2007年11月25日日曜日

「主の恵みにゆだねられて」

使徒言行録15・30~41(連続講解第39回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





「バルナバはマルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきではないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」(15・37~40)。



今日読みました範囲(15・30~41)には、大きく分けて二つのことが書かれています。



第一は、パウロとバルナバがエルサレムからアンティオキア教会へと帰り、エルサレムで行われた教会会議の結論を伝えたところ、アンティオキア教会の人々が喜ぶ場面です(15・30~35)。



第二は、そのパウロとバルナバが一つの問題をめぐって対立関係に陥ってしまい、結局二人は別の道を行くことになったという、いささか残念でもある場面です(15・36~41)。



この二つの場面を続けて読むことは、何が何でもそうしなければならないようなことではありません。しかし、続けて読むことによって、一つの点が明らかになると思います。



それは、とくにパウロの側の問題であると言えます。以前申し上げたことを、もう一度繰り返しておきます。ここで分かることは、パウロという人は、よくも悪しくも強い人であった、ということです。



どういうことか。エルサレムでの教会会議が「キリスト者は割礼を受ける必要はない」という結論を出すことができた背景に、異邦人伝道を行った経験と実績に基づいてそのことを強く主張したパウロの信仰ないし神学があったことは否定することができないということです。



パウロが教会会議を説得したのです。そのように考えることができます。逆に言えば、もしそのときパウロが、そのことを強く主張しなかったとしたら、教会会議がそのような決定をくだすことはなかったであろう、とさえ思われるのです。



だれだって、もめごとや争いごとになるようなことを言うのは、嫌なものです。しかし、パウロは違いました。語るべきことを、はっきりと語りました。真理を大切にしました。真理を明らかにするために、論争をも厭いませんでした。その論争に勝利する力もありました。パウロのおかげで教会全体に新しい道が切り開かれたのです。その意味で、パウロは非常に強い人であった、と考えることができるのです。



しかし、です。そのパウロの強さがあまりよろしくない結果を生み出す原因にもなったことも否定できません。それが、バルナバとの対立であったと、私は思います。



バルナバとパウロの対立の原因は、以前もお話ししたことです。第一回目の伝道旅行の際に二人の助手として連れて行ったマルコが、旅行の途中、二人の了解なしにエルサレムへと帰ってしまいました。そのことについての評価が、違っていたのです。



バルナバは寛大な人であったと言えます。マルコの離脱を裏切り行為だとは考えませんでした。マルコのことを、落伍者であるとも失敗者であるとも考えませんでした。だからこそバルナバは、マルコをもう一度新たな伝道旅行に連れて行くよう主張したのです。



ところが、パウロは違いました。もう二度とマルコを連れて行くべきではないと考えました。先ほど「二人の了解なしに」と言いました。もし了解していたならばパウロが激怒することはありえなかったはずです。パウロとしては、マルコは伝道には向かない人間であり、その面において弱い人間であると判断しました。マルコの弱さを、パウロは許すことができなかったのです。



それは逆に考えると、パウロが強い人だったからだと思われます。いささか強すぎる。強い人は弱い人の気持ちが分からない面を持っています。自分にできることが自分以外の人にできないのはどうしてなのかを、理解できない。自分にできることは誰にでもできる、と思っているようなところがあるのです。



しかし、ここは考えどころです。私は今、パウロに対して、やや批判的な言葉を並べています。けれども、私は基本的にパウロが好きです。好きだ嫌いだという次元で語るべきではないかもしれませんが。



パウロの強さは、時として、それまで仲間であった人を敵に回してしまうような結果を生み出すものであったことは明らかです。バルナバさえも敵に回してしまう。これは非常にまずいやり方です。しかし、ここで問わなければならないことは、教会にとって重要なことは何なのか、ということです。



もっとも、これは、教会だけの話ではないように感じられます。会社でも同じようなことが言えるでしょう。わたしたちにとって究極的に重要なことは、仲間を大切にすることなのか、それとも、与えられた仕事を忠実に果たすことなのか。ここに分かれ道があると思われるのです。



会社の話のほうが分かりやすいかもしれません。社長である人が、新卒の社員を雇う。少し仕事をしてもらって見えてきたのは、この人はその仕事には向かない人であるということであった。あるいは、与えられた仕事を、途中で投げ出してしまった。



こういう場合に、それでも雇い続けるのがバルナバの道です。向かないことが分かった時点で辞めてもらうのがパウロの道です。少しはピンとくるものがあるでしょうか。



しかし、ここでわたしたちが、パウロは冷たい人間であると考えるべきかどうかは微妙です。もしかしたら、パウロは、じつはとても温かい人なのです。



「この仕事はあなたには向いていない」と、はっきり言うことは、相手を一度は間違いなく傷つけることにもなります。しかし、逆にいえば、そのことをはっきりと伝えることによって、その仕事を続けることを諦めてもらうことは、無理な仕事を背負い込んだ結果、その人がひどい失敗を犯すことを、あらかじめ防ぐことでもあるのです。



