2007年12月30日日曜日
地上の人生には価値がある!
コリントの信徒への手紙二4・8~11
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」
今日開いていただきましたのは、使徒パウロの手紙の一節です。ここに記されています内容は、大きく分けると二つのことです。
第一は、わたしたちキリスト者は、年がら年中、苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されている存在であるということです。
第二は、しかし、わたしたちキリスト者は、どんな苦しみの中にあっても行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない存在であるということです。
なぜそのように語ることができるのかについて、今日は共に学びたいと願っています。
第一の点から考えてみます。わたしたちは、なぜ年がら年中、「苦しめられている」存在なのでしょうか。パウロが記しているのは、「苦しんでいる」ということではありません。「苦しめられている」ということです。「被害を受けている」という意味で理解できる言葉です。しかし、キリスト者は被害者なのでしょうか。だれからどのような仕打ちを受けているというのでしょうか。パウロは何が言いたいのでしょうか。三つの可能性を私は考えます。
第一の可能性は、キリスト教信仰に対する迫害者から受ける被害です。キリスト教信仰は、残念ながら、すべての人に受け入れられているものではありません。信じる人も信じない人もいます。信じない人のすべてが必ず、信じる人を迫害するわけではありません。しかし、信じない人の中には、非常に強烈な仕方で信じる人を迫害する人々がいることは事実です。パウロも多くの迫害を受けました。ここでパウロが語っている「苦しめられた」体験は、迫害者から受けた被害のことであると考えることには、何の無理もありません。
しかし、それだけでしょうか。それだけであると考えることには無理があると思います。私が考える第二の可能性は、わたしたち自身が持っている罪と弱さから受ける被害です。別の言い方をしますと、わたしたちの人生そのものが持っている苦しみです。わたしたちの罪や弱さには明らかに、それを持つことをわたしたち自身が願って持っているわけでは決してないという面があるからです。おそらくわたしたちの多くは、罪のない人間でありたい、強い人間でありたいと願っているはずです。しかし、その願いに現実が伴わない。願っていない罪を犯す。願っていない弱さに負けてしまうのです。それもある意味で被害です。聖書的に考えるならば、そのように語ることが可能です。
そして、今申し上げた第二の可能性のちょうど裏側に第三の可能性が隠されていると、私は考えます。第三の可能性とは、そのような、わたしたちが願っているわけではない罪や弱さを、わたしたちが持っている理由は何なのかという問いに関することです。
しかし、罪のほうは、ちょっと横に置いておきたいと思います。今考えたいのは弱さのほうです。わたしたちはなぜこれほどまでに弱い存在なのでしょうか。この問いの答えは聖書に基づいて考えるならば、はっきりしています。わたしたちをこのような弱い存在にしたのは、神御自身である、ということです。
パウロは、わたしたちの肉体を指して「土の器」と呼んでいます(7節)。おそらく意味されていることは、二つあります。すなわち、一つの完成した作品になるまではそれ自体では価値のないものからできているということと、たとえそれが完成した作品になったとしても大事にしないかぎり壊れやすいものであるということです。しかし、いずれにせよ、この土の器は神御自身の作品です。わたしたちの存在は、神の創造作品なのです。
もしそうであるとするならば、第三の可能性の内容は、明らかです。わたしたちを弱く壊れやすい「土の器」としてお造りになった神御自身によって、わたしたちは「苦しめられている」という面が、必ずある、ということです。つまり、私が考える第三の可能性は、わたしたちがそのようなものに造られた神御自身の定めから受ける苦しみです。それも、一種の被害と言えるものです。
病気のことを考えれば、すぐにご理解いただけると思います。病気になりたい人など、一人もいません!しかし、現実のわたしたちは、何度でも繰り返し病気になります。このわたしを、神さまは、なぜもっと強いものに造ってくださらなかったのか、と恨んだことがある方は、多いでしょう。ところが、神はわたしたちを弱いものにされました。「わたしたちは神の被害者である」とまで語ることは、やめておきます。しかし、もし一度でも、自分の体や心の弱さを嘆き悲しんだことがある人は、結局、神御自身の定めを恨んでいるのだ、ということを知るべきです。
しかし、このように考えてみたときに、気になることがあります。それは、第一に申し上げました、迫害者から受ける被害という点に関わることです。あまり考えたくないことなのですが、どうしても考えてしまうことがあります。それは、この被害は、ある意味で、簡単に逃れることができる被害でもある、ということです。
どうすればよいのでしょうか。あまり口にしたくない言葉ですが、申し上げます。迫害者から受ける被害を逃れるためのいわば唯一の方法は、キリスト教信仰を捨てることです。信仰を捨てた人に対しては、迫害する理由もなくなるのです。
しかし、わたしたちは、信仰を捨てることができません。パウロは信仰を捨てることができません。救い主イエス・キリストへの信仰とは何でしょうか。それは、救い主イエス・キリストにおいて神がこのわたしを愛してくださっているということを信じることです。このわたしを愛してくださっている方がおられる、とせっかく信じることができたのに、その信仰を捨てるのは、無駄なことであり、もったいないことです。そのようなもったいないことは、わたしたちにはできません。わたしたちが信仰を捨てることができない理由は、このあたりにあるのです。
ところが、この信仰を捨てることができないために、わたしたちは迫害にあう。これは、ある意味でジレンマです。迫害にあいたい人など一人もいません。それは病気になりたい人は一人もいないのと同じです。わたしたちは信仰を捨てることはできませんが、迫害にあいたくはないのです。両方が同時に成り立つ道を探したいと願っています。しかしそれが、なかなか見つからない。そこにまた苦しみが生じるのです。
ただし、です。私自身は、今申し上げている点に限っては、悪意味での被害者意識などは持つべきではないだろうとも考えております。たとえば、次のようなことを考えてみていただきたいのです。差しさわりが生じないように、私の話をします。
私は自分で望んで、あるいは自分で願って牧師という仕事に就きました。牧師の仕事は、おそらくお察しいただけるとおり、けっこうきついものですし、厳しいものです。しかし私はべつに被害者ではありません。もし私が皆さんの前で「牧師の仕事はきつい、厳しい」と言い出しますならば、そんなに言うならお辞めになったらよいのにと思われるでしょう。実際にそういう面があるのです。泣き言ばかり語る牧師は教会にとって迷惑な存在であるはずです。私はこの仕事をやりたいからやっているのです。やらされている、というような意識は少しもありません。
信仰生活にも、この点では同じことが当てはまります。信仰者たちは、なにもべつに、いつでも必ず被害者であるわけではありません。わたしたちは、信じたくて信じているのです。教会に通いたくて通っているのです。信じさせられているのでも、通わされているのでもありません。きついだの厳しいだの言っていると、お辞めになったらよろしかろうと、周りの人々が言い始めるでしょう。信仰と教会に関する一切の重荷を降ろしてしまえば、あなたは今よりずっと楽になることができますよ、と誘ってくるでしょう。
その声のすべてが悪魔の声であると、私は言いません。もしかしたら天使の声かもしれない。ただし、もちろん、私が皆さんに「お辞めになったらよろしかろう」などとはまさか言いません。信仰生活を続けることが、もし皆さんにとっての何らかの被害者意識の原因になっているというならば、その信仰生活のどこかに、あるいは、通っておられる教会に問題があるのではないかと疑ってみる必要があるだろうと申し上げたいだけです。
しかし、です。ここで考えてみなければならないことは、苦しみのないような仕事は、どこにも存在しない、ということです。あるいは、苦しみのないような奉仕も、存在しません。いや、もっとはっきり言っておきます。苦しみのないような人生は、存在しません。遊びにおいてさえ、わたしたちは苦しむのです。苦しみから逃げようとすることは、そのまま死を意味する、と言わなければならない。それほどにわたしたちは、どこにいても、何をしても、苦しみ続けなければならない存在なのです。その意味では、わたしたちの人生そのものが「苦しめられている」ものです。生きていること自体が、いわば被害です。実際にそういう面もあるからです。
パウロがここに「苦しめられている」と書いていることには、思わず書いてしまったという面があるかもしれません。そんなに苦しいなら辞めればよいと言われてしまう、一つの口実を与えます。ある意味では、迂闊な言葉であると言われても仕方がないものでさえあるでしょう。
しかし、です。わたしたち自身は、もちろん、パウロの言葉を迂闊な言葉であるとだけ言って済ますことはできません。明らかな意図をこめて書いている面もある、とも考えるべきです。それは何でしょうか。
前後を読めばはっきり分かることがあります。それは、パウロが「苦しめられている」姿には、イエス・キリストの苦しむ姿が映し出されているということです!
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。この意味は、わたしたち(キリスト者!)が、この信仰のために、この教会のために、あるいはこの社会のために、そしてこの人生そのもののために苦しんでいる姿には、あの十字架にかけられた救い主イエス・キリストの姿が、生々しく映し出されている、ということです!
このことに、パウロは大いに励まされていたのだと思います。わたしたちの姿の中に、イエス・キリストのお姿が映し出されることに、です。あんなに嫌な目にあっているなら逃げたらいいのに、辞めたらいいのに、と周りの人が言いたくなるほどに苦しんでいるのに、いつものように起き上がり、立ち上がり、身支度をして出かける、このわたしたちの姿に、十字架上でお苦しみになっておられるイエス・キリストのお姿が映し出されることに、です!
