2007年10月20日土曜日
公会主義を説く改革派宣教師S. R. ブラウン
昨日〔2002年2月19日〕、私は、ほぼ丸一日かけて、日本史上最初にプロテスタント・キリスト教を宣べ伝えたことで知られる米国オランダ改革派教会宣教師、S. R. ブラウン[1810~1880年]の書簡集を読んでいました。全378ページもある、第一級の歴史資料です。
日本におけるブラウンの働きについては、短い文章で書くことは不可能なほど大きなものがありました。とくに彼が力を注いだのは、聖書を日本語に翻訳すること、日本のプロテスタント神学校の先駆けとなったブラウン塾の創立、そして日本史上最初のプロテスタント教団となった「日本基督公会」の創立などに集約されます。
書簡の内容の多くは献金依頼のために割かれています。あるときは「母教会〔米国オランダ改革派教会〕が『ケチ』だと非難されたり、母教会の名が『なまけもの』だとか『利己心』と同義語に使われるのは堪えられません」(同上書、187ページ) という殺し文句まで用いながら。現実世界に生きている者として当然の要求であり、宣教師の責任に属する事柄です。
このブラウンは日本伝道に大きな夢を持っていました。1862年11月8日の書簡には、次のように記されています。
「わたしは、しばしば、独りごとに、いや仲間にも言っているのですが、この日本国がキリスト教国となったら、どんなにすばらしいだろう、と。この国民に福音の喜ばしい感化を与えることができるよう、神は力をあらわしてくださるでしょう。もしそうなれば、日本を地上の楽園とすることも不可能ではありません。この美しい谷や野原、山腹、農家、村落、町村、都市、全国どこにでもきかれる『南無阿弥陀仏』という祈祷が『なんじ、高きにいます神よ』または『天にましますわれらの父よ、み名をあがめさせたまえ』という祈りに変わる時代は現に来つつあるのです。」 (同上書、115~116ページ)
ブラウン宣教師がこの夢を見たときから、はや140年。はたして、日本は「地上の楽園」になったでしょうか。彼はナイーブな楽天家でありすぎたのでしょうか。
また、1872年9月28日の書簡には、「日本基督公会」という教団名称の意味に関して次のように記されています。
「神よ願わくは、日本におけるキリスト教の発達に関心を持つ者として、同一なる公会の精神と統一した目的とに結合されて、キリスト教国における教会の美をはばむ分派をば、できるかぎり、この国から排除せられんことを。そして、もし、ただ組合教会とか、長老教会とか、リフォームド教会とかの相違が、異教徒に見えないよう、かくされてしまって、教会のこれらの分派が、少しもあらわれずに…すべてのものが、ひとりの共通の『主』と『かしら』につらなって、一つの教壇に立ちうるようになったならば、わたしたちの後から日本に来るものは、どんなに幸いでありましょう。」(同上書、286ページ)
「公会主義」と称せられるこのブラウンの夢は、しばしば、現在の日本における最大のプロテスタント合同教団である「日本基督教団」の存在を肯定的に評価する人々によって引用されるものでしょう。
しかし、これについて我々はどのような評価を下すべきでしょうか。たとえば熊野義孝先生の文章に見られるような「反省」、すなわち、「ただ聖書にのみ即する神学であるならば、それは単一全般的な神学であることを観念的に誇りうるかも知れないが、すでに伝統といふ以上、そこには諸教会の伝統が並存しているのであるから、現実的にはもはや教派的ならざる神学は存在しがたいではないか、といふ反省が促される」(熊野義孝著『教義学』、第一巻、新教出版社、1954年、45~46ページ)という物言いは、ブラウンが警戒する「キリスト教国における教会の美をはばむ分派」を促進するものとみなされるべきなのでしょうか。
はたして、すべての教派の存在は、すなわち「分派」なのでしょうか。このようなことを言いながら、ブラウン自身は紛れもなく「米国オランダ“改革派”教会」の宣教師以外の何ものでもなかったのではないでしょうか。彼はやはり、あまりにもナイーブすぎたのでしょうか。やや手厳しく言えば、「公会主義を説く改革派宣教師」ブラウンは自分自身の中で存在と思想が内部分裂を起こしていた、と言えないでしょうか。
しかし、私はこのようなことを考えながら、ブラウンの次の文章を読んでいたとき、思わずハッとさせられるものを感ぜざるをえませんでした。
「今、この国土〔日本〕から、改宗者が集められている、宣教の初期において、イエス・キリストを愛するものは、すべて、この地の教会が一つで、分かれることなく、わたしたちの本国の教会とか、他の国の教会のように、分派によって、異教徒を迷わし、教会の力を弱めることなく、むしろ「日本基督公会」(the Church of Christ in Japan)という、そうした土台をおくことを要望するに相違ないと思います。」(同上書、282ページ)
この文章が書かれたのは「1872年9月4日」です。この時期、アメリカの教会や「他の国の教会」が分裂し、その結果として教会の力が弱まっていたことはなるほど確かです。
ブラウンの時代、アメリカ全土は南北戦争で悩まされ、その影響で教会もまた南・北に分裂していき、互いに争い合うなどの悲劇を味わっていました。彼の書簡集にも繰り返し、わたしの悲しみは南北戦争だと書いています。
また、オランダ系アメリカ人たちの精神的故郷であるオランダ本国の改革派教会(国教会系と称されるNHK教会が米国RCAの出自)も1834年に起こった「第一次大分裂」(アフスヘイディングと呼ばれる)の傷がいえぬまま、1886年にはアブラハム・カイパーをリーダーとするグループのNHKからの離脱が起こります(「第二次大分裂」「ドレアンシー」などと呼ばれる)。つまり、ブラウンが生まれた1810年のオランダ王国に存在した唯一の「改革派教会」は、ブラウンの死(1880年)の後まもなく、三つの「改革派教会」へと分裂してしまうのです。
ブラウンの思いの中にこれがあったのではないか。オランダの国土は日本の九州地方と同じくらいの面積しかないと言われます。その狭い国の中でなぜ「オランダ改革派教会」が分裂しなければならないのか。なぜ「改革派教会」は一つではありえないのか。書簡集によるとブラウンは、米国オランダ改革派教会の機関紙“Sower”(種まく者)などを日本ミッション宛に定期的に送ってもらっていました。そこから当然、オランダ改革派教会の分裂情報の詳細も逐一伝えられていたはずです。
今日の評者がブラウンたちの「公会主義」をいろいろと批判することについては、その自由が確保されて然るべき面があるでしょう。しかし、その際に我々が考慮すべきであろうことは、まさに当時、彼自身が「母教会」と呼んで愛していたアメリカやオランダの「改革派教会」が分裂の真っ最中であった、このことを彼は深く憂慮し、何とかしなければならないと心に誓い、神に祈っていたのではないかという点です。
オランダ改革派教会の牧師であり神学者であったアーノルト・A. ファン・ルーラー(1908年~1970年)は、1969年に「家庭内争議の終焉」 と題する講演を行い、その中でオランダ国内における「改革派ファミリー」が再一致すべきこと、そして、「西暦2000年までに」再合同すべきことを呼びかけました。具体的には彼の属する国教会系NHKと上記カイパーが創立したGKNとの再合同です。
ファン・ルーラーの夢の実現は残念ながら西暦2000年には間に合いませんでした。[しかし、まもなくゴールに到達しようとしています。もちろん、まだまだ多くの問題が山積されたままのようですが。](2004年にオランダプロテスタント教会が誕生しました)。
私の夢もまた、日本においても、せめて「改革派・長老派の伝統を継承する諸教会」は再一致すべきであり、可能ならば再合同すべきではないだろうかということにあります。
外資系の教派はともかく、国内で自立して行かなければならない国内の改革派・長老派諸教派は、このままだと共倒れの危険がありはしませんか。
一般企業ならば、とっくの昔に合併整理されているような危ない橋を我々は「信仰で乗り越えていく」という。もちろんそうに違いないのですけれども。
しかし、しかし、です。今や、我々教会人たちが信仰をもって生きていくための基盤としてのこの世の生活そのものが脅かされつつあるという紛れも無い事実を、我々はどのように考えるべきでしょうか。
この場合の「我々教会人たち」とは、牧師ひとりだけではなく、教会役員たち、信徒のみなさんも含みます。会堂建築ブームで教会が抱える借金は膨れ上がり、「自由献金」として始められたものは、やがて各個教会の負担金と化して行く。“増税感”は否めません。我々は観念の中だけで生きているのではないのです。
構造改革・意識改革の必要は、現在の教会の中にこそあるのです。それは教団・教派を越えた課題であると私は考えております。
2007年10月14日日曜日
「異邦人の光」
使徒言行録13・44~52
今日の個所において明らかにされているのは、パウロとバルナバの伝道には“光の面”と“陰の面”があった、または“喜びの側面”と“悲しみの側面”があったということである、と表現できるかもしれません。
どういうことでしょうか。御言葉を読みながらご説明したいと思います。
「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群集を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」
伝道における“光の面”と“陰の面”、あるいは“喜びの側面”と“悲しみの側面”とは何なのか。それは、わたしたちがすでに、十分に味わい尽くしていることです。
それは何なのか。神の御言葉を宣べ伝えるわざは、たとえそれを教会と説教者とがどれほど力強く熱心に、あるいは念入りかつ用意周到に行ったとしても、そこで必ず、信じて受け入れる人々と同時に、信じることも受け入れることもしない人々が現われる、ということと関係があります。
