2007年12月23日日曜日

神の愛、イエス・キリスト


ヨハネの手紙一4・7~12

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(4・9)

クリスマスおめでとうございます。今日は楽しくまたうれしい日です。救い主イエス・キリストがお生まれになりました。このわたしの救い主が来てくださったのです。

しかし、このように私が申しますと、一つの疑問が生まれるかもしれません。「救い主、救い主と言うけれど、その方が持って来てくださった“救い”とは何のことだろうか」と。今日考えてみたいと願っているのは、キリスト教的な意味での救いとは何なのかです。

救いの意味は、救済ないし救助です。この字を見て多くの人が最初に思い浮かべることは、難民救済や災害救助、あるいは貧しい人への施しというようなことではないでしょうか。それももちろん重要です。熱心に行うべきです。しかしキリスト教的な意味での救いとはそのようなものだけであると私が語るなら、ちょっと違うのではないかと思われるに違いありません。もちろん私も、それだけではないと考えております。

問題にすべきことは、救いの“中身”は何かです。こういう言い方もできるでしょう。イエス・キリストがもたらしてくださったものは、わたしにとって、何の役に立つのか、それはうれしいものなのか、ありがたいものなのかという問いです。何かご利益(りやく)があるのか、と言い換えてもよいでしょう。それとも、キリスト教とご利益うんぬんは、全く無縁であると言うべきでしょうか。

今日の聖書の個所に目を落としていただきたいと願います。ここに書かれていることが、今申し上げた問いの答えです。一言で言いますと、それは「愛」です。また「わたしたちが互いに愛し合うために必要な要素」です。イエス・キリストをとおして神がわたしたちに与えてくださる救いの中身は、要するに“互いに愛し合う人生”です。愛も、希望も、そして喜びもない人生を救い主が、それとは正反対のものに造りかえてくださるのです。

それこそが、まさにキリスト教のご利益(りやく)です。そのように私は、はっきりと申し上げることができます。
 
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」

分かるようでちょっと分かりにくい言葉であると思います。「互いに愛し合いましょう」と言われている以上、ここに語られているのは、明らかに、人間同士の愛です。あなたとわたしの愛です。そうしますと少し分かりにくいと感じられる面が現われてきます。とくに今の人々がおそらく感じるであろうことは、人間同士の愛に神が登場する必要があるのだろうかという問いであると思います。「神を信じていない人々であっても、十分な意味で愛し合っているではないか」という問いです。

実際問題として「愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」でしょうか。「愛することのない者」は、神を知らない人でしょうか。わたしは、あの人を心から愛している。あの人も、わたしを心から愛してくれている。このわたしたちの絆は、だれにも邪魔することができないほど固いものである。しかし、わたしたちは何も、神を信じているわけではない。それほど信心深くないし、神とか宗教には興味がない。そのように考える人々のほうが、今の時代の中では、圧倒的な多数になっているのではないでしょうか。

私自身には、そのような現代の風潮を一方的に批判したり、裁いたりしたいというような気持ちはありません。「神を信じていない人は、本当の愛を知らないから、だから、あのように汚れている、乱れている関係に陥ってしまうのである。ほら、やっぱりそうなった」。そのように言って済ませることはできないと考えております。

私がそのように考える理由は、はっきりしています。神を信じている我々は喧嘩しないのか、という問いがあるということです。神を信じている我々は、いつでも必ず清廉潔白、正しい生活を送っているのか、という問いがあるということです。あるいは反対に、神を信じていない人々の愛は常に汚れていて、常に乱れていて、常に破綻に至るのか、という問いがあるということです。それほど事柄は単純ではないのではないでしょうか。

しかし、わたしは、このように考え、語ることにおいて、今日開いているヨハネの手紙に書かれていることは間違っている、と申し上げたいわけではありません。ただ、短絡的な理解に陥らないように、気をつけなければならない、と思っているだけです。

間違わないために注目すべき点は、9節以下に書かれています。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 
ここに登場する「独り子」が救い主イエス・キリストです。大切であると思われるのは、神は独り子を「世に」お遣わしになった、と記されている点です。これは、先週まで三回にわたって学んできましたルカによる福音書2章の、ベツレヘムの羊飼いたちの前に主の天使が現われて救い主イエス・キリストのご降誕を告げた、あの個所に記されていることに関係しています。主の天使と天の大軍は「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。この「地」と「世」は、ほとんど同じ意味であると考えることができるのです。

「地」であれ「世」であれ、いずれにせよ、それは、わたしたちが生きているこの地上の世界を指しています。とくに「世」(コスモス)と言われている場合、それをわたしたちが日常的に用いている最も卑近な言葉で翻訳するとしたら、「世間」です。「神は独り子を世間にお遣わしになった」。このように翻訳することさえできるのだということです。

そして、その場合の「世間」とは、言うまでもなく、神を信じている人々だけが住んでいる世界に限定されるわけではありません。「世」の意味はどう間違っても、信者の集まりとしての教会だけを指しているわけではありません。むしろ逆です。教会はその中に含まれていますが、まさに全人類、その中に信者である人も信者でない人も含まれているこの世界、まさに全世界のことを、聖書は「世」と呼んでいるのです。