イエス・キリストを信じる者たちは、イエス・キリストの十字架上の苦しむ姿に、胸を打たれ、心砕かれて、信じるようになったのです。人を愛し、世界を愛し、助けるために命をささげてくださった、その姿に胸を打たれ、心砕かれて、信じるようになったのです。
そうであるならば、わたしたちの結論は、はっきりしています。わたしたちの苦しむ姿に救い主の姿が映し出されるとするならば、そのわたしたちの姿を見てもらうことこそが伝道なのです。わたしたちが苦しむ姿には、人を救う力がある。苦しむこと自体が、価値ある人生なのです。
そのことを信じるゆえに、わたしたちは、行き詰まらないし、失望しないのです。打ち倒されても“どっこい生きて”いるのです。
(2007年12月30日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年12月24日月曜日
苦しみを乗り越える力、それは愛
コリントの信徒への手紙一13・13
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
クリスマスイブの礼拝において「愛」について共に考えることは、わたしたちにとってふさわしいことであると思います。
神は、独り子イエス・キリストを世にお遣わしになりました。「ここに愛があります!」(ヨハネの手紙一4・9、10)。
御子イエス・キリストのご降誕は、神の愛の証しです。イエス・キリストのご存在は、神の愛そのものなのです。
今読みましたコリントの信徒への手紙一13・13は、使徒パウロが書いた言葉です。信仰と希望と愛はいつまでも残るとパウロは言いました。いつまでも残るとは、永続的であるということです。
またパウロは、この三つの中で最も大いなるものは愛であると言いました。大いなるとは偉大である、ということです。そしてそれは、いつまでも残るという点にかかるのだと思います。最も大いなるものとは、この文脈では、最も長く残り続けるもののことです。最も長く残り続けるもの、最後の最後に残っているものは、愛である、とパウロは書いているのです。
イメージできるとしたら、マラソンレースです。信仰と希望と愛がレースをしているのです。いろんなものと一緒に走ってきました。しかし、最後まであきらめずに走り続けてきたのが、信仰と希望と愛です。トップスリーというよりも、他のものはみんな脱落していった、あるいは失われてしまった、という感じです。
しかし、ともかく三つは残った。信仰と希望と愛。三者とも表彰台の上に立っています。金メダルと銀メダルと銅メダル。真ん中で金メダルをかけてもらって笑っている、ガッツポーズをとっているチャンピオンが愛である。そういう話であると考えることができます。
しかし、どうでしょうか。ここで、ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。
はたして、このパウロの言葉は、わたしたちにとって本当に納得行くものでしょうか。わたしたちの現実に照らし合わせてみて、どうでしょうか。信仰と希望と愛は、いつまでも残っているでしょうか。心もとないものは、ないでしょうか。
信仰はどうでしょうか。「信仰なんか、とっくの昔に忘れてしまいました」。そういう話を、わたしたちは、何度となく聞くではありませんか。
希望はどうでしょうか。「夢も希望もありません」という言葉をしょっちゅう聞きます。年齢は関係ないかもしれません。中学生、いや小学生でも、人生に絶望してしまう子供たちがいるではありませんか。
愛はどうでしょうか。これも微妙です。もしかしたら、「愛されたい」という思いだけは、最後まで残っているかもしれません。しかしそれは「愛している」という思いでしょうか。わたしたちは、ほんとうに最後の最後まで神と人を愛しているでしょうか。ここに大きな問いがあります。
しかし、今日私は、皆さんにはぜひ、良い意味で安心していただきたいと願っています。今夜はぜひ、安心してお休みいただきたいところです。でも、どうしたら安心できるのでしょうか。
一つの本を見つけました。今から50年も前に書かれたものです。その中に書かれていることが、わたしに深い慰めを与えてくれました。次のように書かれていました。
「使徒パウロがコリントの信徒への手紙一13章に“愛”という文字を記しているところは、“イエス・キリスト”という名前に置き換えることができます。イエス・キリストこそが、この世界に実現した歴史的現実としての愛そのものなのです。」(A. A. ファン・ルーラー『最も大いなるものは愛である』、原著De meeste van deze is de liefde、168~169ページ。)
「愛」をイエス・キリストという名前に置き換えることができるとは、どういうことであるかということは、実際にやってみればすぐにお分かりいただけることです。
「イエス・キリストは忍耐強い。イエス・キリストは情け深い。ねたまない。イエス・キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。
このように読むことが許されるのなら、本当に素晴らしいことです。イエス・キリストはまさにこのとおりのお方だからです。忍耐強く情け深いのは、イエス・キリスト御自身です。イエス・キリストがそのような愛を示されたのです。そして、イエス・キリストのご存在そのものが愛そのものなのです。
わたしたちが注意しなければならないことは、聖書における愛の教えを、ただ単に道徳的な意味だけで理解してはならないということです。
「わたしたちはいかに愛すべきか」という問いは、道徳的な問いです。たとえば、昨日の説教で取り上げましたヨハネの手紙一4章のテーマは、わたしたちはイエス・キリストに示された神の愛を一つの模範にしながら、人間同士どのようにして互いに愛し合うべきであるかという問いかけがなされていたわけですから、これのほうは道徳的な問いです。このこと自体は重要なことです。軽んじられてはなりません。
しかし、わたしたちは、キリスト教的な愛の意味を人間の行為という面だけに限定してしまうことはできません。キリスト教信仰は、宗教です。宗教は道徳を超えるものです。わたしたちにとって重要なことは、人間がいかに愛し合うべきかという道徳の問いだけではありません。神がわたしたちをどのように愛してくださっているかという、宗教の問題こそが重要なのです。
信仰も希望も、そして愛までも、すっかりどこかに行ってしまった。まさに不信と絶望の中にいる。そのような心や生活の状態に、わたしたちは、じつは、しょっちゅう陥っているのではないでしょうか。
わたしたちが苦しい状況にあるとき、つらいことがあるとき、わたしたちは、神に祈ることができません。苦しい時には祈ればよいと簡単に言うことはできません。苦しい時には祈るべき言葉すら見つからない。それがわたしたちの現実の姿です。
しかし、そのときに、です。
「“愛”という文字は“イエス・キリスト”というお名前と置き換えることができます。」
いつまでも残る、最も大いなる愛は、イエス・キリストです!
このイエス・キリストにおいて、神が、あなたを愛しておられます!
そして、その愛は「いつまでも残る」ものです。
あなたが信仰も希望も愛も見失っているときにも、神はあなたを愛しておられます!
あなたは、そのように信じてよいのです。
そのように信じるとき、あなたの心の中に、深い平安と慰めが訪れるでしょう。
クリスマスおめでとうございます!
(2007年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイブ礼拝)
2007年12月23日日曜日
神の愛、イエス・キリスト
ヨハネの手紙一4・7~12
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(4・9)
クリスマスおめでとうございます。今日は楽しくまたうれしい日です。救い主イエス・キリストがお生まれになりました。このわたしの救い主が来てくださったのです。
しかし、このように私が申しますと、一つの疑問が生まれるかもしれません。「救い主、救い主と言うけれど、その方が持って来てくださった“救い”とは何のことだろうか」と。今日考えてみたいと願っているのは、キリスト教的な意味での救いとは何なのかです。
救いの意味は、救済ないし救助です。この字を見て多くの人が最初に思い浮かべることは、難民救済や災害救助、あるいは貧しい人への施しというようなことではないでしょうか。それももちろん重要です。熱心に行うべきです。しかしキリスト教的な意味での救いとはそのようなものだけであると私が語るなら、ちょっと違うのではないかと思われるに違いありません。もちろん私も、それだけではないと考えております。
問題にすべきことは、救いの“中身”は何かです。こういう言い方もできるでしょう。イエス・キリストがもたらしてくださったものは、わたしにとって、何の役に立つのか、それはうれしいものなのか、ありがたいものなのかという問いです。何かご利益(りやく)があるのか、と言い換えてもよいでしょう。それとも、キリスト教とご利益うんぬんは、全く無縁であると言うべきでしょうか。
今日の聖書の個所に目を落としていただきたいと願います。ここに書かれていることが、今申し上げた問いの答えです。一言で言いますと、それは「愛」です。また「わたしたちが互いに愛し合うために必要な要素」です。イエス・キリストをとおして神がわたしたちに与えてくださる救いの中身は、要するに“互いに愛し合う人生”です。愛も、希望も、そして喜びもない人生を救い主が、それとは正反対のものに造りかえてくださるのです。
それこそが、まさにキリスト教のご利益(りやく)です。そのように私は、はっきりと申し上げることができます。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
分かるようでちょっと分かりにくい言葉であると思います。「互いに愛し合いましょう」と言われている以上、ここに語られているのは、明らかに、人間同士の愛です。あなたとわたしの愛です。そうしますと少し分かりにくいと感じられる面が現われてきます。とくに今の人々がおそらく感じるであろうことは、人間同士の愛に神が登場する必要があるのだろうかという問いであると思います。「神を信じていない人々であっても、十分な意味で愛し合っているではないか」という問いです。
実際問題として「愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」でしょうか。「愛することのない者」は、神を知らない人でしょうか。わたしは、あの人を心から愛している。あの人も、わたしを心から愛してくれている。このわたしたちの絆は、だれにも邪魔することができないほど固いものである。しかし、わたしたちは何も、神を信じているわけではない。それほど信心深くないし、神とか宗教には興味がない。そのように考える人々のほうが、今の時代の中では、圧倒的な多数になっているのではないでしょうか。
私自身には、そのような現代の風潮を一方的に批判したり、裁いたりしたいというような気持ちはありません。「神を信じていない人は、本当の愛を知らないから、だから、あのように汚れている、乱れている関係に陥ってしまうのである。ほら、やっぱりそうなった」。そのように言って済ませることはできないと考えております。
私がそのように考える理由は、はっきりしています。神を信じている我々は喧嘩しないのか、という問いがあるということです。神を信じている我々は、いつでも必ず清廉潔白、正しい生活を送っているのか、という問いがあるということです。あるいは反対に、神を信じていない人々の愛は常に汚れていて、常に乱れていて、常に破綻に至るのか、という問いがあるということです。それほど事柄は単純ではないのではないでしょうか。
しかし、わたしは、このように考え、語ることにおいて、今日開いているヨハネの手紙に書かれていることは間違っている、と申し上げたいわけではありません。ただ、短絡的な理解に陥らないように、気をつけなければならない、と思っているだけです。
間違わないために注目すべき点は、9節以下に書かれています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
ここに登場する「独り子」が救い主イエス・キリストです。大切であると思われるのは、神は独り子を「世に」お遣わしになった、と記されている点です。これは、先週まで三回にわたって学んできましたルカによる福音書2章の、ベツレヘムの羊飼いたちの前に主の天使が現われて救い主イエス・キリストのご降誕を告げた、あの個所に記されていることに関係しています。主の天使と天の大軍は「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。この「地」と「世」は、ほとんど同じ意味であると考えることができるのです。
「地」であれ「世」であれ、いずれにせよ、それは、わたしたちが生きているこの地上の世界を指しています。とくに「世」(コスモス)と言われている場合、それをわたしたちが日常的に用いている最も卑近な言葉で翻訳するとしたら、「世間」です。「神は独り子を世間にお遣わしになった」。このように翻訳することさえできるのだということです。
そして、その場合の「世間」とは、言うまでもなく、神を信じている人々だけが住んでいる世界に限定されるわけではありません。「世」の意味はどう間違っても、信者の集まりとしての教会だけを指しているわけではありません。むしろ逆です。教会はその中に含まれていますが、まさに全人類、その中に信者である人も信者でない人も含まれているこの世界、まさに全世界のことを、聖書は「世」と呼んでいるのです。
そこに救い主イエス・キリストは来てくださいました。そして、この方は、御自身の命をささげて、人の罪を贖うみわざを行ってくださいました。キリストの贖いのみわざとは何かということについて、ほんの少しですが事情を説明しておきます。
この話は要するに、神はきよく正しい方であり、曲がったことが大嫌いなお方であるという点から始まります。神の正しさは、罪を犯す人間に対しては死の罰をもって報いないかぎり満足しないものです。しかし、神は人間を惜しんでくださり、また愛してくださいました。神がお選びになったのは、死の罰をもって人間を滅ぼす道ではなく、何とかして人間を生きることができるようにするために、独り子を世に遣わし、十字架の上で罪人の身代りとなる犠牲として供えてくださるという道でした。御子の死によって償いは完了しましたので、人間と神との関係に和解が成立しました。神は御子イエス・キリストを救い主として信じる人々の罪を赦し、神への感謝と喜びをもって生きる永遠の命を与えてくださることを約束してくださったのです。
しかし、です。たった今申し上げたことの趣旨は、罪を赦していただくことができるのは、イエス・キリストを信じる者たちだけである、ということです。けれども、それではイエス・キリストは初めから、信じる者たちだけのところに来てくださったのかというと、決してそうではないのです。イエス・キリストは「地」にいる「世」の民、すなわち地上の世界に生きる全人類のために来てくださった。父なる神は御子を、全人類を救うためにお遣わしになった。このこともまた、わたしたちは、はっきりと信じてよいのです。
