2009年11月1日日曜日
信仰とは諦めることの反対である
ヨハネによる福音書9・1~12
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム――「遣わされた者」という意味――の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、『これは、座って物乞いをしていた人ではないか』と言った。『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。そこで人々が、『では、お前の目はどのようにして開いたのか』と言うと、彼は答えた。『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、「シロアムに行って洗いなさい」と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。』人々が『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と言った。」
今日から何回かに分けて、ヨハネによる福音書の9章を学んでいきます。この章は、時間をかけて学ぶ価値があります。私はこの章がヨハネによる福音書の一つの絶頂点であると信じています。ここではっきり分かることは、救い主イエス・キリストが父なる神のもとから地上に遣わされた目的です。そのことが見事に描かれています。ひとがイエス・キリストによって救われるとはどのようなことであるのかがよく分かります。ヨハネによる福音書を学び始めて以来、「この書物は難しい、難しい」と頭を抱えながらお話ししてきました。皆さんに我慢を強いてきたことをお詫びする必要があります。しかし、この9章は面白い!そのことをお約束いたします。
イエスさまが歩いておられたとき、その道の脇に「生まれつき目の見えない人」と呼ばれていた男の人が座っていました。その人を見たイエスさまの弟子たちが、イエスさまに次のような質問をしたというのです。「ラビ」とは教師のことです。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と彼らは言ったのです。
この質問の意図は、わたしたちにとって馴染み深いものです。「わたしたち」とは日本人のことです。それは、「生まれつき」の病気や障がいの持ち主はいわゆる何かのばちが当たった人なのだという考え方です。私はこういう考え方がとにかく大嫌いです。聞くたびに嫌な気持ちにさせられます。絶対に受け入れるべきではない、非常に間違った考え方です。いわば「異教的な因果応報論」です。しかし、わたしたちはこの言葉を何度となく聞かされてきました。その意味で馴染み深い言葉です。
ただし、このとき弟子たちは、少しくらいは慎重に物事を考える力を持っていたようです。この人の生まれつきの病気は、何かのばちが当たった結果であるに違いないと、このような考え方を彼らはしました。しかしまた、このとき弟子たちは、いくらなんでもこの人が生まれる前にこの人自身が罪を犯すということは、たぶんないだろうと、これくらいのことは頭に浮かんだ様子です。「お腹の中で罪を犯す人間」というのがいて、そのような本人が絶対に自覚しようのない罪に対する罰を神さまがくだされたその結果が「目が見えない」という彼の生まれつきの病気であるというような奇妙な三段論法を思い描くことは、いくらなんでもできないと思ったようです。
それで彼らがその次に考えたことは、本人の罪でないならば、やはりあの人の両親かということでした。しかし、彼らがたどり着いた結論は、本人かそれとも両親かの二者択一であったということは間違いなさそうです。だからこそ彼らはイエスさまにこのような質問をしたのです。
いま申し上げたことは、もちろんあくまでも私の想像です。彼ら自身がイエスさまに期待した答えは、彼が受けている罰の原因は、彼自身の罪ではなく、彼の両親の罪にあるということではなかっただろうかと私は考えます。本人が生まれる前に罪を犯すということは、どう考えてもありえないことです。ばかげているとしか言いようがありません。
しかし、両親の罪であると言われる場合には、どうでしょうか。もしかしたら多くの人が納得してしまうかもしれません。単に宗教的な「神の罰」という話としてだけではなく、たとえば遺伝の話、あるいは今の人が言うところの薬害の話、あるいは妊娠中にかかった病気や怪我や事故の話、あるいはいわゆる「生活習慣病」と呼ばれるようなものを両親またはどちらかの親が持っていて、そのせいで子どもが苦しみを味わっているのだというような話。あえて名づけるとしたら「医学的な因果応報論」です。このような話になっていきますと、そのような子どもたちを持っている親たちの中には、とても肩身の狭い思いにどんどん押しやられていくものを感じる人が出てくるでしょう。
こういう話になってきた場合には、「全く身に覚えがないか」と問われると、そうとも言い切れないと感じるであろう親たちは決して少なくないはずです。いまさら責められても自分たちから生まれた子どもに対して何をどうしてあげることもできないのだけれども、「お父さん、お母さん、あなたがたにも責任があります」と指摘する人がいれば、心の中で悲鳴をあげながらではありますが、「なるほど言われるとおりかもしれない」と認めざるをえないものを持っている親たちはいるのだと思います。
