2008年2月9日土曜日

インターネット時代における教義学研究の新しい可能性

今週は終始、心定まらず、脳内もクリアでなく、首や肩や腰に張りや痛みを感じながら過ごしました。理由ははっきりしています。先週中に一回、今週中も一回(昨夜)行った夜なべ仕事(脱稿が朝になる夜通しの書き物)が心身にダメージを与えているという、ただそれだけのことです。しかし今日は、教会で結婚式です。若い二人の晴れ舞台に、司式者が寝ぼけた顔をしているわけにはいきませんので、気合いを入れてがんばりたいと思います。



ところで。今週書いてきたことに強いてタイトルをつけるとしたら、大げさかもしれませんが「インターネット時代における教義学研究の新しい可能性」というようなことかなと思っています。最初からこういうことを書こうと決めて書いてきたわけではありません。なんとなくこういう方向に来てしまいました。しかし、インターネットの出現は、我々の教義学なり神学なりの研究のあり方を根本的に変えていかざるをえない、その意味で劇的ないし革命的な変化の可能性を示してくれるものであったと、私は感じています。



「感じています」と書くのは、変化後の実現形態をまだ見ていないからです。しかし、私自身がインターネットを約11年ほど利用してきて分かってきたことは、「これはかなり使える」ということです。とりあえず二点、教義学研究にとってのインターネットの利点を書きとめておきます。



第一は「これはとにかく《文字》(もじ)を伝えるツールである」ということです。換言すれば、これは《文字》を“言質”(げんち)として獲得しうるツールです。「言った・言わない」という不毛な論争を終結させうるツールです。この点が教義学研究に有効なのです。



私の長年の確信は「神学、とりわけ教義学というものは、それが学問(Wissenschaft)と呼ばれるものであるかぎり、《文字》のテキストをとにかく根拠にするものである」ということです。「立ち話や噂話、風説や流言飛語などをデータとみなす」、あるいは「行間を読む」とか「言外の意図を探る」というような仕方で、空中を漂う(文字化されていない)コトバを根拠にして学問としての教義学を営むことは、限りなく不可能に近いことであり、あるいは、たとえいくらか可能な部分が存するとしても、そのようなものはなるべく邪道とみなし、排除すべきであるという感覚を、私はずっと持ち続けてきました。この私の感覚に対して、インターネットというこのツールは、かなり大きな充足感を与えてくれるものでした。とにかく世界中の《文字》をかき集めて来てくれる。すなわち、「学問」(Wissenschaft)の根拠になりうるものをかき集めて来てくれる。これと同じことを期待できるインターネット以外のツールは、現時点では存在しません。



第二は、「インターネットを通しての買い物、とくに古書の購入は非常にスムーズで快適なものである」ということです。私はインターネットを利用しはじめてから約11年の間にオランダ語の神学書を中心に、非常に多くの古書を買い集めてきました。自慢するわけではありませんが、もしかしたら、今や私は、古書の情報を入手し、それをすみやかに購入するという一点においては、現地に留学中の人よりも上手かもしれません。



まだまだあると思いますが、また少し頭がぼうっとしてきましたので、ここまでにしておきます。



2008年2月8日金曜日

私が説教をインターネットで公開している理由(2/2)

すべての説教をインターネット上に公開しはじめてからは、「言った・言わない」のたぐいは一切無くなりました。私の説教を耳で聴いてくださる方々に対し、《文字》(もじ)による「言質」(げんち)を提供すること。もし何か問題を感じる言葉が私の口から発せられた場合には、私の書いた《文字》のテキストに基づいて、その問題点を具体的に指摘していただけるようにすること。それが「今週の説教メールマガジン」発行の第二の、しかしこれこそが本当の、心底からの動機でした。



つまり、二つの動機とも、いうならば自己防衛的な側面の強い発想から出たものであったということです。よくいえば危機管理です。すべての説教を《文字》として公開することが、自分自身を防御し、かつ教会を混乱に陥らせないための最も有効な方法でもあると知りました。それと似たようなことは、我が国の総理大臣でさえ今や熱心に行っていることです。