それどころか、教会と説教者が神の御言葉を宣べ伝えるわざを行うことに力強く熱心であればあるほど、かえってますます力強く熱心に反対してくる人々が現われると言うべきかもしれません。
先週と先々週、ピシディア州のアンティオキアの会堂(シナゴーグ)で行われたパウロの説教を学びました。その説教を聴いた人々が「次の安息日にも同じことを話してくれるように」(42節)パウロに頼みに来ました。そして次の安息日は、「ほとんど町中の人々」がパウロの説教を聴くために集まってきたというのです。
これはすごいことだ、と思わされます。16世紀の宗教改革者カルヴァンは、使徒言行録13・44の解説として、面白いことではありますが、わたしたちにとっては身につまされる(他人事でない)ことを書いています。
「人々が大勢集まったということによって、次のことが立証される。すなわち、パウロとバルナバとは安息日から安息日までの間を、遊んで暮らしていたのではなく、ふたりが異邦人のために尽した労苦は決して無用ではなかったということだ。というのは、人々の心が非常に立派に導かれたために、皆がもっと十分にその全部を知りたいと願ったからだ」(『新約聖書註解 使徒言行録 上』、益田健次訳、新教出版社、1968年、409頁)。
カルヴァンが書いていることを別の言葉で言い換えると、どうなるか。要するに、主の日ごとに行われる教会の礼拝に集まる人々の人数によって、教会と説教者が(とくに説教者が!)、主の日から主の日までの間を「遊んで暮らしていたかどうか」が分かる、ということです!
これは恐るべき言葉であり、聞くのもつらい言葉ですが、無視することはできません。説教の出来栄えとそれを聴きたいと願い、実際に足を運ぶ人々の人数は、決して無関係ではない、ということです。
しかし、です。これから申し上げることは、ぜひご理解いただきたいところです。それは教会の教師、説教者たちにとっては、説教の準備のための苦労ならば、いくらでもする覚悟があるということです。
少なくともわたしたち改革派教会の教師たちは、礼拝の説教にこの命をかけてきました。他の仕事や働きの面で「がんばれ」と言われても、たいていの教師が不器用で、情けないほど何にもできません。しかし、その分、礼拝の説教に全力を注いで来たのです。
カルヴァンが書いていることも、ぜひそのような意味でご理解いただきたいと願っています。説教の準備のために力を注がないこと。いいかげんで済ましてしまうこと。説教の準備以外の事柄に時間と力を奪われてしまうこと。このことを指して、カルヴァンは、「〔一週間を〕遊んで暮らしていた」と言っているのです。
そして、もう一つ申し上げておきたいことは、説教者たちにとって、説教の準備のための苦労と苦闘、また御言葉に反対する人々が現われること自体は、伝道における“悲しみの側面”ではなく、“喜びの側面”に属することなのだ、ということです。
“悲しみの側面”とは、何のことでしょうか。今申し上げていることは、それは、教会が宣べ伝える神の御言葉を信じないで、反対し、立ち向かってくる人々がいる、ということ自体ではない、ということです。
説教を聴いて反発を感じるとか、意見を述べることは、何の問題もないどころか、当然のことであり、歓迎すべきことです。説教は一方通行であってはなりません。説教も十分な意味で「対話」であり、「コミュニケーション」なのです。
それでは“悲しみの側面”とは何でしょうか。答えを言います。それは、伝道の現場には、必ずと言ってよいほど、パウロたちの前に集まって御言葉を熱心に学ぼうとしている大勢の人々の姿を見て、ひどくねたみ、口汚くののしる、まさしく今日の個所に出てくるユダヤ人たちのような人々が現われることです。
わたしたちの場合でいえば、わたしたちが日曜日ごとに教会に通うことを快く思わず、何とかして邪魔をし、妨害しようとする力の問題です。そのような力が強く働きはじめるとき、わたしたちが痛感することは、伝道における“悲しみの側面”なのです。
神の御言葉の真理を学び尽くすためには非常に長い時間がかかると思います。一回聴くだけで分かるという人はいません。われわれの持っている聖書は、外国語の辞書、あるいは日本の六法全書(市販のもの)は、同じくらいの重さ(重量)です。これをわたしたちは文字どおり一生かけて学んでいくのです。必要なことは“学ぶ”ことです。“知る”とか“感じる”ということ以上です。
聖書を“学ぶ”ためには、間違いなく、多くの時間がかかります。とにかく長く続けること、地上の人生が終わるまで続けること、それが教会生活にとって重要なことなのです。
そのことをぜひ自覚していただきたいのです。反発を感じることは、何の問題もありませんし、むしろ当然のことであり、歓迎されるべきことでさえあります。反発を感じるということは、その人が御言葉を聴いている証拠だからです。聴いていない言葉には、反発を感じることもありません。
教会生活をやめ、御言葉を聴くことをやめてしまうこと、あるいは、何らかの外的な力が働いて“やめさせられること”。
そのような人々の姿を見ることが、教会と説教者にとっていちばんつらいこと、悲しいことなのです。伝道の現場において、それを見なければならない場面がある。それこそが“悲しみの側面”なのです。
「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。』」
パウロは、ここでもやはり、少し腹を立てているように読めなくもありません。しかし、パウロたちが語っていることは、ユダヤ人たちに対する“厳粛かつ冷静な抗議”です。
ユダヤ人たちのどの部分に対する抗議なのでしょうか。それはもちろん、その場にいた異邦人たちが神の御言葉を熱心に学ぼうとしているのを妨害してきたことに対して、です。
彼らはなぜ邪魔するのでしょうか。なぜ「口汚くののしる」のでしょうか。異邦人たちの自由に任せたらよいではありませんか。
彼らは、なぜ干渉するのでしょうか。他人のしていることに、やかましく口を出すのでしょうか。「キリスト教だけは絶対にやめなさい」と言いはじめるのでしょうか。全く余計なお世話です。わたしたちの理解の範囲を超えるものがあります。
「『見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。」』異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。」
ここでパウロたちは、一つの重大な決心を口にしています。「わたしたちは異邦人の方に行く」。これは、神の御言葉を信じることも受け入れることもしない、あなたがたユダヤ人たちの方ではなく、という意味です。彼らは、実際にそうしました。
そして、御言葉を信じることも受け入れることもしない人々に対し、「足の塵を払い落として」出て行きました。腹いせで行っていることではありません。神の言葉の尊厳を守るために行っていることであると、理解すべきです。
ユダヤ人たちは、ある意味で喜んだと思います。目の上のたんこぶが自分たちの側から「別のところに行く」と言いはじめ、実際にそうしてくれたのですから。
しかし、です。重要なことは、このときパウロたちは、ユダヤ人たちの前から、尻尾を巻いて逃げたわけではないということです。伝道が思うように進まないから、ここで伝道するのはもうやめた、という話ではない、ということです。
この点でパウロは、きわめて戦術家であり、戦略家であったと言うべきです。ローマの信徒への手紙に、次のように書いてあるとおりです。
「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。・・・わたしは異邦人の使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(ローマ11・11~14)。
短くいえば、パウロが異邦人伝道を志した真の理由はユダヤ人の救いのためであった、ということです。パウロの願いは、異邦人が先に救われ、喜びの人生を送りはじめることによって、その姿を見るユダヤ人の心の中に「ねたみ」が起こることでした。「あの人々があんなに喜んで生きているには何らかの理由があるに違いない」。キリスト者の姿を見て、そのように思い、キリスト教会に通いはじめる人々が多く起こされることを願いました。それこそが、パウロの異邦人伝道の真の目的であり、動機だったのです。
なんと“壮大な”話でしょうか。これは、間違いなく“途方もない回り道”の話です。自分の家族のだれかが、信仰を受け入れてくれない。その人を何とかして信仰に導くために、隣近所の人々をまず先に導き、その人々自身が心から喜んで信仰生活を送っている姿を(信仰を受け入れない)自分の家族に見てもらい、信仰生活を始めるかどうかを考えてもらうのだ、と言っているようなものです。
伝道とはまさにそのようなものであると申し上げておきます。わたしたちが聖書を学ぶために一生の時間が必要であるように、教会の伝道にもとてつもない時間がかかるのです。
しかしそれは伝道における“陰の面”ではなく“光の面”です。伝道に時間をかけないこと、地道でないこと、すぐに目に見える成果を求めて挫折してしまうことが“陰の面”なのです。
(2007年10月14日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年10月7日日曜日
「復活の命の力」
使徒言行録13・26~43
今日の個所に記されているのは、パウロの説教です。パウロの説教のうち、聖書の中で読むことができる最古のものです。ただし、今日は途中から読みました。
