のつながりは、「伝道の神学」なるものを展開していく具体的な場は、大会でも神学校でもなく、「中会」であるということです。「いや、それは各個教会ではないのか」と思われるかもしれませんが、各個教会が単独で「神学」を営むことにはちょっと荷が重すぎる面があります。もちろん、伝道そのものの主体は各個教会であると言わなければなりません。しかし、「伝道の神学」を構築し、展開していくための場ないし主体は「中会」でなければなりません。

ですから、私の思いからすれば、各中会に「神学委員会」のようなものが設置されることが理想です。しかし、それが叶わなくても、せめて各中会に(東北中会にあるような)「改革派神学研修所○○教室」のようなものが置かれるべきです。

しかも、その場合の中会とは「地域性密着型中会」、すなわち、その中会が置かれている地域の地域性 (locality)を最大限に尊重すべきことを自覚し、かつ実践する人々の集まりでなければなりません。

 同じ一つの日本キリスト改革派教会に属する同志であっても、たとえば「東北中会の伝道の神学」と「東関東中会の伝道の神学」と「東部中会の伝道の神学」とその他の中会の「伝道の神学」との間には(一致点や共通点とともに)相違点があって然るべきです。

すべてが同じでなければならないと、自分たちの「伝道の神学」を押し付け合うことは問題を抽象化することであり、妄想に通じるとさえ言わざるをえません。

第二のつながりは、第一に申し上げたことのほとんど繰り返しであり、同じことの別の観点からの言い換えです。それは、そもそも「神学」とは個人のわざではなく、共同体のわざであるということです。それは信仰共同体としての教会のわざであり、教団・教派のわざでなければなりません。

神学とは個人的な思想・信条ではありません。ですから、はっきりいえば「中会なしに神学なし」です。そして逆も然りです。「神学なしに中会なし」でもあります。

まとめていえば、「中会の第一義は神学共同体である」ということです。神学を放棄した中会は、本来の意味での「中会」ではありえません。「中会」とは神学、とくに「伝道の神学」を共有する場なのです。

そして、中会には教師だけがいるのではなく、少なくとも(「教会の会議において、教師と同等の権威を有する」)長老がおり、そして すべての教会員が属しています。

もしそうであるならば、「地域性密着型中会の神学」としての「伝道の神学」は、(何らかの学位や留学経験をもった)神学教授職にある人の専売特許ではなく、すべての 教会員のものでなければならないのです。

Ⅱ ファン・ルーラーの「伝道の神学」

さて、序論的な話をひとまず終えて、次の話に進めます。以下の主題は伝道の神学とは何かという ことです。この件に関して私は一つのモデルをご紹介したいと願っています。

それは〝国教会系〟等 と称された、歴史的に古いほうの「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde Kerk)の中で、1950 年代に考案された「伝道の神学」の例です。

発案者は、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])です。私はこの神学者についての研究を10年ほど続けてきました。この神学者はオランダ改革派教会 (NHK)の牧師であり、ユトレヒト大学神学部において「オランダ改革派教会担当教授」の職務に 就いた人でもあります。

このように紹介しますと、先ほど申しあげた、「伝道の神学とは神学教授職にある人の専売特許ではない」という話と矛盾するとお感じになるかもしれません。しかし、この点で申し上げておきたいことは、ファン・ルーラーが「伝道の神学」を考案した動機は、その時代に実施されていたオランダ改革派教会の『教会規程』の全面的な改定作業という歴史的大事業に寄与することであったという点です。

改定以前の古い版の同教会の『教会規程』は、なんとナポレオン統治時代のものでした。そのような古文書(こもんじょ)を改訂する委員会における主要なメンバーの一人がファン・ルーラーでした。

つまり、ファン・ルーラーの「伝道の神学」は、抽象的な机上の空論などではありえず、きわめてリアルなプレゼンスを持つ一つの「オランダ改革派教会」をそれに基づいて動かすこと、さらに「カルヴァン主義の国」とまで呼ばれたオランダの歴史と伝統そのものを動かすことを目標にした、きわめて具体的で現実的で実際的な提案であったということです。

そのファン・ルーラーの「伝道の神学」とはどのようなものだったのでしょうか。その概要をこれからご説明していきたいと思います。

しかし、まずそのテキストについて申し上げておくべきことがあります。ご存じの方もおられると思いますが、ファン・ルーラーの「伝道の神学」(Theologie van het Apostolaat)の日本語版が 2003年に教文館から出版されました。しかし、非常に残念なことに、これがものすごく読みにくい訳でした。はっきりいえば、ちんぷんかんぷんの、ひどいものでした。