ここには一見、矛盾があると思われるかもしれませんし、その矛盾をわたしたち自身も認めなければならないようにも思われます。私が申し上げていることは、救い主イエス・キリストは全人類のために、すなわち“万人”のために来てくださったということと同時に、それにもかかわらず、イエス・キリストによって救われるのは、信じる者たちだけである、すなわち“信者”だけが救われる、ということだからです。
どこに矛盾があるのでしょうか。もし救い主がまさに神から遣わされた救い主であり、かつその方が全人類のために遣わされた方であるというのであれば、その救い主の持っておられる救いの力は、信者であろうが・なかろうが関係なく、まさに全人類に及ぶと信じられるべきではないか、ということです。もしわたしたちが信者だけが救われると言うのであれば、救い主の力を狭く限定することになるのではないか、ということです。
しかし、です。この問題の解決の一部は先週お話ししたとおりです。イエス・キリストの救いの恵みは、おいしいごちそうであるということです。しかもそれは、だれが食べても「うまい!」と感動するであろう、まさに万人に通じる、万国共通、世界共通の超絶品のごちそうである、ということです。
しかし、その味を知ることができるのは、食べた人だけです!食べるか・食べないかは、本人次第です。メニューの写真も公開されています。店の前には、美味しい香りも漂っています。それでも店に入らない、食べようとしないのは、本人の責任です。それ以上強制することはできないのです。
「ここに愛があります」と言われています。この意味は何でしょうか。考えられる可能性は、今申し上げた矛盾点を、そのまま「愛」と呼ぶということです。どういうことか。イエス・キリストに示された神の愛は、強制的な愛ではない、ということです。「今は食べたくない」と言っている人の口を梃子(てこ)でこじ開けて無理やり捻じり込むような、暴力的な愛ではない、ということです。
それはむしろ、もっとデリケートな愛です。デリカシーのある愛です。それがイエス・キリストに示された「神の愛」の本質であると理解することが可能です。信仰を強制すること、「信仰のない人の愛は必ず破綻する」と強く言い放つこと、「だから信仰のない人は駄目なのだ」と裁くこと、「信仰のない社会は絶望的である」と考えて世捨て人になること。こういうのは「愛」の本質からは最もかけ離れているのだということです。
これ以上は言わないでおきます。申し上げたいのは、否定的なことでも批判的なことでもありません。「互いに愛し合うために必要な要素」です。肯定的で積極的な要素です。
それは「神の愛」であると言われています。私はそれを、繰り返し、デリケートな愛と呼んでおきます。デリカシーのある愛です。強制と暴力の反対です。謙虚さがあり、可能な限りの譲歩があり、また十分な協議と相互理解がある。お互いに納得づくであり、深い信頼と愛情がある。そのようなデリケートで優しい関係です。美味しいごちそうを一緒に食べて、ほんとうに美味しいと喜び、うれしそうな顔で満足している人々の姿です。
そのような「神の愛」をイエス・キリスト御自身が示してくださいました。それは本当に優しくデリケートなものであり、今もそうあり続けています。押しつけがましいものではありませんでした。ガリラヤの人々と共に平和に過ごされた日々において、エルサレムでの戦いの日々において、そして現在、天に挙げられてイエス・キリストの体なる教会と共に生きておられる日々において。
(2007年12月23日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年12月16日日曜日
栄光と平和の満ちる世界
ルカによる福音書2・13~14
「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
今日を含めて三回、救い主イエス・キリストがお生まれになったときに、ベツレヘムの羊飼いたちに起こった不思議な出来事を学んできました。羊飼いたちは、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。そこに主の天使が近づいて来て、主の栄光が周りを照らしました。そして、天使が「民全体に与えられる大きな喜び」を羊飼いたちに告げたのです。
その喜びの内容は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ということでした。その意味は、救い主という仕事をする人が来ました、で終わるものではありません。その救い主によってあなたがた自身が救われる、ということです。その救い主は、あなたがたを、あなたを救うお方である、ということです。
そして、その喜びの知らせは「民全体」に与えられたものであると言われている以上、救われるのは羊飼いたちだけではなくまさに「民全体」であると言わなければなりません。そして、この「民全体」の意味は全人類であると理解すべきであると、先週申しました。そうです、救い主イエス・キリストが持っておられる救いの力は、わたしたち自身を含む、全人類にとって有効なのです。
しかし、このように言うだけでは、まだ足りません。加えて申し上げねばならないことがあります。それは、たとえ救い主の持っておられる救いの力が“全人類にとって有効”であるとしても、それは一方的に押しつけられるようなものではない、ということです。
イエス・キリストの救いの力は、いわば、美味しいごちそうです。しかし、それを本当に美味しいと感じるのは、それを食べたことがある人だけです。あるいはまた、そのときにお腹がすいていた人だけです。食べたことがないし、食べるつもりもないし、今は別のものを食べて満腹しているという人にとっては、「これは美味しいものだ」と言われても、その味を知ることはできませんし、美味しいと思うこともありえません。
イエス・キリストを食べる、あるいは、キリストの救いの力を食べるとは、もちろん、すなわち、信じることです。信じたことがないし、信じるつもりもないし、今は別のものを信じて生きているという人には、イエス・キリストの救いの力が及ぶこともありえないのです。
その意味で、教会はレストランです。「ここで、美味しいごちそうを食べてください」と勧める務めがあります。店構えを整えたり、部屋の掃除をしたり、チラシを配ったり看板を立てたりすることは、わたしたちの仕事です。しかし、「要らない」という人の口を無理やりこじ開けて食べさせることはできませんし、そのようなことをすべきでもないのです。
しかし、わたしたちにできることもあります。実際食べた者たちが、「これ美味しいよ」と多くの人に教えてあげることです。レストランの評判を伝える最も有効な方法は口コミです。
また、実際にそれをいつも食べているわたしたちが、美味しそうな顔をすることです。楽しそうに店に通うことです。そうすれば行列ができる店になる。「あそこに行けば何かがある」と思うのです。
イエス・キリストの救いの力が「全人類」に及ぶために必要なことは、その救いの力によって実際に救われた人々が本当に心から喜んで生きていることです。わたしたちの喜ぶ姿が、わたしたちの笑顔が、世界に救いをもたらすのです。
主の天使に天の大軍が加わった、とあります。どういう意味でしょうか。考えられることを申し上げておきます。理解の鍵と思われるのは、羊飼いたちの前に現れた「主の天使」は単数であるということです。ここにいる天使は、ひとりです。ひとりの天使が、羊飼いたちに向かって福音の説教をしたのです。
しかし、そこに天の大軍が加わりました。もちろん、それは複数の存在です。説教は、基本的に一人でするものです。ある意味で孤独な仕事でもあります。しかし、もし複数の説教者が思い思いに同時に説教しはじめたら、聴く側の人にとっては、たぶんそれを聞き取ることができません。言葉が重なり合って、何を言っているのか分かりません。
しかし、そのとき説教者が本当に「わたしは孤独だ」と考えるとしたら、大きな間違いです。その説教者の背後に、天の大軍がいます!それは賛美する存在です。聖歌隊を思い浮かべるべきでしょうか。選び抜かれ、特別な訓練を受けた人々。おそらくそれだけではありません。
むしろ、それは、神を賛美する存在のすべてです。福音の喜びを賛美奉仕という仕方で表現する存在、それこそが「天の大軍」の姿なのです。
もちろん、神賛美の歌声も聴きとることができます。何を言っているのか分からないということはありません。しかし、賛美と説教は明らかに異なります。説教そのものは歌ではありません。私は今、ここで歌っているわけではありません。説教は論理的な言葉です。論理を用いて語ることができるだけです。
しかし、賛美は論理を超えた言葉です。メロディーがあり、リズムがあり、ハーモニーがあります。説教と賛美。これは礼拝の基本的な要素です。この点から言えば、説教者はなんら孤独ではありません。ベツレヘムで行われた世界で最初のキリスト教礼拝は、天使と天の大軍のコラボレーション(共同作業!)によって行われたのです!
そして、天使と天の大軍の大合唱の内容は、本質的に祈りであったということも加えて申し上げておきます。説教、賛美、そして祈り。祈りも礼拝を構成する重要な要素です。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と言われています。「あれ」とは「あれ!」と命令しているのではなく、「ありますように」と祈っているのです。「いと高きところ」とは天です。天とは、神がおられるところです。それ以上の意味はありません。つまり、天の大軍が歌っていることは、「神のおられる天に、栄光がありますように」であり、神御自身に栄光がありますように、です。
そして、「地」とは、この世界です。神が創造された万物の生きているこの地上の世界です。この地上の世界に生きる「御心に適う人に」平和がありますように、と歌われているのです。
またここに新たな問題が生じます。「御心に適う人」とは誰のことだろうか、という問題です。しかし、これは難しい問題ではありません。先ほど申し上げたことのほとんど繰り返しであると思っていただいて構いません。
ここで歌われている「御心」の意味は、第一義的には神の意志です。神というお方は、御自身の意志を持っておられる存在です。意志とは、要するに、考えです。思想であり、計画であり、方針です。プランであり、スケジュールです。そして、それを決断すること、決定することです。その一切の意味を含んでいるのが「御心」という言葉です。
そして、その神御自身の決断と決定による計画ないし方針に「適う人」とは、もちろん、それに従う人です。神の御心を信頼し、それに従順に服従する人です。その人々のもとに平和がありますように、と言われているのです。
しかし、このようにだけ申しますと、おそらく皆さんの心の中に、ある一つのイメージが描かれてしまうのではないかと予想いたします。それは次のようなイメージです。
「御心に適う人」とは、要するに、神が決定されたことにただ忠実に従うことができる人のことである。その場合、たとえその決定された内容が納得行かないものであっても、理解できないものであっても、承服できないものであっても、いわば軍隊式に、上からの命令に対しては下の者は黙って従うしかないという仕方で、何が何でも、我慢強く、神について行く人のことである、というようなイメージです。
そして、そこに付け加わる密かな思いは「それはわたしではない」ということではないでしょうか。わたしはそんなに従順ではないし、我慢強くもない。納得の行かないことには、ついて行けない。そのようなわたしは「御心に適う人」には、なれそうもない、と。
しかし、私の願いは、どうかそういうふうに理解しないでいただきたいということです。ここで歌われている「御心に適う人」の意味は、そういうことではありません。我慢強さとか、悪い意味での禁欲的な絶対服従というようなことは、全く関係ないのです。
その事情は、むしろ、先ほどの繰り返しであると申し上げた通りです。「御心に適う人」とは、レストランで美味しいごちそうを食べて「ああ、本当に美味しい」と喜んでいる人です。美味しいものを食べて、美味しいと感じ、「美味しい」と言うだけのことです。そこには、命令だの服従だのというような強制的な要素は、微塵もありません。
実際、神の御心の本質は、喜びです。神御自身が喜びに満ちあふれた方であり、また、その喜びを何とかして地上の世界と、そこに生きるすべての者たち、とりわけわたしたち人間の中に伝えたいと、神御自身が願っておられます。神は、わたしたち神の子たちを、何とかして喜ばせたがっておられる父親なのです。
自分の子どもを何とかして嫌な思いにさせ、どうにかして苦しみを味わわせようとする親がいるとしたら、本当に困った存在です。イエスさま御自身が、次のようにおっしゃいました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイによる福音書7・9~10)。
そういう親は一人もいない、と言いきれない現実の中にわたしたちが生きていることはどうやら事実です。しかし、それはもちろん、非常に残念なことです。実際、そのような親のもとで幼少期を過ごした人々の中には、この世界そのものを愛することも受け容れることもできないと感じ、苦しんでいる人が大勢います。
もちろん親だけのせいにするわけにはいきません。社会的環境、あるいは政治、あるいは宗教にも、大いに責任があります。
繰り返し虐待を受けてきた人々にとっては、この世界こそが地獄であると感じるものであるに違いない。そして、その人々にとっては、この世界の中から取り上げられること、地上の世界から飛び出し、別の世界へと移されることこそが真の救いである、と言いたくなる場面があるに違いない。そのような思いの中にいる人々のことを、私が全く知らずにいるわけではないのです。
しかし、です。イエス・キリストはとにかく来てくださいました。救い主はお生まれになりました。わたしたちはこのことにしっかり踏みとどまるべきです。イエス・キリストがお生まれになったことは歴史的事実です。誰も否定できません。この世界は、イエス・キリストが来てくださった世界です。キリストの救いが実現した世界であり、少なくともそれが始まった世界です。ともかくここは“救いなき絶望の世界”ではないのです!
そしてこの方の救いのみわざは、とにかく行われました。そして、この方によって現実に救われた人は大勢います。この私もそうですし、ここにいる皆さんがそうです。教会の中にいる人々は、本当に厳しく辛いところを通って来た人々ばかりです。しかし、救い主イエス・キリストへの信仰によって慰めと喜びを与えられて生きています。
わたしたちの笑顔は、世間知らずな笑顔ではありません。むしろ、わたしたちは、ごちそうを食べた者たちなのです。神の恵みを喜び楽しんでいる者たちです。その意味で、わたしたち自身が「御心に適う人」なのです!
ですから、天使が祈ってくれた「地上の平和」は、将来的にもしかしたら実現するかもしれないが、願っても祈ってもなかなか手の届かない、虚しい望みにすぎないようなものではありません。むしろ、それは、あなたの目の前にあります。救い主イエス・キリストを信じて生きる人生そのものが、わたしたちの体験しうる「地上の平和」なのです!