これは、ピシディア州のアンティオキアという町の会堂(シナゴーグ)での安息日礼拝において行われた説教です。説教の前に「律法と預言者の書」、つまり(旧約)聖書が朗読されました。そして、会堂長の使いがパウロたちのところに来て、「兄弟たち、何か会衆のために、励ましのお言葉があれば、話してください」と彼らに伝え、その願いに応じる形でパウロが立ち上がり、この説教を語り始めたのです(13・14~15)。
ですから、ここで重要と思われるのは、このパウロの説教は「そのとき会堂に集まっていた会衆を励ますために語られた言葉」であるという点です。
そもそもすべての説教はそのようなものである、と言うべきかもしれません。説教は、目の前にいてくださる方々のために語られるものです。そしてまた、すべての説教は目の前にいてくださる人々を「励ます」ためのものです。説教が励ましの言葉になっていないとしたら、どこかに根本的な間違いがあるのだと、説教者たちは強く自戒すべきです。
さて、このパウロの説教は、皆さんにとってどのようなものでしょうか。先ほどすでに一度読みました。第一印象は、実はとても重要です。私自身は、このパウロの説教は必ずしも分かりやすい話ではないと感じました。かなり難しい説教である。一度聴いただけでは、さっぱり分からない。そのように感じました。皆さんは、いかがでしょうか。
42節に、このパウロの説教を実際に聴いた人々が、「次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」とあります。この人々はパウロの説教がとても素晴らしいと思ったので、このようにお願いしているのでしょうか。もちろんその面もあるだろうと思います。しかし、ちょっと引っかかるのは、なぜ「同じ話」なのかという点です。
44節に明らかにされていることは、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」ということです。これで分かることは、今週パウロの説教を聴いた人々が、来週には、たくさんの人を誘って一緒に聴きに来た、ということです。良い説教ができたときには、来週も同じ説教をする、というのは、悪くない方法かもしれません。
しかし、です。この人々が、なぜ次の安息日にも「同じ話」を要求したのかという点で、もう一つ考えられることがあります。それは、やはり、この説教は一度聴いたくらいでは十分に分からなかった、ということではないだろうか、ということです。
ただし、です。もう一つ感じた印象は、いくらかパウロを弁護するものです。この説教を聴いていた人々は、(旧約)聖書についての知識を非常に豊富にもっている人々であったに違いないということです。このあたりはわたしたちとはいくらか違う点かもしれません。
実際、この説教の冒頭(16節)でも、26節でも、パウロはこの説教を聴いている人々を「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」(16節)、「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち」(26節)と呼んでいます。
これで分かることは、外国に住むユダヤ人たちは、安息日ごとに会堂に集まって(旧約)聖書を一生懸命に勉強していたに違いないということです。一を聞けば十を知るほどまでに。だからこそパウロは、(旧約)聖書の出エジプト記のモーセたちの四十年の荒れ野の旅からサムエル記のダビデ王の着任までのほとんど千年分くらいの話を、短い言葉で一気に語りきることができたのです。
そして、「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」(23節)とパウロは語ります。このように語ることによって、パウロは、キリスト教会のかしらなる救い主イエス・キリストと(旧約)聖書との歴史的なつながりを明確にしているのです。モーセも、ダビデも、すべてキリスト教会のかしらなる救い主イエス・キリストと歴史的には明らかにつながっているし、彼らこそがイエス・キリストの道備えをしてきたのである、と語っているのです。
つまり、パウロがこの説教の中で最初に強調しているのは、(旧約)聖書とキリスト教会の連続性の要素です。さらに言えば、(旧約)聖書とエルサレム神殿を中心に据えるユダヤ教団の存在とキリスト教会との連続性の要素も強調されていると考えてよいでしょう。
しかし、です。あるいは、だからこそ、です。歴史的に見れば明らかに連続していると語りうる二つの存在、すなわち、旧約聖書とキリスト教会、ないしエルサレム神殿の宗教とイエス・キリストの宗教、その両者の関係を理解できない、受け入れようとしないその人々は、あのエルサレムに住む人々であり、その指導者たちである、とパウロは明言しています。そして、その人々が、イエス・キリストを罪に定め、死刑にした、ということを明らかにしています。
「『兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。』」
ただし、です。重要と思うことを付け加えておきます。それは、これはパウロの説教である、ということです。どういうことか。パウロという人は、イエス・キリストが十字架にかけられたときにはまだ、(パウロ自身の言葉を借りて言えば)「エルサレムに住む人々やその指導者たち」の側に立っていた人である、ということです。この点が忘れられてはならないのです!
パウロは、そのような自分の過去などは全く忘れ去ってしまって、今ではもうすっかりイエス・キリストとキリスト教会の側に立ってしまった上で、エルサレムに住むあの連中が悪い、全くひどい連中だと、まるで他人事のように、知らん顔して、相手方を一方的に責め立てているのでしょうか。そんなふうにパウロの説教を聴いたり、あるいは読んだりしてよいでしょうか。それは違うと、私は思います。
パウロは、この説教を語りながら、胸の痛みを感じていたと思います。キリキリ痛んでいた。パウロは、そういう人です。パウロが自分の心の痛みを告白していることで有名なのはローマの信徒への手紙9・1以下です。その個所にパウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ9・2)と書いています。「肉による同胞」であり、「兄弟」であるユダヤ人たちのことで胸が痛いと言っています。パウロにとってユダヤ人たちのことは他人事ではなかったからです!
この「他人事でないと感じること」、胸がキリキリ痛むこと、このあたりがどうも、先週の説教の中で私が触れました、伝道者パウロの“怒りっぽさ”という点と大いに関係あると思われてなりません。
パウロの目から見るとイエス・キリストを受け入れようとしないユダヤ人たちの姿は、ついこのあいだまで自分自身もそうであった姿に見えたことでしょう。パウロからすると、自分自身がかつて、いや、ついこのあいだまでそのような者であっただけに、しかし今は、全く違う者へと造りかえられたと感じるほどに、わたしはイエス・キリストの側に立っている、と実感できる人間になっているゆえに、イエス・キリストを受け入れないユダヤ人たちの姿を見れば見るほど、イライラするような感覚にとらわれたのではないでしょうか。
私は今、パウロが怒ったりイライラしたりすることが良いことだと言っているわけではありません。申し上げたいことは、パウロの怒りや苛立ちには、明らかに理由があったということだけです。イエス・キリストを受け入れないユダヤ人たちの姿に、かつての自分自身の姿を見いだしていたに違いないのです。
伝道者パウロの怒りには、悪い側面ももちろんあります。しかしまたそれは、パウロを伝道へと押し出す力、パウロをして「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)と言わしめた力(爆発力!)の源にもなっていたのではないかと見ることができるかもしれません。
「『しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。(中略)ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。』」
この説教の後半部分、すなわち、話題の中心にあることは怒りでも裁きでもありません。今ここで御言葉を語っているパウロは、怒りに任せて相手を怒鳴りつけるようなパウロではありません。イエス・キリストにおける救いの事実を告げ知らせる福音の使者、慰めと励ましの説教者です。
そして、この説教の中心にあるのは、イエス・キリストは死者の中から復活された、ということです。
イエス・キリストの復活が、なぜ「励まし」なのでしょうか。死者がよみがえることが、なぜ喜びの知らせなのでしょうか。パウロが挙げている理由は大きく分けて二つあります。
第一は、主なる神は、救い主イエス・キリストを死者の中から復活させてくださること、すなわち、「朽ち果てるままにしておかれないこと」によって、ダビデの子孫たち、神の民イスラエルに属する人々に対する「約束」を守ってくださった、ということです。
言葉を変えて言えば、天地の造り主なる神は、御自身の民との間にお立てになる約束に対して、どこまでも忠実であり続けてくださる方である、ということです。
約束を守り抜いてくださる方は、信頼できる方です。約束を破る人は、信頼されません。この単純な真理において、「神さまは永遠に信頼しうるお方である」と示すことにおいて、パウロは、人々を励ます言葉を語っているのです。
第二は、神が復活させてくださった救い主、イエス・キリストによる罪の赦しの恵みは、永久に有効であるということです。「朽ち果てる存在」が提供する罪の赦しの恵みなるものがたとえあるとしても、それは、その存在が朽ち果てると同時に、効力を失うのです。
しかし、そうではない。イエス・キリストは、永遠に生きておられるのです。
その方の救いのみわざ、罪の赦しの恵みは、いつまでも朽ちることも変わることもない無限の力を持っているのです!
