2007年12月9日日曜日

大きな喜びの告知


ルカによる福音書2・10~12

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

今日お読みしましたのは、ベツレヘムの羊飼いたちに対して、主の天使が告げた言葉の一部です。

天使はまず、「恐れるな」と言いました。それは、9節にあるように、羊飼いが「非常に恐れた」からです。恐れている相手に、恐れてはならないと言っているのです。

羊飼いたちが恐れた理由は「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」からです。不思議な光景だったからでしょう。あるいは驚くべき、あるいは恐るべき光景だったからではないでしょうか。

私はまだ、天使なるものを見たことがありません。皆さんの中で、「私は見たことがある」という方がおられましたら、ぜひ教えていただきたいところです。もし会えるものなら、いつか会ってみたいと願っています。

しかし、もしかしたらそれを見る場面が、わたしたちにもあるかもしれない、と考えてみることはできそうです。そして、もしそれが起こるとしたらどのような場面なのだろうかと、具体的に想像力を働かせてみることはできそうです。

それはどういう場面でしょうか。おそらくそれは、天国の光景ではないかと思います。わたしたちは「天国に行く」と言います。この言い方が絶対に間違っているなどと、私は言ったことはありません。わたしたちはたしかに天国に行くのです。

しかし、わたしたちは、天国には「死んでから行く」と言いますし、そのように考えるでしょう。もしかしたら羊飼いたちも、わたしたちと同じように考えたのかもしれません。今わたしたちは天使を見ている。ということは、今ここはまさに天国である。ということは、わたしたちはもう死んでいるのではないか。あるいは、まもなく死ぬということか。天使がわたしたちを「お迎えに来た」のではないだろうか、と。

しかし、天使は羊飼いたちに「恐れるな」と言いました。このことは、おそらくわたしたちにも当てはまることです。もし、わたしたちが地上の人生の中で天使に出会うという不思議な出来事が起こったときにも、おそらく天使は、羊飼いたちに語ったのと同じ言葉をわたしたちにも語るでしょう。「恐れるな!」と。

そもそも天使は、何も、わたしたちを「お迎えに来る」存在ではないのです。そういう話は、本当に、全く別の宗教の話です。キリスト教の話ではありません。

キリスト教の話は正反対です。天使がわたしたちを天国に連れて行くのではありません。天使が、わたしたちの生きているこの地上の世界に、“天国の喜び”を持って来てくれるのです!

ですから、わたしたちも、もし地上で天使に出会うことがあったとしても、「ああ連れて行かれる」と恐れるべきではありません。むしろ、喜ぶべきです。地上の世界が、わたしたちの生きている現実が、闇から光に変わると信じるべきです。こちらで、天国の喜びを味わうことができるのだと、感謝すべきなのです。

さて、ここで話を少し先に進めます。「恐れるな」の次に天使が語った言葉は「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」です。この御言葉がわたしたちに対して持っている意義は、非常に大きいものです。注目していただきたい言葉は二つです。第一は「民全体」、そして第二は「大きな喜びを告げる」です。

第一の「民全体」の意味から申し上げます。二つの意味が考えられる、と解説されています。一つは「神の民イスラエル」です。聖書の神を信じて生きている信仰者たちです。しかしもう一つの意味は「全人類」です。どちらの意味なのかを確定することは、文法的には不可能です。

私の考えは、“どちらの意味にもとれる”ということ自体に意義がある、ということです。ここでわたしたちが深く考えてみるべきことは、「喜び」の本質は何なのかということです。ここでの「喜び」の内容は、もちろん「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことです。救い主イエス・キリストがお生まれになった。この出来事こそが「喜び」です。

しかし、その次にすぐに起こる問題がある。それは、はたしてそれは、本当に「喜び」なのかということです。なぜそれが問題なのか、またすぐに起こる問題なのでしょうか。それは、次の点に注目していただきますと気づいていただけるはずです。すなわち、それは、救い主イエス・キリストがお生まれになったというこのことを、喜ぶ人だけではなく、喜ばない人もいるということを、わたしたちはよく知っている、という点です。

そもそも「喜び」は、一方通行では成り立たないものです。「喜べ」と命令されたからといって、「喜ぶほうがいいよ」と勧められたからといって、誰でも必ずすぐにそうすることができるようになるというような性格のものではありません。

キリスト教などには全く興味がない、という人にとっては、救い主イエス・キリストがどこに・どのように生まれようと全く関係ありません。イエス・キリストのご降誕を喜び、感謝し、お祝いすることができるのは、少なくともキリスト教に興味があるという人だけです。この宗教、この信仰を、わたしの宗教、わたしの信仰として受け入れている人だけです。

この点からしますと、主の天使が救い主イエス・キリストのご降誕を「大きな喜び」として告げ知らせた「民全体」の意味は、もっぱら「神の民イスラエル」です。聖書の神を信じる信仰者たちです。そのように限定して考えることは、不可能ではありません。

