2008年2月8日金曜日

私が説教をインターネットで公開している理由(1/2)

夜なべ仕事で原稿を書き、編集者に送りました。少し仮眠して、午後は土曜日の結婚式の会場設営です。うれしく思っていることは、来週2月10日(日)の礼拝説教を掲載して配信する予定の「今週の説教メールマガジン」が「第200号感謝号」であること。「第100号感謝号」のときは佐々木冬彦さんに「記念巻頭言」を書いていただきました。来週の「第200号感謝号」にも、私の恩人である方に「記念巻頭言」を書いていただく予定です。その原稿を実はすでに昨日読ませていただき、その中に記されている本当に温かくありがたいお言葉に、大いに励まされました。



「教会的実践」(kerkelijke praxis)とは、少なくとも牧師たちにとっては「毎日の実践」あるいは「日常の現実」です。しかし、キリスト者である多くの人々にとってのそれは、かなりの部分は「日曜日の実践」に限られたものであり、その意味での「日曜日の現実」でしょう。そういう認識には行きすぎの面がありますが(なぜなら我々は日曜日だけキリスト者であるわけではなく、すべての日においてもキリスト者であり続けているからです)、しかし、すべてが間違っているわけではないと思います。



牧師たちは、日曜日以外も我々なりに一生懸命働いています。しかし、もし我々牧師たちが「日曜日の仕事」に失敗しているとしたら、我々が日々取り組んでいる仕事への評価(評価という言葉をあえて用います)も得られないでしょう。回りくどい言い方をやめて率直に言いなおすとしたら、「日曜日の礼拝説教において教会員や礼拝出席者に苦痛や負担を与えるばかりの牧師は、他のどのような点や面に秀でているとしても、牧師として正当な評価を受けることはありえない」ということです。



「今週の説教メールマガジン」の発行を思い立った動機は、純粋に伝道目的というだけのものではありませんでした。第一の動機は、「日曜日『にも』こういう仕事をしています」と知ってほしい人々に、私の現実を伝えることでした。この点は書きはじめると長くなるので、今は省略します。



第二の動機は、第一の動機よりもさらにネガティヴなものです。牧師として駆け出しの頃、説教の言葉や内容が定まらず、神学的方向性も一定せず、それゆえ、自分が語ろうとしている事柄の意図を十分に伝えきれないもどかしさのうちで彷徨っていた時期に教会の人たちとの間に繰り返し起こったトラブルは、要するに「言った・言わない論争」でした。



「関口牧師よ、あなたは説教の中でこう言った。あの言葉で私は深く傷ついた。これ以上この教会で信仰生活を続けることはできそうもない。」



「いや、私はそんなことは言っていない。あなたを傷つけるようなことを牧師であるこの私がなぜ言わねばならないのか。」



「いや、間違いなくあなたは言った。あれは明らかに、私に対する当てこすりだ。あんなことをみんなの前で言う牧師には、とてもついて行けない。」



「いや、私は言わない。あの言葉の意図は、別に当てこすりなどではない。」



「いや、言った。当てこすりに決まっている。あなたはそういうことをする人だ。」



こういうのを水かけ論というのだと思いますが、果てしないまでの虚しさを伴う不毛なやりとりであることは間違いありません。あの虚しい「言った・言わない論争」を繰り返さないためにはどうしたらよいかをずっと考えてきて、ようやく辿り着いたのが「説教全文のインターネット公開」だったのです。



実践的教義学に不可欠な要素としての「教会的実践」(2/2)

そしてまた、もう一つ書いておきたいことは、教会活動に伴うドタバタ的要素に対して主体的に関わったことがない人々、あるいは関わる気がない人々が書く「教義学」は空虚であるということです。



教会のためにドタバタしたことがあり、今まさにドタバタし続けている人にだけ、「教義学」を書く資格があるのです。「教義学」は真空の中で生み出される抽象論ではないし、そのような抽象論は「教義学」ではありえません。「このクソ忙しいのに、書けるかそんなもん!」と年がら年中キレそうになりながら、それでも忍耐強く外国語の書物を読み解き、豊かで美しい言葉を駆使してコツコツと文章を書いていき、塵を集めて山とする人こそが教義学者にふさわしいのです。私がお世話になった教義学者たちは、すべてそういう方々でした。