(2007年10月7日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年9月30日日曜日
「励ましの言葉」
使徒言行録13・13~25
「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、『兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください』と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。」
先週から使徒言行録の後半部分に入りました。後半部分の中心テーマは教会の海外伝道です。先週の個所からサウロは「パウロ」に変わりました。パウロは外国で通用しやすい名前なのです。これがいちばん単純な説明であると思います。
しかし、パウロとバルナバの宣教旅行は、名前を変えれば何とかなるというような単純なことでは済みません。単純なことでも簡単なことでもありませんでした。そのことがすぐに明らかにされています。
先週の個所には地中海のキプロス島伝道の様子が書かれていました。キプロスの歴史に少しだけ触れておきます。キプロスは紀元前76年にローマ帝国に併合されていましたが、非常に早い時期からキリスト教信仰を受け入れ、今日までキリスト教の伝統を受け継いでいる島です。そのキプロスのキリスト教史の最初期にバルナバとパウロの二人が関与していたことが明らかにされているのです。
しかし、その内実は非常にたいへんなものでした。とくにパウロは、一人の偽預言者との激突を余儀なくされました。詳しい内容は省略いたします。
それでもその結果は良かったというべきです。キプロス島駐在のローマ総督がキリスト教信仰を受け入れました。パウロとバルナバ、この二人の伝道が成功をおさめたのです。
ただし、です。前後関係から見ればキプロス伝道がきっかけになったとも思われるのですが、伝道者たちの間になんだかちょっと変な感じの動き、不穏な空気が始まった様子も見てとれるのです。今日の個所の最初に書かれていることが、それです。
何が分かるのでしょうか。少なくとも二つのことがはっきりと分かります。
第一に分かることは、ここに書いてあるとおり、「ヨハネ」がエルサレムに帰ってしまうという衝撃的な出来事が起こったということです。
このヨハネは「マルコ」とも呼ばれた人です。この人物、ヨハネ・マルコがパウロとバルナバの助手として彼らと一緒に海外伝道に出かけたわけですが(13・5)、何があったのでしょうか、結果的に二人の伝道者の前から助手が逃げ出して、エルサレムに帰ってしまったのです。
第二に分かることは、ここに書いてあることをじっと見なければ分からないことですが、先週の個所までは二人の伝道者の名前は「バルナバとサウロ」と紹介されていましたが、今日の個所からは「パウロとバルナバ」と紹介されているということです。
問題は、名前が紹介されている順序です。順序は決して無関係ではありません。キプロス島の事件が起こるまでは、この伝道チームの中ではバルナバのほうが主導権を握っていた。ところが、この事件が起こってからは、今度はパウロのほうが主導権を握るようになったのだと考えることができるのです。それほど名前が紹介される順序は重要なのです。
また、13節にははっきりと「パウロとその一行は」と記されています。その意味は、この宣教団体(ミッションボード)のリーダーはバルナバではなくパウロであるということです。
そして、私は今申し上げましたこの第二の点と、先ほど申しました第一の点、すなわち、ヨハネ・マルコが海外伝道の仕事を事実上途中で放り投げてエルサレムに逃げ帰ってしまったこととは無関係ではないように思われてなりません。
結びつけ方は強引かもしれません。しかし、こういうことは現実の伝道、現実の教会においては決して珍しいことではないということを考えざるをえません。
私の読み方は次のとおりです。彼らの助手ヨハネ・マルコは、バルナバ先生にはついて行きたいと願い、ついて来たが、パウロ先生にはついて行けないと考えたのです。
キプロス伝道の際に明らかになったことは、パウロ先生はすぐ怒るということです。初めて出会った相手であろうと、にらみつけて怒鳴りつける。あんな乱暴でけんか腰の先生にはついて行けません、と思ったのではないでしょうか。
理由は必ずしもこれではないかもしれません。しかし、ともかく、ヨハネ・マルコの側に何らかの理由があってパウロについて行けなくなったことは事実です。バルナバ先生とはうまく行く。しかしパウロ先生とはうまく行かない。そんな様子が何となく伝わってくるのです。
またバルナバのほうも、今のところはまだ大丈夫ですが、もうまもなく(15・36以下)パウロとは別行動をとることになります。その仲たがいの原因が、じつはヨハネ・マルコの離脱行為に対する評価の違いでした。
バルナバはヨハネ・マルコのことが好きなのです。変な意味ではありません。お互いに伝道者として大切に思っているのです。だから、バルナバはパウロと別れた後に再びヨハネ・マルコと共にキプロス島に行き、一緒に伝道を続けます。
バルナバという人は、教会の中でだれよりも先にパウロのことを信用したときと言い、海外伝道が途中で嫌になっちゃったヨハネ・マルコのことをもう一度伝道に連れ出すときと言い、温かいというか、手厚いというか、お人よしというか、ちょっとやさしすぎる人です。今、わたしたちの目の前にバルナバのような人がいるとしたら、おそらく周囲の好感度は高いのではないかと思わされます。
ところが他方、パウロのほうは伝道の途中で仕事を投げ出して帰ってしまうような人間など二度と信用しない。絶対に信用しない。そういう激しいというか、厳しいというか、恐ろしいというか、容赦のない性格を持った人。そういう面をパウロは持っていたのです。いずれにせよ、パウロとバルナバは非常に対照的な存在であったと考えることができそうなのです。
私は今、一つのやや小さな問題にしつこく拘っているわけですが、拘る理由があるからです。それは、伝道を妨げる要因は、必ずしも教会の外側にあるだけではないということです。実際にはもっと大きな要因が教会の内側にあるかもしれないということを疑ってみる必要があるということです。
一言でいえば、教会の内輪もめです。あるいは伝道者同士の主導権争い、小競り合いです。また伝道者の乱暴なやり方、強引なやり方です。けんか腰で人を怒鳴りつけたりするやり方、それは伝道なのかという問いがあるということです。そのような乱暴で強引でけんか腰なやり方にはついて行けないと言い出す人も出てくるという問題です。
全く単純明快な事実は、伝道は人間が行うことであるということです。あるいは、教会が、と言ってもよい。人間の集まりである教会が、伝道するのです。
申し上げたいことは、伝道者は生身の人間であるということです。教会の牧師も長老も執事も生身の人間なのです。だから、人の言葉に傷つくこともある。すっかり嫌になって途中で実家に帰ってしまう人もいる(私の話をしているのではありません。一般論です)。
教会の兄弟姉妹だからといって言いたい放題、好きなことを言ってはならないのです。お互いに労わる気持ちを持つべきです。
内側でもめている教会にだれが入ってきたいと思うでしょうか。そのような雰囲気は、外から入ってくる人にはすぐに分かるのです。肌触りで分かる。直感的に分かるのです。
しかしそれでは、パウロのやり方はすべて間違っていたのでしょうか。そんなことは決してありません。パウロの強さは仇になることもある。もめごとの種にもなりかねない。しかし、パウロの強さがあったからこそ突破できた壁もある。乗り越えられた谷間もあるのです。バルナバの優しさが仇になるときもあるでしょう。
こういうことをいろいろと考えてみることが今日の個所では重要です。
パウロとバルナバは、「アンティオキア」という町に到着しました。やや紛らわしいですが、彼らの海外伝道を背後から支援している「アンティオキア教会」のある町とは全く別のアンティオキアです。
そして興味深いことは、二人がこのアンティオキアで行ったことは、安息日に会堂に入って席に着いたことであり、会堂で「律法と預言者の書」、つまり(旧約)聖書が朗読されたことであり、会堂長がパウロのところまで来て何か話をしてくれとお願いしたことであり、その願いを受けてパウロが立ち上がり、その場で説教をはじめたことです。
気づく必要があることは、この一連の流れはまさにわたしたちが今ここで行っているのと(曜日は違いますが)ほとんど全く同じようなことであるということです。
伝道、伝道と一言で言いますが、パウロにとって伝道とは安息日に説教することだったということです。それは当時から今日に至るまで変わっていません。安息日の礼拝の中で行われてきたことの中心は、聖書朗読と説教なのです。そこに賛美歌が加わる。われわれが行っているこの礼拝の姿は昔から何も変わっていないのです。
安息日以外はパウロたちはどうしていたのか。もちろんいろいろとやることはたくさんあったと思いますが、大きなことは移動です。安息日ごとの礼拝に出席し、そこで説教を行うためにいろんな町の教会に行く。その一つの教会から他の教会への移動や諸連絡のために安息日以外の週日が用いられていた様子が伝わってくるのです。