しかし、そのように言い切ってしまうことには問題もあります。問題は、信仰者は固定しているのだろうか、ということです。今信じている人々だけが信仰者なのだろうか、ということです。今日はまだ信じていないかもしれないが、明日は信じるかもしれない人々を加えることはできないだろうか、ということです。今年は信じていないかもしれないが、来年は信じることができるかもしれない人はいないでしょうか。五年後はどうでしょうか。十年後はどうでしょうか。

今はまだ、イエス・キリストが、どこに・どのように生まれようと、全く興味がないと思っている。しかし、そのような人々の中に、ある日・あるとき、突如として、キリスト教への関心を抱く人がいるかもしれない。教会に通うようになり、説教を聴くようになり、聖書を読むようになる。かつてはどうでもよいと思っていたことが、「なんと。わたしは、とんでもない思い違いをしていた。この救い主イエス・キリストは、このわたしのために生まれてくださったのだ」ということに気づき、深く認識し、心動かされ、喜びと感謝に満たされる人がいるかもしれない。

その希望をわたしたち自身が捨てることは、ありえないことです。その希望をすっかり失ってしまっているような教会は、そもそも存在する意味がありません。この点から言うならば、「民全体」は、「全人類」の意味で理解することが許されていると思います。天使の知らせは、今すでに信仰者である人々だけに届けられたものではなく、これから信仰者になる人々にも届けられたのです!

もう一つ、注目していただきたいと、私が先ほど申し上げました言葉は、「大きな喜びを告げる」という言葉です。ご理解いただきたいことは、このまさに「大きな喜びを告げる」(ユーアンゲリゾーマイ)という言葉自体が「福音の説教」を意味する、ということです。つまり、天使がベツレヘムの羊飼いたちに行ったことは「福音の説教」である、ということです。

わたしたちが「説教」というものを耳にする場所は、主に教会です。教会の礼拝です。そのことが、この羊飼いたちにも当てはまると言ってよいでしょう。すなわち、二千年前のベツレヘム、この場面で起こった出来事の本質は、わたしたちがまさに今ここで行っている教会の礼拝と同じである、ということです。

ただし、そのときの説教者は、牧師ではありません。主の天使が説教者です!しかし、そこで語られたのが「説教」であることには変わりがありません。

神の御言葉が語られ、それが、聴く人々の心に届き、受け入れられ、信じられるところに、真の礼拝があります。

先週の説教で私が最初に申し上げたことは、ベツレヘムでキリスト教が始まったということでした。今読んでいるこの個所に記されているのは、全世界、全人類、全歴史における最初のキリスト教礼拝の場面である、ということです!

その意味では、わたしたちは、天使に直接出会う必要はもはやありません。わたしたちには、この教会があります。この礼拝があります。ここで毎週、説教が語られています。二千年前の天使が語ったのと本質的に同じことが、教会の礼拝の説教において語られています。

私の顔がもう少し天使のようであればよいのに、と思わずにはいられません。しかし、顔など見ないでください。強いて言えば、言葉を聴いてください。あるいは、聖書を直接読んでください。そして、どうか、信じてください!喜んでください。あなたのために、わたしのために、イエス・キリストがお生まれになったのだ、ということを。

そのとき、皆さんの心に、本当の「喜び」が生まれるでしょう。天使が告げた「大きな喜び」が、あなたの喜び、わたしの喜びになるでしょう。

救い主は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」の姿をしている、と天使は告げました。生まれたばかりの赤ちゃんは、その姿を見つめる者たちの心をなごやかにしてくれるものです。もちろんここでも正反対の反応を起こす人々のことを思い浮かべずにいられません。子どもは苦手です。そういうふうにおっしゃる方がいます。おそらく、心の中が何らかの理由で穏やかでない方です。

しかし、その場合にじっと考えてみていただきたいことがあります。自分自身もかつては赤ちゃんだったではないか、ということです。この赤ちゃんと同じ姿、何もできない、求めるばかりの、泣くばかりの存在だったではないか、と。

赤ちゃんの存在は、平和のシンボルであると同時に、希望のシンボルです。赤ちゃんを大切に思う心は、地上の世界の歴史的将来を大切に思う心に通じます。赤ちゃんが大切にされない社会の将来は、暗黒です。

おそらく、ベツレヘムの羊飼いたちにとっても、同じことが言えるでしょう。自分たち自身は必ずしも裕福だったり幸福だったりしなかったかもしれません。平凡な日々を過ごしていたかもしれない。社会にも政治にも絶望していたかもしれません。

しかし、その現実を変えてくれる存在が、この地上にお生まれになった。今は「飼い葉桶の中」という、必ずしも裕福でも幸福でもない場所にいる。しかし、この方こそが救い主である。

今はまだ、乳飲み子だけれども、やがて立ち上がる。

やがて言葉を語りはじめる!

やがて働きをはじめ、救いのみわざを行ってくださる!

それは、彼ら自身にとっての生きる勇気、希望の力になったことでしょう。

「この人生、捨てたものではない」と確信できる根拠となったでしょう。

(2007年12月9日、松戸小金原教会主日礼拝)