2007年12月2日日曜日

神の栄光の舞台


ルカによる福音書2・8~9

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」

「その地方で」とは救い主イエス・キリストがお生まれになったユダヤのベツレヘムのことです。今から二千年前のベツレヘムで起こったことは何でしょうか。

いろんな答えがありうると思います。私の答えは、こうです。そこで“キリスト教”が始まったのです!今やキリスト教は全世界に広がる一大宗教です。ベツレヘムはキリスト教の発祥の地である、ということです。

ただし、今申し上げたことは厳密な言い方ではありません。15節で羊飼いたちが「さあ、ベツレヘムに行こう」と言っています。しかし8節の「その地方」は明らかにベツレヘムです。すでにベツレヘムにいる人が「ベツレヘムに行こう」と言うのは奇妙なことです。

しかしこれは難しいことではないと思います。考えられることは、そのとき羊飼いたちがいた場所は、同じベツレヘムであっても中心ではなく、周辺であったに違いないということです。わたしたちも時々「松戸に行く」とか「柏に行く」と言うではありませんか。すでに松戸市民であり、柏市民であるにもかかわらずです。それだけで、行き先はどこであるかの話は、十分に通じています。

もし今私が申し上げたことが正しいとするならば、ここで分かることが一つあります。それは、キリスト教の発祥の地はベツレヘムの中心ではなく、周辺地域であった、ということです。しかもその場所は、「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」ような地域であった、ということです。

いずれにせよ間違いなく言いうることは、少なくともそこは“都会”と呼ばれるような地域ではありえなかった、ということです。人がたくさん集まる宿場町でもなければ繁華街でもありません。もしかしたら整備された道もない。おそらく学校もない。先生も学生もいない。それは、わたしたちの多くが“田舎”とか“過疎地”と呼ぶような地域です。

そのようなところで「キリスト教」が始まったのです!キリスト教は「洗練された都会の宗教」として始まったわけではないのです。このあたりのことについては今日、改めて根本的に考え直されなければならないものがあるように思います。

羊飼いたちは「野宿」をしていた、とあります。「夜通し羊の群れの番をしていた」ともあります。それでは彼らは、夜が明けて朝が来ると、野宿をやめてそれぞれ自分たちの家に帰り、温かい布団にもぐって眠ったのでしょうか。

そうではなさそうです。朝になっても昼になっても、彼らは同じ場所で生活していたのです。温かい布団はあったかもしれません。しかし、その布団が敷かれている場所は地面です。サソリやヘビ、さまざまな虫やミミズが這っている地面です。鷹や鷲、スズメバチやコウモリが飛んでくるかもしれない、オオカミや野犬が襲いかかってくるかもしれない、危険に満ちた野外です。

当時の人々は、だいたいみんな似たり寄ったりの生活をしていたのでしょうか。そんなことはありません。豪勢な王宮に住んでいた人々もいました。大きな神殿で生活していた宗教家たちもいました。そのように聖書が証言しています。

しかし、キリスト教は王宮や神殿に住んでいる人々から始まったものではありません。夜だけではなく、朝も昼も、多くの危険に満ちた野外で生活していた人々から始まったのです!

9節に、その人々のところに「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」とあります。最初に注目していただきたいのは、「近づき」(エペステー、(原)エピステーミ)という言葉です。これは「近づく」という意味の他に「やってくる」、「上に立つ」、「傍らに立つ」、そして「襲いかかる」という意味にもなる言葉です。

しかも、この言葉(エペステー)は、多くの場合、それが予期せぬ突然の出来事、不意打ちの出来事であることを示します。そのようにギリシア語の辞書などに書かれています。これで分かることが二つあります。

第一は、ベツレヘムの羊飼いたちの前に主の天使が現れるというこの出来事は、前後の脈絡など全くなかった、まさに「突然」起こったことであったということです。言い換えればそれは、羊飼いたちの側に「主の天使に来てもらいたい」という長年の祈りがあり、彼らの祈りに応える仕方で天使たちが来てくれた、というような事情ではないということです。彼らの切なる祈りが、主の天使を“呼び寄せた”わけではない、ということです。

そしてこの点が、これから申し上げる第二の事柄につながります。「近づく」という言葉に含まれる「突然の」というニュアンスから分かる第二の事柄は、そこにいたベツレヘムの羊飼いたちの“心”の中にあったものをも表しているに違いない、ということです。

彼らは天使の到来など全く予期していなかったし、祈ってもいなかったし、期待もしていなかったのです。ここでわたしたちが問題にしなければならないことは、その理由です。

羊飼いたちは、絶望を感じていたのではないでしょうか。お世辞にも「恵まれている」とは言えない生活。「私は社会的に取り残されている」という絶望感を覚えるような過酷な労働。このあたりで、わたしたち自身の現実と重ね合わせてみることができそうです。

光が当たるのは、われわれではなく、別の人々である、と思い込む。それはただの思い込みでもなく、まさに事実であり、現実である。未だかつて脚光など浴びたことは一度もないし、これからもないだろうと自覚している人々。しかし、一抹の寂しさや絶望さえも感じていたのではないでしょうか。

羊飼いたちが天使の到来を「突然」の出来事として認識した理由は、そのようなことはそもそも最初から諦めていたことであり、願うのもむなしいことであると感じていたことだったのではないでしょうか。

そのような人々のところに主の天使が「近づいて」来た!このように、これは、羊飼いたちの“心”に深くかかわる出来事であった、と理解することは重要であると思われます。

しかし、それだけではありません。今申し上げた「近づく」(エペステー)という言葉が持っている、いくつかのニュアンスはまだまだたくさんありますし、それぞれ重要な意味をもっています。