一言でいえば、教会の礼拝こそが伝道であるということです。教会の礼拝こそが伝道の王道です。伝道の他の方法を否定するつもりはありません。しかし、礼拝が中心から抜け落ちてしまっているような伝道の方法は、パウロたちが採用しなかったやり方です。それはわたしたちのやり方ではありません。
そしてパウロは会堂長から「励ましの言葉を語ってほしい」という依頼を受けました。この点も非常に興味深いと私には感じられます。果たしてこれから始まるパウロの説教は、この依頼どおり本当に「励ましの言葉」になっているのか、どの部分が・どのように「励まし」になるのかということに興味を抱きますが、今日はこの説教の内容に入る時間はもう残っていません。来週お話しいたします。
しかし最後に、内容ではなく、このパウロの説教について注目しておきたい点を一つだけ述べておきます。それは、このパウロの説教は使徒言行録のなかで、また聖書全体のなかで、パウロ自身が行った説教としてその文章が文字になって残っている最初のものであり、つまり最古のものであるということです。若き伝道者パウロの最も旧い説教原稿の内容がここにあるということです。パウロの伝道活動の初期における初々しさのようなものを感じることができればと思います。
すべての説教者、すべての牧師にかけだしの頃がありました。一生懸命のあまり周囲の人々を傷つけたり、人間関係を壊してしまったりすることもある、かもしれません。
言い訳は見苦しい。しかし、若い頃には、動かない壁を動かすための、越えがたい谷間を越えるための、力任せの試行錯誤もある。そのことをご理解いただきたい面もあります。
(2007年9月30日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年9月23日日曜日
「魔術師との対決」
使徒言行録13・1~12
ごく大雑把な話ではありますが、今日の個所から、使徒言行録の後半部分に入ります。これまで学んできた使徒言行録の1章から12章までが、いわば前半部分です。前半部分の中心にあるのはエルサレム教会の誕生と歩みです。
エルサレム教会の最初は、もっぱらユダヤ人たちで占められていました。しかし大きな方向転換があった。異邦人たちを積極的に教会に受け入れるべきだという機運が高まってきた。しかし、前半部分において、それはまだ機運にすぎないものでした。
それに対して、後半部分の中心にあるのは、教会自身による異邦人伝道です。具体的に言えば、異邦人伝道のために最も大きな役割を果たした使徒パウロの活動の様子を中心に描かれています。
間違ってはならないことがあります。それは、パウロの伝道は、個人的な性格のものではない、ということです。使徒言行録の後半部分、またパウロ書簡にも繰り返し書かれていることは、パウロの異邦人伝道の“教会的”な性格です。パウロは、教会によって派遣された海外宣教師なのです。このことを、わたしたちは、決して忘れてはなりません。
パウロの異邦人伝道は、彼の個人的な趣味のようなものではありません。観光旅行ではありません。外国が好きだったのだ、というような話にされては困ります。
「宣教旅行」という表現が誤解のもとかもしれません。たしかに「旅行」には違いありませんが、パウロのしたことは観光旅行ではありません。事柄の本質から言えば、「宣教旅行」ではなくてむしろ「海外派遣」であると表現すべきです。
喜びや楽しみの要素を否定するつもりはありません。しかし、パウロが楽しんだのは、観光でありません。伝道すること、この仕事を、心から喜び楽しんだのです。
「アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」
アンティオキア教会を一つの新しい宣教の拠点として、海外伝道へと派遣されることになった最初のメンバーは、バルナバとサウロでした。そしてもう一人、マルコという名もあるヨハネ(ヨハネ・マルコ)が助手として同伴しました。
「バルナバとサウロ」という順に紹介されていることには、もちろん意味があります。少なくとも最初の時点で主導権をもっていたのはバルナバのほうだった、ということです。バルナバが主事、サウロは補佐という関係であった、ということです。
この関係の理由も明らかです。キリスト教会の激しい迫害者であったサウロをなかなか信頼しようとしなかったエルサレム教会のメンバーの中で、サウロのことをいちばん最初に信頼し、みんなを一生懸命説得することによって、サウロとエルサレム教会の間をとりもったのが、バルナバでした(使徒9・26~28)。
また、「バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」(使徒11・25)とも書かれていました。バルナバがアンティオキア教会にサウロを連れ帰った目的は、一緒に伝道したかったからです。サウロのほうは、嫌々ながらというわけではなかったと思いますが、バルナバに引きずられ、いくらか強引に連れて行かれるような格好で、海外での伝道を始めたのです。
先ほど私が少し強調気味に言いました、パウロの伝道活動には“教会的性格”があるという点の根拠は、バルナバとサウロの出発に際して、アンティオキア教会の人々が「二人の上に手を置いて出発させた」(3節)です。
教会の中で誰かの(頭の)上に手を置く行為は、今日の教会が受け継いでいるとおり、任職・任命の行為です。神の力が受け渡されることを象徴的に示す行為です。この二人を海外宣教師に任命したのは、教会なのです。
「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。」
二人は、船に乗って島に渡るという、まさに文字どおりの「海外」へと出かけました。キプロス島に行きました。そこには「ユダヤ人の諸会堂」、つまり複数のシナゴーグがありました。ユダヤ人の居住区があったと考えてよいでしょう。
そして、今日の個所の中心にあるのは、彼らがキプロス伝道の中で最初に出会った厄介な人物との“対決”の話です。教会の海外伝道史上初の記念すべき妨害者(?)である、と言えるかもしれません。
6節以下に登場するユダヤ人の魔術師は「偽預言者」とも呼ばれています。この人には、バルイエスという名前とエリマという名前があったようです。これは同一人物です。
そして、重要なことは、このユダヤ人の偽預言者であり、魔術師である「バルイエス=エリマ」がバルナバとサウロの伝道活動を妨害しようとした最初の人物として紹介されている、ということです。
詳しい事情は、ここに書かれているとおりです。事の発端は、ローマ帝国からキプロス島へと派遣されていたと思われる地方総督セルギウス・パウルスが、バルナバとサウロに興味を示したのでしょう、自分のところに招いてくれたようです。そこで二人はこの総督にさっそく伝道しようとしたわけです。伝道することが、彼らの目的だったからです。
ところが、この総督は、以前から「バルイエス=エリマ」のほうと、付き合いがありました。「偽預言者」とあるのは、バルナバとサウロ、また教会の側がつけた名前であって、「バルイエス=エリマ」自身が「偽預言者」と名乗っていたわけではありません。彼自身は、「われこそが真の預言者なり」と語っていたことでしょう。
その言葉をセルギウス・パウルスは信用した。そして、おそらくこの総督は、宗教的な事柄に関しては、事あるごとにこの預言者に相談していたのではないでしょうか。つまり、「バルイエス=エリマ」はセルギウス・パウルスの宗教的アドバイザーであったと考えることができるでしょう。
政治と宗教の関係という大げさな問題を考えなければならないほどの場面ではないかもしれません。総督と預言者の関係が個人的なレベルにとどまるものだったのか(たとえば悩み相談など)、それとも、この預言者がセルギウス・パウルスを介してキプロス島の政治そのものに直接大きな影響を与えていたのかというようなことまでは、分かりません。
ここで分かることは、この預言者がセルギウス・パウルスとバルナバとサウロとが接触することを非常に嫌がったということです。考えられることは、うんと俗っぽい言い方を許していただくならば、「自分のお客さんを奪われる」というような感覚だったのではないか、ということです。
日本でも、教会の伝道の妨げになるのは、しばしば、他の宗教です。他の宗教がすべての原因である、と言ってもよいのではないかと思うくらいです。お葬式はどこでやるとか、お墓はどこにするというような話の中で、ふだんはほとんど関係を持つこともないお寺とかお宮の人が、われわれの前に姿を現わし、必死になって教会からわれわれを遠ざけようとする。それと似たようなことが、二千年前のキプロス島でも起こったのです。
ですから、「バルイエス=エリマ」は、「魔術師」とか「偽預言者」と呼ばれていて何か非常に特殊な人であるかのように見えますが、よく考えてみますと、わたしたちにとってこの人物は非常に近いところにいるような、どこかで見たことがあるような、われわれの目の前にいるような、そのような存在であると考えることができそうなのです。
そうです、「バルイエス=エリマ」は、われわれのすぐ近くにいるのです!
