2009年5月20日水曜日
贅沢な奇跡
ブログ「今週の説教」
http://sermon.reformed.jp/
ノートパソコンは依然入院中です。明日見舞いに行って様子をみてきます。退院までは代用パソコンを使わざるを得ませんが、不便極まりない毎日を過ごしております。よりによっていちばん性能の良いものが壊れてしまったので、代用品の動作の遅さや重さにストレスを募らせています。
「自作パソコンのすすめ」を書きました。書いたことを後悔はしていませんが、別の角度から考え直してみているところです。
自作パソコンのいわば唯一の難点は、(まるで言葉遊びのようなことを申しますが)、「パソコンを自作しようと思い立つことができるほどの、またパソコンが壊れたときには自分で直そうと取り組むことができるほどの、《心の余裕》を確保できるかどうか」にあると言えます。
実は、その《心の余裕》が今ありません。それを確保できる見込みは(なんと光栄なことに)当分ありません。
「ブログを書くひまはあるようだがね」とけっこう胸をえぐられるようなコトを言われることもありますが、あまりむきになって反論せず、ニコニコ笑って受け流そうと心がけています(「ブログを書くほどのほんのわずかな《心の余裕》も失われてしまったら、その日にオレはたぶん死んでるし」と内心で思いながら)。
「やっぱりメーカー品を買うしかないのかな」と、半分以上あきらめかけています。
えーい、このイライラパソコンめ!(今これを書いているパソコンのこと―筆者注)
「水」が「ぶどう酒」に変わらないものかとニンニンと念じていますが、残念、私にはその力はありません。
2009年5月18日月曜日
贅沢な奇跡
ヨハネによる福音書2・1~11
「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
アムステルダム自由大学神学部で長く教義学講座を担当したヘリット・コルネーリス・ベルカウワー教授が1960年に出版したヨハネによる福音書についての説教集が、私の手元にあります。タイトルは『世の光』(Het licht der wereld)といいます。
49年前に出版されたものですので(ベルカウワーは当時57歳)、すでにお読みになった方もおられるのではないでしょうか。私が手に入れたのはつい最近のことです。すらすら読めるわけではありませんので面白そうなところだけを拾い読みしてきました。
その中でいちばん興味をひかれましたのが、ヨハネによる福音書2章のいわゆる「カナの婚礼」でのイエス・キリストの奇跡についての説教でした。今日はその説教のかいつまんだところを紹介させていただき、そのことを通して皆さまに一つのお勧めを申し上げたいと願っております。
説教の冒頭でベルカウワーが指摘していますことは、「カナの婚礼」の出来事は、2・11によるとイエス・キリストにとっての「最初のしるし」であったということです。なかでも「最初の」というこの点が重要な意味を持っているということが、あとで分かります。
ベルカウワーが続けて述べていることは、注目すべき内容をもっています。そのイエス・キリストにとっての「最初のしるし」が、たとえば癒しのわざであるとか、あるいは足の不自由な人を新しい人生の陽の光のもとに生かしめるみわざであるとか、目が不自由な人の目を見えるようにするとか、死者をよみがえらせるというようなことではなかったのだということです。
イエス・キリストが最初になさった奇跡のみわざは、結婚式の場で水をぶどう酒に変えるというようなことであったのだ、これをある注解者は「贅沢な奇跡」(luxe-wonder)と呼んでいるほどのことだったのだ、と述べています。
そしてベルカウワーが言うには、この物語を読む人々がどうしても最初に思い浮かべてしまうことは、これは贅沢な話であるということであり、現実的な享楽であるということであり、豊かさということである。そして実際この箇所で強調されているのはそのようなことではないだろうかと彼は問うています。
つまりベルカウワーは、この箇所を読む人が「なんて贅沢な話なのだろう。けしからん」と思ってしまうことは無理もないことであると考えているのです。そもそもこのテキストの趣旨はそのようなものであると考えているのです。
そして、ベルカウワーは、イエス・キリストの最初のしるしが「贅沢な奇跡」であったということを肯定的に受け入れたうえで、それではその意味は何なのかということをこの説教の聴衆、あるいはこの説教集の読者に考えさせようとするのです。
ベルカウワーがこのようなことを指摘した意図ないし理由は、すぐに分かります。彼はこのように言っています。「教会の周辺部分にいる人々だけが、この最初の奇跡を気難しく考えるのである。それはぶどう酒だとか、豊かさだとか、盛大なお祭り騒ぎのようなものから距離を置いて座る禁欲主義者たちである。」
もっときついことも言っています。「それは、何度でも繰り返し教会の中に現れる、キリスト教信仰を何よりも先に祝いごとの要素のほうへと結びつけるのではなく、喪に服するという要素のほうへと結びつけようとする人々である。それは福音に逆らって立つ人々であり、頑固さや気難しさの要素をキリスト教信仰に結びつけようとする人々である。」
これではっきりとお分かりいただけるでしょう。この説教には明確な意図があります。要するに禁欲主義者への批判です。このテーマがこの説教の全体の中で一貫して扱われています。