第三の動機として伝道目的という点を挙げるべきかもしれませんが、この点はあまり事実でも真実でもありません。あとから取って付けたような動機です。「ブログを読みました。メールマガジンを購読しています。それで教会に通ってみたくなりました。洗礼を受けたいと願うようになりました」と申し出てくださった方は、199回メールマガジンを発行してきて一人もおられません。当然だと思っています。一時期は音声まで公開していましたが、公開作業が面倒になって(すべて私一人で行っています)、やめてしまいました。「インターネットで関口牧師の説教を聞きました。それで心動くものがありましたので、教会に通いたくなりました」と来てくださった方もゼロです。



私はそういう現実の前で少しもがっかりしません。そもそも最初の動機ないし目的が伝道という点にあったわけではなかったからです。最初から期待していないことについては、落胆も失望もありません。問題をいくらか局限化してみるとしたら、「そもそも“信仰”は電気信号に変わりうるものか」、あるいは「“聖霊”とは光ファイバーを介して伝達されうるものか」というような(半分以上は冗談のような、しかし深く考えはじめると意外に難しい)《教義学的問い》として成り立つと思っています。私はこれらの問いに対して、今のところ、きわめて否定的な考えを持っています。



毎日毎日、とことんハードに利用しているからこそ思うことです。はっきり言えば、「インターネットは伝道目的には向いていない」と考えています。牧師にとっても教会にとっても、持ち出すものばかり多く、返ってくるものはほとんどありません。「お前の考えは間違っている」と、どなたかにこの私を説得してもらいたいくらいです。



私が説教をインターネットで公開している理由(1/2)

夜なべ仕事で原稿を書き、編集者に送りました。少し仮眠して、午後は土曜日の結婚式の会場設営です。うれしく思っていることは、来週2月10日(日)の礼拝説教を掲載して配信する予定の「今週の説教メールマガジン」が「第200号感謝号」であること。「第100号感謝号」のときは佐々木冬彦さんに「記念巻頭言」を書いていただきました。来週の「第200号感謝号」にも、私の恩人である方に「記念巻頭言」を書いていただく予定です。その原稿を実はすでに昨日読ませていただき、その中に記されている本当に温かくありがたいお言葉に、大いに励まされました。



「教会的実践」(kerkelijke praxis)とは、少なくとも牧師たちにとっては「毎日の実践」あるいは「日常の現実」です。しかし、キリスト者である多くの人々にとってのそれは、かなりの部分は「日曜日の実践」に限られたものであり、その意味での「日曜日の現実」でしょう。そういう認識には行きすぎの面がありますが(なぜなら我々は日曜日だけキリスト者であるわけではなく、すべての日においてもキリスト者であり続けているからです)、しかし、すべてが間違っているわけではないと思います。



牧師たちは、日曜日以外も我々なりに一生懸命働いています。しかし、もし我々牧師たちが「日曜日の仕事」に失敗しているとしたら、我々が日々取り組んでいる仕事への評価(評価という言葉をあえて用います)も得られないでしょう。回りくどい言い方をやめて率直に言いなおすとしたら、「日曜日の礼拝説教において教会員や礼拝出席者に苦痛や負担を与えるばかりの牧師は、他のどのような点や面に秀でているとしても、牧師として正当な評価を受けることはありえない」ということです。



「今週の説教メールマガジン」の発行を思い立った動機は、純粋に伝道目的というだけのものではありませんでした。第一の動機は、「日曜日『にも』こういう仕事をしています」と知ってほしい人々に、私の現実を伝えることでした。この点は書きはじめると長くなるので、今は省略します。



第二の動機は、第一の動機よりもさらにネガティヴなものです。牧師として駆け出しの頃、説教の言葉や内容が定まらず、神学的方向性も一定せず、それゆえ、自分が語ろうとしている事柄の意図を十分に伝えきれないもどかしさのうちで彷徨っていた時期に教会の人たちとの間に繰り返し起こったトラブルは、要するに「言った・言わない論争」でした。