「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。『ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。』するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。」
サウロ(ここからパウロ!)は、怒ったのだと思います。気が短い感じ、けんか腰で、眼光鋭く睨みつけながら、大声で怒鳴りつけている様子が伝わってきます。
このようなおっかないやり方はどうだろうか、少しまずいやり方ではないかと、かなり疑問に思わなくもありません。私も、10年くらい前はこんな感じの人間だったので、反省させられます。もうちょっとやわらかい態度をとるほうがいい・・・かもしれません。
事実、このときのサウロの言葉が相手の心と体に対して、ものすごく大きなショックとダメージを与えたことは間違いありません。その場で目が見えなくなってしまいました。やり方として、パウロの側にいくらか乱暴な面があったことは、否定できません。
とはいえ、その事件の結果として、セルギウス・パウルスがキリスト信仰を受け入れるという大きな出来事が起こりました。だから他人を大声で怒鳴りつけてもよいという話にはなりませんが、バルナバとパウロの伝道が良い結果を生み出したこと自体は評価されるべきです。
今日の個所から学びうることは、一人の人が新しく信仰生活・教会生活を始めること、続けていくことのためには、どうしても“対決”することを避けて通れない相手がいる、ということです。
わたしたちが新しい道に進んでいくためには、その相手から逃げることができません。
きちんと向き合わなければなりません。
そのことは昔から今日に至るまで変わっていない、というこの事実を知ることが、日々信仰の戦いの中にあるわたしたち一人一人にとっての慰めになるように思います。
(2007年9月23日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年9月16日日曜日
「悪の問題」
使徒言行録12・13~25
ユダヤの王ヘロデ・アグリッパの邪悪な謀略によって、使徒ペトロが逮捕されました。ところがペトロは、天使の助けを得て牢を脱出し、キリスト者たちの集まっている家の門の前まで無事に帰ってくることができました。ほっと胸をなでおろしてよい場面です。
ところが、ペトロは、もうひとふんばり、頑張らなければなりませんでした。ペトロは帰ってくることができたのだということを、教会の人々が、なかなか信じてくれなかったからです。
「門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、『あなたは気が変になっているのだ』と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、『それはペトロを守る天使だろう』と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、『このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい』と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。」
女中のロデは、ペトロの声だと、すぐに分かりました。しかし、相当驚き、また慌てたのでしょう、門を開けてペトロを家の中にかくまう前に、教会のみんなのところに行き、ペトロが帰ってきたことを報告しに行ったのです。
ところが、ここに新たな問題が起こります。教会の人々が、ペトロが帰ってきたことをなかなか信じてくれなかったのです。「ロデは、本当だと言い張った」とあります。これを内容的に言い直すとしたら、「あれは本当にペトロの声だった、と言い張った」ということです。なぜなら、彼女は、まだペトロの顔も姿も見ていないのですから。
ロデに対して、教会の人々が言い出したことは、「あなたは気が変になっている」とか、「それはペトロを守る天使(の声)だろう」ということでした。私は、この個所を読みながら、このように教会の人々が言い出した、あるいは言い張った理由は何だろうかという点を考えてみたいと感じました。
この問いに答えることは少しも難しいことではないと思います。単純明快です。一言でいえば、教会の人々は「ペトロはもはや絶対に帰って来ない」と確信していたに違いないということです。
使徒ヤコブが殺されたという事実が彼らにとってのまさに現実であったと言うべきです。ヤコブがあのように殺されたのだから、ペトロも当然殺されるであろうし、あるいはすでに殺されているかもしれないと、彼らが考えたであろうことは間違いありません。
そして、そのことが、彼らにとっての不動の確信となっていった。ペトロがわれわれのところに帰ってくることなど絶対にありえないという、ほとんど限りなく信仰に近い思いにまで至った。だから、ロデの言葉をなかなか信じることができなかったのです。
そして、ここでまた「天使」です。ロデが聞いた声は、「ペトロを守る天使だ」と彼らが言い張ったというわけです。どうやら初代教会の中には、一人一人のそばにいて、その人を守ってくれる天使の存在、守護天使のような存在を信じる信仰があったようです。私にも、そういう天使がいてくれたらいいのですが。
しかし、気になることがあります。それは、彼らが目に見えない守護天使のような存在については信じるが、ペトロが帰ってきたことについてはなかなか信じようとしなかった点です。たとえば私自身にとっては、目に見えない天使の存在を信じるよりも、ペトロが帰ってきたという話のほうが、はるかに信じやすいことなのです!
とはいえ、私は、初代教会の人々は目に見えない天使のような存在を信じる、迷信的な人々であった、というような仕方で、簡単に片付けることはできないだろうと考えます。そのようなことではなく、むしろ、ここで重要なことは先ほど触れたのと同じ点です。
考えられることは、彼らはこの場面で天使の存在を持ち出さなければならないほどまでに、ペトロが帰ってくることはもはや絶対にありえないことである、という確信を持っていたのではないか、ということです。
そして、ここでただちに考えさせられることがあります。それは、ペトロはもはや絶対に帰って来ないという確信の裏側にあるものは何かということです。
これもはっきりしています。彼らがこのような確信を抱かざるをえないほどに、当時でいえばヘロデの権力、あるいはまた、もう少し普遍的に言い直せば一つの国の最高権力者が有する力、まさしく国家権力というものは、初代教会の人々にとって大きすぎるものだった、ということです。あそこにいる、あの人々に捕まってしまったら、われわれの人生はもう終わりなのだ、と考えざるをえなかった、ということです。
もちろん、それは、今のわたしたちについても、ある程度までは、同じことが言えるのだと思います。六十年前の日本では、はっきりとそのように語る必要があったでしょう。お上に逆らうことなど、ありえないことでしたでしょう。いったんあそこに、あの人々に捕まってしまったら、何をどう言い張っても無駄であると、思い知らされたことでしょう。
いちばん短い言葉でいえば、わたしたちは国家権力をなめてはいけないのだと思います。必要以上に恐れることはありませんし、おびえる必要はありませんが、なめてかかるような態度は間違っていると言わざるをえません。
しかし、です。ペトロは教会のみんなのところに帰ってくることができました。帰ってくることができたということは、国家権力を悪用してキリスト教会を弾圧する人間(具体的にはヘロデ・アグリッパ)の策略に打ち勝ったのだ、ということに他なりません。
ここで確認しておきたいことは、国家権力を悪用する人々の策略は、敗れることもある、ということです。彼らは神ではありません。彼らは全能ではありません。彼らにも限界があり、敗れることがあるのです。
そのため、わたしたちは、彼らの手のうちに落ちたら、“絶対に”帰ってくることができない、という確信など、持つ必要がないし、持つべきではないのです。そのような“絶対”などありえないのです。
ただし、それでもなお、国家の権力者たちが、一般市民に対してそのように思いこんでしまわせる何かを持っていることは事実でしょう。彼らが持っているものは、要するに、お金と軍隊です。軍隊をもっていない権力者たちは、それを持ちたくて持ちたくて仕方がない。また、他の国よりも強い兵器や武器を手に入れたくて手に入れたくて仕方がない。
金に飽かして軍隊を動かし、思うままに自分の国を支配し、他の国まで手を伸ばそうとする。そして、自分の思いどおりに動かないとか、失敗を犯した兵隊や軍人などがいようものなら、ただちに殺し、首をすげかえる。現に、ヘロデ・アグリッパは、ペトロの脱走を阻止することができなかった番兵たちを「死刑にするように」命じたのです。
しかし、このヘロデにも、最期の日が訪れました。
ここでも、またもや「天使」が登場します。重要な場面に、ことごとく天使が登場する。これが聖書の世界です。
ヘロデ・アグリッパが腹を立てていたという「ティルスとシドン」は、ヘロデの支配下にない地域でした。異教の地でもありました。
ヘロデ王家には一応ユダヤ教の信仰的伝統は受け継がれていましたが、彼ら自身は敬虔でも熱心でもなかったことは明白です。
そのため、「ティルスとシドン」に対してヘロデが腹を立てていた理由は、その地域の人々がユダヤ教を信じなかったから、ということではなく、ただ単に、自分の思い通りにならない地域である、というだけのこと、つまり権力欲を持っている人にとって、その欲求が満たされきらない、まさに欲求不満が生じる対象であった、ということに他なりません。
しかし、そのティルスとシドンの地域の人々は、ヘロデの国(ユダヤ)から食糧を得ていたために、彼らがヘロデの支配下に全く落ちてしまうことはなくても、政治的・経済的な面で実質的にヘロデに取り入る必要があったということのようです。
そのため、その人々がヘロデが演説しているときに言ったという「神の声だ。人間の声ではない」という言葉は、要するに、おべっか、おべんちゃらのたぐいであったと考えるべきです。権力者というのは、そのような言葉を聞きたくて聞きたくて仕方がない人々であるということを、彼らは熟知していたようです。