「そのような禁欲的な生き方は改革派的ではない」というような言い方をベルカウワーはしていません。しかし、わたしたちはそのような言い方をしてきたと思いますし、私はそのような言い方が嫌いではありません。むしろ私はそのようにはっきり言いたいほうの人間です。本来の改革派信仰は「喜びの信仰」である。改革派教会の信仰にはいささかも禁欲主義的な要素はないと。
祝いの席で気難しい顔や態度をとっている人は、はっきり言って迷惑な存在です。周囲を不愉快にさせるだけであり、嫌がらせ以外の何ものでもありません。
花婿であるイエス・キリストは、すでに来てくださった方です。わたしたちはイエス・キリストによる救いの恵みにすでに与っている者たちであり、救われたことの喜びを前面に出して表わしてよい者たちです。そのわたしたちがなぜ、いつまでも「喪」に服し続けなければならないのでしょうか。それは福音に逆らって立つことであるというベルカウワーの指摘は全く正しいものです。
わたしたちの礼拝は本質的に祝い事ではないでしょうか。礼拝中に気難しい顔で腕組みして座っている人とか、鋭い批判的な目で説教者をにらみつけている人の姿が見えますと、わたしたち説教者の多くは非常に不愉快な気持ちになります。
もちろんそのような雰囲気を説教者自身が作り出してしまっている場合もあります。説教者自身の神学思想の内容が「キリスト教信仰とは喪に服することである」というようなものであるとしたら、この人の語る説教が、礼拝全体、教会全体を暗く落ち込んだものにしていくでしょう。その場合には、「礼拝が、教会が、暗く落ち込んでいます。説教者よ、それはあなたの責任です」と言われても仕方がありません。
ベルカウワーの禁欲主義者に対する批判は徹底しています。次のようにも語っています。「神という方は、豊かな賜物をお与えくださる方なのであって、貧相な方ではない。・・・『わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』(ヨハネ10・10)と語られているとおりである。」
説教の最後の部分で、ベルカウワーは次のように述べています。
「この奇跡、この最初のしるしの物語が教会のなかで持っている影響力は非常に強いものである。教会はいつも必ずというわけではないが時々あるいはしょっちゅう、神の賜物を人間の堕落という点から解釈してきた。・・・しかし、ヨハネによる福音書は、そのような解釈とは別のアプローチの方法をわたしたちに提供している。わたしたちが日常生活の陳腐さや道徳くささを自分自身で乗り越えるのは難しいことである。カナの婚礼の物語を通してヨハネが示しているのは、イエス・キリストからいただける賜物の豊かさであり、失われたものの回復である。それは可能であり、実現することである。」
わたしたちの教会が、とりわけ主の日の礼拝が、豊かであり贅沢であり、明るく楽しい祝いの席であって何が悪いのでしょうか。ベルカウワーが指摘しているとおり、この箇所に描かれている奇跡物語はイエス・キリストにとっての「最初のしるし」なのです。「最初」の出来事は記念すべきです。その内容がなんと、こともあろうに、結婚式の場で飲み尽くされたぶどう酒の追加分を提供してくださるということだったのです。
このお勧めが、イエス・キリストの恵みは豊かなものであり、贅沢なものであるということを覚えていただくきっかけとなればと願っております。
(2009年5月18日、東関東中会・東部中会合同教師会開会礼拝説教、於 花見川キリスト教会)
2009年5月17日日曜日
垂穂は色づき刈り入れを待っている
ヨハネによる福音書4・31~42
「その間に、弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちは、『だれかが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四ヶ月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。』さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」
先週までに学びましたことは、わたしたちの救い主イエス・キリストとサマリアの女性との出会いの出来事についてでした。この女性には五人の夫がいましたが、このとき連れ添っていたのは夫ではありませんでした。そのことをイエスさまは見抜かれました。
そのことを見抜いておられたからこそイエスさまはこの女性にあのようにおっしゃったのです。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。
ここでイエスさまが指摘なさっていることは、水を求めているのはあなたのほうですということです。渇いているのはわたしではなく、あなたのほうであると。もっとも、ここでイエスさまは、彼女が渇いている原因は何であるかを、はっきりと言葉になさっているわけではありません。しかし、このやりとりからそのことははっきりと分かります。
結婚を繰り返すことや今連れ添っているのは夫ではないこと自体があなたの罪である、間違いであるというようなストレートな言い方をイエスさまはしておられません。しかし、そのような生き方や結婚のあり方を続けてきたあなたの心は、今まさに渇ききっているのではないでしょうか、そのあなたこそ生きた水を求めているのではないでしょうかと指摘しておられるのです。
そして、そのやりとりのすぐ後に、礼拝の話が続いています。「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24節)。このこともまた、渇いているのはあなたのほうではないかと指摘しておられることと無関係であるはずはありません。