また、今しがたは、少し遠慮する意味で「最低限、教会役員(教師・長老・執事)」と書きました。しかし、「実践的教義学」の場合は、繰り返し書いているとおり、教義学と実践神学の合体形ないし統合形態なのですから、それを構成する要素の中には、従来の実践神学が扱ってきた諸学科、すなわち「説教論」や「牧会論」や「宣教論」や「礼拝論」などが、すべて含まれているのです。そう考えてみたときに思い当たるのは次の問いです。すなわち、はたして一度として「説教」や「牧会」のわざを主体的・責任的・そして専門的な立場で行ったことがない人、あるいは「宣教ないし伝道」や「礼拝」の活動にこれまた主体的・責任的・そして専門的に参加したことがない人に「実践的教義学」の“執筆”が可能だろうかという問いです。



私の結論は「それはどう考えても無理である」というものです。「実践的教義学」は、ギリギリで「長老」、現実的には「教師」、そしてなるべくなら「牧師である教師」が書くべきものであると思われるのです。「執事」を締め出す意図は必ずしも明確なものではありませんが、私の見方では、「教義学を執筆しうる執事」はぜひとも「教師」か「長老」に任職されなおすべきです。



「牧師である教師の教義学」の良い例は、カルヴァンの『キリスト教綱要』です。あの書物は、よく知られているとおり、初版から最終版までの改訂作業の間にページ数がどんどん膨れ上がって行ったものです。なぜ膨れ上がったのでしょうか。理由は明白です。まさにあの『キリスト教綱要』こそがカルヴァン自身の「教会的実践」の記録そのもの、とくに幾度も繰り返された様々な論争の記録そのものだったからです。継続的で忍耐強い「教会的実践」こそが汲めども尽きせぬ泉のように「実践的教義学」に豊かな話題を提供し続けるのです。問題と論争の矢面に立たないかぎり決して書くことのできない言葉が「教義学」には不可欠なのです。



実践的教義学に不可欠な要素としての「教会的実践」(1/2)

今日は入院している方のお見舞いや、週末に行われる結婚式の準備などで、バタバタしていました。今夜中に仕上げなければならない原稿もあります。新年から始めようとしたカントの『純粋理性批判』の読書も、「実践的教義学」の構想も、さらなるダイエットのためのウォーキングも、米倉涼子さんも伊東美咲さんも、永年続けてきたファン・ルーラーの翻訳も、どこかに吹き飛んでしまいます。



これでいいのだと、開き直っています。牧師の「実践」(praxis)の実態は、まさにドタバタです。尊敬する先輩牧師から、「牧師の仕事と学問研究は『あれか・これか』だよ」と諭された言葉を忘れることができません。本当にそのとおりだと痛感するものがあったからです。しかし、しかし、しかし、です。私の思い描く「実践的教義学」にどうしても不可欠な要素は「教会的実践」(kerkelijke praxis = イミンク先生が好んでお用いになる言葉)です。「教会的実践」とは無関係な「実践的教義学」は概念矛盾であり、全く無意味・無価値・無効です。また「実践的教義学」の“執筆”という点に専門的に取り組むことが許される“資格”なるものがもしあるとしたら、それは最低限「教会役員」(改革派教会の場合は「牧師・長老・執事」の三職 munus triplex)である人。すなわち、「教会」の運営や管理に対して法的ならびに道義的な責任を負っている人。「教会役員」以外の人を締め出すのは、意地悪や差別で言っていることではなく、教義学を執筆する資格を得たい人は「教会役員」になるべきであると言っているのです。少しきつい言い方をお許しいただきたいのですが、「教会」に対して第三者的・傍観者的なスタンスに立ち、無責任な批判を繰り返すような人には「実践的教義学」を、また「教義学」ないし「組織神学」の執筆を担当する資格はありません。



もちろん「神学」ないし「教義学」には《教会を批判する機能》が認められて然るべきです。いかなる批判をも受ける必要なく立ちうる無謬・無誤の教会など地上には存在しません。批判なきところに改善も改革もありえません。



しかし、その批判はそのまま批判者自身にも向けられるべきです。批判者自身は無傷でいられるというわけではありません。なぜなら、教会がそういうものではありえないように、批判者自身もまた、無謬・無誤の存在ではありえないからです。「教義学」を執筆する資格を持っているのは、神学それ自体が持っている批判力によって「教会」の受ける傷はどれほど深く甚大なものであるかを自ら体験的に知る機会を得たことがあり、かつ明確に自覚している人のみです。



教義学者よ、あなた自身は、なんら「神」ではない。「人間」なのです。



2008年2月6日水曜日

「肉声の教義学」としての実践的教義学(2/2)

