2007年11月18日日曜日

「自由への決断」

使徒言行録15・22~29(連続講解第38回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





「そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからである。」



先週、わたしたちが学んだことは、「教会は会議を重んじる」ということでした。教会は会議を重んじます。その意味は大きく分けて二つある、と言うべきです。



第一は、教会はどんなことでも会議で決める、ということです。教会は、特定の個人の意見で振り回されることを最も嫌うのです。個人的な意見が全体の方向性を全く決定してしまうというようなことは、教会にとっては好ましい結果ではありません。教会の中心に立っているのは神御自身です。神の御霊が教会の会議に集まる一人一人に働いてくださり、その御霊に導かれて教会の方向性が決定されるのです。わたしたちの教会政治の原則は、独裁主義ではなく、複数指導体制なのです。



しかし、です。今申した点だけでは、まだ十分ではありません。第二の意味があります。「教会が会議を重んじる」ということの意味は、教会とは会議で決まったことについてはこれをきちんと守る団体でもあるということです。教会会議の主は、神御自身なのです。そこで決まったことは神御自身の御心であり、命令であると信じるべきなのです。



ある教会の実例です。ある問題について、教会の役員会で時間をかけて話し合い、また会員総会でも相談して、ひとつの決定を下した。ところが、次の日曜日になると牧師が、みんなで決めたこととは正反対のことを語り始めた。「妻(牧師夫人)が反対したからだ」という。こういうのは本当によくない。教会の中心は特定の個人ではありません。



教会が会議を重んじることの意味のなかには、特定の個人の独裁や暴走を食い止めるという側面もあります。とりわけわたしたちが採用している「長老主義」という教会政治のあり方の根本には、教職者による全面的支配を避けるという目的があるのです。



そのことは、二千年前の教会においても行われました。アンティオキア教会で起こった大きな意見対立によって当時のキリスト教会全体が分裂の危機にさられました。その問題に決着をつけるために、エルサレムで使徒会議が招集されました。しかしそこに集まったのは使徒たちだけではありませんでした。「長老たち」(15・2、15・22)も参加したのです!



対立が起こった点は、次のようなことでした。ユダヤ(おそらくエルサレム)から来たある人々がアンティオキア教会の中で一つの点を非常に強調して語り始めました。それは、人がキリスト者になるためには洗礼を受けるだけでは不十分である。割礼を受けなければならない、ということでした。割礼は、当時のユダヤ人男性の全員が受けていたと思われます。つまり、「割礼を受けなければならない」という要求が突きつけられたのがアンティオキア教会の中のユダヤ人以外の人々、つまり異邦人であったことは明らかです。



この要求によって起こったことは、一言でいえば、異邦人が教会のメンバーに加わる際のハードルが非常に高くなったということです。割礼には当然のことながら一時的にせよ激しい苦痛を伴います。つまり、このユダヤ人たちの要求は事実上、あの痛い目に合っていないような人間を教会のメンバーに加えることはできないと言っているのと同じです。



それでも構わないと、願い出る人もいたかもしれません。しかし、どう考えてもそれは少数派です。多くの人々は、痛い目に会うために教会に来たいわけではない。わたしたちの負うべき痛みや苦しみは、もっと他のところにあるはずです。人生そのものが苦しいのです。生きていること、そのこと自体に痛みが伴うのです。



そして、わたしたちの多くが教会に求めることは、わたしたちがこの人生の中で今まさに味わっている痛みや苦しみを耐え忍ぶことができる力と勇気と慰めを得ることでしょう。そうではないでしょうか。



しかし、です。この人々が要求したことは、そうではありませんでした。体を傷つけなさいというのです。痛い目に会いなさいというのです。そうでないような人間は、教会のメンバーになど加えてやるものかというのです。これは明らかに、教会の敷居を高くするやり方です。門をできるだけ狭くし、だれにも入らせないようにするやり方です。



この人々の主張に対して最も強く反発したのが、第一次海外伝道を体験してきたばかりのパウロとバルナバでした。正反対である!「伝道」という使命を担っているわたしたち教会がしなければならないことは、自分たちの敷居をわざわざ高くして、人々を恵みからできるだけ遠ざけることであるはずがない。むしろ、可能なかぎり敷居を低くすることではないのか。そのように彼らは考えたに違いありません。



もちろん教会は、ただ単なる人集めをしたいのではありません。しかし教会のメンバーに加わりたいと願っている人の前で「キリスト者になるとは、あれもしなければならないし、これもしなければならないということなのだ」と並べたてることによって、「そうか、わたしたちはお呼びでないのだ。ここに参加することは最初から無理だったのだ」と悟らせるように仕向けるようなのは、いかにもばかげたやり方ではありませんか。



パウロたちは、この問題が個人的な対立のような形で扱われることを望まず、公の教会会議の場できちんと結論を出すことを望みました。そして、その声はエルサレム教会にも届き、彼らの願いどおりの会議がエルサレムで行われることになったのだと考えられます。