生きた水をあなたに与えるのは井戸ではなく礼拝なのだと。
複雑な人間関係のなかで人を傷つけたり、自分が傷ついたり、渇きを覚えたりしてきたあなたの心を真に潤すことができるのは井戸の水ではなく、このわたし、救い主イエス・キリストの御言葉なのだと。
そのように話をつなげて理解することが可能であると思われるのです。
ここでわたしたちのことを考えてみることができそうです。五回も結婚を繰り返したことはありませんとおっしゃるかもしれません。しかし、複雑な人間関係に苦しんだり悩んだりして来た方は多いのではないでしょうか。
そのときに、です。わたしたちは、そのような問題をどのような仕方で解決してきたでしょうか。最初の人間関係が崩れました。それによってわたしの心は深い傷を受け、渇きを覚えました。わたしはこの渇きの苦しみから逃れたいです。そのような願いを抱いた人が次にとる行動は、何でしょうか。
わたしの心を潤してくれる次の新しい人間関係を探すこと。それももちろん大事なことです。しかし、おそらくわたしたちの多くが体験的に知っていることは、そのようにしてたどり着いた次の新しい人間関係の中にも別の問題が潜んでいたというようなことです。「前よりはましである」という比較級の考え方はありうるでしょう。しかし、わたしたちの多くがまだそれを体験したことがないゆえに知らない事実は、「前はめちゃくちゃだった。しかし、今は完璧である」ということでしょう。
そう、わたしたちが知っている単純な事実は、完璧な人間関係などどこにも存在しないということです。人間同士の関係の中で完璧主義を要求する人は、どこに行っても居たたまれない思いに苛まれるでしょう。
全く開き直ってしまうなら、そもそも人間同士の関係改善という点だけであらゆる問題を解決しようとすること自体に無理があると言わざるをえないのです。それはなぜなのか。そのようなときに限ってうっかり忘れてしまいそうになることは、他ならぬわたし自身が何ら完璧でないという事実です。
「わたしは人間関係に傷ついている」と考えているあなた自身にも罪があるという事実です。もしかしたら今の人間関係を悪いものにしてしまっている原因は実はあなた自身であるということも考えてみなければなりません。
しかし、です。今わたしが申し上げているような方向で話を進めていくときにしばしば至る結論は、「現状で我慢しましょう」というものだったりします。
相手にも罪があるかもしれないが、あなたにも罪がある。文句を言いたいのはあなたのほうだけではなく、相手も文句を言いたいのだ。だから喧嘩両成敗。お互い様。あいこ。引き分け。
このような解決の仕方は、時と場合によっては知恵深いものでもありますが、非常に抑圧的なものでもあります。現状で我慢しなさい。忍の一字で耐え抜け。人生は修行である。
これをわたしたちは「解決」と呼ぶことができるでしょうか。少なくとも私には、それをそう呼ぶことは無理です。私が申し上げたいことは、そのようなことではありません。
ならば、どういう仕方であればそれを「解決」と呼ぶことができるのでしょうか。一つの人間関係に敗れました。だから別の新しい人間関係を探します。そのようにわたしたちが考えることは当然のことであり大切なことでもあると私は信じています。
しかし、その別の新しい人間関係を探す際に重要なことがあります。ただし、ここで私は、話を大きく飛躍させます。論理的にはつながっていないかもしれません。そうであることを自覚しながら、あえて申します。
新しい人間関係に必要不可欠な要素は「礼拝における、神との関係」という次元です。新しいパートナーとこのわたしとの間に神という方が介在してくださることにおいて成り立つ関係です。
その相手もこのわたしも何ら完璧でないし、罪深い人間であるにもかかわらず、神という完璧な方が真ん中に割って入ってくださり、両者に対して神が恵みと憐れみに満ちた態度をとってくださることによって、両者の関係を正しく健全なものへと導き続けていただける、そのような新しい人間関係です。
その新しい人間関係もまた壊れうるものではある。しかし、そのたびに、神という方がまさに真ん中に介入してくださることによって、割れ目や裂け目を修復し続けていただける、そのような人間関係です。
重要なのはその要素です。短く言えば、「共に礼拝をささげる」という要素です。それがあるかないかで人間関係はがらりと変わります。そのことをわたしたちキリスト者は体験的に知っているのです。
これから申し上げることは、「ぜひ試してみてください」という意味で言うのではありません。むしろ「ぜひ試さないでください」と言っておきます。あくまでも参考までに申し上げることです。
それは、わたしたちもまた、土曜日の夜であろうと、日曜日の朝であろうと、夫婦喧嘩をすることがありうるという話です。「ぜひ試さないでいただきたい」ことは、そのように喧嘩なさったままの状態で、そのお二人で礼拝に出席してみてくださいということです。帰りがけにはけろっと仲良くなっているというケースをわたしたちは何度となく体験してきているのです。
喧嘩はしないほうがいいです。喧嘩しないでください。しかし両者が激突することはありうることです。そのときに礼拝が「解決」をもたらすのです。そのように信じていただきたいのです。
実際にそのような体験を多くの夫婦が味わってきました。もちろん夫婦の話だけに限定すべきではないかもしれません。しかし、これがいちばん分かりやすい話ではあります。なぜなら、結婚とは神の前での約束なのですから。夫婦喧嘩をやめること、仲直りすることの最も良い解決策は、二人で神の前に立ち戻ることです。