そして、このように考える場合の「実践的教義学」の形式(form)もしくは形態(Gestalt)として私の心に思い浮かぶのは(これをどのように表現したらよいのだろう?)要するに「肉声の教義学」(dogmatica in viva vox)のようなものです。18歳の少年が体験した「温かい血の通う人格が介在している教義学の学び」のあり方を(閉ざされた教室の外側で)再現する必要を感じています。



そうなるとやはり、大いに利用できるのは、このインターネットであるはずです。「サイバー大学」のようなものの是非が問われていることは、分かっているつもりです(問題性が明るみに出たあとから言わないほうがよいかもしれませんが、最初からあやしげものだと感じていました)。インターネットに限界があるのは当たり前。しかし、それを言うなら、旧来の書物の形態にはもっと限界があります。書物の形態に絶望しているわけではありません。「一冊の書物を書きあげたことも出版したこともない人間が、また負け惜しみ言ってやがる」とでも思われているほうが、よほど楽な気持ちになれます。しかし、誰も買おうとしないし、読もうとしないもの(書物としての「教義学」のことです)に、何を期待できるというのでしょうか。文字も、音声も、そして映像さえも届けることができ、更新も、修正も容易にスムーズに行うことができるインターネット(ブログやメールマガジンやメーリングリストなど)を「実践的教義学」の発信元として利用することは、間違っているでしょうか。最低でも、人々が書物を自分の力で読めるようになるまで励まし助ける役割くらいは果たせるのではないかと思うのです。



もしそこに書かれている言葉が、何度も読み返すべき価値があり、したがって、いつでも持っておきたいと認められるものになれば、著者の死後に書物にしていただけるかもしれません。(営利事業を行わないことを旨とする)牧師たちの書き物は、本質的にそのようなものであると、私は理解しています。



「肉声の教義学」としての実践的教義学(1/2)

今週はとくに目標を定めずに書き始めましたが、なんとなく、教会や牧師のインターネット利用の是非というような話題に向かってしまったようです。というか、かなりの部分は愚痴のような話でした。もう少しお上手な言い方をすれば、改革的であろうとすると必ずぶつかる様々な障壁があるので簡単には進んでいかないという話。



「インターネット利用」は、私の中で「実践的教義学」の構築という課題とも大いに結びついています。「実践的教義学」とは教義学と実践神学の合体形であり、従来実践神学に属してきた説教学、牧会学、宣教学、礼拝学などの諸学科を教義学、とくに「聖霊論」(pneumatologie)の枠組みの中で取り扱うことを目指そうとするものです。それは従来の実践神学へのチャレンジを意味していると同時に、従来の教義学の全面的な見直しと根本的な再構築を要請するものであることは、言うまでもありません。



そしてその上で、それらの作業が目指している目標は、教義学なり実践神学なりの「学」(Wissenschaft)ないし「理論」(theoria)を問いなおすということで終わるものではありえず、まさに「実践」(praxis)そのものとしての「説教」や「牧会」や「宣教」や「礼拝」そのものの改革です。教義学が変われば、説教や牧会が変わる。教会の宣教や礼拝のあり方が変わる。そのような(もちろん良い意味での)変化や改革を期待しているわけです。



しかしまた、それで終わるのでもない。「実践的教義学」の目標が「説教の改革」や「牧会の改革」などに終わってしまうのであれば中途半端であり、道半ばであり、半分のフラストレーションを抱え込んだままです。なぜなら、「説教」にせよ「牧会」にせよ、その他の実践的課題にせよ、それらのものはどこまで行っても手段(mean/ middel)にすぎないものであって、目的(purpose/ doel)ではありえないからです。



それでは、それらの目的は何か。「人間」です。説教が変わり、牧会が変わる。それによって本当に変わりうるのは、その説教、その牧会を通して神の真理と恩恵を受領した人間そのもの、すなわち我々自身です。途中のプロセスをすべて省いて短く言えば、「教義学が変われば、あなたが変わり、わたしが変わる」のです。生活が変わり、人生が変わる。社会が変わり、世界が変わる。そこまでの変化、改革を求めるのが「実践的教義学」の道です。



その夢は余りにも大きすぎて途方に暮れるようなものかもしれませんが、さりとて全く無駄で無意味な夢でもないはずです。



ヴァティカンでさえネットを活用している(2/2)

今日は長女の小学校の授業参観に行ってきました。父親の参観者は二、三名というところでしょうか。「教育熱心な父親」と見てもらえるのか、「牧師さんはやっぱり『仕事』していないのね」と思われているのか、お母さんたちの視線が気にならないと言えばウソになります。