ついでに言えば、ヘロデ・アグリッパは、“ヘロデ大王のお坊ちゃま”でしたから、親の七光りで権力の座に登りつめた人である分、あまり苦労してきていない。人の誉める言葉の裏側にある真意を読み取ることができないのです。
わたしたちは、逆のことをいつも考えておくべきでしょう。「あなたは神だ」とか「人間を越えている」とかいう言葉をもって近づいてくる人がいたら、警戒しましょう。また、人から誉められるときは、注意しましょう。間違っても、いい気になってはなりません。その言葉の裏側にある真意を、読み取りましょう。
しかし、ヘロデは、おそらく、いい気になりました。「神の声だ」と言ってもらえることに満足し、慢心し、そしておそらく興奮して、いろいろと喋りだしたのでしょう。
その演説の真っ最中にヘロデは、「主の天使」によって撃ち倒されました。神御自身の手によって裁かれたのです。
そのようにして、初代教会に、一時的な平和が訪れました。邪悪な権力者に対して教会にできることは、武器を手にして立ち向かうことではなく、本当にただ、まさに祈ることだけでした。そして、文字どおり“神に任せること”だけでした。神御自身が悪を裁いてくださることを、“ただ信じること”だけでした。
ある人々にとっては、教会のそのような態度は、全く馬鹿馬鹿しいものに見えるかもしれません。しかし、われわれは、真剣そのものです。
神でないものを神としない。神と呼ばない。神でないものに捕らわれたときに、絶対に助からないなどと信じ込むことをやめる。これらの点で、われわれは真剣そのものです。
邪悪な人々の支配は、いずれにせよ有限なものです。今の苦しみはやがて過ぎ去ります。
全き平安と喜びが、わたしたちへと訪れるでしょう。
(2007年9月16日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年9月9日日曜日
「主がわたしを救い出してくださった」
使徒言行録12・1~12
「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引きずり出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、『帯を締め、履物を履きなさい』と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、『上着を着て、ついて来なさい』と言った。それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」
今日の個所に出てくる「ヘロデ王」は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アグリッパです。ヘロデ大王もひどい男であったことが聖書に記されていますが、息子ヘロデ・アグリッパも本当にひどい男でした。
ヘロデがしたことは、明らかに、国家的権力を悪用した一宗教に対する迫害行為です。ヘロデは国王です。一国の王が自分の手下を使ってヨハネの兄弟ヤコブを殺し、さらに、エルサレム教会の最高指導者であったペトロを、全く理由もなく不当に逮捕したのです。それは国家権力による犯罪行為です。
「ヨハネの兄弟ヤコブ」とは、使徒と呼ばれたイエス・キリストの十二人の弟子の中の一人です。つまり、このヤコブは十二使徒の中では最初の殉教者になった人であるということです。キリスト教会全体の中では、ステファノに続く二番目の殉教者になりました。ヤコブという名前の使徒は二人います(使徒の名前の一覧表はマタイ10・2~4、マルコ3・16~19、ルカ6・14~16に出てきます)。最初の殉教者となったヤコブは、「アルファイの子ヤコブ」のほうではなく「ゼベダイの子ヤコブ」です。当時の教会には、もうひとり、イエスさまの弟として登場するヤコブもいますが、その人でもありません。
ちょっと気になることがあるとしたら、このヤコブの殉教の場面は、ステファノの殉教の場面と比べますと、あまりにも簡単すぎるのではないだろうか、ということです。短く一言で語られています。分量が問題ではないかもしれませんが、ステファノのためには6章と7章の二章分が割かれています。ステファノが教会の執事に選ばれてから殉教の死に至るまでの歩みが事細かに紹介されています。しかしヤコブの殉教は一言です。いくらか公平さに欠くような気がしなくもありません。
ゼベダイの子ヤコブについて分かることを、ちょっとだけご紹介しておきます。マルコによる福音書10・35~45を見ますと、そこにゼベダイの二人の息子ヨハネとヤコブに関係する話が出てきます(マタイによる福音書20・20~28に平行記事があります)。
この二人がイエスさまのところに行き、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言い、イエスさまが「何をしてほしいのか」とお尋ねになったとき、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願った、という話です(マタイの場合は、この二人がではなく、彼らの母がイエスさまにそのように願った、という話になっています)。
そのようなことを言う彼らに対して、イエスさまは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。そして、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」とのお尋ねに対し、この二人は「できます」と答えました。
注目していただきたいのは、その彼らに対するイエスさまご自身のお答えです。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」。
イエスさまがお飲みになる杯、イエスさまがお受けになる洗礼とは、イエスさま御自身が、全人類の救いのために、十字架にかかって死んでくださることでした。
その杯をあなたがたも飲むことになる、とイエスさまがおっしゃったことの意味は何でしょうか。あなたがたもいつか、イエスさまと同じような姿で死ぬ、殺されるということではないでしょうか。イエスさまは、使徒たちの前で次のようにおっしゃいました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかしあなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10・42~45)。
イエスさまがそのようにおっしゃっている目の前にいたゼベダイの二人の子どものうちのひとり、ヤコブが、十二使徒のなかの最初の殉教者になったのです。
ただ、深く考えさせられることは、ステファノと言い、ヤコブと言い、彼らの殉教の死とは何なのか、ということです。その死にはどのような意味があるのか、ということです。イエス・キリストの死も、ある意味で同じことを考えさせられるものです。
イエスさまもステファノも、そしてヤコブも、自分で望んで死んだわけではありません。殺す側の人々には大した理由もない、はっきり言えばふざけ半分の、遊び足りない人々が自分の好奇心を満足させるためという程度のことで、イエスさまもステファノも、そしてヤコブも殺されたのです。
そのようなことで人が簡単に殺されてよいのかと、怒りを覚えざるをえません。とくに、この点は決して誤解されてはならないと思うことは、教会はそのような国家権力者の横暴に対して、ただ黙って泣き寝入りをするような者たちではない、ということです。
ただし、そのような場合にわたしたちの採りうる方法は、逃げることです。ぜひご理解いただきたいことは、迫害者から逃げることは迫害者に対する抵抗を意味する、ということです。神さまがわたしたちに与えてくださっているこの自由において喜んで生きる人生の行く手を妨げるいかなる不当な力に対しても、わたしたちは戦わなければなりません。その場合の戦いとは、わたしたちを不自由の中に閉じ込めようとする人々のもとから解放されること、要するに、逃げることなのです。
ここで私に思い起こされるのは、モーセの十戒の第十の戒め、「隣人の家を欲してはならない」です。この戒めはだれにも守れないと、しばしば言われます。しかし守らなければなりません。この戒めが禁じていることは、究極的に言えば、このわたしとあなたの間にある境目を不当に越えてはならないということです。プライバシーを侵害してはならない、ということです。
人の自由を奪う人々が犯す罪は、まさしくこれです。あなたとわたしは、あなたが思うほど親しくもないし、近くもない。そう思っている相手が、突然ぴょんと、境目を越えて不当に侵入してくるのです。国家権力者のような赤の他人が突然襲いかかり、人の自由と喜びを奪おうとする。人の命を簡単に踏みにじるのです。
ペトロが逮捕された。それを知らされた教会がただちに始めたことは、ペトロのために祈ることでした。「祈るしかない」と、よく言われます。私自身はあまり使いたくない言葉なのですが、たしかに、わたしたちに残された最後の手段は、まさに「祈りしかない」と言うべきかもしれません。
相手は国家権力です。人の命を簡単に奪うことができる、恐ろしい存在です。しかし、教会の使命は死ぬことではなく、生きることです。生き延びて、救い主イエス・キリストが与えてくださった救いの喜び、信仰の喜び、自由の喜びをもって生きることです。
逃げることも、隠れることも、引きこもることも、必要なときがあるのです。そうすることは、卑怯なことでも、臆病なことでもありません。
教会の祈りに、主が答えてくださいました。主なる神御自身が、ペトロの前に「天使」を送ってくださり、牢のすべての鎖と鍵を壊してくださり、ペトロを全く自由にしてくださいました。そして、ペトロは、彼のために祈っている教会のみんなのもとに帰ることができたのです。
「天使」という話が出てくると急に興ざめする、という方もおられるかもしれません。あまりにも非現実的な感じがするからでしょうか。しかし、私は聖書に出てくる「天使」の話が嫌いではありません。面白いなあと思いながら、いつも読みます。
なぜなら、聖書に「天使」が出てくる場面は、たいてい、説明不可能と思えるような、あるいは絶対にありえないと感じるようなことが起こるときだからです。いちいち、その個所を挙げるのは省略いたします。天使が登場する場面は、人間の予想や推理では絶対に不可能と思えるような状況がまさに奇跡的に変えられるときであり、そこに道がなかったところに新しい道が開かれるような場面です。
そのような場面が、わたしたちの人生に、実際にある!