今日は夫婦喧嘩の解決法は何かというような話になってしまいました。脱線のようでもありますが、重要なこととしてお聞きいただけましたなら幸いです。
今日の個所でイエスさまは弟子たちに「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)と言われ、また「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(35節)と言われています。何のことだかさっぱり意味が分からない、とお感じになる方はおそらく多いでしょう。しかし前後の文脈から考えれば、イエスさまのおっしゃっていることは明白です。
色づいて刈り入れを待っている畑とは、この女性が住んでいたシカルの町のことであり、またその町を含むサマリア地方全体のことです。そして色づいているのは、この女性自身であり、この町の人々です。この人々がこのわたし、救い主イエス・キリストを信じるようになり、キリストの御言葉が響き渡る、霊と真理をもって行われる、礼拝へと招き入れられること、それが刈り入れであり、収穫です。
イエスさまがサマリアに行かれた目的は、このわたし、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きるようになる人々をお探しになることでした。そのためにイエスさまは父なる神から遣わされたのでした。その仕事をなさること、成し遂げられることのためにイエスさまはこの町までいらっしゃったのです。
弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と言ったときにイエスさまが「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とお答えになった意図として考えられることは、ごく分かりやすく言えば、「わたしは今とても忙しいのだ。食事などとっている場合ではない。わたしが食べたいのはこの町であり、この人々である。ここにいるみんなが神の救いにあずかり、このわたしと一緒に礼拝をささげるようになることだ。そのことが実現すること。それがわたしの満足であり、おなかいっぱい、満腹なのだ」というあたりのことです。
無理やり結びつけるわけではありませんが、先ほどまでお話ししてきました結婚のこと、夫婦のこと、あるいはもう少し広く言って人間関係のことの中でも、満足とか満腹ということがありうるとしたら、それは、食事の内容とかいわゆる金銭的な事柄などの次元だけで語り尽せるようなことではないはずです。そのようなことが重要でないと言っているのではありません。しかし、それだけではないでしょう。
わたしたちには、三度の食事よりも楽しいことがあり、夢中になることができるものがあります。それが教会であり、礼拝であり、信仰なのです。わたしたちにとってはこれが趣味以上であることはもちろんのこと、仕事以上のものでもあるのです。
(2009年5月17日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年5月16日土曜日
自作パソコンのすすめ
パソコンが壊れて(<~を壊してみて)改めて思うことは、メーカー品のパソコンを使うのはもうやめた、ということです。
メーカー品のパソコンの「セコさ」については、何台かバラした経験があるので、ほぼ確信をもって言えます。とくに典型的にソニーのVAIOには、「素人に中身をいじくらせてなるものか」というたぐいの企業防衛思想が徹底している様子で、自分で直そうとする人間を妨害する仕掛けが至るところに散りばめられています。
より具体的に言えば、至るところで金属とプラスチックが絶妙に噛み合わせてあって、素人が中身を見ようとして蓋を開けようとしても、プラスチック部分を破壊しないかぎり侵入できないようになっています。つまり、自分で蓋を開けると、確実に「破損品」になる仕掛けです。
また、詳しくは分かりませんが、OSやアプリケーションなども自分ではいじくれないように、いろいろと仕掛けを潜ませているように感じられます。あるところ以上に進もうとすると「素人お断り」とシャットアウトされるようなところがあります。
そういうことが分かってきましたので、私はもう、これからは「自作パソコン」一筋で生きることにしようと思うに至りました。
パソコンにトラブルはつきものなのですから、トラブルが起きたときに自分で直せる仕組みを作っておかないかぎり、企業のボッタクリに遭うだけです。
今や、パソコンなんてプラモデルを作るのよりも簡単ですから。
客観的に見ればガラクタ置き場なので
パソコンクラッシュの件で、バックアップをしていたのかとご心配くださった方が複数おられますので、追記の必要を感じました。
松戸小金原教会の公的文書類(週報、月報など)や中会関係のデータにつきましては教会のパソコンのほうに記録していますし、すでに終了した説教や講演などの原稿につきましては基本的にすべてブログにアップしてきましたので、このあたりのことは全く問題ありません。
つまり、このたびの自損事故によってたとえすべてのデータが消失したとしても、何らかの責任問題のようなことへと発展する可能性はゼロです。このあたりのことはご安心(?)ください。
私にとっての大問題は、まだ表に出していない、書きかけの原稿とか、日本語になりつつある訳稿のたぐいの行方です。
こういうのが私の場合、山ほどあります。たぶんそれは私だけの特殊事情ではなく、多くの牧師たちも似たような事情ではないでしょうか。