数年前の『キリスト新聞』で、同じ町内にある(と言っても2kmほど離れている)栗ヶ沢バプテスト教会の吉高叶牧師(日本キリスト教協議会=NCCの当時「副議長」)が「日本の教会は《市民権》を求めている」と(たぶんやや皮肉な意味でも)語っておられた記事を読んだとき、深い共感を覚えました。



「今週の説教メールマガジン」を、つい先ほど発行しました。毎週プリントアウトし、しかも声に出して読んでくださっている方がおられると知り、本当にうれしく感謝しています。メールマガジンをどなたが読んでくださっているかまでは把握していないのですが、「メールマガジンやブログを読んでいます」と連絡してくださる方の中に、私の両親と同世代の方々(回りくどく書きましたが、要するに高齢の方々)が多くおられることには、ありがたいことだなあと痛み入っております。



ヴァティカンでさえ(「でさえ」はもちろん余計で失礼な言い方なのですが、あえて言わせてほしい)ネットをふんだんに活用し、ホームページを立ち上げていることは、わたしたちプロテスタント教会の者たちにとってやはり脅威であると認めるべきです。



「改革派教義学」のこれからのあり方にも大きな影響を与えるでしょう。なぜなら、従来の「改革派教義学」におけるローマ・カトリック神学に対する基本的な態度は、しばしば、それを肯定的に評価する場合であっても批判的に評価する場合であっても、現在のローマ・カトリック教会が時々刻々とリアルタイムに発信している《最新の》諸文書に基づいての評価をなしえたケースは少なく、むしろ圧倒的に多いケースとして、ローマ・カトリック教会の内部ではとっくの昔に克服され、淘汰されてしまっているような《過去の》諸文書に基づいての評価であったと思われるからです。つまり我々が「プロテスタント」として、あるいは「改革派」として「ローマ・カトリック批判」をしている最中に、ヴァティカンの側では「そんなのは今の我々の姿ではないよ。おたくら、古いねー」と、ゲラゲラ笑われているかもしれないのです。



はたして、現時点において日本の改革派神学者の何人が、リアルタイムのローマ・カトリック教会のウォッチャーでありうるでしょうか。あるいは、毎日の日課のようにして、ヴァティカンのホームページをチェックしている日本のプロテスタント神学者は、何人いるでしょうか。甚だ心もとないものがあります。それをしない神学者はけしからんと言っているのではありません。それをしないならば、ローマ・カトリック教会に対する有効な批判を行うことはもはや不可能であると言っているのです。



19世紀末に書かれたヘルマン・バーフィンクの『改革派教義学』や、20世紀初頭に書かれたルイス・ベルコフの『組織神学』、あるいは20世紀の中盤に書かれたカール・バルトの『教会教義学』や、20世紀の後半に書かれたG. C. ベルカウワーの『教義学研究』など。それらの中に描き込まれたローマ・カトリック教会の姿が今でも変わらず彼らの姿であり続けていると思い込むのは、危険なことです。それはちょうど、昭和前半の日本家庭を描いた「サザエさん」や昭和後半の日本家庭を描いた「ちびまるこちゃん」のアニメを外国の人々が見て「へえ、日本人て、こんな感じなんだー」と思われることに今の我々が「昔はね」と言いたくなるのと同じです。



2008年2月5日火曜日

ヴァティカンでさえネットを活用している(1/2)

実際問題として、たとえば今日、ローマ・カトリック教会の総本山であるヴァティカン教皇庁でさえホームページを持っています。



ヴァティカン教皇庁ホームページ



http://www.vatican.va/



ホームページがあるくらいですから、ヴァティカン教皇庁独自の巨大なサーバーコンピュータも当然どこかにあるのでしょう。教皇庁本部から各国のカトリック教会への通達等もすべてメールで行われていると考えてよさそうです(私がそのようなメールをヴァティカンから実際に受け取ったことがあるわけではありませんので、想像でしかありません)。



ローマ教皇は使徒ペトロの権威を継承する存在であると、彼らは主張する。そうであるならば、ローマ教会の立場から言えば、聖書の中の「ペトロの手紙」は「ペトロのメール」と訳してもよいはずです。使徒パウロの手紙なども「ローマの信徒へのメール」、「コリントの信徒へのメール」、「ガラテヤの信徒へのメール」などと訳しても何の問題もないばかりか、好ましいことでさえあるでしょう。使徒言行録は「使徒ブログ」と訳しても構わない。