(2007年12月16日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年12月9日日曜日
大きな喜びの告知
ルカによる福音書2・10~12
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」
今日お読みしましたのは、ベツレヘムの羊飼いたちに対して、主の天使が告げた言葉の一部です。
天使はまず、「恐れるな」と言いました。それは、9節にあるように、羊飼いが「非常に恐れた」からです。恐れている相手に、恐れてはならないと言っているのです。
羊飼いたちが恐れた理由は「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」からです。不思議な光景だったからでしょう。あるいは驚くべき、あるいは恐るべき光景だったからではないでしょうか。
私はまだ、天使なるものを見たことがありません。皆さんの中で、「私は見たことがある」という方がおられましたら、ぜひ教えていただきたいところです。もし会えるものなら、いつか会ってみたいと願っています。
しかし、もしかしたらそれを見る場面が、わたしたちにもあるかもしれない、と考えてみることはできそうです。そして、もしそれが起こるとしたらどのような場面なのだろうかと、具体的に想像力を働かせてみることはできそうです。
それはどういう場面でしょうか。おそらくそれは、天国の光景ではないかと思います。わたしたちは「天国に行く」と言います。この言い方が絶対に間違っているなどと、私は言ったことはありません。わたしたちはたしかに天国に行くのです。
しかし、わたしたちは、天国には「死んでから行く」と言いますし、そのように考えるでしょう。もしかしたら羊飼いたちも、わたしたちと同じように考えたのかもしれません。今わたしたちは天使を見ている。ということは、今ここはまさに天国である。ということは、わたしたちはもう死んでいるのではないか。あるいは、まもなく死ぬということか。天使がわたしたちを「お迎えに来た」のではないだろうか、と。
しかし、天使は羊飼いたちに「恐れるな」と言いました。このことは、おそらくわたしたちにも当てはまることです。もし、わたしたちが地上の人生の中で天使に出会うという不思議な出来事が起こったときにも、おそらく天使は、羊飼いたちに語ったのと同じ言葉をわたしたちにも語るでしょう。「恐れるな!」と。
そもそも天使は、何も、わたしたちを「お迎えに来る」存在ではないのです。そういう話は、本当に、全く別の宗教の話です。キリスト教の話ではありません。
キリスト教の話は正反対です。天使がわたしたちを天国に連れて行くのではありません。天使が、わたしたちの生きているこの地上の世界に、“天国の喜び”を持って来てくれるのです!
ですから、わたしたちも、もし地上で天使に出会うことがあったとしても、「ああ連れて行かれる」と恐れるべきではありません。むしろ、喜ぶべきです。地上の世界が、わたしたちの生きている現実が、闇から光に変わると信じるべきです。こちらで、天国の喜びを味わうことができるのだと、感謝すべきなのです。
さて、ここで話を少し先に進めます。「恐れるな」の次に天使が語った言葉は「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」です。この御言葉がわたしたちに対して持っている意義は、非常に大きいものです。注目していただきたい言葉は二つです。第一は「民全体」、そして第二は「大きな喜びを告げる」です。
第一の「民全体」の意味から申し上げます。二つの意味が考えられる、と解説されています。一つは「神の民イスラエル」です。聖書の神を信じて生きている信仰者たちです。しかしもう一つの意味は「全人類」です。どちらの意味なのかを確定することは、文法的には不可能です。
私の考えは、“どちらの意味にもとれる”ということ自体に意義がある、ということです。ここでわたしたちが深く考えてみるべきことは、「喜び」の本質は何なのかということです。ここでの「喜び」の内容は、もちろん「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことです。救い主イエス・キリストがお生まれになった。この出来事こそが「喜び」です。
しかし、その次にすぐに起こる問題がある。それは、はたしてそれは、本当に「喜び」なのかということです。なぜそれが問題なのか、またすぐに起こる問題なのでしょうか。それは、次の点に注目していただきますと気づいていただけるはずです。すなわち、それは、救い主イエス・キリストがお生まれになったというこのことを、喜ぶ人だけではなく、喜ばない人もいるということを、わたしたちはよく知っている、という点です。
そもそも「喜び」は、一方通行では成り立たないものです。「喜べ」と命令されたからといって、「喜ぶほうがいいよ」と勧められたからといって、誰でも必ずすぐにそうすることができるようになるというような性格のものではありません。
キリスト教などには全く興味がない、という人にとっては、救い主イエス・キリストがどこに・どのように生まれようと全く関係ありません。イエス・キリストのご降誕を喜び、感謝し、お祝いすることができるのは、少なくともキリスト教に興味があるという人だけです。この宗教、この信仰を、わたしの宗教、わたしの信仰として受け入れている人だけです。
この点からしますと、主の天使が救い主イエス・キリストのご降誕を「大きな喜び」として告げ知らせた「民全体」の意味は、もっぱら「神の民イスラエル」です。聖書の神を信じる信仰者たちです。そのように限定して考えることは、不可能ではありません。
しかし、そのように言い切ってしまうことには問題もあります。問題は、信仰者は固定しているのだろうか、ということです。今信じている人々だけが信仰者なのだろうか、ということです。今日はまだ信じていないかもしれないが、明日は信じるかもしれない人々を加えることはできないだろうか、ということです。今年は信じていないかもしれないが、来年は信じることができるかもしれない人はいないでしょうか。五年後はどうでしょうか。十年後はどうでしょうか。
今はまだ、イエス・キリストが、どこに・どのように生まれようと、全く興味がないと思っている。しかし、そのような人々の中に、ある日・あるとき、突如として、キリスト教への関心を抱く人がいるかもしれない。教会に通うようになり、説教を聴くようになり、聖書を読むようになる。かつてはどうでもよいと思っていたことが、「なんと。わたしは、とんでもない思い違いをしていた。この救い主イエス・キリストは、このわたしのために生まれてくださったのだ」ということに気づき、深く認識し、心動かされ、喜びと感謝に満たされる人がいるかもしれない。
その希望をわたしたち自身が捨てることは、ありえないことです。その希望をすっかり失ってしまっているような教会は、そもそも存在する意味がありません。この点から言うならば、「民全体」は、「全人類」の意味で理解することが許されていると思います。天使の知らせは、今すでに信仰者である人々だけに届けられたものではなく、これから信仰者になる人々にも届けられたのです!
もう一つ、注目していただきたいと、私が先ほど申し上げました言葉は、「大きな喜びを告げる」という言葉です。ご理解いただきたいことは、このまさに「大きな喜びを告げる」(ユーアンゲリゾーマイ)という言葉自体が「福音の説教」を意味する、ということです。つまり、天使がベツレヘムの羊飼いたちに行ったことは「福音の説教」である、ということです。
わたしたちが「説教」というものを耳にする場所は、主に教会です。教会の礼拝です。そのことが、この羊飼いたちにも当てはまると言ってよいでしょう。すなわち、二千年前のベツレヘム、この場面で起こった出来事の本質は、わたしたちがまさに今ここで行っている教会の礼拝と同じである、ということです。
ただし、そのときの説教者は、牧師ではありません。主の天使が説教者です!しかし、そこで語られたのが「説教」であることには変わりがありません。
神の御言葉が語られ、それが、聴く人々の心に届き、受け入れられ、信じられるところに、真の礼拝があります。
先週の説教で私が最初に申し上げたことは、ベツレヘムでキリスト教が始まったということでした。今読んでいるこの個所に記されているのは、全世界、全人類、全歴史における最初のキリスト教礼拝の場面である、ということです!
その意味では、わたしたちは、天使に直接出会う必要はもはやありません。わたしたちには、この教会があります。この礼拝があります。ここで毎週、説教が語られています。二千年前の天使が語ったのと本質的に同じことが、教会の礼拝の説教において語られています。
私の顔がもう少し天使のようであればよいのに、と思わずにはいられません。しかし、顔など見ないでください。強いて言えば、言葉を聴いてください。あるいは、聖書を直接読んでください。そして、どうか、信じてください!喜んでください。あなたのために、わたしのために、イエス・キリストがお生まれになったのだ、ということを。
そのとき、皆さんの心に、本当の「喜び」が生まれるでしょう。天使が告げた「大きな喜び」が、あなたの喜び、わたしの喜びになるでしょう。
救い主は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」の姿をしている、と天使は告げました。生まれたばかりの赤ちゃんは、その姿を見つめる者たちの心をなごやかにしてくれるものです。もちろんここでも正反対の反応を起こす人々のことを思い浮かべずにいられません。子どもは苦手です。そういうふうにおっしゃる方がいます。おそらく、心の中が何らかの理由で穏やかでない方です。
しかし、その場合にじっと考えてみていただきたいことがあります。自分自身もかつては赤ちゃんだったではないか、ということです。この赤ちゃんと同じ姿、何もできない、求めるばかりの、泣くばかりの存在だったではないか、と。
赤ちゃんの存在は、平和のシンボルであると同時に、希望のシンボルです。赤ちゃんを大切に思う心は、地上の世界の歴史的将来を大切に思う心に通じます。赤ちゃんが大切にされない社会の将来は、暗黒です。
おそらく、ベツレヘムの羊飼いたちにとっても、同じことが言えるでしょう。自分たち自身は必ずしも裕福だったり幸福だったりしなかったかもしれません。平凡な日々を過ごしていたかもしれない。社会にも政治にも絶望していたかもしれません。
しかし、その現実を変えてくれる存在が、この地上にお生まれになった。今は「飼い葉桶の中」という、必ずしも裕福でも幸福でもない場所にいる。しかし、この方こそが救い主である。
今はまだ、乳飲み子だけれども、やがて立ち上がる。
やがて言葉を語りはじめる!
やがて働きをはじめ、救いのみわざを行ってくださる!
それは、彼ら自身にとっての生きる勇気、希望の力になったことでしょう。
「この人生、捨てたものではない」と確信できる根拠となったでしょう。
(2007年12月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年12月2日日曜日
神の栄光の舞台
ルカによる福音書2・8~9
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」
「その地方で」とは救い主イエス・キリストがお生まれになったユダヤのベツレヘムのことです。今から二千年前のベツレヘムで起こったことは何でしょうか。
いろんな答えがありうると思います。私の答えは、こうです。そこで“キリスト教”が始まったのです!今やキリスト教は全世界に広がる一大宗教です。ベツレヘムはキリスト教の発祥の地である、ということです。
ただし、今申し上げたことは厳密な言い方ではありません。15節で羊飼いたちが「さあ、ベツレヘムに行こう」と言っています。しかし8節の「その地方」は明らかにベツレヘムです。すでにベツレヘムにいる人が「ベツレヘムに行こう」と言うのは奇妙なことです。
しかしこれは難しいことではないと思います。考えられることは、そのとき羊飼いたちがいた場所は、同じベツレヘムであっても中心ではなく、周辺であったに違いないということです。わたしたちも時々「松戸に行く」とか「柏に行く」と言うではありませんか。すでに松戸市民であり、柏市民であるにもかかわらずです。それだけで、行き先はどこであるかの話は、十分に通じています。
もし今私が申し上げたことが正しいとするならば、ここで分かることが一つあります。それは、キリスト教の発祥の地はベツレヘムの中心ではなく、周辺地域であった、ということです。しかもその場所は、「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」ような地域であった、ということです。
いずれにせよ間違いなく言いうることは、少なくともそこは“都会”と呼ばれるような地域ではありえなかった、ということです。人がたくさん集まる宿場町でもなければ繁華街でもありません。もしかしたら整備された道もない。おそらく学校もない。先生も学生もいない。それは、わたしたちの多くが“田舎”とか“過疎地”と呼ぶような地域です。
そのようなところで「キリスト教」が始まったのです!キリスト教は「洗練された都会の宗教」として始まったわけではないのです。このあたりのことについては今日、改めて根本的に考え直されなければならないものがあるように思います。
羊飼いたちは「野宿」をしていた、とあります。「夜通し羊の群れの番をしていた」ともあります。それでは彼らは、夜が明けて朝が来ると、野宿をやめてそれぞれ自分たちの家に帰り、温かい布団にもぐって眠ったのでしょうか。
そうではなさそうです。朝になっても昼になっても、彼らは同じ場所で生活していたのです。温かい布団はあったかもしれません。しかし、その布団が敷かれている場所は地面です。サソリやヘビ、さまざまな虫やミミズが這っている地面です。鷹や鷲、スズメバチやコウモリが飛んでくるかもしれない、オオカミや野犬が襲いかかってくるかもしれない、危険に満ちた野外です。
当時の人々は、だいたいみんな似たり寄ったりの生活をしていたのでしょうか。そんなことはありません。豪勢な王宮に住んでいた人々もいました。大きな神殿で生活していた宗教家たちもいました。そのように聖書が証言しています。
しかし、キリスト教は王宮や神殿に住んでいる人々から始まったものではありません。夜だけではなく、朝も昼も、多くの危険に満ちた野外で生活していた人々から始まったのです!