そこに救い主イエス・キリストは来てくださいました。そして、この方は、御自身の命をささげて、人の罪を贖うみわざを行ってくださいました。キリストの贖いのみわざとは何かということについて、ほんの少しですが事情を説明しておきます。

この話は要するに、神はきよく正しい方であり、曲がったことが大嫌いなお方であるという点から始まります。神の正しさは、罪を犯す人間に対しては死の罰をもって報いないかぎり満足しないものです。しかし、神は人間を惜しんでくださり、また愛してくださいました。神がお選びになったのは、死の罰をもって人間を滅ぼす道ではなく、何とかして人間を生きることができるようにするために、独り子を世に遣わし、十字架の上で罪人の身代りとなる犠牲として供えてくださるという道でした。御子の死によって償いは完了しましたので、人間と神との関係に和解が成立しました。神は御子イエス・キリストを救い主として信じる人々の罪を赦し、神への感謝と喜びをもって生きる永遠の命を与えてくださることを約束してくださったのです。

しかし、です。たった今申し上げたことの趣旨は、罪を赦していただくことができるのは、イエス・キリストを信じる者たちだけである、ということです。けれども、それではイエス・キリストは初めから、信じる者たちだけのところに来てくださったのかというと、決してそうではないのです。イエス・キリストは「地」にいる「世」の民、すなわち地上の世界に生きる全人類のために来てくださった。父なる神は御子を、全人類を救うためにお遣わしになった。このこともまた、わたしたちは、はっきりと信じてよいのです。

ここには一見、矛盾があると思われるかもしれませんし、その矛盾をわたしたち自身も認めなければならないようにも思われます。私が申し上げていることは、救い主イエス・キリストは全人類のために、すなわち“万人”のために来てくださったということと同時に、それにもかかわらず、イエス・キリストによって救われるのは、信じる者たちだけである、すなわち“信者”だけが救われる、ということだからです。

どこに矛盾があるのでしょうか。もし救い主がまさに神から遣わされた救い主であり、かつその方が全人類のために遣わされた方であるというのであれば、その救い主の持っておられる救いの力は、信者であろうが・なかろうが関係なく、まさに全人類に及ぶと信じられるべきではないか、ということです。もしわたしたちが信者だけが救われると言うのであれば、救い主の力を狭く限定することになるのではないか、ということです。

しかし、です。この問題の解決の一部は先週お話ししたとおりです。イエス・キリストの救いの恵みは、おいしいごちそうであるということです。しかもそれは、だれが食べても「うまい!」と感動するであろう、まさに万人に通じる、万国共通、世界共通の超絶品のごちそうである、ということです。

しかし、その味を知ることができるのは、食べた人だけです!食べるか・食べないかは、本人次第です。メニューの写真も公開されています。店の前には、美味しい香りも漂っています。それでも店に入らない、食べようとしないのは、本人の責任です。それ以上強制することはできないのです。

「ここに愛があります」と言われています。この意味は何でしょうか。考えられる可能性は、今申し上げた矛盾点を、そのまま「愛」と呼ぶということです。どういうことか。イエス・キリストに示された神の愛は、強制的な愛ではない、ということです。「今は食べたくない」と言っている人の口を梃子(てこ)でこじ開けて無理やり捻じり込むような、暴力的な愛ではない、ということです。

それはむしろ、もっとデリケートな愛です。デリカシーのある愛です。それがイエス・キリストに示された「神の愛」の本質であると理解することが可能です。信仰を強制すること、「信仰のない人の愛は必ず破綻する」と強く言い放つこと、「だから信仰のない人は駄目なのだ」と裁くこと、「信仰のない社会は絶望的である」と考えて世捨て人になること。こういうのは「愛」の本質からは最もかけ離れているのだということです。

これ以上は言わないでおきます。申し上げたいのは、否定的なことでも批判的なことでもありません。「互いに愛し合うために必要な要素」です。肯定的で積極的な要素です。

それは「神の愛」であると言われています。私はそれを、繰り返し、デリケートな愛と呼んでおきます。デリカシーのある愛です。強制と暴力の反対です。謙虚さがあり、可能な限りの譲歩があり、また十分な協議と相互理解がある。お互いに納得づくであり、深い信頼と愛情がある。そのようなデリケートで優しい関係です。美味しいごちそうを一緒に食べて、ほんとうに美味しいと喜び、うれしそうな顔で満足している人々の姿です。

そのような「神の愛」をイエス・キリスト御自身が示してくださいました。それは本当に優しくデリケートなものであり、今もそうあり続けています。押しつけがましいものではありませんでした。ガリラヤの人々と共に平和に過ごされた日々において、エルサレムでの戦いの日々において、そして現在、天に挙げられてイエス・キリストの体なる教会と共に生きておられる日々において。

(2007年12月23日、松戸小金原教会主日礼拝)