おそらく聖書の中の諸文書はそもそも販売目的で書かれたのではないものばかりでしょう(それとも、二千年前から「はい、これ『ヨハネによる福音書』、面白いよ。一冊500円。買った買った!」とエルサレム神殿前の露天商のような場所で売られていたと考えるべきでしょうか)。



公開することを目的として記された文書であればあるほどインターネットを通しての文書公開は有効です。マルティン・ルターがヴィッテンベルクの城教会前に張り出したと伝えられる「九十五個条の提題」なども、もし当時インターネットがあったとしたら、ルターもまた、自分のブログを立ち上げて、思いのたけを(95どころか1,000でも10,000でも)書き込み続けることができたことでしょう。あるいは、メールをどんどん活用して同じ志を共有できる仲間たち(宗教改革者たち!)を集めたことでしょう。そのほうが一枚のチラシをどこかに張り出すことよりも、また、買ってもらえるかどうか、さらに、読んでもらえるかどうか全く分からない(高価な販売価格を伴う)書物を書くよりもはるかに効果的な手段だからです。



文明の利器を利用しないのは、大いなる損失であると共に怠慢の罪です。もちろん何事にも危険な要素はあります。しかし、「刃物は危険だから使わない、使うべきでない」と言うなら、魚料理も肉料理も不可能です。何度も怪我をしながら上達していくという道を辿るのでなければ、いつまで経ってもプロ並みの腕を習得することはできません。



今さら蒸し返す必要もないような昔話ですが、11年半ほど前にメールを始めた頃は、メールやホームページは「仕事」のうちにカウントしてもらえませんでした。「一部のマニアたちのあやしげな遊びにすぎない」と見られていました。牧師たる者がそういうものにのめり込むことなど以ての外であると白い目で見られました。その後まもなくしてマイクロソフト社のビル・ゲイツ氏(当時は社長)が、ある雑誌社のインタビューで「あなたが毎日取り組んでいる仕事は何ですか」という質問に「メールを書くことです」と答えて周囲を驚かせた、という記事に接したとき(当時はそれが「驚き」だったということが今では驚きです)大いに慰められたことを、はっきりと記憶しています。



牧師の仕事も、かなりの部分は「メールを書くこと」です。非常に過酷な重労働です。



メールを書く仕事

なんだかウダウダしていましたが、「ただいまー」と、二人の子供が学校から帰ってきて家が明るくなり、少し元気が出てきました。ほとんど毎週同じ状況なのですが、こと先週は、説教の準備だけではなく、ものすごく大量の、そして質もしくは内容に重大な責任を伴うメールを書きました。加えて、急遽頼まれた原稿を徹夜で仕上げ、メールに添付して送った日もありました。その他、「やれポスター作れ。やれブログを更新せよ。やれ会議録のチェックをせよ」と次々に注文が(ほとんどすべてメールで)届きます。入院中の方のお見舞いにも行きました。牧師会もありました。この日記ブログへの書き込みは、それらの合間にしていることです。「牧師はブログだけ書いていれば務まるのか」と思われるとしたら、それも困る話です。しかし、です。似たような問いとして「牧師はメールだけ書いていれば務まるのか」というのもあると思う。それに対して今の私は「そういう面もあるようだ」と答えるかもしれません。使徒パウロのことを考えざるをえません。パウロは、一種の手紙魔でした。とにかくたくさんの手紙を書きました。病弱や高齢等のために自分で書けなくなっても、口述して書記さんに書きとってもらいました。伝道旅行の際に出会ったあの人この人を励ますためです。もう二度と会うことができないだろうと確信できるほど遠く離れた場所に住んでいる人々を、手紙で力づけたいからです。わたしたちの時代には、手紙が電子メールに換わっただけです。筆やペンがキーボードに換わっただけです。使徒の働きを受け継ぐ現代の牧師の仕事は、「メールを書く仕事」でもあるのです。私は岡山県岡山市の出身ですが、大学と大学院が東京都三鷹市、最初の教会が高知県南国市、次の教会が福岡県北九州市八幡東区(ここにいるときにメールを開始。当時の名称は「パソコン通信」。1996年の夏。爾来、11年半ほどメールのお世話になっています)、その後兵庫県神戸市北区の神学校での一年半の学びを経て(神戸で長女が生まれ)、山梨県甲府市の教会に赴任するが、四ヶ月後には会堂移転に伴い山梨県中巨摩郡敷島町(現在の山梨県甲斐市)に転居、そして2004年4月より現在の千葉県松戸市に至る。42年間の「永い一瞬の人生」(コブクロ「WHITE DAYS」)にどれだけ引っ越ししたのでしょう。現在中学一年生の長男(13歳)は高知県で生まれましたが、13年間で五回も転居を経験させてしまいました。平均すると、(13年÷5回=)2.6年ごとに転居した計算になります。本当につらい目に合わせてしまいました。長男のいちばん嫌いな言葉が「引っ越し」です。私の向かい側で(コタツにいます)眠い目をこすりながら学校と塾の宿題をしている二人の子供たちの横顔を見ていると、また胸が痛みはじめます。私が今「改革派教義学」という六文字をどこでも憚りなく堂々と述べることができるのは、この二人の子供たちの「犠牲」あってのことなのです。