「関口牧師よ、あなたは説教の中でこう言った。あの言葉で私は深く傷ついた。これ以上この教会で信仰生活を続けることはできそうもない。」



「いや、私はそんなことは言っていない。あなたを傷つけるようなことを牧師であるこの私がなぜ言わねばならないのか。」



「いや、間違いなくあなたは言った。あれは明らかに、私に対する当てこすりだ。あんなことをみんなの前で言う牧師には、とてもついて行けない。」



「いや、私は言わない。あの言葉の意図は、別に当てこすりなどではない。」



「いや、言った。当てこすりに決まっている。あなたはそういうことをする人だ。」



こういうのを水かけ論というのだと思いますが、果てしないまでの虚しさを伴う不毛なやりとりであることは間違いありません。あの虚しい「言った・言わない論争」を繰り返さないためにはどうしたらよいかをずっと考えてきて、ようやく辿り着いたのが「説教全文のインターネット公開」だったのです。



実践的教義学に不可欠な要素としての「教会的実践」(2/2)

そしてまた、もう一つ書いておきたいことは、教会活動に伴うドタバタ的要素に対して主体的に関わったことがない人々、あるいは関わる気がない人々が書く「教義学」は空虚であるということです。



教会のためにドタバタしたことがあり、今まさにドタバタし続けている人にだけ、「教義学」を書く資格があるのです。「教義学」は真空の中で生み出される抽象論ではないし、そのような抽象論は「教義学」ではありえません。「このクソ忙しいのに、書けるかそんなもん!」と年がら年中キレそうになりながら、それでも忍耐強く外国語の書物を読み解き、豊かで美しい言葉を駆使してコツコツと文章を書いていき、塵を集めて山とする人こそが教義学者にふさわしいのです。私がお世話になった教義学者たちは、すべてそういう方々でした。



また、今しがたは、少し遠慮する意味で「最低限、教会役員(教師・長老・執事)」と書きました。しかし、「実践的教義学」の場合は、繰り返し書いているとおり、教義学と実践神学の合体形ないし統合形態なのですから、それを構成する要素の中には、従来の実践神学が扱ってきた諸学科、すなわち「説教論」や「牧会論」や「宣教論」や「礼拝論」などが、すべて含まれているのです。そう考えてみたときに思い当たるのは次の問いです。すなわち、はたして一度として「説教」や「牧会」のわざを主体的・責任的・そして専門的な立場で行ったことがない人、あるいは「宣教ないし伝道」や「礼拝」の活動にこれまた主体的・責任的・そして専門的に参加したことがない人に「実践的教義学」の“執筆”が可能だろうかという問いです。



私の結論は「それはどう考えても無理である」というものです。「実践的教義学」は、ギリギリで「長老」、現実的には「教師」、そしてなるべくなら「牧師である教師」が書くべきものであると思われるのです。「執事」を締め出す意図は必ずしも明確なものではありませんが、私の見方では、「教義学を執筆しうる執事」はぜひとも「教師」か「長老」に任職されなおすべきです。



「牧師である教師の教義学」の良い例は、カルヴァンの『キリスト教綱要』です。あの書物は、よく知られているとおり、初版から最終版までの改訂作業の間にページ数がどんどん膨れ上がって行ったものです。なぜ膨れ上がったのでしょうか。理由は明白です。まさにあの『キリスト教綱要』こそがカルヴァン自身の「教会的実践」の記録そのもの、とくに幾度も繰り返された様々な論争の記録そのものだったからです。継続的で忍耐強い「教会的実践」こそが汲めども尽きせぬ泉のように「実践的教義学」に豊かな話題を提供し続けるのです。問題と論争の矢面に立たないかぎり決して書くことのできない言葉が「教義学」には不可欠なのです。



実践的教義学に不可欠な要素としての「教会的実践」(1/2)

今日は入院している方のお見舞いや、週末に行われる結婚式の準備などで、バタバタしていました。今夜中に仕上げなければならない原稿もあります。新年から始めようとしたカントの『純粋理性批判』の読書も、「実践的教義学」の構想も、さらなるダイエットのためのウォーキングも、米倉涼子さんも伊東美咲さんも、永年続けてきたファン・ルーラーの翻訳も、どこかに吹き飛んでしまいます。