善く言えば、それを磨けばもしかしたら光り輝く宝石になるかもしれない(ならないかもしれない)原石を掘り出していく石切り場のような場所、それが私のノートパソコンです。
悪く言えば(というか事実をそのまま言えば)ガラクタ置き場であり、ゴミの山です。
ですから、一つの考え方からすれば、「消えたのではない。最初から無かったのだ」と思えば済むようなものでもあるわけです。
それは、言ってみれば、私の思索のプロセスを断片的に(しかし私なりに精密な検証をしながら)書き留めているだけのものですので、いずれにせよ私の死後には不要になるものです。
気楽といえば気楽。こんなに呑気なことを言っていてよいのだろうかと思わなくはありません。
ちなみにこの文章は長男のパソコンを借りて書いています。これは本体2万円とちょっとの費用で私が自作したデスクトップパソコンですが、性能はびっくりするほど優れています(「Intel Atom プロセッサを使用したMini-ITX機です」と書けば、分かる人には分かっていただけるでしょう)。
もしノートパソコン(VAIO)本体の修復が不可能と判明した場合は、同じようなのをもう一台、自作しようかと思っています。部品を揃えさえすれば、組み立てそのものは一時間足らずで終了します。
2009年5月15日金曜日
日記「ついに犠牲者(人ではないので同情無用)」
いびきかいてねています。というのはウソで、ぶっ壊れてしまいました(ぶっ壊してしまったのは私です)。昨日の朝のことです。
その前の夜に松戸小金原教会で行われた東関東中会伝道委員会のとき、手元にノートパソコンを置きました。
委員会終了時刻が午後9時半すぎ。遅い夕食をお腹におさめたのは午後11時半すぎ。布団にもぐったのがいつだったかは憶えていません。
これが悪かったのだと深く反省していることは、とにかくひどく疲れたので、ノートパソコンを伝道委員会終了後もそのまま置きっぱなしだったことです。
で、その翌朝(それが昨日の朝)、午前10時半からその同じ部屋で祈祷会が行われるため、前の夜から置きっぱなしだったそれを片付けようとしたとき、「あ!」と手からすべり落ち、約1メートル下の床に落下。フローリングのすぐ下はコンクリートという固い床に激突。鈍い音が聞こえました。
その瞬間は、まさにスローモーション。ノートパソコンは開いたまま、横向きに落ちていきました。それが置かれていた事務机をはさんで私が立っているのとは反対側のほうに落ちたので、机より下は私の視野の外。視界から消えていくとき、オカルトには全く興味がない私の前で、そいつのモニターに悲しそうな人の顔が現われ、私に「さようなら」と別れを告げた気がしました。私の顔が一瞬映ったのかもしれません。
その後は松本零士的な音がするは(いわゆるドテポキグシャというやつですね)、DVDのディスクドライブは「バキョッ!」と上向きに飛び出るは、モニターのフレームは歪んで外れるは、ネジ類のいくつかは飛び散るは、43年間の人生が走馬灯のように脳裏をかけめぐるは。
手を滑らしてしまった原因は分かっております。3週間くらい前から右の肩・腕・手首あたりに激痛があり、また右手の人差し指に強い痺れまであって、現在整形外科に通っており、毎日痛み止めの薬や筋弛緩剤などを大量に(医師に言われたとおりに)服用しております。その右手でパソコンを持ってしまいました。握る手にうまく力が入りませんでした。
本日修理に出したところ、最悪の場合、データレスキューもままならず、本体は廃棄となるかもしれないことが判明しました。私にとっては結構高い買い物だったので二年ローンで購入し、先月やっと払い終わってほっとした矢先の惨事。
データレスキューだけで3万5千円なり。結果の判明は来週の木曜日です。店員さんからは「全部取り出せるかどうかは分かりません。一つも取り出せなかった場合は3万円をお返しします。5千円はハードディスク調査費です」と言われましたが、「お金など返していただかなくて結構ですから、データを助けてください。汗と涙の結晶なんです!」と半泣き状態でお願いしました(半泣き状態はウソ。セリフはほぼ事実)。
この文章をしたためているパソコンは教会の執事室用のものを借用しています。パソコンそのものは、昨年12月のオランダ旅行のために「壊れてもいいようなもの」としてヤフオクで1万円で落札したものも持っていますが、あまりにも遅くて重いものですし、何よりデータが入っていない「空箱」です。空箱がいくらあっても、仕事という観点からいえば、何の役にも立ちません。
今夜もひとり、自分にむかって弱音ばかり吐いております。この文章を入力している最中も、人差し指の痺れがひどく、思うように打つことができません。
おい、人差し指くん、ちゃんと仕事してくださいな。このクソ忙しいときに痺れてんじゃねえよ。
パソコンは買い替えりゃ済むけど(高いけど)、キミはお金じゃ買えないんだから。
2009年5月11日月曜日
リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー
他に思いつきませんでしたので、かなり大げさな表現になってしまいました。実態を表しえているかどうかは不明です。私が管理している二つのウェブドメイン(reformed.jpとprotestant.jp)のもとにあるすべてのブログの「トップページ」を作りました。そのトップページに「リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー」(Reformed / Protestant Web Library)と命名しました。以下の四つのアドレス(URL)のいずれからでもアクセスできるように設定しました。表示内容は同じです。無料のブログサービスを利用していますので広告がついてしまいますが、さほど気にならない程度です。