2008年2月4日月曜日

故障中

月曜日は元気がありません。日曜日に力を出しきってしまうからでしょう。仕事して疲れるのは当たり前。余力が残っているとしたら、サボっている証拠でしょう(というこの考え方を、私はたしか養老孟司氏の『バカの壁』シリーズから学んだと記憶しています。この記憶自体が間違っているかもしれません。しかし、養老氏の本を読み直して確かめてみる気力がない。グダグダです)。体も心ももちろん脳も休みなく働かせ続けることは死を意味するでしょう。昨日は定期小会・執事会もありました。牧師は教会会議の議長です。疲れます。現在日曜日の朝の礼拝では新約聖書の使徒言行録の連続講解説教を行っています。昨日の個所は17章の16節から34節まで。ギリシアの首都アテネの「アレオパゴスの真ん中で」使徒パウロが説教する場面です。この説教は「結果としては失敗に終わった説教」と評されるものです。以前の私はパウロの説教に「失敗」などあるものかと反発していましたが、このたび読み直してみて「なるほどこれは失敗の説教である」と分かりました。パウロも失敗する!他人の失敗を見て喜ぶのは下品です。しかし慰めを感じる要素は確かにあります。もう一つ、使徒言行録のとくにパウロの伝道旅行を描いた記事を読みながら慰められている点はその伝道の方法です。「安息日ごとに」会堂で聖書について論じる。これが基本的なやり方です。パウロもある意味で「安息日の人」であり、「安息日の仕事」に取り組んでいたと言える。牧師が「日曜日の人」であり、「日曜日の仕事」に取り組んでいる。同じだなあと思うわけです。もっともパウロは、よく知られているとおり、生活費に行き詰ったからでしょう、「テント製作」のアルバイトもしました。食事をしないで生きれる生物は存在しません!(「生きれる」と、ら抜き言葉を使ってみたくなりました。コブクロの歌詞の影響です)。しかしそれは彼の本業ではありえません。伝道者の本業は「伝道」です!あのパウロ先生も安息日の翌日は(我々と同じように)ぶっ倒れていたのかなあとか想像してみると、慰められるものがあります。今日の私は、ほんと、ダメダメです(ぐったり)。



2008年2月3日日曜日

「アレオパゴスの真ん中で」

http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-02-03.pdf (印刷用PDF)



使徒言行録17・16~34(連続講解第44回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。』」



今日の個所で使徒パウロが立っている場所は、ギリシアの首都アテネです。なぜパウロはアテネにいるのでしょうか。その経緯が先週の個所に記されています。パウロとシラスとテモテの三人が、テサロニケとベレアの町でイエス・キリストの福音を宣べ伝えたとき、多くの人々がキリスト教信仰を受け入れ、洗礼を受けました。ところが、それにねたみを抱いたユダヤ人たちがパウロたちを町から追放するために、人を使って暴動を起こさせたのです。パウロたちの身に危害が及ぶことを恐れた人々が、伝道者たちを安全な場所へと逃れさせました。その際シラスとテモテはベレアに残りましたが、パウロは一人アテネに移動することになったのです。



そしてパウロは、それからしばらくの間、一人で伝道することになりました。「寂しい」という感情をもったかどうかは分かりません。パウロも人間です。一人でいると何となく不安を感じたり、心もとないものを感じたりしたかもしれません。そういうことを少しは考えてみる必要があるかもしれません。ただ、そのようなことは何も記されていません。