9節に、その人々のところに「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」とあります。最初に注目していただきたいのは、「近づき」(エペステー、(原)エピステーミ)という言葉です。これは「近づく」という意味の他に「やってくる」、「上に立つ」、「傍らに立つ」、そして「襲いかかる」という意味にもなる言葉です。
しかも、この言葉(エペステー)は、多くの場合、それが予期せぬ突然の出来事、不意打ちの出来事であることを示します。そのようにギリシア語の辞書などに書かれています。これで分かることが二つあります。
第一は、ベツレヘムの羊飼いたちの前に主の天使が現れるというこの出来事は、前後の脈絡など全くなかった、まさに「突然」起こったことであったということです。言い換えればそれは、羊飼いたちの側に「主の天使に来てもらいたい」という長年の祈りがあり、彼らの祈りに応える仕方で天使たちが来てくれた、というような事情ではないということです。彼らの切なる祈りが、主の天使を“呼び寄せた”わけではない、ということです。
そしてこの点が、これから申し上げる第二の事柄につながります。「近づく」という言葉に含まれる「突然の」というニュアンスから分かる第二の事柄は、そこにいたベツレヘムの羊飼いたちの“心”の中にあったものをも表しているに違いない、ということです。
彼らは天使の到来など全く予期していなかったし、祈ってもいなかったし、期待もしていなかったのです。ここでわたしたちが問題にしなければならないことは、その理由です。
羊飼いたちは、絶望を感じていたのではないでしょうか。お世辞にも「恵まれている」とは言えない生活。「私は社会的に取り残されている」という絶望感を覚えるような過酷な労働。このあたりで、わたしたち自身の現実と重ね合わせてみることができそうです。
光が当たるのは、われわれではなく、別の人々である、と思い込む。それはただの思い込みでもなく、まさに事実であり、現実である。未だかつて脚光など浴びたことは一度もないし、これからもないだろうと自覚している人々。しかし、一抹の寂しさや絶望さえも感じていたのではないでしょうか。
羊飼いたちが天使の到来を「突然」の出来事として認識した理由は、そのようなことはそもそも最初から諦めていたことであり、願うのもむなしいことであると感じていたことだったのではないでしょうか。
そのような人々のところに主の天使が「近づいて」来た!このように、これは、羊飼いたちの“心”に深くかかわる出来事であった、と理解することは重要であると思われます。
しかし、それだけではありません。今申し上げた「近づく」(エペステー)という言葉が持っている、いくつかのニュアンスはまだまだたくさんありますし、それぞれ重要な意味をもっています。
第一に「やってくる」というニュアンスがある、と申しました。その意味は、こうです。その日その時まで存在しなかったものが存在するようになった、ということです。まさに前代未聞の出来事が起こった、ということです。
第二に「上に立つ」というニュアンスもある、と申しました。その意味は、こうです。もともと地上の世界に存在しなかったものが到来したのだけれども、しかしまた、それは地上に属するものへと完全に同化してしまうのではなく、あくまでも天上に属するものであり続けるという仕方で「近づいた」のだ、ということです。
しかし、それはまた、第三に「傍らに立つ」という意味にもなります。それは、ここで羊飼いたちと天使との関係は、単なる(悪い意味での)上下関係ではありえない、ということです。天上に属する存在が地上に属する者たちを“上から”威圧し、屈服させ、支配するために来たのではありません。「傍らに立つ」というかぎりにおいて「助ける」という意味にもなります。天使は、羊飼いたちに温かく寄り添い、助けるために来たのです。
しかし、それだけではありません。先ほど第四に申し上げました「襲いかかる」というニュアンスも重要です。羊飼いたちも人間であるかぎり、罪を持っていたからです。
「天使」とは神の使いであり、神の代理者です。神が人間にお求めになることを伝えに来る存在です。そのため、「主の天使」は、“神の啓示”という概念とほとんど一致します。天使の言葉は、そのまま神の言葉です。神が人間にお求めになることは、自分の罪を悔い改めることです。そして神の御心に喜んで従うこと、そのような者として生きることです。
しかも、そこで重要なことは、相手が神であるということです。神はなんでもご存じの方なのですから、神の御目に見えない場所は、どこにもないのです。人間に隠れる場所はありません。全部見えています。見えていない、と思い込んでいるのは人間です。隠れて悪いことをする。誰にも分からないだろうと考える。そのような人間の前に、神は、突然現れるのです。抜き打ちテストを仕掛けてこられるのです。しかも、その抜き打ちテストは、人間を断罪するためにではなく、人間を罪の中から救うために行われるものなのです。
さて、次に考えていただきたい問題は、「主の栄光」とは具体的に言うと何なのか、また、主の栄光が照らした「周り」とは具体的には何なのか、ということです。この件についてご理解いただきたいことを、三点だけ申し上げておきます。
第一は、「主の栄光」という概念の意味は、神御自身の存在とみわざの放つ豊かな輝きのことであり、それは「主の救い」という概念とほとんど一致するということです。つまり、「主の栄光」とは、主なる神の救いのみわざの輝きのことです。創造のみわざも主なる神のわざですが、創造のみわざは人間の罪によって汚されました。神の創造のみわざとしてのこの世界とわれわれ人間たちが輝くためには、この世界を罪から救い出す力を持つ神の救いのみわざが必要なのです。
そして、この意味での「主の栄光」が照らす「周り」とは、ほとんど間違いなく、地上の世界とそこに住む人間のことです。しかもそれは、人間の体だけでなく、心も含んでいます。それは「主の栄光が周りを照らした」ことによって「彼らは非常に恐れた」と書かれているとおりです。なぜなら、「恐れる」のは人間の“心”だからです。彼らが恐れたのは、その心を主の栄光が照らし、そこに救いの御手が及んだからです。“心”に対する影響を考えなければなりません。
しかしそれだけではありません。これから申し上げる第二の意味は、今申し上げた第一の点に行きすぎが起こらないための歯止めにする意図があります。今日の個所に描かれている出来事を、人間の“心”の問題だけに押し込めてしまってならないと思うからです。宗教の問題を心理学の問題にしてしまってはならないのです。
それは、主の栄光が照らす「周り」のなかには人間の心だけではなく、少なくとも体が含まれていますし、人間だけでもなく、世界とその中にあるすべてのものが含まれているということです。まさに神が創造された現実のすべてです。つまり、ここで言われている「周り」とは、「地上の現実」という概念と内容的にほとんど一致する、ということです。
第三に申し上げることは、第二の点の言い換えです。主の栄光が照らす「周り」の第一義的な意味は、まさに「地上の現実」であり、そこに主の天使が「近づいてきた」のです。ご理解いただきたいことは、この話は、このとき羊飼いが一時的に地上を離れて、天上の世界に行き、そこで主の栄光に照らされたという話ではないということです。羊飼いたちは、彼らの暗く惨めな現実から一時的に逃避して、主の栄光の満ちあふれる天上の世界を垣間見て、心の慰めと平安を得ただけである、というふうに考えてはならないのです。
もしそうだとするならば、地上の世界は、相変わらず暗黒のままです!
われわれの日常生活は、神の救いも神の恵みも及ばない、まさに暗黒の世界のままです!
しかしそうではありません。主の栄光が輝いているのは天上の世界だけではありません。「輝いているのは天上だけであり、地上は真っ暗だ」と考えてはなりません。主の救いはわたしたちが生きているこの現実、この社会、わたしたちの(あまりにも平凡で、退屈で、砂を噛むような)この日常生活に届いています。わたしたちが救われるのは、この地上の世界においてです。地上の世界は「神の栄光の舞台」(カルヴァン)なのです!
そして、それこそが、神の御子なる救い主イエス・キリストが地上にお生まれになった意味です。主の栄光をもって地上の世界を豊かに輝かせてくださるためです。短く言えば、わたしたちがこの地上の人生を元気に喜んで生きることができるようにしてくださるために、イエス・キリストは来てくださったのです!
(2007年12月2日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年11月25日日曜日
主の恵みにゆだねられて
使徒言行録15・30~41(連続講解第39回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
「バルナバはマルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきではないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」(15・37~40)。
今日読みました範囲(15・30~41)には、大きく分けて二つのことが書かれています。
第一は、パウロとバルナバがエルサレムからアンティオキア教会へと帰り、エルサレムで行われた教会会議の結論を伝えたところ、アンティオキア教会の人々が喜ぶ場面です(15・30~35)。
第二は、そのパウロとバルナバが一つの問題をめぐって対立関係に陥ってしまい、結局二人は別の道を行くことになったという、いささか残念でもある場面です(15・36~41)。
この二つの場面を続けて読むことは、何が何でもそうしなければならないようなことではありません。しかし、続けて読むことによって、一つの点が明らかになると思います。
それは、とくにパウロの側の問題であると言えます。以前申し上げたことを、もう一度繰り返しておきます。ここで分かることは、パウロという人は、よくも悪しくも強い人であった、ということです。
どういうことか。エルサレムでの教会会議が「キリスト者は割礼を受ける必要はない」という結論を出すことができた背景に、異邦人伝道を行った経験と実績に基づいてそのことを強く主張したパウロの信仰ないし神学があったことは否定することができないということです。
パウロが教会会議を説得したのです。そのように考えることができます。逆に言えば、もしそのときパウロが、そのことを強く主張しなかったとしたら、教会会議がそのような決定をくだすことはなかったであろう、とさえ思われるのです。
だれだって、もめごとや争いごとになるようなことを言うのは、嫌なものです。しかし、パウロは違いました。語るべきことを、はっきりと語りました。真理を大切にしました。真理を明らかにするために、論争をも厭いませんでした。その論争に勝利する力もありました。パウロのおかげで教会全体に新しい道が切り開かれたのです。その意味で、パウロは非常に強い人であった、と考えることができるのです。
しかし、です。そのパウロの強さがあまりよろしくない結果を生み出す原因にもなったことも否定できません。それが、バルナバとの対立であったと、私は思います。
バルナバとパウロの対立の原因は、以前もお話ししたことです。第一回目の伝道旅行の際に二人の助手として連れて行ったマルコが、旅行の途中、二人の了解なしにエルサレムへと帰ってしまいました。そのことについての評価が、違っていたのです。
バルナバは寛大な人であったと言えます。マルコの離脱を裏切り行為だとは考えませんでした。マルコのことを、落伍者であるとも失敗者であるとも考えませんでした。だからこそバルナバは、マルコをもう一度新たな伝道旅行に連れて行くよう主張したのです。
ところが、パウロは違いました。もう二度とマルコを連れて行くべきではないと考えました。先ほど「二人の了解なしに」と言いました。もし了解していたならばパウロが激怒することはありえなかったはずです。パウロとしては、マルコは伝道には向かない人間であり、その面において弱い人間であると判断しました。マルコの弱さを、パウロは許すことができなかったのです。
それは逆に考えると、パウロが強い人だったからだと思われます。いささか強すぎる。強い人は弱い人の気持ちが分からない面を持っています。自分にできることが自分以外の人にできないのはどうしてなのかを、理解できない。自分にできることは誰にでもできる、と思っているようなところがあるのです。
しかし、ここは考えどころです。私は今、パウロに対して、やや批判的な言葉を並べています。けれども、私は基本的にパウロが好きです。好きだ嫌いだという次元で語るべきではないかもしれませんが。
パウロの強さは、時として、それまで仲間であった人を敵に回してしまうような結果を生み出すものであったことは明らかです。バルナバさえも敵に回してしまう。これは非常にまずいやり方です。しかし、ここで問わなければならないことは、教会にとって重要なことは何なのか、ということです。
もっとも、これは、教会だけの話ではないように感じられます。会社でも同じようなことが言えるでしょう。わたしたちにとって究極的に重要なことは、仲間を大切にすることなのか、それとも、与えられた仕事を忠実に果たすことなのか。ここに分かれ道があると思われるのです。
会社の話のほうが分かりやすいかもしれません。社長である人が、新卒の社員を雇う。少し仕事をしてもらって見えてきたのは、この人はその仕事には向かない人であるということであった。あるいは、与えられた仕事を、途中で投げ出してしまった。
こういう場合に、それでも雇い続けるのがバルナバの道です。向かないことが分かった時点で辞めてもらうのがパウロの道です。少しはピンとくるものがあるでしょうか。
しかし、ここでわたしたちが、パウロは冷たい人間であると考えるべきかどうかは微妙です。もしかしたら、パウロは、じつはとても温かい人なのです。
「この仕事はあなたには向いていない」と、はっきり言うことは、相手を一度は間違いなく傷つけることにもなります。しかし、逆にいえば、そのことをはっきりと伝えることによって、その仕事を続けることを諦めてもらうことは、無理な仕事を背負い込んだ結果、その人がひどい失敗を犯すことを、あらかじめ防ぐことでもあるのです。
そこで重要なことは、その失敗によって傷つくのは、無理な仕事を背負い込んだ人自身と、その仕事を背負い込ませた人の両方であるということです。また、それだけでもなく、事が「伝道」であるかぎり、一人の伝道者の失敗によって傷つくのは、教会であり、求道者であり、そしてまた、教会のかしらであるイエス・キリスト御自身であり、神御自身である。そのことを、パウロはよく知っていたのではないでしょうか。
バルナバの道は、一見すると温かい。しかし、別の見方をすれば、弱い人を「戦場」に引きずり出すことになっているのかもしれない。そして、その場合に倒れるのは、マルコだけではない。バルナバも倒れる。教会も倒れる。それは最悪の結末なのです。
今、私が考えていることは、主に、牧師たちのことです。教会の皆さんのことについて何かを言いたいわけではありません。私の認識では、日本の教会においては、教会に通う若い青年たちをつかまえては、だれかれ構わず、「牧師になれ、牧師になれ」と強く勧めてきた歴史があります。
そういうことを熱心に言うのは、たいてい牧師です。
自分の仕事がこの世の中で最高の仕事であるかのように!