これでいいのだと、開き直っています。牧師の「実践」(praxis)の実態は、まさにドタバタです。尊敬する先輩牧師から、「牧師の仕事と学問研究は『あれか・これか』だよ」と諭された言葉を忘れることができません。本当にそのとおりだと痛感するものがあったからです。しかし、しかし、しかし、です。私の思い描く「実践的教義学」にどうしても不可欠な要素は「教会的実践」(kerkelijke praxis = イミンク先生が好んでお用いになる言葉)です。「教会的実践」とは無関係な「実践的教義学」は概念矛盾であり、全く無意味・無価値・無効です。また「実践的教義学」の“執筆”という点に専門的に取り組むことが許される“資格”なるものがもしあるとしたら、それは最低限「教会役員」(改革派教会の場合は「牧師・長老・執事」の三職 munus triplex)である人。すなわち、「教会」の運営や管理に対して法的ならびに道義的な責任を負っている人。「教会役員」以外の人を締め出すのは、意地悪や差別で言っていることではなく、教義学を執筆する資格を得たい人は「教会役員」になるべきであると言っているのです。少しきつい言い方をお許しいただきたいのですが、「教会」に対して第三者的・傍観者的なスタンスに立ち、無責任な批判を繰り返すような人には「実践的教義学」を、また「教義学」ないし「組織神学」の執筆を担当する資格はありません。



もちろん「神学」ないし「教義学」には《教会を批判する機能》が認められて然るべきです。いかなる批判をも受ける必要なく立ちうる無謬・無誤の教会など地上には存在しません。批判なきところに改善も改革もありえません。



しかし、その批判はそのまま批判者自身にも向けられるべきです。批判者自身は無傷でいられるというわけではありません。なぜなら、教会がそういうものではありえないように、批判者自身もまた、無謬・無誤の存在ではありえないからです。「教義学」を執筆する資格を持っているのは、神学それ自体が持っている批判力によって「教会」の受ける傷はどれほど深く甚大なものであるかを自ら体験的に知る機会を得たことがあり、かつ明確に自覚している人のみです。



教義学者よ、あなた自身は、なんら「神」ではない。「人間」なのです。



2008年2月6日水曜日

「肉声の教義学」としての実践的教義学(2/2)

そして、このように考える場合の「実践的教義学」の形式(form)もしくは形態(Gestalt)として私の心に思い浮かぶのは(これをどのように表現したらよいのだろう?)要するに「肉声の教義学」(dogmatica in viva vox)のようなものです。18歳の少年が体験した「温かい血の通う人格が介在している教義学の学び」のあり方を(閉ざされた教室の外側で)再現する必要を感じています。



そうなるとやはり、大いに利用できるのは、このインターネットであるはずです。「サイバー大学」のようなものの是非が問われていることは、分かっているつもりです(問題性が明るみに出たあとから言わないほうがよいかもしれませんが、最初からあやしげものだと感じていました)。インターネットに限界があるのは当たり前。しかし、それを言うなら、旧来の書物の形態にはもっと限界があります。書物の形態に絶望しているわけではありません。「一冊の書物を書きあげたことも出版したこともない人間が、また負け惜しみ言ってやがる」とでも思われているほうが、よほど楽な気持ちになれます。しかし、誰も買おうとしないし、読もうとしないもの(書物としての「教義学」のことです)に、何を期待できるというのでしょうか。文字も、音声も、そして映像さえも届けることができ、更新も、修正も容易にスムーズに行うことができるインターネット(ブログやメールマガジンやメーリングリストなど)を「実践的教義学」の発信元として利用することは、間違っているでしょうか。最低でも、人々が書物を自分の力で読めるようになるまで励まし助ける役割くらいは果たせるのではないかと思うのです。



もしそこに書かれている言葉が、何度も読み返すべき価値があり、したがって、いつでも持っておきたいと認められるものになれば、著者の死後に書物にしていただけるかもしれません。(営利事業を行わないことを旨とする)牧師たちの書き物は、本質的にそのようなものであると、私は理解しています。



「肉声の教義学」としての実践的教義学(1/2)