http://reformed.jp/
http://www.reformed.jp/
http://protestant.jp/
http://www.protestant.jp/
ひそかに願っていることは、「リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー」のアドレス(URL)を「ホームページ」(※ブラウザを立ち上げたときに最初に表示されるページ)としてご利用いただけるようになることです。
私は長らく、プロバイダ会社のホームページを自分のブラウザの「ホームページ」にしてきましたが、それがだんだん嫌になってきました。読みたくも知りたくもないようなありとあらゆる情報がわんさか詰め込まれ、「読め!知れ!」と押しつけてくるからです。パソコンにスイッチを入れるときのほとんどは「さあこれから仕事だ」という場面なのですから、そういうときに、気が散って仕方がないような画面はなるべく見たくないものです。しかし、「自作トップページ」みたいなのが毎回立ち上がるのも何となく恥ずかしい(マニア的すぎるというか)。
パソコンにスイッチを入れてブラウザを立ち上げるとまず最初に開くページは、できるだけ公共性があって、なおかつ心の落ち着くものが良い。そのような思いを込めて作った「リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー」です。
「このページをホームページにする」ためには(Internet Explorer 8の場合):
コマンドバーの「ツール(O)」→「インターネットオプション(O)」→「全般」タブの「ホームページ」の空白に上記四つのアドレスのいずれかを記入する→「OK」ボタンを押す。
2009年5月10日日曜日
ここで本物の礼拝をささげよう
ヨハネによる福音書4・16~30
「イエスが、『行って、あなたの夫を呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『「夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。』女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」
今日お話ししますのは先週の続きです。イエスさまはエルサレム方面からガリラヤ地方へと行く道の途中に通るシカルという町で立ち往生なさいました。なぜ「立ち往生」なのかと言いますと、「座っておられた」のは真昼の炎天下、喉が渇き、体が動かなくなられた可能性があるからです。一種の脱水症状のような状態になっておられたかもしれません。
そこでイエスさまがなさったことは、井戸に水を汲みに来ていた女性に「水を飲ませてください」と願われることでした。ところが、です。この女性は「はい、分かりました」と二つ返事では了解してくれなかったというのが先週の個所に記されていたことです。
このたび私はイエスさまと女性のやりとりを何度も読み直してみました。それでやっと分かって来たことは、このやりとりは口喧嘩であるということです。女性は明らかに腹を立てています。イエスさまのほうも火に油を注ぐようなことをおっしゃっています。最も悪いパターンです。
「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)という女性の問いかけの意図は、イエスさまの申し出をやんわりと断ることです。「あなたに飲ませる水はありません」と言っているのです。
それに対してイエスさまがおっしゃっていること(10節)は、頭を下げてお願いするのは本来ならばあなたのほうですということです。普通の耳で聞けば冗談か脅しのどちらかです。もしこれを(水戸黄門の声で)笑いながら言えば冗談になりますが、(助さん格さんの声で)「ひかえおろう。このわたしを誰と心得る」と言えば脅しです。
女性は「主よ、あなたはくむ物をお持ちでない」(11節)と言っています。子どもでも、遠足の日には水筒ぐらい持っていくでしょう。イエスさまは水筒も持たずに旅をしておられたのでしょうか。もしそうだとしたら致命的な準備不足です。あまりにも子どもじみています。そのような人をこのわたしがなぜ助けなければならないかという思いも、女性のうちにあったかもしれません。
「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この水から水を飲んだのです」(12節)という言葉に至っては、彼女はほとんど激怒しています。彼女が言いたいことは、あなたはこの井戸を馬鹿にしているのですかということです。
イエスさまは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(13~14節)とおっしゃいました。その言葉に彼女は腹を立てているのです。何百年、何千年という歴史を通してこの町の人々を養い育んできた水を供給してきたこの井戸をあなたは馬鹿にするのですか。この井戸を最初に掘り当てた偉大な人ヤコブよりもあなたは偉いのですか。そこまで言うなら、あなたも今すぐ別の井戸を掘ってみなさいと。
