2009年10月8日木曜日
2009年10月7日水曜日
過去のもの
これはたしか高校三年の春から夏にかけての頃、同年九月に行われる学園祭で販売する同人誌『朝日文学』のために書いたものです。当時17歳。部員二名の「文学部」の部長でした。この部と同人誌は長い伝統を持っている由緒正しいものだそうですが(真偽不定)、私の頃は誰も見向きもしないものになり果てていました。それでも、多くの友人が呼びかけに応じて投稿してくれましたし、学園祭では販売のために走り回ってくれました。雑誌に文章を書くとか編集に携わるという仕事をしたのは、これが生まれて初めてです。印刷・製本の費用のために岡山市内のスポーツ用品店はじめいろんなお店から「広告費」を提供していただいたりもしました。どう見ても文章が支離滅裂なのは、登場人物の性格設定上故意にそうしている部分と当時の作文能力の低さに因る部分とが錯綜しているせいです。もちろんこんなもん今更持ち出すとはお前はただのバカなのかと思われること必至であることは分かっていますが(ただのバカであることも自覚していますが)、今読むと《昭和な》雰囲気がよく出ているなと自画自賛(?)できますので、再公開することにしました。
あることをきっかけにやむに已まれぬ気持ちが生じたため、なんとなく長編小説にすることをめざしてウェブ上に書き始めましたが、多忙の中あえなく頓挫しました。「自叙伝を書いているのではないか」と誤解され(「誤解」です本当に)、これはヤバいと思ったのもたぶん挫折の理由です。フィクションです、これは(ということにしておきます)。しかし、主人公の「自称『哲学者』」の設定年齢は、たしかに私と同い年です。時代もまさに今。共働きの家庭のなかで夫側が感じるであろう(本当はおそらく決して感じてはならない)《悲哀》のようなものを表現してみたくなったものです。このテーマは私の中で当分失われそうにないので、そのうち衝動的に続編ないし全く新しいものを書きはじめるかもしれません。小説を書くって、本当に難しい!
2009年10月5日月曜日
国際ニュースで学ぶオランダ語
「ラジオオランダ世界放送」(Radio Nederland Wereldomroep)国際ニュースの2009年10月4日(日)午後8時50分(現地時刻)配信分より。
【本文】
* Weggestuurde Japanse oud-minister dood
De Japanse oud-minister van Financien Shoichi Nakagawa is dood aangetroffen op zijn bed. De doodsoorzaak is nog niet bekend; volgens de politie zijn er geen sporen van geweld. De 56-jarige Japanse minister werd in februari wereldnieuws, toen hij bij de G-7 in Rome zat te knikkebollen en op een persconferentie nauwelijks uit zijn woorden kwam. Het leek erop dat hij dronken was, hij sprak dat later zelf tegen. Hij zou last hebben gehad van medicijnen en een jetlag. Kort daarna moest Nakagawa aftreden; eind augustus verloor hij ook zijn parlementszetel.
【発音】
ドゥ ヤパンセ アウトミニステル ファン フィナンチエン ショウイチ ナカガワ イス ドット アンヘトロッフェン オプ ゼイン ベット。ドゥ ドーツオルザーク イス ノフ ニート ベケント。フォルヘンス ドゥ ポリチー、ゼイン エル ヘーン スポーレン ファン ヘベルト。ドゥ ゼスエンフェイフタハ ヤーリヘ ヤパンセミニステル ヴェルト イン フェプルアリ ウェレルトニーウス、テーン ヘイ ベイ ドゥ ヘーゼフェン イン ローム ザト テ クニッケボーレン、エン オプ エーン ペルスコンフェレンチー ナウェラックス アイト ゼイン ウーデン クワム。ヘット レーク エロプ ダット ヘイ ドロンケン ヴァス、ヘイ スプラック ダット ラーテル ゼルフ テーヘン。ヘイ ゾウ ラスト ヘペン ヘハト ファン メディセイネン エン エーン イェトラフ。コルト ダールナ メースト ナカガワ アフトリーデン。エイント アウフストゥス フェルロール ヘイ オーク ゼイン パーレメントゼーテル。
【和訳】
・Weggestuurde Japanse oud-minister dood
辞めさせられた日本の元大臣が死去
・De Japanse oud-minister van Financien is dood
日本の元財務大臣が死亡した
・aangetroffen op zijn bed
自分のベッドの上で発見された
・De doodsoorzaak is nog niet bekend
死因はいまだ不明である
・volgens de politie
警察によると
・zijn er geen sporen van geweld
暴力の形跡はない
・De 56-jarige Japanse minister werd in februari wereldnieuws
56歳の日本の大臣は2月に世界のニュースになった