自分以外の人の仕事は、取るに足らない仕事であるかのように!
そして、私が知っていることは、牧師になることを人から勧められて実際になった人々のうち、かなり多くの人が数年で辞めているということです。なかには、自分自身と家族、そして教会の人々を深く傷つけて。
ここで考えさせられることは、一つの教会が生み出され、維持されることにはどれほどの努力と涙が注がれてきたのかということです。一つの教会が破壊されることによって、どれほどの人が傷つくか!
そして同時に考えさせられることは、その責任はどこにあるのか、ということでもあります。少なくともその責任の一端は、まさにだれかれ構わず「牧師になれ、牧師になれ」と勧める人々にもあるのではないか。そういう言葉を“無責任に”発する人々にも責任があるのではないか、ということです。
ご参考までに。私が牧師になることを決心したのは、高校3年の夏休みでした。だれかに勧められたわけではありません。自分で決めました。牧師には最初は反対されました。私があまりしつこいので、しぶしぶ神学校入学の推薦書を書いてくださいました。
私の決心は最初の日以来、揺らいだことがありません。まさに実感として、私の心の中で、神御自身が一生懸命に語っておられるのです。黙っておられないのです。その神が、私を黙らせてくださらないのです。そういう感覚を、いまでも持っています。その意味では、自分で決めた、という言い方は間違いかもしれません。私と神の二人で決めたのです。だから、続けることができます。神を裏切ることは、私にはできないのです。
そして、その私は滅多なことで誰かに対して「牧師になれ」とは言わないで来ましたし、これからも言わないでしょう。こればかりは誰かに勧められてなるものではないと信じているからです。私の経験からすれば、その人の心の中で神御自身が騒ぎはじめられ、その言葉をその人自身も語らざるをえない状況に追い込まれるまでは、この仕事に就くことは不可能なのです。
そして、その状態になったときは、伝道をやめることができません。理由もわからないような仕方で、途中でやめることができません。逆にいえば、それを途中でやめることができる人は、伝道の仕事には向かないのです。
マルコを少しかばっておきます。マルコは伝道そのものをやめてしまったわけではありません。だからこそ、マルコは、バルナバの再度の要請に応じて、キプロス島に出かけることができました。
しかし、です。伝道は、狭い意味での伝道者、いわゆる教師だけがするものではありません。教会のみんながすること、信徒がすることです。マルコがバルナバについて行ったのは、教師としてついて行ったのか、それとも信徒の一人としてついて行ったのかという問い方は許されるものではないでしょうか。少なくともパウロは、間違いなく、マルコは自分とは同じ立場ではありえない、という判断を下していたのです。
パウロは強い人でした。そのことは間違いなく言えます。しかし、冷たい人であったという判断は、たぶん間違いです。強いて言うならば、かばう相手を間違わなかったのです。マルコをかばうのではなく、神と教会をかばいました。この判断が重要なのです。
それは、別の言い方をすれば、だれが伝道するかは究極的な問題ではない、ということでもあります。パウロが新たに選んだパートナーはシラスという人でした。教会はパウロとシラス「を」主の恵み「に」委ねました。パウロとシラス「に」主の恵み「を」委ねたわけではない、という点が重要です。伝道の主体は「主」御自身なのです。教師と教会、すなわち、狭義の伝道者と広義の伝道者は、「主」に仕えることができるだけなのです。
ただし、それは、まさか、伝道の仕事はだれにでもできることであるし、だれがやっても同じである、という意味ではありません。申し上げたいことは全く正反対です。重要なことは、だれが伝道するかではなく、伝道それ自体である、ということです。だれが神の救いを宣べ伝えるかが重要なのではなく、神の救いが宣べ伝えられることそれ自体が重要なのです。教会の伝道は、「地上における神のみわざ」なのです!
神のみわざを人間の勝手で中断してはなりません。それゆえ、伝道の仕事を「途中で」放棄する人は、伝道者には向かないのです。神の本質は、永続性ないし継続性にあるからです。パウロの判断は正しかったのです!
(2007年11月25日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年11月18日日曜日
「自由への決断」
使徒言行録15・22~29(連続講解第38回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
「そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからである。」
先週、わたしたちが学んだことは、「教会は会議を重んじる」ということでした。教会は会議を重んじます。その意味は大きく分けて二つある、と言うべきです。
第一は、教会はどんなことでも会議で決める、ということです。教会は、特定の個人の意見で振り回されることを最も嫌うのです。個人的な意見が全体の方向性を全く決定してしまうというようなことは、教会にとっては好ましい結果ではありません。教会の中心に立っているのは神御自身です。神の御霊が教会の会議に集まる一人一人に働いてくださり、その御霊に導かれて教会の方向性が決定されるのです。わたしたちの教会政治の原則は、独裁主義ではなく、複数指導体制なのです。
しかし、です。今申した点だけでは、まだ十分ではありません。第二の意味があります。「教会が会議を重んじる」ということの意味は、教会とは会議で決まったことについてはこれをきちんと守る団体でもあるということです。教会会議の主は、神御自身なのです。そこで決まったことは神御自身の御心であり、命令であると信じるべきなのです。
ある教会の実例です。ある問題について、教会の役員会で時間をかけて話し合い、また会員総会でも相談して、ひとつの決定を下した。ところが、次の日曜日になると牧師が、みんなで決めたこととは正反対のことを語り始めた。「妻(牧師夫人)が反対したからだ」という。こういうのは本当によくない。教会の中心は特定の個人ではありません。
教会が会議を重んじることの意味のなかには、特定の個人の独裁や暴走を食い止めるという側面もあります。とりわけわたしたちが採用している「長老主義」という教会政治のあり方の根本には、教職者による全面的支配を避けるという目的があるのです。
そのことは、二千年前の教会においても行われました。アンティオキア教会で起こった大きな意見対立によって当時のキリスト教会全体が分裂の危機にさられました。その問題に決着をつけるために、エルサレムで使徒会議が招集されました。しかしそこに集まったのは使徒たちだけではありませんでした。「長老たち」(15・2、15・22)も参加したのです!