これこそが「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)という彼女の言葉の意図です。この言葉はイエスさまへの従順を表しているのではありません。全く逆です。この井戸に来なくてもいいように別の井戸をあなたが今すぐ掘ってください。やれるものならやってみなさいと言っているのです。ほとんど喧嘩腰で、最大限の皮肉ないし嫌味を言っているのです。
そして、このやりとりが、今日の個所につながっていきます。
イエスさまは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。イエスさまがなぜこのようにおっしゃったのかが、これまではよく分かりませんでした。しかし、これはどうやら口喧嘩であるということがこのたびやっと分かりましたので、夫を呼んで来なさいとおっしゃった意味は何かがようやく分かりました。あなたとわたしがこれ以上言い合っていてもらちがあかないので、話の分かる人を呼んで来なさいという意味です。責任者を呼んで来なさいということです。そのように理解すれば、話がスムーズに流れていくでしょう。
ところが、女性の返事は「わたしには夫はいません」というものでした。それは嘘ではなく事実でした。ただし、単純ではなく複雑なものでした。そうであることをイエスさまが見抜かれました。「『「わたしには夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない』」(17~18節)。
ここでしばしば出される疑問は、イエスさまがなぜ、この女性に五人の夫がいたという事実をご存じだったのかというものです。解決策は大きく分けて三つあります。第一は、イエスさまは神の御子なのだから何でもご存じだったに違いない。第二は、イエスさまはこのシカルの町に初めて来られたわけではなく、何度も来られていたので、女性の事情くらいはあらかじめ町の人々から聞いておられたに違いない。第三は、「五人の夫」は比喩であり、サマリアにある神さまや宗教の数のようなことだったに違いない、です。
私はこの三つともあまりすんなりとは受け入れることができませんが、強いてひとつ選ぶとしたら、第一の見方を選びます。イエスさまは神の御子なのだから何でもご存じだったに違いない。
しかし、このイエスさまのお言葉の中で重要な点は、彼女の夫がかつて何人いたというその数をずばり当てることがおできになったということではないと思います。重要な点はそこではありません。重要なことは「あなたには複数の結婚経験があり、しかも、今連れ添っているのは夫ではない」という点です。
この点がどのような意味で重要なのかということを今ここで私が詳しく説明し始めますと、いろいろと差しさわりが出てくることを覚悟しなければなりません。今の時代の中では単純な家庭環境の中にいる人のほうが少ないと言えます。複雑な家庭環境の中にいる人々のほうが多い。そのような人々を不愉快にさせるようなことを言いたくありません。
しかし、です。かなり公平な目で見ようとしても、結婚を複数回繰り返し今連れ添っているのは夫ではないというこの女性の姿を思い浮かべながら、「このような生き方も彼女の人生だから、他人からとやかく言われる筋合いにない」というようなことだけ言って済ませるわけには行かないものも感じます。
もちろん女性だけの責任にすることはできません。男性の責任も重大です。しかし、どちらが悪いという話は、たいてい水掛け論に陥ります。そして今ここで問題になっているのは、この女性の問題です。彼女の側にも問題があったということです。そのことをイエスさまは「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言われていることの中で、はっきりと指摘しておられるのです。
イエスさまが指摘しておられるのは、それはあなたの問題だということです。結婚を繰り返すこと、今連れ添っている人とは結婚していないことが良いことなのか悪いことなのか、失敗なのか成功なのか、幸せなのか不幸せなのかという話に直接結びつけることを私はしたくありません。そういうことを私に聞かないでください。答えることができません。
しかし一つだけ言っておきたいことがあります。それは、イエスさまが彼女のいわゆる私生活の問題を指摘なさった直前にイエスさまが「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃったことは、決して無関係ではありえないということです。おそらくこれは別に我が家だけの問題ではなく、おそらくすべての家庭、すべての夫婦にも当てはまることだと思います。わたしたちの家庭そのものは、夫婦の関係そのものは、毎日井戸から水を汲みあげなければ、すぐにでも渇いてしまうような関係なのだということです。しばらく放ったらかしておいても大丈夫、というようなものではありえないのです。
だからこそ、毎日毎日、渇きを覚えるたびに、一人の相手のために、同じ家族のために、水を汲んでこなければならない。それが本来のあり方です。
しかし、この女性がたどって来た道はそれとは違っていたようです。その責任が彼女の側にあったのかそれとも男性側にあったという点はともかく、彼女の生き方は「今の相手に渇きを覚えたら、次の相手を探す」というようなあり方だったのではないでしょうか。ここにこの女性の問題があるのだと、イエスさまは指摘されたのです。
時間が無くなって来ましたので、話を先に進めます。女性は、イエスさまの鋭い指摘に触れて、この方は「預言者」であると考えました。うんと俗っぽく言えば、この人は宗教関係者であると。要するに牧師のような仕事をしている人だと分かりました。そのことが分かった彼女は、ここで話題をくるりと宗教のはなしに切り替えます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