私はこれを訳した人を個人的に知っていますので、悪口のようなことはなるべく言いたくないのですが、このようなひどい訳を流通させたままではファン・ルーラー先生に申し訳ないという思いさえ持っています。

ファン・ルーラーのこの書物は、国際的に高い評価を得ている、非常に優れた「伝道の神学」のモデルなのです。これを私は日本の教会の多くの人々に読んでいただきたいと願っています。そのために私は、今の訳本が早く絶版にされ、一刻も早く新訳で紹介し直されることを願っています。

ファン・ルーラーは「伝道の神学」を順序立てて考えて行くために、次の五つの教義学的な視点を設定しました。第一は終末論の視点であり、第二は聖定論の視点であり、第三は聖霊論の視点であり、第四は人間論の視点であり、第五は教会論の視点です。

これらすべての内容をご紹介する時間はありませんし、ファン・ルーラーの説明そのものを詳細に紹介することもできません。

そのため私は、わたしたち日本の教会的文脈の中で比較的理解しやすいと思われる視点をいくつかピックアップして私なりの言葉で解説していくことにします。それは最初の「終末論の視点」です。もう一つ挙げておきたいのが第四の「人間論の視点」です。

Ⅲ 終末論の視点から見た「伝道」

終末論から話を始めるというのは、人によっては奇妙な見方であると感じるものでもあるでしょう。なぜなら、ファン・ルーラーが登場するよりも前の時代の教義学において、終末論が置かれる位置は、「巻末付録」とまでは言われないにしても、ほとんど例外なくいちばん最後のほうの数ページの部分に割り当てられることになっていたからです。

実際、ファン・ルーラーの神学は「終末からの思惟」 (thinking from the End/ Denken vanuit einde)などと評せられるものであり、終末論からすべての神学を出発することが、彼の神学の特徴であるとさえ考えられています。

しかし、このファン・ルーラーの終末からの思惟は、「伝道の神学」を考えて行くためには、わたしたちにとって非常に有益であると思われます。なぜなら、間違いなくわたしたちの多くは、「終末」(the End)という言葉には「目的」(purpose)ないし「目標」(goal)という意味があるということを知っているからです。

なぜわたしたちの多くがそのことを知っているかといえば、わたしたちが常日頃から慣れ親しんでいるウェストミンスター信仰規準(とくに、ウェストミンスター小教理問答の第一問答)に何が書かれているかを知っているからです。

「問 ひとの主な目的(end)は何であるか。

 答 人の主な目的(end)は神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことである。」 

そうです。わたしたちがウェストミンスター小教理問答の第一問において「目的」と訳してきた言葉こそがendなのです。

つまり、この問い(ウ小教理 1 )の趣旨を考えますと、これは endを問うている問いである以上、そのままで「終末論的な」問いかけでもあるのだということを、わたしたちは知っているのです。

すると、どうなるでしょうか。たった今申し上げたことからお分かりいただけることは、ファン・ルーラーの伝道の神学の特徴である「終末からの思惟」とは、将来においてわたしたちが実現すべき目的、ないし到達すべき目標のほうから現在のあり方を考えるということを意味するのだということです。

この点がわたしたち自身の「伝道の神学」を考える際に非常に役立ちます。なぜなら、「目的」ないし「目標」を定めることが、伝道にはどうしても必要不可欠だからです。

ただし、問題は、わたしたちはそれをどのようなものと定めるかです。ここから先はファン・ルーラーが言っていることではなくて、私が申し上げたいことです。

伝道の目標とは、たくさんの人数を集めることでしょうか。伝道の目的とは、大きな教会堂を立てることでしょうか。もちろん、それらのことも重要であるとは思います。しかし、あえて問いたいことは、それだけでしょうかということです。

いみじくもわたしたちは、ウェストミンスター信仰規準(とりわけウェストミンスター小教理問答の第一問答)と共に、わたしたちの人生の目標とは「神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」であると、声を大にして告白し続けてきたのです。

このことは、伝道の目標にも通じるはずです。ただし、「神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」を伝道の目標にすると私が言いますと、この人は問題を抽象化していると感じられてしまうかもしれません。しかし、これは決して問題の抽象化ではないと申し上げておきます。

考えていただきたいのは、 このウェストミンスター小教理問答における最も重要な点は「わたしが喜ぶこと」にあるということです。この答えを短く言い直せば、「わたしの目標ないしわたしの人生の目的は、このわたしが喜ぶことである」と言っているのと同じであるということです。