むしろはっきりと記されていることは、パウロがアテネに到着して最初に抱いた感情は「憤慨」であったということです。「憤慨」とはもちろん、激しいまでの怒りの感情です。私が以前から申し上げている「パウロ先生はすぐ怒る」という話がここでも当てはまるかもしれません。しかし、なぜパウロは「憤慨」したのでしょうか。理由が記されています。



明らかに分かること、それは、ユダヤ人でありキリスト者であるパウロの目から見るとギリシアの首都アテネは、完全に異教徒の町であったということです。その町にはあふれ返るほど多くの偶像が立ち並んでいました。それを見てパウロは「憤慨した」、すなわち、激しいまでの怒りの感情を抱いたのです。



その状況はちょうど、先週もお話ししましたとおり、150年前の日本に来たアメリカ人のプロテスタント宣教師が体験したであろうものと非常によく似ていたに違いありません。パウロの目の前には、一人として、少なくとも表立ってキリスト教信仰を告白する人々がいませんでした。この個所を見るかぎり、当時のアテネにユダヤ教の会堂は存在していたようですから、聖書の「せ」の字くらいは知られていたでしょう。しかし、キリスト教の「キ」の字は知られていませんでした。その意味での、まさに全くゼロからの、あるいはマイナスからの伝道活動を開始せざるをえなかった、しかもたった一人で(!)その困難な仕事を始めなければならなかった。そのときのパウロの心中がどのようなものであったかについては、察して余りあるものがあります。



しかし、パウロの優れているところは、そのような絶望的と言いうる状況に立たされても、まさに文字どおり「折〔または「時」〕が良くても悪くても」(テモテの手紙二4・2)、イエス・キリストの福音を宣べ伝える仕事を堂々と始めることができた点にあると言ってよいでしょう。それは、次のように書かれているとおりです。



「論じ合っていた」という表現は「議論していた」という意味ではなく「説教していた」あるいは「御言葉を宣べ伝えていた」という意味であると、解説されています。



また、パウロの前に現れる「エピクロス派」や「ストア派」の哲学者については、次のように説明できます。エピクロス派は快楽主義者です。かたやストア派はエピクロス派とは正反対の禁欲主義者です。前者は地上の人生を楽しむべきであると考える人々であり、後者は地上の人生を楽しむべきではないと考える人々です。しかし、共通点もあります。この人々が持っているのは、いずれにせよ「地上の人生を軽んじる思想」であったということです。もちろんそれはキリスト教的な立場からの批判的評価です。



エピクロス派は、死後の世界も現世を超えた次元もそういうものは一切認めない人々でした。彼らにとって地上の人生は刹那的なものであり、せいぜい遊んで暮らすしかないものであり、どうでもよいものでした。性的な乱れもあったと言われています。他方のストア派は、地上の人生を苦しむべきものとしてとらえていました。しかし、その教えは、現実の出来事を直視しつつ一つ一つの問題に真剣に取り組む姿勢を説くものではなく、どちらかといえば嫌々ながら人生をやり過ごす姿勢を説くものでした。



私の見方では、エピクロス派にせよストア派にせよ今日の個所で紹介されているアテネの哲学者たちの思想は、わたしたち日本人の(ただしキリスト者以外の)一般的な感性にちょうどぴったりフィットするようなものではなかっただろうかと、思えてなりません。どのみち一回かぎりの人生である。適当に楽しんで暮らそうか。それとも、少しは苦しい修行の道でも歩んでみようか。しかし、どのみち人は死ぬ。死ねば、皆一緒。



そのようななんとも言えない頽廃的ムードないし虚無主義に支配されたギリシア的思想の厚い壁を前にして、パウロは「イエスと復活について福音を告げ知らせていた」と記されています。しかしまた、そのパウロの説教は、哲学者たちにとってはうんざりするような、あるいは何を言っているのかさっぱり理解できないような話として受けとられ、心理的に拒絶されていたらしいことが、この個所から伝わってきます。



皆さんはどうでしょうか。この教会で私は繰り返し「キリスト教信仰において、復活とはこの地上にもう一度戻ってくることです。わたしたちの地上の人生は死によって終わるものではありません。復活によって地上の人生が回復されるのです。だからわたしたちは地上の人生を軽んじてはなりません。復活前の人生と復活後の人生は連続的なものです」と語ってきました。このように語っているときの私の念頭に常にあるのが、今日の個所のパウロの状況です。すなわち、アテネの哲学者たちが教えていた「地上の人生を軽んじる思想」と対決しているパウロの状況です。