そこで重要なことは、その失敗によって傷つくのは、無理な仕事を背負い込んだ人自身と、その仕事を背負い込ませた人の両方であるということです。また、それだけでもなく、事が「伝道」であるかぎり、一人の伝道者の失敗によって傷つくのは、教会であり、求道者であり、そしてまた、教会のかしらであるイエス・キリスト御自身であり、神御自身である。そのことを、パウロはよく知っていたのではないでしょうか。



バルナバの道は、一見すると温かい。しかし、別の見方をすれば、弱い人を「戦場」に引きずり出すことになっているのかもしれない。そして、その場合に倒れるのは、マルコだけではない。バルナバも倒れる。教会も倒れる。それは最悪の結末なのです。



今、私が考えていることは、主に、牧師たちのことです。教会の皆さんのことについて何かを言いたいわけではありません。私の認識では、日本の教会においては、教会に通う若い青年たちをつかまえては、だれかれ構わず、「牧師になれ、牧師になれ」と強く勧めてきた歴史があります。



そういうことを熱心に言うのは、たいてい牧師です。



自分の仕事がこの世の中で最高の仕事であるかのように!



自分以外の人の仕事は、取るに足らない仕事であるかのように!



そして、私が知っていることは、牧師になることを人から勧められて実際になった人々のうち、かなり多くの人が数年で辞めているということです。なかには、自分自身と家族、そして教会の人々を深く傷つけて。



ここで考えさせられることは、一つの教会が生み出され、維持されることにはどれほどの努力と涙が注がれてきたのかということです。一つの教会が破壊されることによって、どれほどの人が傷つくか!



そして同時に考えさせられることは、その責任はどこにあるのか、ということでもあります。少なくともその責任の一端は、まさにだれかれ構わず「牧師になれ、牧師になれ」と勧める人々にもあるのではないか。そういう言葉を“無責任に”発する人々にも責任があるのではないか、ということです。



ご参考までに。私が牧師になることを決心したのは、高校3年の夏休みでした。だれかに勧められたわけではありません。自分で決めました。牧師には最初は反対されました。私があまりしつこいので、しぶしぶ神学校入学の推薦書を書いてくださいました。



私の決心は最初の日以来、揺らいだことがありません。まさに実感として、私の心の中で、神御自身が一生懸命に語っておられるのです。黙っておられないのです。その神が、私を黙らせてくださらないのです。そういう感覚を、いまでも持っています。その意味では、自分で決めた、という言い方は間違いかもしれません。私と神の二人で決めたのです。だから、続けることができます。神を裏切ることは、私にはできないのです。



そして、その私は滅多なことで誰かに対して「牧師になれ」とは言わないで来ましたし、これからも言わないでしょう。こればかりは誰かに勧められてなるものではないと信じているからです。私の経験からすれば、その人の心の中で神御自身が騒ぎはじめられ、その言葉をその人自身も語らざるをえない状況に追い込まれるまでは、この仕事に就くことは不可能なのです。



そして、その状態になったときは、伝道をやめることができません。理由もわからないような仕方で、途中でやめることができません。逆にいえば、それを途中でやめることができる人は、伝道の仕事には向かないのです。



マルコを少しかばっておきます。マルコは伝道そのものをやめてしまったわけではありません。だからこそ、マルコは、バルナバの再度の要請に応じて、キプロス島に出かけることができました。



しかし、です。伝道は、狭い意味での伝道者、いわゆる教師だけがするものではありません。教会のみんながすること、信徒がすることです。マルコがバルナバについて行ったのは、教師としてついて行ったのか、それとも信徒の一人としてついて行ったのかという問い方は許されるものではないでしょうか。少なくともパウロは、間違いなく、マルコは自分とは同じ立場ではありえない、という判断を下していたのです。



パウロは強い人でした。そのことは間違いなく言えます。しかし、冷たい人であったという判断は、たぶん間違いです。強いて言うならば、かばう相手を間違わなかったのです。マルコをかばうのではなく、神と教会をかばいました。この判断が重要なのです。



それは、別の言い方をすれば、だれが伝道するかは究極的な問題ではない、ということでもあります。パウロが新たに選んだパートナーはシラスという人でした。教会はパウロとシラス「を」主の恵み「に」委ねました。パウロとシラス「に」主の恵み「を」委ねたわけではない、という点が重要です。伝道の主体は「主」御自身なのです。教師と教会、すなわち、狭義の伝道者と広義の伝道者は、「主」に仕えることができるだけなのです。



ただし、それは、まさか、伝道の仕事はだれにでもできることであるし、だれがやっても同じである、という意味ではありません。申し上げたいことは全く正反対です。重要なことは、だれが伝道するかではなく、伝道それ自体である、ということです。だれが神の救いを宣べ伝えるかが重要なのではなく、神の救いが宣べ伝えられることそれ自体が重要なのです。教会の伝道は、「地上における神のみわざ」なのです!



神のみわざを人間の勝手で中断してはなりません。それゆえ、伝道の仕事を「途中で」放棄する人は、伝道者には向かないのです。神の本質は、永続性ないし継続性にあるからです。パウロの判断は正しかったのです!



(2007年11月25日、松戸小金原教会主日礼拝)