今週はとくに目標を定めずに書き始めましたが、なんとなく、教会や牧師のインターネット利用の是非というような話題に向かってしまったようです。というか、かなりの部分は愚痴のような話でした。もう少しお上手な言い方をすれば、改革的であろうとすると必ずぶつかる様々な障壁があるので簡単には進んでいかないという話。



「インターネット利用」は、私の中で「実践的教義学」の構築という課題とも大いに結びついています。「実践的教義学」とは教義学と実践神学の合体形であり、従来実践神学に属してきた説教学、牧会学、宣教学、礼拝学などの諸学科を教義学、とくに「聖霊論」(pneumatologie)の枠組みの中で取り扱うことを目指そうとするものです。それは従来の実践神学へのチャレンジを意味していると同時に、従来の教義学の全面的な見直しと根本的な再構築を要請するものであることは、言うまでもありません。



そしてその上で、それらの作業が目指している目標は、教義学なり実践神学なりの「学」(Wissenschaft)ないし「理論」(theoria)を問いなおすということで終わるものではありえず、まさに「実践」(praxis)そのものとしての「説教」や「牧会」や「宣教」や「礼拝」そのものの改革です。教義学が変われば、説教や牧会が変わる。教会の宣教や礼拝のあり方が変わる。そのような(もちろん良い意味での)変化や改革を期待しているわけです。



しかしまた、それで終わるのでもない。「実践的教義学」の目標が「説教の改革」や「牧会の改革」などに終わってしまうのであれば中途半端であり、道半ばであり、半分のフラストレーションを抱え込んだままです。なぜなら、「説教」にせよ「牧会」にせよ、その他の実践的課題にせよ、それらのものはどこまで行っても手段(mean/ middel)にすぎないものであって、目的(purpose/ doel)ではありえないからです。



それでは、それらの目的は何か。「人間」です。説教が変わり、牧会が変わる。それによって本当に変わりうるのは、その説教、その牧会を通して神の真理と恩恵を受領した人間そのもの、すなわち我々自身です。途中のプロセスをすべて省いて短く言えば、「教義学が変われば、あなたが変わり、わたしが変わる」のです。生活が変わり、人生が変わる。社会が変わり、世界が変わる。そこまでの変化、改革を求めるのが「実践的教義学」の道です。



その夢は余りにも大きすぎて途方に暮れるようなものかもしれませんが、さりとて全く無駄で無意味な夢でもないはずです。



ヴァティカンでさえネットを活用している(2/2)

今日は長女の小学校の授業参観に行ってきました。父親の参観者は二、三名というところでしょうか。「教育熱心な父親」と見てもらえるのか、「牧師さんはやっぱり『仕事』していないのね」と思われているのか、お母さんたちの視線が気にならないと言えばウソになります。



数年前の『キリスト新聞』で、同じ町内にある(と言っても2kmほど離れている)栗ヶ沢バプテスト教会の吉高叶牧師(日本キリスト教協議会=NCCの当時「副議長」)が「日本の教会は《市民権》を求めている」と(たぶんやや皮肉な意味でも)語っておられた記事を読んだとき、深い共感を覚えました。



「今週の説教メールマガジン」を、つい先ほど発行しました。毎週プリントアウトし、しかも声に出して読んでくださっている方がおられると知り、本当にうれしく感謝しています。メールマガジンをどなたが読んでくださっているかまでは把握していないのですが、「メールマガジンやブログを読んでいます」と連絡してくださる方の中に、私の両親と同世代の方々(回りくどく書きましたが、要するに高齢の方々)が多くおられることには、ありがたいことだなあと痛み入っております。



ヴァティカンでさえ(「でさえ」はもちろん余計で失礼な言い方なのですが、あえて言わせてほしい)ネットをふんだんに活用し、ホームページを立ち上げていることは、わたしたちプロテスタント教会の者たちにとってやはり脅威であると認めるべきです。