この言い方もまだ、先ほどからの口喧嘩が続いている状態のものだと思ってください。サマリア人とユダヤ人の違いを説明しようとしているのですから。あなたがたの総本山はエルサレム神殿ですよね、わたしたちはゲリジム山ですよと。
しかし、この場面でイエスさまがものすごく重要な言葉をお語りになります。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(21節)。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(23節)。
イエスさまがおっしゃっているのは、次のことです。ユダヤ人とサマリア人の違いなど問題にならない新しい場所で新しい礼拝が始まる。今ここでそれが始まるのだということです。地理的な場所そのものは問題ではありません。エルサレム神殿で行われなければ、ゲリジム山で行われなければ、それは「本物の礼拝」ではないというような話は、今日で終わりである。今あなたの目の前にいるこのわたし、救い主イエス・キリストがいるところならどこでも、本物の礼拝をささげることができるのだ。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と言われたことは、水の話ではなく、これは礼拝の話であるということが、彼女にだんだん分かって来たのです。神の御言葉を告げる説教、賛美と祈り。それが行われるのが礼拝です。礼拝こそが、わたしたちに永遠の命を与える永遠の泉なのです。
(2009年5月10日、松戸小金原教会主日礼拝)
もちろんそれは容易なことではありえない
しかし、私は決してそれを容易なことと考えているわけではありません。
今に始まったことではないと思いますが、43年ほど生きてきた者がこの国に見てきた比較的新しい動きは、「どんなものであれ一つの『キャラ』(キャラクター)としてとりあえず受け入れ、殺しもしないが生かしもしないで泳がせ、ギャグかお笑いのネタでありうるかぎりにおいて限定つきの役割を果たさせ、稼げなくなった時点で表舞台から引きおろし、市井に戻す」というような《政策》でしょう。「デブキャラ」然り、「大食いキャラ」然り、「毛薄キャラ」然りです。
キリスト者に対する表立った弾圧のようなものは、もはや無いかもしれない。しかし我々はいわば「クリ(クリスチャン)キャラ」扱いです。私などはさしずめ「牧師キャラ」扱いでしょうか。
あるいは、たとえばもしファン・ルーラーの本が本格的に日本で出版される日が来ても、当面は「いろものキャラ」扱いでしょう。「喜びの神学」とか言っているかぎりにおいては、ある程度面白がってくれる。しかしファン・ルーラーその人は「いろもの」扱いなどで済ませられるような存在ではありません。歴史的過去と同時代の世界的巨匠たちを相手に、実に堂々と闘い抜いた人なのです。そのあたりの事情と迫力を我々が日本の社会と教会にどのように伝えるべきかも、悩みどころです。
もちろん!新規チャレンジャーが最初から十分かつ正当な評価を受けられると望んではならないことは分かっているつもりです。たとえサブカル扱いされようと、独自キャラ扱いされようと、全く無視されたり抹殺されたりするよりはまし、という《政治的》判断もありうると思います。
しかし、忸怩たる思いというか、我慢比べというか、どうにも表現しがたい疲労感があることは否定できません。まさに気力との戦い、自分との戦いです。
2009年5月8日金曜日
どうしたら道は開けるか(7)
当時の感覚を言葉にしていえば(どう表現しても誤解を避けることはできそうもありませんが)、次のような感じになります。
「私が信じていることを学校の教師や友人の前で口に出しても絶対に理解してもらえないことは、分かっている。けんかと暴力は大嫌いだし、トラブルに巻き込まれたくないから、黙っていよう。それに、私が教会に通っているということを口にしたばかりに、『なんだ。アーメン、ソーメン、冷ソーメンかよ』とか相手に言わせてしまうのは、そういうことを言っているその人々に神を冒涜させてしまうことになるので、かわいそうだ。しかし私の神が私を応援してくれている。私自身は少しも揺らぐこともぶれることもない。とはいえ、こちらとしては、いつまでも黙っているのも不本意だ。私の心の声、『キリスト者の声』(vox christiani)をどうしたら公の場で自由に述べることができるようになるのか。それを知りたい。」
私が「どうしたら道は開けるか」だ「ブレイクスルー」だ言っていることのすべては今書きとめたばかりの少年時代に抱いた問いの答えの求め方は何なのかにかかっているということに、気づかされます。一般化していえば「信教の自由の要求」です。要するに私は、ほとんど40年前から、同じ一つの問いの前でうろついたままなのだということです。
ここで本当は「愕然と」すべき場面かもしれませんが(おまえの精神年齢は低すぎるという事実を突き付けられたわけですから)、わりと「平然と」しています。事の真相からいえば、たとえばもしこの私が「マイノリティ」でない者になり、良い意味でメジャー化(?)する日には、古い日本はもはや形を失い、ほとんど「革命的」と言いうるほどの変容を遂げているはずです。
なぜなら、私自身は揺らぐこともぶれることもありませんから。
私は動きはしません。もし動くとしたら、この国のほうです。