・toen hij bij de G-7 in Rome zat te knikkebollen
ローマでのG7のとき座って居眠りした
・op een persconferentie nauwelijks uit zijn woorden kwam
記者会見のときほとんど何も言えなかった
・Het leek erop dat hij dronken was
飲酒していたように見えた
・hij sprak dat later zelf tegen
それを後に自分で否定した
・Hij zou last hebben gehad van medicijnen en een jetlag
薬と時差ぼけのせいにしたらしい
・Kort daarna moest Nakagawa aftreden
まもなく辞職せざるをえなかった
・eind augustus verloor hij ook zijn parlementszetel
8月末に国会議員の座を失った
2009年10月4日日曜日
神に属する者は神の言葉を聞く
ヨハネによる福音書8・31~47
「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。』彼らが答えて、『わたしたちの父はアブラハムです』と言うと、イエスは言われた。『アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。』そこで彼らが、『わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です』と言うと、イエスは言われた。『神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。』」
先週の個所の最後に記されていた言葉は、わたしたちにとって慰めを感じるものでした。「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」(8・30)。イエスさまが御言葉を一生懸命語っておられるのに、なかなか聞く耳を持つ人がいない。聞く耳を持つどころか、あることないこと、やいのやいの言われる。そもそもイエスさまの命を虎視眈々とつけ狙っている人々が見張っている中でもある。イエスさまの説教を妨害したい人々が言いたい放題のことを言い出す。しかし、そのような中でイエスさまの御言葉に耳を傾け、信じる人々がやっと現れた。これは本当に素晴らしいことだと、ほっと胸をなでおろしたくなるようなことが書かれていました。
ところが、です。そのようにして御自身の言葉にやっと耳を傾け始めた人々に対して今日の個所でイエスさまがおっしゃっていることは、かなり厳しい内容であるということが、読むとすぐに分かります。イエスさまのなさることに文句を言うことは慎まなければなりませんが、物事の進め方としては、かなり勿体ない感じもします。せっかく仲間になってくれそうな人々が見つかったのに、その人々に対してイエスさまが痛烈な批判を述べておられるわけです。このようなやり方は、人々を集めようとするやり方であるというよりも、散らそうとするやり方ではないかとさえ感じられます。
しかし、ここでやはりわたしたちが考えなければならないことは、このようなイエスさまのなさり方が間違っているわけではないということです。大雑把な言い方ですが、イエスさまは単なる人集めや政治的な票集めをなさっているのではないということです。イエスさまが父なる神さまのもとから遣わされてきた目的は「真理を語ること」であると自覚しておられました。真理とはしばしば耳触りの悪いものでもあるということを、わたしたちは考えざるをえません。
御自分を信じたユダヤ人たちにイエスさまがおっしゃった言葉は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」というものでした。これがさっそくユダヤ人たちの気に障るものになりました。「真理があなたたちを自由にする」と言われると、今の我々は不自由であると言われているかのようだ。まるで奴隷扱いだと感じて反発したのです。我々は奴隷になど一度もなったことはないと。
それに対してイエスさまが言われたのが「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(8・34)という御言葉でした。そして、彼らユダヤ人がいかに罪深い存在であるかを示している動かぬ証拠は、このわたし、イエス・キリストを殺そうとしていることであるということを語られはじめたのです。次のように語られています。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(8・37)。
イエスさま、ちょっとお待ちくださいと言いたくなる場面です。「多くの人々がイエスを信じた」(8・30)と書かれているではありませんか。信じた人々がせっかくたくさん与えられたのに、その人々に「あなたたちはわたしの言葉を受け入れない」とおっしゃるのはひどいではありませんかと。しかし、イエスさまは、彼らの信仰は本心ではなく、うわべだけであると見ておられたに違いありません。
さて、この個所で説明が必要であると思われる部分は、ユダヤ人たちがイエスさまの前で繰り返し「わたしたちはアブラハムの子孫です」(8・33)「わたしたちの父はアブラハムです」(8・39)と主張し、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(8・41)と言い張っていることの意味は何だろうかということです。とくに「姦淫」とは何を意味するのかを考えておく必要があるでしょう。