「改革派教義学」のこれからのあり方にも大きな影響を与えるでしょう。なぜなら、従来の「改革派教義学」におけるローマ・カトリック神学に対する基本的な態度は、しばしば、それを肯定的に評価する場合であっても批判的に評価する場合であっても、現在のローマ・カトリック教会が時々刻々とリアルタイムに発信している《最新の》諸文書に基づいての評価をなしえたケースは少なく、むしろ圧倒的に多いケースとして、ローマ・カトリック教会の内部ではとっくの昔に克服され、淘汰されてしまっているような《過去の》諸文書に基づいての評価であったと思われるからです。つまり我々が「プロテスタント」として、あるいは「改革派」として「ローマ・カトリック批判」をしている最中に、ヴァティカンの側では「そんなのは今の我々の姿ではないよ。おたくら、古いねー」と、ゲラゲラ笑われているかもしれないのです。



はたして、現時点において日本の改革派神学者の何人が、リアルタイムのローマ・カトリック教会のウォッチャーでありうるでしょうか。あるいは、毎日の日課のようにして、ヴァティカンのホームページをチェックしている日本のプロテスタント神学者は、何人いるでしょうか。甚だ心もとないものがあります。それをしない神学者はけしからんと言っているのではありません。それをしないならば、ローマ・カトリック教会に対する有効な批判を行うことはもはや不可能であると言っているのです。



19世紀末に書かれたヘルマン・バーフィンクの『改革派教義学』や、20世紀初頭に書かれたルイス・ベルコフの『組織神学』、あるいは20世紀の中盤に書かれたカール・バルトの『教会教義学』や、20世紀の後半に書かれたG. C. ベルカウワーの『教義学研究』など。それらの中に描き込まれたローマ・カトリック教会の姿が今でも変わらず彼らの姿であり続けていると思い込むのは、危険なことです。それはちょうど、昭和前半の日本家庭を描いた「サザエさん」や昭和後半の日本家庭を描いた「ちびまるこちゃん」のアニメを外国の人々が見て「へえ、日本人て、こんな感じなんだー」と思われることに今の我々が「昔はね」と言いたくなるのと同じです。



2008年2月5日火曜日

ヴァティカンでさえネットを活用している(1/2)

実際問題として、たとえば今日、ローマ・カトリック教会の総本山であるヴァティカン教皇庁でさえホームページを持っています。



ヴァティカン教皇庁ホームページ



http://www.vatican.va/



ホームページがあるくらいですから、ヴァティカン教皇庁独自の巨大なサーバーコンピュータも当然どこかにあるのでしょう。教皇庁本部から各国のカトリック教会への通達等もすべてメールで行われていると考えてよさそうです(私がそのようなメールをヴァティカンから実際に受け取ったことがあるわけではありませんので、想像でしかありません)。



ローマ教皇は使徒ペトロの権威を継承する存在であると、彼らは主張する。そうであるならば、ローマ教会の立場から言えば、聖書の中の「ペトロの手紙」は「ペトロのメール」と訳してもよいはずです。使徒パウロの手紙なども「ローマの信徒へのメール」、「コリントの信徒へのメール」、「ガラテヤの信徒へのメール」などと訳しても何の問題もないばかりか、好ましいことでさえあるでしょう。使徒言行録は「使徒ブログ」と訳しても構わない。



おそらく聖書の中の諸文書はそもそも販売目的で書かれたのではないものばかりでしょう(それとも、二千年前から「はい、これ『ヨハネによる福音書』、面白いよ。一冊500円。買った買った!」とエルサレム神殿前の露天商のような場所で売られていたと考えるべきでしょうか)。



公開することを目的として記された文書であればあるほどインターネットを通しての文書公開は有効です。マルティン・ルターがヴィッテンベルクの城教会前に張り出したと伝えられる「九十五個条の提題」なども、もし当時インターネットがあったとしたら、ルターもまた、自分のブログを立ち上げて、思いのたけを(95どころか1,000でも10,000でも)書き込み続けることができたことでしょう。あるいは、メールをどんどん活用して同じ志を共有できる仲間たち(宗教改革者たち!)を集めたことでしょう。そのほうが一枚のチラシをどこかに張り出すことよりも、また、買ってもらえるかどうか、さらに、読んでもらえるかどうか全く分からない(高価な販売価格を伴う)書物を書くよりもはるかに効果的な手段だからです。