対立が起こった点は、次のようなことでした。ユダヤ(おそらくエルサレム)から来たある人々がアンティオキア教会の中で一つの点を非常に強調して語り始めました。それは、人がキリスト者になるためには洗礼を受けるだけでは不十分である。割礼を受けなければならない、ということでした。割礼は、当時のユダヤ人男性の全員が受けていたと思われます。つまり、「割礼を受けなければならない」という要求が突きつけられたのがアンティオキア教会の中のユダヤ人以外の人々、つまり異邦人であったことは明らかです。
この要求によって起こったことは、一言でいえば、異邦人が教会のメンバーに加わる際のハードルが非常に高くなったということです。割礼には当然のことながら一時的にせよ激しい苦痛を伴います。つまり、このユダヤ人たちの要求は事実上、あの痛い目に合っていないような人間を教会のメンバーに加えることはできないと言っているのと同じです。
それでも構わないと、願い出る人もいたかもしれません。しかし、どう考えてもそれは少数派です。多くの人々は、痛い目に会うために教会に来たいわけではない。わたしたちの負うべき痛みや苦しみは、もっと他のところにあるはずです。人生そのものが苦しいのです。生きていること、そのこと自体に痛みが伴うのです。
そして、わたしたちの多くが教会に求めることは、わたしたちがこの人生の中で今まさに味わっている痛みや苦しみを耐え忍ぶことができる力と勇気と慰めを得ることでしょう。そうではないでしょうか。
しかし、です。この人々が要求したことは、そうではありませんでした。体を傷つけなさいというのです。痛い目に会いなさいというのです。そうでないような人間は、教会のメンバーになど加えてやるものかというのです。これは明らかに、教会の敷居を高くするやり方です。門をできるだけ狭くし、だれにも入らせないようにするやり方です。
この人々の主張に対して最も強く反発したのが、第一次海外伝道を体験してきたばかりのパウロとバルナバでした。正反対である!「伝道」という使命を担っているわたしたち教会がしなければならないことは、自分たちの敷居をわざわざ高くして、人々を恵みからできるだけ遠ざけることであるはずがない。むしろ、可能なかぎり敷居を低くすることではないのか。そのように彼らは考えたに違いありません。
もちろん教会は、ただ単なる人集めをしたいのではありません。しかし教会のメンバーに加わりたいと願っている人の前で「キリスト者になるとは、あれもしなければならないし、これもしなければならないということなのだ」と並べたてることによって、「そうか、わたしたちはお呼びでないのだ。ここに参加することは最初から無理だったのだ」と悟らせるように仕向けるようなのは、いかにもばかげたやり方ではありませんか。
パウロたちは、この問題が個人的な対立のような形で扱われることを望まず、公の教会会議の場できちんと結論を出すことを望みました。そして、その声はエルサレム教会にも届き、彼らの願いどおりの会議がエルサレムで行われることになったのだと考えられます。
ところで、パウロたちが、この問題が公の形で扱われることを望んだ理由は、聖書には明らかにされていません。わたしたちにできることは、それは何なのかを想像してみることだけです。一つの点だけ申し上げておきたいことがあります。
それは、わたしたちが受ける洗礼はあまりにも弱すぎると感じられるかもしれない、という点にかかわることです。どういう意味か。わたしたちが洗礼を受けた証拠は、わたしたちの体のどこにも残っていないということです。まさかお勧めするわけではありませんが、たとえばわたしたちが様々な誘惑の中で、もし「わたしはキリスト者である」という事実を隠しておきたいと願うならば、それはいとも簡単にできるでしょう。客観的な証拠などどこにも残っていないからです。裸にされて調べられても、どこにも何もありません。
今ならば、洗礼式の写真が残っているかもしれません。それが証拠だと言われるなら、そうかもしれない。また、書類的なものはすべて教会に保管されています。それも証拠だといえば言えなくもない。しかし、そういうことは、おそらく、実際の場面ではほとんど問題にならないと思います。うんと乱暴な言い方を許していただくなら、わたしたちは、いざとなったらいつでも“しらばっくれる”ことができます。洗礼を受けたことのしるしが、わたしたちの体には、どこにも残っていないからです。
アンティオキア教会のなかですべてのキリスト者が割礼を受けることを求めたユダヤ人たちの動機は、「モーセの慣習に従って」という点、つまり、(旧約)聖書に書かれている原則を守るべきだという点にあったようだということについては、十分に考慮される必要があります。しかし動機はそれだけなのか、もっと他にもあるのではないかということも、いろいろと想像することがわたしたちには許されていると思います。
その中で、私は“洗礼の弱さ”という点を、どうしても、避けて通ることができません。「洗礼を受けている」ということをわたしたちは隠すことができる。わたしたちの頭の上に注がれた水は流れて消えてしまいます。割礼の場合はそうは行きません。一生消えない傷として、痛みの記憶とともに、このわたしの体に残り続けます。いざとなれば、「ここに証拠がある」と、客観的に提示することができます。
そういう“しるし”が、「わたしたちにも欲しい」と感じるときがあるかもしれません。「このわたしはキリスト者である」ということを明確に示すことができる何かが。これを求める気持ちは普遍的なものではないか。この点が、当時の人々が「この問題は教会会議を開いて結論を出すべきだ」と考えた理由の一つではないかと、私には思われるのです。
しるしが欲しいという気持ちはわたしたちにもあるかもしれません。教会の歴史の中にもそのような試みは、絶えずありました。しかし、どうするか。体のどこかを切るのか。消えない字でも彫るのか。髪の毛を剃るのか。そのように見える服を着るのか。シールでも張るのか。バッジでも付けるのか。特殊な合い言葉でも交わすのか。忍者みたいに。
しかし、これは誘惑なのです!洗礼を受けたというだけでは自分がキリスト者であるという事実をいざとなれば隠すことができる、という点も十分な意味で誘惑かもしれません。しかし、しかし、です。そのための何らかの客観的なしるしを求めることもまた、誘惑であり、ある意味で、後者は前者よりも、もっと大きな誘惑なのです。
なぜなら、そのような外見上の事柄は、わたしたちにとっては、ポーズや演技やお芝居にさえなりうるからです。そのようなしるしに隠れて、心の中では全く別のことを考えているということが、わたしたちには十分にありうるのです。
そのことについてパウロは、ローマの信徒への手紙にはっきりと書いています。「あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません」(ローマ2・27~28)。
事実として、また事柄の真実として語りうることは、わたしたちは、客観的なしるしを持つと、それに隠れて嘘をつきはじめるのだ、ということです。しるしなど、いっそ何もないほうがよい。それがないことによって、わたしには隠れ蓑などどこにもないのだ、と繰り返し悟るのです。わたしたちに必要なことは、芝居がかった態度そのものから自由になること、すなわち「救われる」ことなのです!
わたしたちのしるしは、実は、ちゃんとあります。それは、この信仰そのものです。信仰に基づく生活です。それ以外には、わたしたちがキリスト者であることを証明するものは何もありません。キリストの香りを放つのは、わたしたちの心です。信仰・希望・愛、そして喜びです。喜びの人生です!
二千年前の教会会議が決定したことは、まさにそのことです。一つの点が高らかに宣言されました。
教会会議によって宣言された内容は、(いくらかの特例を除いて)わたしたちキリスト者には「いかなる重荷も負わされない」ということです。いくらかの特例とは、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」です。これはヤコブの発言(15・13~21)によって加えられた特例です。
ヤコブの趣旨は「モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているから」(15・21)、当時のキリスト教会の中でも常識の範囲内の事柄になってきている、ということです。つまり、この特例の意図は、「キリスト者は常識的であるべきである」ということです。それ以上のことではないのです。
そのとおり。わたしたちキリスト者は、特殊である必要はありません。むしろ、一般的であり、常識的であることが、神から求められているのです。
(2007年11月18日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年11月11日日曜日
「教会は会議を重んじる」
使徒言行録15・1~21(連続講解第37回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
「教会は会議を重んじる」というタイトルをつけました。今日は、この事柄に集中してお話しいたします。
先週学んだ個所で、伝道者パウロとバルナバの第一回海外派遣が終了しました。二人はしばらくの間、アンティオキアに滞在し、その地の教会に身を置きました。おそらく彼らは、長旅の疲れが癒され、次の旅行に備えるための充電期間を過ごすことを願ったに違いありません。
ところが、です。アンティオキア教会で、この二人の伝道者とある人々との間に一つの論争が起こりました。要するに、教会の中でけんかが始まったのです。
「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。」
論争の内容は、はっきりしています。論点は要するに、「キリスト者になる」とは、どういうことであるのか、です。
パウロたちの主張は、人が救われるのはイエス・キリストへの信仰による、というものでした。そして、その信仰は神の恵みであるというものでした。神の恵みによって、信仰によって人は救われる。そしてその人は信仰に基づいて洗礼を受け、イエス・キリストの体なる教会のメンバーになることが許される。キリスト者になるために、それ以上の条件は何もない、というものでした。
ところが、そのパウロたちの主張をどうしても受け入れることができなかった人々が、アンティオキア教会の中に混ざっていたようです。恵みと信仰、そして洗礼を受けるだけでは、人はキリスト者を名乗ることができないと、その人々は考えました。キリスト者を名乗るからには、聖書に基づいて、とりわけモーセの律法に基づいて割礼を受けなければならない。洗礼に加えて、割礼も必要である。キリスト者になるためには、洗礼を受けるだけでは不十分である、と考えたのです。
この論争の本質は、どこにあるのでしょうか。いろんな見方ができると思います。
パウロたちにとって最も重要であったのは、彼らが第一回伝道旅行において取り組んだ「異邦人への伝道」という点でした。つまり、彼らの関心は、どうしたら異邦人を教会に受け入れることができるのか、ということでした。
異邦人とはユダヤ人にとっての外国人のことであり、それは同時にユダヤ教徒にとっての異教徒のことです。その人々の特徴は、ユダヤ人たちとの比較において、最も明らかにされます。異邦人の特徴は、聖書の御言葉をきちんと学んだことがないということであり、従って、聖書にどんなことが書かれているかをほとんど全く知らず、それゆえ聖書の教えに従って生きたことがない、という点に集約されるのです。
しかしそこにある問題は、少なくとも当時の状況においては、キリスト教会のメンバーの大多数がユダヤ人たちであった、という事実です。ユダヤ人たちの特徴は、異邦人との比較において明らかにされます。ユダヤ人たちは、聖書に書いてあることは何かを幼い頃から学んできている。また、聖書の教えに従って(あるいは「従わされて」)生きてきた、という事実とプライドを持っている人々である、という点に集約されるのです。
そのようなユダヤ人たちが大多数を占めていた教会の中に、異邦人を受け入れること。これがパウロたちの使命となり、課題ともなったのです。「課題」と言わなくてはならない理由は、そこに大きな困難が伴うことは、火を見るよりも明らかだからです。
そこで起こる大きな困難の内容は、おそらくわたしたちにもすぐにピンと来るものです。以前、ある場所で小池正良先生(日本キリスト改革派船橋高根教会前牧師)が「伝道とは異文化間コミュニケーションでもある」と教えてくださいました。そのとおりです。伝道とは生き方、考え方、言葉遣いなど、文化の異なる人々を受け入れ、共に生きることです。
しかしまた、そこには大きな困難が伴います。関東の人と関西の人。それだけでも未だに難しい問題があると思います。都会の人と田舎の人。戦争体験者と未体験者。若い人と年配者、などなど。異なる文化の持ち主が共に集まり、共に生きる。それが、現実の教会の姿でもあります。しかしまた、そこには難しい問題があるのです。
選択肢は、少なくとも二つあると思います。第一の選択肢は、強い影響力を持っている人々が、自分たちの文化を教会全体に押し広げることです。一つの教会の中に異なる文化が共存することを認めず、一つの文化を共有する団体になるよう強いることです。あるいは、強いることまではしなくとも、異なる文化の人々に対して終始一貫、批判的・否定的な視線を向けることです。
しかし第二の選択肢があります。パウロたちが選んだのは、これです。自分自身も含むユダヤ人たちの側が、ぎりぎりまで譲歩する道です。異なる文化の持ち主に対してユダヤ人たちの文化を強制しない道です。
しかもそれは、我慢や忍耐というレベルにとどまるものではありません。我慢や忍耐というレベルにとどまるならば、結局そこには、批判的・否定的な視線が残り続けると思います。教会の中に「我慢している人々」と「我慢されている人々」の二種類の人々がいる、という状態が残り続けます。そのような状態がいつまでも続くことは、わたしたち人間にとっては、心理的にも感情的にも、耐えられるものではありません。
もっとも、アンティオキア教会のなかで、パウロたちと対立することになった人々は、我慢も忍耐もできなかった人々です。彼らは自分たちが割礼を受けていたのです。自分の生きてきた道は正しいという確信を持っていました。そのため、教会の中に割礼を受けていない人がいることが許せなかったのです。そのような人々が教会の中に存在すること、そのような人々を受け入れることは、このわたしの人生を否定されるのと同じである、というふうに感じたのではないでしょうか。
この種の対立は、しばしば、とても深刻なものになります。決して小さなことではありません。お互いの人生をかけての勝負事になる。感情的にも激しいぶつかり合いへと発展し、お互いの心や体に深い傷をもたらしかねません。そのことをわたしたちはよく知っていると思いますし、またそのことを二千年前の教会も、よく知っていたのです。
感情的な激突を避けるための知恵は何でしょうか。会議を開くことです。それが人類の知恵であり、神の教えです。二千年前の教会もまた、教会内の紛争を処理するという目的のために「教会会議」を開くことにしたのです。これは、非常に重要なことです。
「この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」
今日の個所、使徒言行録15章に紹介されている「エルサレムの使徒会議」は、二千年のキリスト教史の最初に開かれた、言葉の最も正しい意味での「教会会議」です。
教会会議は、まさに「会議」でなくてはなりません。会議とは落ち着いて理性的に語り合い、決議する場所です。そして理性的に語り合うとは、論理を用いて真理について語りあうことです。「私はこう思う」とか「誰かがこう言った」と言い合うだけでは、会議にはなりません。大きな声で相手をねじ伏せるようなやり方などは、論外です。
そして、その会議が真理を問題にしているかぎり、その会議は必ず「裁判所」としての機能を持つ必要があります。最終的には、白いものを「白い」と言い、黒いものを「黒い」と言わねばなりません。どちらでもないものは「どちらでもない」と言わねばならないのです。裁判的要素のない会議は、ただの虚しいおしゃべりです。
そして、ここでわたしたちが知っておくべきことは、この歴史的に最初の「教会会議」が開かれることになった理由ないし動機は、先ほどすでに申し上げましたとおり、教会内の紛争を収めるためであった、ということです。逆に言えば、それは、教会というところは、二千年前から、つまり教会の歴史の最初から、もめごとだらけであった、ということをも意味しています。「がっかりする」とお感じの方もおられるかもしれません。
教会内に紛争がない、ということはありません。歴史的に一度もなかったと言い切ってよいほどです。紛争がない教会などは、いまだかつて存在しなかったし、これからも存在しないでしょう。
しかし、わたしたちは、そこで絶望してはならないのです。違いが生じるのは、その先です。教会は内部の紛争を収め、交通整理をすることによって、感情的に対立する両者の間に和解をもたらし、共に生きる道を模索してきました。それが「教会会議」を開く意味です。少なくとも日本キリスト改革派教会は、厳密な意味での「教会会議」を重んじることにわたしたち自身の存在をかけてきたのです。
今日も礼拝後に、11月の定期小会・執事会を開きます。わたしたちの教会で毎月開いている小会は正規の「教会会議」です。わたしたちの小会は仲良くしていますので、ご安心ください。今、わたしたちの教会の中には何の紛争はありません。
今月23日に湖北台教会で行われる東関東中会2007年度第二回定期会も、正規の「教会会議」です。わたしたちの中会にも今のところ何の紛争もありません。平和そのものです。
先月大阪で行われた日本キリスト改革派教会第62回定期大会も正規の「教会会議」です。大会も平和そのものです。大きな紛争などは何もありません。
しかし、次のように語ることをどうかお許しいただきたいと願います。それは、現時点で、わたしたち松戸小金原教会の中にも、東関東中会の中にも、大会にも紛争がないのは、「紛争が起こらないように」、まさに教会会議(小会・中会・大会)そのものが全力を尽くして見張り番の役を背負っているからでもあるということです。見張り役にある者たちの共通認識は、次のようなことです。
第一に、教会の中で受ける心の傷は、わたしたちを最も深く傷つけるものであるということです。そのことをわたしたちは、よく知っていますし、また教会生活の中で体験的に学んできています。
第二に、教会で受けた傷は、教会の中で、また教会自身によって、癒されなければならない、ということです。教会の中で受けた傷は、教会の外で癒されることはないし、またそのような解決方法が善いとも思えません。
そして第三に、言葉の正しい意味での「教会会議」を支配しているのは、実は、わたしたち人間ではなく、人間の思いではなく、神御自身であり、神の御霊である、ということです。そのように、わたしたちは、はっきり語ることができます。人間の思いの支配する会議は「教会会議」ではありません。そこには赦しも慰めも救いもありません。
しかし、「教会会議」は違います。そこには赦しがあり、慰めがあり、救いがあります。そこに集められた人々の信仰のうちに、聖霊なる神御自身が宿ってくださるのです!