このことを伝道の神学に当てはめて言えば、こうなります。「伝道の目標もまた、このわたしが喜びの人生をめざすことにある」ということです。「喜び」とは、もちろん人間的・主観的・感情的・生理的な要素です。私が申し上げたいのは「伝道の神学」からそのような要素(人間的・主観的・感情的・生理的な要素)を切り落としてはならないということです。

わたしたちは、そのような要素を非常に強く抑制してきた面があります。「人間的な考えをやめよ」、「主観に陥るな」、「感情に走るな」、「生理的なことを教会に持ち込むな」。このような考えは、まさに悪い意味での禁欲主義なのだと思います。

しかし、わたしたちの教派においては、ウェストミンスター小教理問答第一問が「わたしが(神を)喜ぶこと」を人生の目標に定めていることにおいて、悪い意味での禁欲主義というものが禁止されているのだと読むことが可能です。そしてわたしたちは次のように考えることができます。

「伝道の目標とは、このわたしの喜びにこそある。このことを終末論的に考え直すならば、わたしの喜びを究極的に実現するための伝道とはどのようなものであるのかということこそが重要な問題なのである」。このような順序で、わたしたちは、伝道の神学を考えて行くことができるのです。

この文脈でファン・ルーラーが主張するもう一つの重要な点は、伝道のキリスト論的位置づけです。 彼によると、伝道は「キリストの昇天」と「キリストの再臨」の中間時(ちゅうかんじ)になされるものであり、かつ両者の間をつなぐ要素はローマ・カトリック教会が考えたような連続性(キリストの受肉の継続としての教会など)や自然的要素(血縁、血統、遺伝など)ではなく「飛躍」(sprong)であると言っています。

いま、私は二つのことを申し上げました。第一は、「伝道とは中間時の事柄である」ということです。 第二は、「キリストの昇天と再臨をつなぐ要素は飛躍である」ということです。

前者の「伝道とは中間時の事柄である」という命題から引き出される帰結は、伝道の未完結性です。伝道が未完結であるということは、わたしたち自身の信仰も、信仰者としての実存も、そして教会の存在や活動も、すべては未完結のままであるということです。

この点は、牧会的にいえば非常に大きな意味を持つはずです。とくに日本の教会には、家族揃ってあるいは夫婦揃って教会に通っているという方々は少なく、家族の中で一人だけ通っているという方々が非常に多いことを、私はもちろん知っています。その場合にわたしたちが関心を持たざるをえない問題は、家族の救いということです。

そして、この文脈の中で、わたしたちが「伝道の未完結性」という点から考えていくことができるのは、いわゆる「未信者」とは、まさに読んで字のごとく「未だ信仰に至っていない人」のことであり、しかしまたそれは「今は未だ信仰に至っていないが、これから信仰に至るであろう人」のことでもあるという、希望の告白をなすこともできるということです。

さて、ファン・ルーラーが書いているもう一つの点としての「伝道とはキリストの昇天と再臨との中間時を橋渡しする飛躍である」という言葉の意味は何でしょうか。あらかじめ申しあげておきたいのは、これもわたしたちにとっての希望のメッセージになりうるものであるということです。先ほど少しだけ触れましたように、ファン・ルーラーは、この「飛躍」の意味を連続性や自然というものとは反対の意味を持つ言葉としてとらえました。その場合のとくに「自然」とは、血のつながりや民族的一致のことなどを意味しています。

しかし、「伝道」とは、なるほど「飛躍」であるかぎり、「自然的な連続性」という概念では決してとらえることができないものです。この点でわたしたちが知っている現実は、信仰こそは血縁あるいは遺伝によって自動的(オートマティック)に継承されるものではありえないということです。

もしそういうことが現実に起こるであれば、わたしたちが伝道のために死に物狂いで戦うことなど全く無駄で無意味なことになります。子どもたちを苦労して日曜学校に通わせる必要もありません。もし信仰というものが、血から血へと、自動的に、遺伝的に継承されるものであるとするならば、です。

しかし、そのようなことは起こりえないということを、わたしたちは知識の上でも体験の上でも知っています。信仰の継承には、伝道というプロセスがどうしても必要不可欠です。そこに、洗礼を受けた信仰者としての「人間」の存在が必要不可欠であり、かつ信仰者の共同体としての「教会」が必要不可欠なのです。