私がなぜ、声を大にして「復活」を強調してきたか、また同時に声を大にして「地上の人生の価値」を強調してきたか、その理由は今日の個所に詳細に描き込まれているパウロとギリシアの哲学者たちとの対決状況が、今日においてもなお厳然と存する日本の思想的社会的状況と同じであると考えてきたからに他なりません。



すべての人はどうせ死ぬ。死んだら皆同じ。人生などどうでもよい。このように、私を含めた日本人の多くは、心の奥底で感じています。そのような思想教育を受けてしまっています。しかし、そのように考えることは間違いであると、パウロならば語るでしょう。わたしたちは復活するのだ。この地上に再び戻ってくるのだ。だからこの地上の人生には価値があるのだと。このパウロのメッセージを、わたしたちもまた、まさに声を大にして今日の日本社会の中で語り続けなければなりません。



パウロは「アレオパゴス」に連れていかれました。アレオパゴスは、ユダヤ人にとっての「最高法院」(サンヘドリン)に相当する、ギリシアの最高議会が招集された場所です。今の日本でいえば国会議事堂のある東京都千代田区永田町一丁目のような場所です。そこでパウロに要求されたことは「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19~20節)ということでした。当時のギリシア人からすれば、使徒パウロの存在は、遠い外国から来た新興宗教のスポークスマンのように見えたのでしょう。一応興味はあるので、とりあえずテレビ番組に出演して、その新しい教えをこの国のみんなに紹介してくださらないかと言われているようなものです。



するとパウロは、その要求に二つ返事で応じます。そしてたった一人で「アレオパゴスの真ん中で」、いわばまさに全ギリシア人の前で、実際にはほとんどが興味本位か冷やかし半分で集まっている人々の前で堂々と、キリスト教信仰、なかでも「復活」について語るのです。このあたりも、伝道者パウロの卓越した側面であると言えるでしょう。パウロの辞書には「怯む」とか「怖気づく」とか「引っ込む」という言葉がないかのようです!



パウロの説教の内容(21~31節)について詳しくお話しする時間はもう残っていません。ただし、一つ気になる点だけ、申し上げておきたいと思います。それは、冒頭部分です。



なぜこの点が気になるのでしょうか。最初に申し上げましたとおり、アテネに到着した直後のパウロは「憤慨していた」のです。つまり、激しく怒っていた。その怒りの感情は、アレオパゴスの真ん中で語っているときにもなんら収まっていなかったはずだと思われるのです。しかしそれにもかかわらず、パウロは「あなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と言う。これは明らかに、かなり辛辣な皮肉であり、嫌味です。なぜならパウロはそもそも、ギリシア人の偶像崇拝を「信仰」であるなどとは思っていなかったからです。つまりパウロは、心にも無いことを皮肉として言っているのです。



気になること、それは、皮肉や嫌味で伝道は可能かという問題です。アテネでのパウロの説教について「結果としては失敗に終わったものである」と評する人々がいます。私は、その判断に賛成せざるをえません。以前の私はパウロの説教に「失敗」などあるものかとその判断に反発していましたが、このたび読み直してみて「なるほど、この説教は明らかに失敗している」と分かりました。



この説教が終わった後の人々の反応は、明らかに、非常に白けきったものです。さっさと帰る人がいる。あざ笑い、「その話はまた今度ね」と言い残していく人がいる。キリスト教信仰を受け入れた人は「何人か」である。否定しがたい事実としてこの説教には明らかにけんか腰の要素があります。人の感情を逆なでし、人の心を遠ざけるものがあります。あなたがたは「知られざる神」を拝んでいる。信心深いご立派な方々です。あなたがたが知らずに拝んでいるものをこのわたしが教えてあげますという論法は「上から目線」です。「空気が読めない人」と見られるかもしれません。最も嫌われやすい語り方です。



私がこのような批判的な言葉をあえて口にする理由は、わたしたち自身の戒めにしたいからです。また、パウロの伝道活動にも試行錯誤の要素があり、失敗の連続であったことを率直に認めたいからです。わたしたちの信仰告白の内容は、正しいものです。しかし、語り方や伝え方を間違えると、あらぬ誤解を生み、人々の心を信仰から遠ざける原因にもなりかねないからです。皮肉や嫌味やけんか腰で、伝道はできないからです。



しかし、です。わたしたちがパウロから学ぶべきことは、もちろんたくさんあります。今日の個所から学ぶべき最も重要なことは、彼の「勇気」です。それは、今の日本の教会にまだまだ欠けている要素であると思われてなりません。



(2008年2月3日、松戸小金原教会主日礼拝)