第一に「やってくる」というニュアンスがある、と申しました。その意味は、こうです。その日その時まで存在しなかったものが存在するようになった、ということです。まさに前代未聞の出来事が起こった、ということです。

第二に「上に立つ」というニュアンスもある、と申しました。その意味は、こうです。もともと地上の世界に存在しなかったものが到来したのだけれども、しかしまた、それは地上に属するものへと完全に同化してしまうのではなく、あくまでも天上に属するものであり続けるという仕方で「近づいた」のだ、ということです。

しかし、それはまた、第三に「傍らに立つ」という意味にもなります。それは、ここで羊飼いたちと天使との関係は、単なる(悪い意味での)上下関係ではありえない、ということです。天上に属する存在が地上に属する者たちを“上から”威圧し、屈服させ、支配するために来たのではありません。「傍らに立つ」というかぎりにおいて「助ける」という意味にもなります。天使は、羊飼いたちに温かく寄り添い、助けるために来たのです。

しかし、それだけではありません。先ほど第四に申し上げました「襲いかかる」というニュアンスも重要です。羊飼いたちも人間であるかぎり、罪を持っていたからです。

「天使」とは神の使いであり、神の代理者です。神が人間にお求めになることを伝えに来る存在です。そのため、「主の天使」は、“神の啓示”という概念とほとんど一致します。天使の言葉は、そのまま神の言葉です。神が人間にお求めになることは、自分の罪を悔い改めることです。そして神の御心に喜んで従うこと、そのような者として生きることです。

しかも、そこで重要なことは、相手が神であるということです。神はなんでもご存じの方なのですから、神の御目に見えない場所は、どこにもないのです。人間に隠れる場所はありません。全部見えています。見えていない、と思い込んでいるのは人間です。隠れて悪いことをする。誰にも分からないだろうと考える。そのような人間の前に、神は、突然現れるのです。抜き打ちテストを仕掛けてこられるのです。しかも、その抜き打ちテストは、人間を断罪するためにではなく、人間を罪の中から救うために行われるものなのです。

さて、次に考えていただきたい問題は、「主の栄光」とは具体的に言うと何なのか、また、主の栄光が照らした「周り」とは具体的には何なのか、ということです。この件についてご理解いただきたいことを、三点だけ申し上げておきます。

第一は、「主の栄光」という概念の意味は、神御自身の存在とみわざの放つ豊かな輝きのことであり、それは「主の救い」という概念とほとんど一致するということです。つまり、「主の栄光」とは、主なる神の救いのみわざの輝きのことです。創造のみわざも主なる神のわざですが、創造のみわざは人間の罪によって汚されました。神の創造のみわざとしてのこの世界とわれわれ人間たちが輝くためには、この世界を罪から救い出す力を持つ神の救いのみわざが必要なのです。

そして、この意味での「主の栄光」が照らす「周り」とは、ほとんど間違いなく、地上の世界とそこに住む人間のことです。しかもそれは、人間の体だけでなく、心も含んでいます。それは「主の栄光が周りを照らした」ことによって「彼らは非常に恐れた」と書かれているとおりです。なぜなら、「恐れる」のは人間の“心”だからです。彼らが恐れたのは、その心を主の栄光が照らし、そこに救いの御手が及んだからです。“心”に対する影響を考えなければなりません。

しかしそれだけではありません。これから申し上げる第二の意味は、今申し上げた第一の点に行きすぎが起こらないための歯止めにする意図があります。今日の個所に描かれている出来事を、人間の“心”の問題だけに押し込めてしまってならないと思うからです。宗教の問題を心理学の問題にしてしまってはならないのです。

それは、主の栄光が照らす「周り」のなかには人間の心だけではなく、少なくとも体が含まれていますし、人間だけでもなく、世界とその中にあるすべてのものが含まれているということです。まさに神が創造された現実のすべてです。つまり、ここで言われている「周り」とは、「地上の現実」という概念と内容的にほとんど一致する、ということです。

第三に申し上げることは、第二の点の言い換えです。主の栄光が照らす「周り」の第一義的な意味は、まさに「地上の現実」であり、そこに主の天使が「近づいてきた」のです。ご理解いただきたいことは、この話は、このとき羊飼いが一時的に地上を離れて、天上の世界に行き、そこで主の栄光に照らされたという話ではないということです。羊飼いたちは、彼らの暗く惨めな現実から一時的に逃避して、主の栄光の満ちあふれる天上の世界を垣間見て、心の慰めと平安を得ただけである、というふうに考えてはならないのです。

もしそうだとするならば、地上の世界は、相変わらず暗黒のままです!

われわれの日常生活は、神の救いも神の恵みも及ばない、まさに暗黒の世界のままです!

しかしそうではありません。主の栄光が輝いているのは天上の世界だけではありません。「輝いているのは天上だけであり、地上は真っ暗だ」と考えてはなりません。主の救いはわたしたちが生きているこの現実、この社会、わたしたちの(あまりにも平凡で、退屈で、砂を噛むような)この日常生活に届いています。わたしたちが救われるのは、この地上の世界においてです。地上の世界は「神の栄光の舞台」(カルヴァン)なのです!

そして、それこそが、神の御子なる救い主イエス・キリストが地上にお生まれになった意味です。主の栄光をもって地上の世界を豊かに輝かせてくださるためです。短く言えば、わたしたちがこの地上の人生を元気に喜んで生きることができるようにしてくださるために、イエス・キリストは来てくださったのです!

(2007年12月2日、松戸小金原教会主日礼拝)