彼らが言っていることを簡単に言い直せば、我々はいわゆる混血ではないということです。混血、これは今では全くひどい差別用語ですので、口にするのも嫌な表現ではあるのですが、要するに複数の民族の血が混ざっている状態を指して言うものです。ユダヤ人はそうではないと言いたいのです。我々は信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継いでいる者たちであると。我々だけがそうであって、我々以外の民族、とりわけサマリア人には異邦人たちの血が混ざっている。アブラハムの血を純粋に保とうとしない彼らは「姦淫」の罪を犯したのであると言いたいのです。全くうんざりさせられます。
もう一つ考えてみたいのは、「信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継ぐ」とは彼らユダヤ人たちにとって何を意味するのかという点です。その内容ははっきりしています。それは、我々ユダヤ人こそがアブラハムが信じた神から生まれた神の子であるということです。「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」(8・41)と彼ら自身が言っているとおりです。
この理屈がわたしたちにとっては非常に分かりにくいものになるはずです。なぜ分かりにくいかと言いますと、彼らが言っていることを突き詰めると、まるで信仰とは血から血へと(自動的に!?)遺伝するものであると言っているかのようになってしまうからです。この点は、わたしたちには全く受け入れられません。理屈の上でも体験的にも受け入れられません。信仰者の子どもたちが自動的に信仰者になったという例を、わたしたちはいまだかつて一度も見たことがありません。そんなふうになるくらいならば、わたしたちが自分の子どもの信仰のことで苦労することなどは全くありません。これほど苦労して毎週教会に通う必要もない。これほど苦労して子どもたちを教会に通わせる必要もない。そもそも地上の教会など不要です。伝道集会など行う意味がありません。もしわたしたちが何もしなくても、自動的に血から血へと信仰が遺伝するならば、です。そのようなことはありえないと信じているからこそ、わたしたちは自分の子どもたちを教会に通わせてきたのです。信仰の継承には血のにじむような努力が必要であるということを、わたしたちは痛いほど知っているのです。
しかし、彼らユダヤ人たちが、自分たちの血が偉大なる信仰者アブラハムの血を純粋に受け継ぐものであるということに民族としての誇りを持つこと自体が間違っているとか、迷信であるなどと言う必要はありません。しかし彼らはやはり致命的な過ちを犯しています。その自分たちの純血性を強調するあまり、自分たち以外の人々をひどく見くだし、毛嫌いし、退けるところに罪があると言わなければなりません。「わたしは誰々の子孫である」ということを誇りにすること自体については「どうぞご自由に」と言う他はありません。しかし、そのようなことを言う人々が勢い余って、自分たちと比べて他の人々の血は汚いだの醜いだの罪深いだの言いだしはじめるときには「どうぞご自由に」などと言っている場合ではなくなります。全力を尽くして反対しなければならなくなります。そのような馬鹿げた考えは今すぐに捨てるべきであると、強く激しく戒めなければならなくなります。
ところが、この個所でイエスさまがユダヤ人の言動について問題にしておられることは、いま私が申し上げた点ではありません。問題にしておられるのは、あなたたちユダヤ人は差別主義者であるということではありません。問題にしておられるのは「あなたたちはわたしの言葉を聞こうとしない」という点です。「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」(8・47)とおっしゃっているとおりです。
先ほど申し上げました、ユダヤ人たちが言っていることが、まるで信仰というものが血から血へと自動的に遺伝するものであるかのように聞こえてしまうこと(読めてしまうこと)に彼らの間違いがあるという点を、イエスさま御自身が(この個所で)指摘しておられるわけではありません。しかしこのことも全く無関係とは思えません。もし信仰というものが血から血へと遺伝するものであるならば、教会に通う必要はないし、説教を聞く必要はないからです。このことを逆に考えてみれば、信仰とは遺伝によって(生物学的に?)受け継がれるものであると思い込んでいたユダヤ人たちがイエスさまの説教どころか、だれの説教をも真面目に聞こうとしなかったとしても、当然すぎるほどであるということに気づかされます。
ましてそのような人々が、イエスさまがお語りになる「真理」などというものに興味を持つはずがありませんでした。真理とはしばしば耳触りの悪いものだからです。彼らにとって耳触りのよい話は、自分のグループに属する人々が他のグループの人々に比べていかに純粋であるかということであり、他の人々はいかに醜く、汚らわしいかということだったことでしょう。そのような悪魔的な話題には食指を動かし、イエス・キリストの語る「真理」は無視する。それが当時のユダヤ人の姿でした。
わたしたちはこのような過ちには決して陥るべきではありません。くどいようですが、信仰は血によって遺伝しません。信仰は、神の御言葉の説教によって、教会生活を通して受け継がれるものです。イエスさまの言葉をお借りすれば、御言葉を聞かない人々は「神に属していない」のです。