しかし、まさにいまさら責められてもどうしてあげることもできないと思うのが親でもあります。生まれてきた子どもが自分に似ていると、親たちはたいてい喜びますが、子どもたちには迷惑な話かもしれません。子どもたちが思春期になる頃に「あなたの子どもとして生まれてきたことが残念だ」と言われてしまう日が来る(すでに?)かもしれません。
しかし、そんなことをお互いに言いあってみても何一つ状況は変わりませんし、幸せになる要素は何にもありません。ただ傷つけあい、ただ嫌な思いをし、子どもたちも親たちも、泣きわめくくらいしかなすすべがありません。「あの人の病気はだれの犯した罪のばちですか。本人ですか、両親ですか」。誰のせいなのか。誰が悪いのか。こういう問いかけ自体が大きな落とし穴であり、罠です。問うことそれ自体を禁じることはできませんが、問うてみたところで、誰も幸せになりません。
もしこの問いにイエスさまが「それは本人ですよ」と、あるいは「それは両親に決まっていますよ」とお答えになったとしても、それによって弟子たちに何が分かるというのでしょうか。そもそも彼らはこの質問によって何を知りたかったのでしょうか。生まれつき目の見えないという人がもう二度と生まれないように、再発防止策(?)でも考えたかったのでしょうか。そのような医学的関心からでしょうか。いや、そんなはずはありません。おそらくはただの興味本位です。あるいは、イエスさまの弟子である人々は同時に聖書を学ぶ人々でもあったわけですから、「この障がい者の問題」を聖書的に考えるとしたらどのような答えが出るだろうかというようなことを考え始めたのです。私自身は、そのような考え方や態度や物の言い方が、本人に対しても、親たちに対しても、いかに失礼で迷惑なものであるかと、常日頃から感じています。
弟子たちの言葉をお聞きになったイエスさまが怒りを覚えられたかどうかは分かりません。しかしイエスさまがおっしゃった言葉は、かなり激しい勢いで、弟子たちの前にまるで仁王のようにお立ちになっておっしゃっているように思います。そして、イエスさまは、生まれつき目の見えない人と、その人の両親が置かれた苦しい立場を強く弁護し、かばおうとして、おっしゃっています。そのように捉えることは間違ってはいないだろうと私は信じます。
仮に百歩譲ってそれが本人の罪によるものであろうと、両親の罪によるものであろうと、共通しているのは、そのことが分かったところで、だれも幸せにならないという点です。たとえば、こういう話を聞くことがあります。「あの人は熱心なクリスチャンなのに、どうしてあんな重い病気にかかっているのだろうか。やはり神などおられないのか。それともあの人は自分や家族が犯した罪の罰を受けている、とでも考えるべきなのか」。もちろんこういうことを“考えること”が絶対に許されないとは思いません。“考えること”は万人に許された自由です。しかし、問題はこの先です。わたしたちは、自分の頭で考えたことを何でもかんでも口に出して言ってよいわけではありません。こういうことを言うと、いつ・だれが・どのような形で傷つくだろうかと、それこそ深く考えなければなりません。
弟子たちが「神などおられない」と考えることは無かったかもしれません。そのように考えることは、神を信じる彼らにはできなかったでしょう。その選択肢を選ぶことは、弟子たちにはなかったでしょう。しかし、その選択肢を選ぶことができないからこそ、的外れな責任追及の矛先が本人や両親に向かってしまうことはありえたでしょう。「神」を疑うことはできないゆえに、とことん「人間」を責め続ける。そのような「神中心的因果応報論」に陥ることがありえたでしょう。
すべての不幸は人間の罪の結果であると考えることが全く間違っていると申し上げているわけではありません。しかし、そのことと、何か特定の病気や障がいが、あの人・この人が犯した罪の結果として起こったことなのだと、そのような結び付け方をして誰かを傷つけることとは、全く違うことなのです。しかし、このような一種独特の歪んだ考え方、間違った信じ方が弟子たちの中に染み付いてしまっていたかもしれない。この個所を読む限り、そのように考えてみることもできそうなのです。
病気や障がいの中で苦しんでいる人々の側からすれば、それはあなたのせいだ、自業自得だと言われることに反論するのは難しいと感じるでしょう。あるいは、誰かのせいだ、親のせいだと言われることにも、言い知れぬ苦痛を味わうことでしょう。この病気が、障がいが、動かしがたい事実として、自分の目の前に立ちふさがっているかぎり。責められれば責められるほど絶望するしか道が無くなるのです。明るく生きること、いや、生きることそれ自体を諦める以外の道を奪われてしまうのが、我々のよく知っている「因果応報」の考え方です。
しかし、イエスさまのお答えは、絶望の闇を払いのけるものでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
もう時間ですので、続きは来週お話しします。最後に一言だけ申し上げておきたいことは、イエスさまがこの人の前でおっしゃったことは、「お上手な言い方をなさった」というような次元で捉えてはならないものであるということです。その人の苦しみの原因を美しい言葉で解釈してあげた、というようなことではありません。事実として神の業がこの人に現れました。彼は神を信じるようになりました。それによってこの人は「諦めること」をやめました。それが彼の救いになったのです!
(2009年11月1日、松戸小金原教会主日礼拝)