「教会会議」も間違いを犯すことがありえます。完璧な真理は地上の教会には明らかにされていないからです。しかし信頼していただきたいことがあります。それは、教会会議が犯した間違いは、次の教会会議で神御自身が訂正してくださるのだ、ということです。
わたしたちは、教会会議の主を信頼するゆえに、この命を「教会会議」に預けることができるのです。
(2007年11月11日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年11月4日日曜日
「苦しみの意味と力」
使徒言行録14・21~28
「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリア州に下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そしてしばらくの間、弟子たちと共に過ごした。」
パウロとバルナバの第一次海外派遣は、ここで終了いたします。彼らは海外に出かけて、いったい何をしたのでしょうか。そのことが今日の個所に明らかにされています。
21節の「この町で」は、直前の20節に出てくる「デルベ」のことです。デルベの町で、パウロとバルナバは「多くの人を弟子にした」と書かれています。気になるのはこの場合の「弟子」とは誰の弟子なのかということです。
この問いの答えは明快なものでなければなりません。「キリストの弟子」です!「パウロの弟子」でも「バルナバの弟子」でもありません。この点を読み間違えてはなりません。
「弟子にする」という表現が用いられているのは、使徒言行録にはこの個所だけですし、また、使徒言行録と同じ著者であるルカによる福音書には出てきません。しかし、マタイによる福音書には出てきます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)。
これはイエス・キリストの宣教命令です。すべての民を「わたしの弟子」、つまりイエス・キリストの弟子にすることが教会の伝道の目的なのです。
パウロとバルナバの働きも、彼ら自身の弟子を増やすことではありませんでした。このわたしの言うことを聞く人間が何人増えたというようなことに、おそらく彼らは何の関心もありませんでした。彼らはそのようなことを嫌がっていたと思います。キリスト教信仰にとってそのような感覚は、最も遠いものであり、うんざりすることだからです。
しかしまた、そのことは、ある面から言えば、人間の社会においては避けがたい運命、抵抗しがたい誘惑であると言わねばならないことかもしれません。政治家が自分の支持者を集めるように、宗教家が自分の弟子を増やそうとする。それは、事の成り行きとしては避けがたいことかもしれないのです。
パウロたちもその事情をよく分かっていました。だからこそ彼らは意識的ないし意図的に、伝道とは自分の弟子を増やすことではないということを具体的な行動と実践において明らかにしました。
この点で注目していただきたいのは22節の「信仰に踏みとどまるように励ました」という言葉と、23節の「彼らをその信ずる主に任せた」という言葉です。
今日の個所でパウロたちがしていることは、それまで歩んできた道を引き返すことです。ピシディア州のアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベと歩いてきた。その同じ道を今度はデルベ、リストラ、イコニオン、アンティオキアと引き返す。その目的は彼ら自身が伝道した町のなかで、イエス・キリストへの信仰を受け入れ、洗礼を受け、教会のメンバーになった人々に再び出会い、信仰に踏みとどまるように励ますことでした。
ご理解いただきたいのは、パウロたちが勧めたのは「信仰に踏みとどまること」、つまり、彼らが宣べ伝えたイエス・キリストへの「信仰」に踏みとどまることであって、われわれから受けた恩義に踏みとどまりなさい、感謝しなさいというようなことではなかったことです。恩義に踏みとどまれというような話は、仁侠道の一種であり、キリスト教信仰から最も遠いものなのです。
そしてパウロたちは、そのことを明らかにするためにこそ、23節に書かれているとおり、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命したのです。そして、「彼ら」つまり「長老たち」を「その信ずる主に任せた」のです。
どういうことか。要するに、パウロたちは、ひとつの町、ひとつの教会に長くとどまり続けることを意識的に避けた、ということです。彼ら自身の弟子をつくらないためです。キリスト者が文字どおり「キリスト者」であり続けること。パウロ主義者やバルナバ主義者をつくらないこと。そのために、彼ら自身は潔く身を引くのです。
しかしまた、彼らの伝道によって、町ごとに信仰者の群れが生み出され、そこに教会が形成されていった。その教会を大切にする責任が、パウロたちにもあった。そのために、教会を守る責任者として長老たちを任命し、その長老たちを「その信ずる主」、すなわち、救い主イエス・キリスト御自身「に」任せたのです。
ですから、別の言い方をすれば、パウロたち自身の仕事の目標は、たしかに旅先の地に信者の群れを生み出すことではありましたけれども、より具体的に言えば、その地に複数の長老を任命することであり、われわれの言葉で言えば「小会を組織すること」であって、それ以上のことは彼らの仕事ではなかったということです。あとのことはすべて長老たちが行うのです。
26節にも、23節にあったのと同じような表現が出てきます。「そこ〔アンティオキア〕は、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である」。
「二人」、すなわちパウロとバルナバの二人は、アンティオキアにおいて、神の恵み「に」ゆだねられました。神の恵み「が」彼らにゆだねられたわけではありません。それは、23節において長老たちがその信ずる主なるイエス・キリスト「に」任せられたのであって、パウロたちが長老たちにイエス・キリスト「を」任せたのではないのと同様です。
ここで考えなければならないことは、神の御子なる救い主イエス・キリストは、生きておられる方であるということです。また、恵み深い父なる神は、生きておられる方であるということです。「イエス・キリスト」も「神の恵み」も、パウロたち伝道者たちがだれか他の人々に「はい、どうぞ」と手渡して預けることができるような、物のような存在ではないということです。
むしろ事情は正反対です。御言葉の教師たちが、長老たちが、そしてすべてのキリスト者たちが、父なる神と御子イエス・キリスト「に」任せられ、ゆだねられるのです。このことも間違えてはなりません。
さて、ここで話をもう一度前のほうに戻します。パウロたちが旅先の町々で福音を宣べ伝えた結果ないし成果としてうみだされたキリスト者たちとその教会に対してパウロたちが語った言葉は「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」というものでした。この意味は何なのだろうか、ということを考えてみたいと思います。
私にとって気になることは、ひとつです。この点は皆さんにぜひお尋ねしたいことでもあります。「多くの苦しみを経なくてはならない」という言葉は、22節によりますと、弟子たちを「力づける」言葉であったと言われています。
問題は、皆さんならば、このような言葉で「力づけ」られるでしょうかということです。「苦しみがあります」とか「苦しまなければなりません」という言葉を聞くと、たちまち元気がなくなるとか逃げ出したくなるという方はおられませんか。この点がちょっと気になる、いや、かなり気になる点です。
しかも、明らかなことは、パウロたちが語っている、わたしたちが経なくてはならない「苦しみ」の内容は、どう考えてもやはり、教会をたてあげ、守り抜くことに伴う苦しみであるということです。はっきり言えば、パウロたちが語っていることの趣旨は、教会は楽しいばかりのところではなく、苦しいところでもある、ということです。
しかし、教会の何がそんなに苦しいのでしょうか。それは、わたしたち自身が、すでに十分に味わってきたことです。
毎週の礼拝に通うこと。このこと自体が楽しいばかりのことではなかったし、今もそうであるし、これからもそうであろうということを、わたしたちはよく知っています。
教会生活は、それを始めるときには喜びと感謝と興味がいっぱいあるものです。しかし問題は、それを続けることができるかどうかです。喜びも感謝も興味もそのうち失われていくのです。長く続けることができそうもないという理由で最初から入ることを躊躇している人々も大勢いることを、私は知っています。
また、とくに小さな子供たちにとっては、日曜日の朝に早起きをするということだけでも一苦労です。教会には近くに住んでいる人々だけではなく、遠くに住んでいる人々もいます。一人で通っている人々だけではなく家族揃って通っている人々もいます。「揃って」というところに、これまた大きな苦労が生じます。
ともかく、わたしたちひとりひとりがこの礼拝のために毎週払っている苦労は、決して過小評価されるべきではないのです。
また、教会を維持することのために、わたしたちは、多くのささげものをささげてきたし、ささげているし、ささげ続けるであろうということも、決して楽なことではないし、涙が出てくるような苦労があります。
そしてまた、教会は人間が集まるところであり、そこには人間の問題が必ずあるのです。いろいろなトラブルもある。嫌になって逃げ出したくなるような場面は、教会生活のなかには、何度でも訪れるのです。
加えて外からの妨害や迫害もあります。わたしたち教会の者たちにとっては命に代えても惜しくないほど大切なことが、教会の外側にいる人々にとっては、どうでもよいことであり、無意味なことに見える。そのように面と向かって言われる。そのような人々の声に、わたしたち自身が負けてしまうことがあるのです。
わたしたち自身に原因や責任がある場合もあります。毎週日曜日、教会から帰ってくるたびに愚痴を言う。疲れ果て、くたびれ果てて、蒼い顔して、寝込んでしまう。「そんなにつらいんだったら、教会なんかやめたらいい」と家族の人々が本気で心配してくれる場合があります。人が苦しんでいる姿は、つまずきにもなるのです。
しかし、勇気を持とうではありませんか。教会には何の苦しみもありませんと語ることはうそになりますし、聖書の証言に反していますので、そのように語ることは私にはできません。
それでもなお申し上げたいことは、教会の存在は決して無意味ではないし、無駄でもないということです。たとえ苦しみがあっても、教会には命をかけて守り抜く価値があり、意味があるということです。この町に教会があることは、わたしたち教会の者たちにとってだけではなく、町の人々にとっても意味があり、価値があるのです。
みんなで一緒に苦しみましょう!私も苦しみます。教会は「地上における神のみわざ」なのです。教会はイエス・キリストの体なのです。天地創造のみわざは、教会なしに行われました。しかし、救いに関して言えば、神さまは教会なしには何もなさらないのです。
わたしたちが苦しんで、涙も流して、一生懸命に支えて、つくりあげていく地上の教会をとおして、神御自身が救いのみわざを行われるのです。
その意味で、わたしたちの苦しみが、神の力なのです。
(2007年11月4日、松戸小金原教会主日礼拝)