(2009年10月4日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年10月3日土曜日
モノローグ
年齢のせいなのか、最近、独り言が多くなって、ひどく困っています。少し格好つけていえば、持って行きどころがない思いのようなものが襲って来て、外に洩れだし、溢れだしてしまう。そんな感じです。
だいぶ前に「改革派教義学」というサイトを立ち上げましたが、その中の「付録 改革派教義学 人名辞典」の作成に協力してくださる方々がおられないものかと、独りでつぶやいています。
“協力してくださる方々”というふうに書くと、私が「主」で、その方々を「副」の扱いにしてしまうことになるのかな、別にそういう意味ではないのだがな、“手伝ってくださる方々”のほうがいいかな、いやおんなじか、日本語は難しいと、またブツブツ。
特に願っていることは、外国語版のWikipediaにただリンクさせているだけの行がたくさんあるので、とりあえずそれぞれの日本語版を書いてくださる方がおられないだろうかということです。最初は、どの言語かの日本語訳で十分すぎるほどです。英語からの翻訳であれば得意な人はたくさんいそうだけどなあと、ブツブツ。Wikipediaはあくまでも公共のものであり、私物化できませんので、私はただリンクさせていただくだけなのですが。
しかし、こういうことをどなたかに“お願い”する権限や権威は、神学校の教授でも講師でもない私には無いよなあ、「へえ、何かのプロジェクトチームのリーダー気取りですか」とでも思われて失笑を買うくらいがおちだよなあと、堂々巡りが始まります。
「人間、権力というのはたぶんこういうときに欲しくなるのかもしれないなあ」と誘惑されもする。無冠の人間の限界を痛感します。
私の独り言の内容は、いつもこのようなことばかりです。ワインの銘柄とか、サッカーの話とか、そういうことにでも関心があれば(全く関心がないから書いているのですが)、もう少し人間としての魅力を持ちうるのかな、ダメだこりゃと、自嘲する日々です。
2009年10月2日金曜日
嫌いな言葉(3)
「なんとか的」と言うこと自体が間違いだと言いたいわけでもないのです。
とくに、翻訳をしなければならない場面では「他に訳しようがない」とも言えます。たとえば、biblicalに「聖書的」、またreformedやreformationalに「改革派的」や「改革主義的」といった辞書的な訳語を(ジグソーパズルのように)割り当てることが間違いであると言われると困ってしまうという人も多いでしょう。私自身も、翻訳の場合には似たようなことをしていますので、他人(ひと)のことは言えません。
とはいえ、たとえ翻訳の場合であっても、「辞書や脚注など無くても、本文を読むだけで意味まで分かるように訳すべきである」というのが今日の趨勢になっていますので、ただジグソーパズルをして済ませることで「翻訳できました」と安心することもできないのが実情です。
そのことよりも私が問題にしたいのは、「なんとか的」というレッテルを貼ってみせることで何事かをズバリ言い当てたかのような気になって(させて)、思考停止する(させる)ことの愚かさです。
その言葉の意味が分からない人たちが恐る恐る「あのー、『なんとか的』ってどういう意味なのでしょうか。教えていただけませんでしょうか」と聞こうものなら、「そんなことも知らねえのか」と言いたげな白い目を向けるばかりで、まともに答えようとしない。
じつは、その人々にも答えることができないのだと思います。深い意味を理解してきちんと説明できるくらいなら、「なんとか的」という言葉を振り回して人を煙(けむ)に巻いたりはしないものです。
「アホ」だ「てめえ」だ書くことに人を躓かせるものがあることは分かっていますが、これくらい強く言わなければ理解してもらえませんので、あえて憎まれるような言い方をしているつもりです。
2009年10月1日木曜日
嫌いな言葉(2)
それにしても、「なんとか的」という教会用語が多すぎることを恥ずかしく思っています。こういうのを、まさに悪い意味で「翻訳調」と言うのです。翻訳家の山岡洋一氏が常に痛烈に批判しておられる点です。横のものを縦にして「なんとか的」といいさえすれば何かを言い終えた気持ちになるのは、我々の悪い癖です。
もう廃れたのでしょうか、つい最近まで流行っていた「テーキーナー」「ミーターイーナー」と大声で叫ぶ漫才を思い出します。
「聖書的な」という言い回しも、かなり嫌いです。異端審問官的な感じで脅迫的に突き付けてくる「聖書的か否か」は、私に言わせていただくと、ほとんどの場合、意味不明です。
その問いを突き付けることで何をおっしゃりたいのかがこちらで理解できないという意味で「意味不明」です。
また、おそらくは、そのようにおっしゃっているご本人がそれによってご自分で何を言いたいのか分かっておられないようでもあるという意味でも「意味不明」です。
「日本人的な」という言葉を悪い意味でしか使わない日本人の説教者もたくさんいます。アホかと言いたくなります。「だったら、てめえはナニジンなんだよー」と。
「聖書的でない」や「改革派的でない」という言葉も、黙って聞いていると、「人間的である」というのとほとんど同じ意味で使っていることに気づかされます。どうやら根っこは同じです。
しかし、このテーマは、考えれば考えるほど、非常に深刻なものです。十分に博士論文のテーマになります。
日本の(とりわけプロテスタントの)教会の中に「神中心主義」の衣をかぶった「ヒューマニズム嫌い」ないし「人間嫌い」が色濃く見受けられます。私はこれを「羊の衣を着た狼」であると見ています。非常に邪悪極まりない何かです。