なぜこのことが、ここにいるわたしたちにとっての希望のメッセージになるのかといえば、「伝道」の意味を考えるときにこそ、わたしたちが教会に集まる理由がはっきりと分かり、さらに教会の存在理由(レゾンデートル)そのものがはっきりと分かるからです。

わたしたちは、日曜日のたびごとに無駄で空しいことをしているわけではありません。神がこの地上で「伝道」のみわざをお進めになるための「道具」として、わたしたち、キリスト者としての個々人と教会とが選ばれ、用いられているのです。

これらの議論が、ファン・ルーラーの『伝道の神学』における第二点の「聖定論的視点」と 第五点の「教会論的視点」の項で扱われています。

人間論的視点から見た「伝道」

次に見ていきますのは、「伝道の神学」を構築していくためにファン・ルーラーが設定した「人間論の視点」とは何なのかということです。

ファン・ルーラーが「人間論」(anthropologie)という概念を用いる場合の意味は、言うまでもなく「神学的人間論」のことであり、とくに改革派神学、あるいは改革派教義学におけるそれのことを指しています。そのことが分かるのは、彼が「人間論的視点」において重要であるとする概念が「神との契約のもとにある人間」、そして「神のかたちとしての人間」の二つであることです。

ファン・ルーラーは、「神との契約」という概念は「人間とは生ける神が御自身の歴史的なみわざに おいて御自身の周りに創出される共同体にはめこまれ受容された、神の協力者(パートナー)である」 ということを我々に理解させるものであるとしています。

また、「神のかたち」という概念は「人間と は神と向き合う位置にある者であり、神は人間においてこそ御自身の本質を表され、映し出してくださる」ということを理解させるものであると言っています。ファン・ルーラーによると、「神のかたち」 という概念のほうが「神との契約」という概念よりも広い範囲を包括している、とも言っています。

そして、このあたりからファン・ルーラーならではの独特の議論が開始されるのですが、彼は「神のかたちとしての人間」という命題の中の「神」を、とくに「聖霊なる神」と結び合わせてとらえています。すると、どうなるか。

「聖霊(なる神)は終始一貫、人間的な姿をおとりになる。聖霊の判断は、人間の判断という形態をとる。聖霊のみわざは人間の体験の中に具体性を持つ。聖霊(プネウマ) 全体は、人間的なるものの中で形態を獲得するのである。」

この個所でファン・ルーラーが描いているのは、伝統的な神学的概念を用いて言えば「聖霊の内住」 (inhabitatio Spiritus sancti)の事態です。つまり、それは、聖霊(なる神)が人間存在の内側に 「住む」ないし「宿る」という事態です。

そして、この「聖霊の内住」という事態は 17世紀の改革派神学者ヨードクス・ファン・ローデンステインの言葉を借りて言うと「三位一体の内住」(inhabitatio Dei trinitatis)でもあるのだと、ファン・ルーラーは他の書物の中で書いています。

つまり、彼に言わせると、「聖霊なる神が人間の中に住んでくださる」ゆえに、結局は、父・子・聖霊なる三位一体の神御自身の判断とわたしたち人間自身の判断とは重なり合うものになっていくのであり、そのようにして、「神御自身のみわざは・わたしたち人間の体験の中で・地上的な形態を獲得するのである」と語ることができるようになるのです。

そして、ファン・ルーラーは次のような衝撃的な命題に至ります。「キリスト教とは啓示と異教主義の混合(アマルガム)である」。

この命題によって彼が何を問いたいのかといえば、たとえば、芸術や科学、また「異教的本性をもつ生の衝動や霊性から生まれる文化」といったものが神の御前に有する価値は何なのかという問いです。たとえば、わたしたちキリスト者は、芸術や科学のすべてを「それは虚偽である」とか「それは偶像礼拝である」などとそっけなく拒否することができるのだろうかという問いです。あるいは、「キリスト教的芸術」や「キリスト教的文化」とは結局何を意味しているのかという問いでもあります。

そのようなものは成り立ちうるのか。わたしたちは何をもってそれらが「キリスト教的」であると判断しうるのかという問いです。この文脈においてファン・ルーラーは、「我々は広範な人間関係の土台をもたず、いかなる具体的な形ももたず、常に狭い稜線を歩くような仕方で、ひたすら潔癖な信仰生活を送らなければならないのだろうか」と書いています。

このファン・ルーラーの問いは、わたしたちの伝道にとって根本的な意義を持っていると思います。 伝道が異教主義に飲み込まれてしまうようなことは決してあってはならないことであるということは よく分かる話です。