ところで、パウロたちが、この問題が公の形で扱われることを望んだ理由は、聖書には明らかにされていません。わたしたちにできることは、それは何なのかを想像してみることだけです。一つの点だけ申し上げておきたいことがあります。



それは、わたしたちが受ける洗礼はあまりにも弱すぎると感じられるかもしれない、という点にかかわることです。どういう意味か。わたしたちが洗礼を受けた証拠は、わたしたちの体のどこにも残っていないということです。まさかお勧めするわけではありませんが、たとえばわたしたちが様々な誘惑の中で、もし「わたしはキリスト者である」という事実を隠しておきたいと願うならば、それはいとも簡単にできるでしょう。客観的な証拠などどこにも残っていないからです。裸にされて調べられても、どこにも何もありません。



今ならば、洗礼式の写真が残っているかもしれません。それが証拠だと言われるなら、そうかもしれない。また、書類的なものはすべて教会に保管されています。それも証拠だといえば言えなくもない。しかし、そういうことは、おそらく、実際の場面ではほとんど問題にならないと思います。うんと乱暴な言い方を許していただくなら、わたしたちは、いざとなったらいつでも“しらばっくれる”ことができます。洗礼を受けたことのしるしが、わたしたちの体には、どこにも残っていないからです。



アンティオキア教会のなかですべてのキリスト者が割礼を受けることを求めたユダヤ人たちの動機は、「モーセの慣習に従って」という点、つまり、(旧約)聖書に書かれている原則を守るべきだという点にあったようだということについては、十分に考慮される必要があります。しかし動機はそれだけなのか、もっと他にもあるのではないかということも、いろいろと想像することがわたしたちには許されていると思います。



その中で、私は“洗礼の弱さ”という点を、どうしても、避けて通ることができません。「洗礼を受けている」ということをわたしたちは隠すことができる。わたしたちの頭の上に注がれた水は流れて消えてしまいます。割礼の場合はそうは行きません。一生消えない傷として、痛みの記憶とともに、このわたしの体に残り続けます。いざとなれば、「ここに証拠がある」と、客観的に提示することができます。



そういう“しるし”が、「わたしたちにも欲しい」と感じるときがあるかもしれません。「このわたしはキリスト者である」ということを明確に示すことができる何かが。これを求める気持ちは普遍的なものではないか。この点が、当時の人々が「この問題は教会会議を開いて結論を出すべきだ」と考えた理由の一つではないかと、私には思われるのです。



しるしが欲しいという気持ちはわたしたちにもあるかもしれません。教会の歴史の中にもそのような試みは、絶えずありました。しかし、どうするか。体のどこかを切るのか。消えない字でも彫るのか。髪の毛を剃るのか。そのように見える服を着るのか。シールでも張るのか。バッジでも付けるのか。特殊な合い言葉でも交わすのか。忍者みたいに。



しかし、これは誘惑なのです!洗礼を受けたというだけでは自分がキリスト者であるという事実をいざとなれば隠すことができる、という点も十分な意味で誘惑かもしれません。しかし、しかし、です。そのための何らかの客観的なしるしを求めることもまた、誘惑であり、ある意味で、後者は前者よりも、もっと大きな誘惑なのです。



なぜなら、そのような外見上の事柄は、わたしたちにとっては、ポーズや演技やお芝居にさえなりうるからです。そのようなしるしに隠れて、心の中では全く別のことを考えているということが、わたしたちには十分にありうるのです。



そのことについてパウロは、ローマの信徒への手紙にはっきりと書いています。「あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません」(ローマ2・27~28)。



事実として、また事柄の真実として語りうることは、わたしたちは、客観的なしるしを持つと、それに隠れて嘘をつきはじめるのだ、ということです。しるしなど、いっそ何もないほうがよい。それがないことによって、わたしには隠れ蓑などどこにもないのだ、と繰り返し悟るのです。わたしたちに必要なことは、芝居がかった態度そのものから自由になること、すなわち「救われる」ことなのです!



わたしたちのしるしは、実は、ちゃんとあります。それは、この信仰そのものです。信仰に基づく生活です。それ以外には、わたしたちがキリスト者であることを証明するものは何もありません。キリストの香りを放つのは、わたしたちの心です。信仰・希望・愛、そして喜びです。喜びの人生です!



二千年前の教会会議が決定したことは、まさにそのことです。一つの点が高らかに宣言されました。



教会会議によって宣言された内容は、(いくらかの特例を除いて)わたしたちキリスト者には「いかなる重荷も負わされない」ということです。いくらかの特例とは、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」です。これはヤコブの発言(15・13~21)によって加えられた特例です。



ヤコブの趣旨は「モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているから」(15・21)、当時のキリスト教会の中でも常識の範囲内の事柄になってきている、ということです。つまり、この特例の意図は、「キリスト者は常識的であるべきである」ということです。それ以上のことではないのです。



そのとおり。わたしたちキリスト者は、特殊である必要はありません。むしろ、一般的であり、常識的であることが、神から求められているのです。



(2007年11月18日、松戸小金原教会主日礼拝)