文明の利器を利用しないのは、大いなる損失であると共に怠慢の罪です。もちろん何事にも危険な要素はあります。しかし、「刃物は危険だから使わない、使うべきでない」と言うなら、魚料理も肉料理も不可能です。何度も怪我をしながら上達していくという道を辿るのでなければ、いつまで経ってもプロ並みの腕を習得することはできません。



今さら蒸し返す必要もないような昔話ですが、11年半ほど前にメールを始めた頃は、メールやホームページは「仕事」のうちにカウントしてもらえませんでした。「一部のマニアたちのあやしげな遊びにすぎない」と見られていました。牧師たる者がそういうものにのめり込むことなど以ての外であると白い目で見られました。その後まもなくしてマイクロソフト社のビル・ゲイツ氏(当時は社長)が、ある雑誌社のインタビューで「あなたが毎日取り組んでいる仕事は何ですか」という質問に「メールを書くことです」と答えて周囲を驚かせた、という記事に接したとき(当時はそれが「驚き」だったということが今では驚きです)大いに慰められたことを、はっきりと記憶しています。



牧師の仕事も、かなりの部分は「メールを書くこと」です。非常に過酷な重労働です。



メールを書く仕事

なんだかウダウダしていましたが、「ただいまー」と、二人の子供が学校から帰ってきて家が明るくなり、少し元気が出てきました。ほとんど毎週同じ状況なのですが、こと先週は、説教の準備だけではなく、ものすごく大量の、そして質もしくは内容に重大な責任を伴うメールを書きました。加えて、急遽頼まれた原稿を徹夜で仕上げ、メールに添付して送った日もありました。その他、「やれポスター作れ。やれブログを更新せよ。やれ会議録のチェックをせよ」と次々に注文が(ほとんどすべてメールで)届きます。入院中の方のお見舞いにも行きました。牧師会もありました。この日記ブログへの書き込みは、それらの合間にしていることです。「牧師はブログだけ書いていれば務まるのか」と思われるとしたら、それも困る話です。しかし、です。似たような問いとして「牧師はメールだけ書いていれば務まるのか」というのもあると思う。それに対して今の私は「そういう面もあるようだ」と答えるかもしれません。使徒パウロのことを考えざるをえません。パウロは、一種の手紙魔でした。とにかくたくさんの手紙を書きました。病弱や高齢等のために自分で書けなくなっても、口述して書記さんに書きとってもらいました。伝道旅行の際に出会ったあの人この人を励ますためです。もう二度と会うことができないだろうと確信できるほど遠く離れた場所に住んでいる人々を、手紙で力づけたいからです。わたしたちの時代には、手紙が電子メールに換わっただけです。筆やペンがキーボードに換わっただけです。使徒の働きを受け継ぐ現代の牧師の仕事は、「メールを書く仕事」でもあるのです。私は岡山県岡山市の出身ですが、大学と大学院が東京都三鷹市、最初の教会が高知県南国市、次の教会が福岡県北九州市八幡東区(ここにいるときにメールを開始。当時の名称は「パソコン通信」。1996年の夏。爾来、11年半ほどメールのお世話になっています)、その後兵庫県神戸市北区の神学校での一年半の学びを経て(神戸で長女が生まれ)、山梨県甲府市の教会に赴任するが、四ヶ月後には会堂移転に伴い山梨県中巨摩郡敷島町(現在の山梨県甲斐市)に転居、そして2004年4月より現在の千葉県松戸市に至る。42年間の「永い一瞬の人生」(コブクロ「WHITE DAYS」)にどれだけ引っ越ししたのでしょう。現在中学一年生の長男(13歳)は高知県で生まれましたが、13年間で五回も転居を経験させてしまいました。平均すると、(13年÷5回=)2.6年ごとに転居した計算になります。本当につらい目に合わせてしまいました。長男のいちばん嫌いな言葉が「引っ越し」です。私の向かい側で(コタツにいます)眠い目をこすりながら学校と塾の宿題をしている二人の子供たちの横顔を見ていると、また胸が痛みはじめます。私が今「改革派教義学」という六文字をどこでも憚りなく堂々と述べることができるのは、この二人の子供たちの「犠牲」あってのことなのです。