この異教の国日本の中で徹底的に非妥協主義の線をとることこそが伝道であるという理解は、ある意味で正しいし、正しすぎるほど正しいものです。しかし、その次にすぐに間違い なく起こる問いは、「それでは、わたしたちは、どこに生きればよいのでしょうか」ということです。

もし異教の要素というものが全く存在しない、いわば「真空領域」というようなものがもはや地上のどこにも無いのだとしたら、わたしたちは「生きる場を失った」、つまり「死ぬしかない」と考えなければならないのでしょうか。

わたしたちの信仰的確信によると、異教とは罪です。しかし、文化そのものは罪でしょうか、芸術は罪でしょうか。いわゆる「俗世間」と呼ばれる何かに対してわたしたちがポジティヴにかかわることは決して許されてはならないことなのでしょうか。キリスト者はそれらのものと常に対立し続ける存在でなければならないのでしょうか。

そうではないはずだということを、ファン・ルーラーは訴えています。この神学者に聞くべきことは多いと、私は信じています。

具体的な提案

最後に、各個教会の伝道の実践に寄与するための具体的な提案をさせていただきます。何の具体性も持たないような「伝道の神学」は概念矛盾です。

しかしまた、これから私が申し上げることの中に、目新しいことはほとんどありません。伝道の新しい方策を私が知っているようなら、松戸小金原教会は今よりもっと成長しているでしょうし、自らの成功例をひっさげて日本キリスト改革派教会と日本の教会全体に向かって大いにアピールしていることでしょう。しかし、そのようなことを私はできていませんし、できません。

第一の提案は、「とにかく〝教会〟を重んじましょう」ということです。わたしたちの主なる神は、「教会を用いて」御自身のみわざを行ってくださるのです。わたしたちが教会において、また教会として行っている奉仕の働きは、それ自体が「神のみわざ」なのです。

第二の提案は、「教会においてこそ、とにかく〝人間〟を重んじましょう」ということです。これを言うと、つまずきを感じるという方がおられるかもしれません。「教会とは、人間を重んじる場所ではなく、神を重んじる場所である」と語るほうが、その方々には納得していただけるかもしれません。しかし、ここでこそ、もう一度思い起こしていただきたいことは、たった今申し上げた「教会は神のみわざである」ということです。

教会においては、神御自身が人間を重んじてくださるのです。神は教会において、教会を通して、わたしたち人間を、神御自身のみわざを推進するための道具として、尊く用いてくださるのです。神がわたしたち人間と「このわたし」を重んじてくださるのですから、神と共に判断すべきわたしたちもまた、〝人間〟 を重んじなければならないのです。

ただし、いま申し上げていることは、わたしたちは「教会に通っている人」だけを重んじるべきであって、それ以外の人々は軽んじるべきであるというような意味ではありません。そのようなことを神がお考えになるだろうかと考えてみるべきです。

そもそも伝道とは、誰に向かってすることでしょうか。わたしたちは、通常の理解によれば、すでに洗礼を受けている人々、すなわち、すでに教会の内側にいる人々に対して「伝道」はしないのです。わたしたちは、いまだに洗礼を受けていない人々、すなわち、いまだ教会の外側にいる人々に対してこそ「伝道」するのです。

事の真相がそうであるという場合に、わたしたちが繰り返し自分自身に問い続けなければならないことは「伝道は嫌味や皮肉や喧嘩腰で可能だろうか」ということです。「俗世間」を一方的に批判し、攻撃するばかりの、常にワサビと辛子を練り合わせたような、辛辣でネガティヴな言葉を重ねることが「伝道」でしょうか。

私には、そのようなやり方で「伝道」は無理だと思われてなりませんので、このことを一つの問いとして、皆さんの前に置いておきます。

第三の提案は、「伝道においてこそ、とにかく〝ノーマルであること〟を重んじましょう」ということです。

ファン・ルーラーの有名な言葉に「我々はキリスト者になるために人間なのではない。人間になるためにキリスト者なのだ」(英訳We are not human in order to become Christian, but we are  Christian in order to become human.)というのがあります。これを別の言葉で言い換えるとしたら、 伝道の目的とは「特殊な人間」を生み出すことではなく、わたしたちが「普通の人間」になることにこそある、ということです。

私は、このファン・ルーラーの命題は非常に正しいものであると信じています。どう間違えても、傲慢の高みに立って「俗世間」を見くだすことが、わたしたちの伝道の目的ではありえないからです。

(2009年10月25日、改革派神学研修所東北教室神学講演会、日本キリスト改革派東仙台教会)