なんだかよく分からないのだが、とにかく不思議な仕方で道が開けた。
そういうことが、実際にあるのです。
それこそ「天使」でも登場しなければこの話は決して完結しそうもないと思えるような場面が、わたしたちの人生に何度となく出現するのです。
ですから、私にとっては、「天使」が登場する人生のほうが、それが登場しない人生よりも、はるかにリアルなものに思えてならないのです。
皆さんは、これまでの人生の中で起こってきたすべてのことを、きちんと、理路整然と、「天使」とか「奇跡」という言葉を用いないで、説明することができるでしょうか。私はそれができません。だいたい、あまりきちんと覚えていません。子どもの頃のことなどは、ほとんど忘れました。昨日のことさえも正確に思い出すことはできません。不可能です。
そういう中で、しかし、わたしたちにはそのように語ることが許されている言葉がある。その言葉を、ペトロが語っているのです。
「主が天使を遣わして、わたしを救い出してくださった」。
学校の試験の答案にこのように書いたら、落第点をつけられるかもしれません。
しかし、教会は違います。
合格です!
(2007年9月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年9月2日日曜日
「キリスト者と呼ばれて」
使徒言行録11・19~30
今日の個所あたりから、話の内容が、前向きなものへと展開していきます。
それまでは、ほとんどユダヤ人のほうばかりを向いていたキリスト教会の人々の目が、あるときを境に異邦人のほうを向くようになりました。異邦人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることは、父なる神の御心であり、かつ、それこそがイエス・キリストの弟子としてふさわしい道であると教会が確信し、実際に異邦人に対する伝道を開始したのです。
しかし、ここで一つ重要なことを申し上げておきたいと思います。それは、二千年前の教会がユダヤ人以外の人々、つまり異邦人を教会の仲間に加える決心ができたのは、「差別や偏見はいけない。教会はどんな人でも受け入れなければならない」というようなスローガンのようなものがあって、それに基づいて門を開いた、というような順序ではなかったということです。それは事実に反します。最初にスローガンありきで始まった話ではない。最初にあったのは、むしろ“ニード”です。
「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」
今日の個所の最初に書かれていることは、使徒言行録8・1~3の記事を思い起こさせるものです。あのステファノの殉教がきっかけでエルサレム教会に対する大迫害が起こったのです。エルサレム教会の人々は、ステファノに続けとばかりに皆が迫害者に立ち向かい、抵抗運動を始めたのかといいますと、そうではありませんでした。
使徒たち以外は皆、つまり全員、ユダヤとサマリアの地方に散っていきました。つまり、迫害の手から逃げたのです。逃げてもよいのです!逃げるべきなのです!とどまって戦うこと、戦って死ぬことだけがキリスト者の道ではないのです。
ただし、です。彼らは、迫害の手、殺害の恐怖からは逃げましたが、神とイエス・キリストと教会の前から逃げたわけではありませんでした。散らされていった先で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。一生懸命に伝道したのです。
しかし、最初はユダヤ人だけに伝道していました。こういう言い方ができるかもしれません。エルサレムから散らされていった人々は、ユダヤ人の言葉(当時はアラム語)しか語ることができなかった。だから、ユダヤ人を相手に語る他に為すすべがなかったのではないか、ということです。私も今のところ、日本語以外に喋れる言葉がありませんので、私が外国に行ったとしても、当分の間は、そこにいる日本人にしか話すことができそうもない、という点で、彼らの立場、あるいは“限界”が、よく分かるような気がします。
「しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」
ところが、新しい展開が起こりました。エルサレムから散らされていったユダヤ人たちのたどり着いた先に、外国生まれ・外国育ちのユダヤ人、あるいは外国生活を体験したことのあるユダヤ人がいました。その人々はギリシア語を喋ることができました。その人々と、エルサレムから散らされてきた人々が、いわば手を組んだ。それによって外国にいるユダヤ人以外の人々、つまり、異邦人に伝道することができるようになったのです。
外国語が使えるということは、やはりすごいことであると、私は思います。そこにある壁をまさにぶち破ることができます。大きく深い谷にそれを渡っていくための橋をかけることができます。その意味で私は、外国語を学ぶことや、翻訳の仕事をすることは、「横のものを縦にする」というような簡単なことでも単純なことでもない、と信じています。
むしろそれは、命がけでトンネルを掘ることです。新しい状況に足を踏み入れ、新しい出会いの中で、神と共に生きる新しい仲間を得ることです。それが簡単なことでしょうか。単純なことでしょうか。私には、そのように考えることはできません。
そのようにして、外国語を用いて語ることができるユダヤ人たちの伝道によって、異邦人たちの中からイエス・キリストの福音を信じて救われる人々が生み出されはじめました。教会の歴史の新しいページに、新しい文字が書き始められたのです。
「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。」
外国にある教会に新しい動きがあることを知ったエルサレム教会は、態度を変えざるをえませんでした。聖書の伝統的な解釈を捨て、新しい解釈の立場を正式に採用せざるをえませんでした。異邦人もまた、何の差別もなく、教会の正式なメンバーとして受け入れることができる、ということを公に認めざるをえませんでした。
そして、エルサレム教会は、異邦人が多く集まっている教会としては最も重要な拠点と思われたアンティオキアの教会に伝道者バルナバを派遣し、また、バルナバはタルソスにいたサウロ(パウロ)のところに行き、(おそらく)「一緒に伝道しよう!」と呼びかけて連れ出し、バルナバとサウロの二人がチームを組んで、アンティオキア教会を拠点にして異邦人伝道を始めることになったのです。
これでお分かりいただけるであろうことは、二千年前の教会においても、現実の場面では、生きた事実のほうが先行し、教会の決め事や方針は、事実の後から追いかけていくことになった、ということです。
ここで皆さんに覚えておいていただきたいことは、教会も“既成事実”には弱いということです。原理・原則ももちろん重要です。「聖書にはこう書いてある。だから、われわれはこうすべきである」と主張することは、重要です。しかし、ある意味で、もっと重要なことがあります。それは目の前の現実、現在進行中の事実です。
さらに言えば、われわれの目の前でまさに生きている人間が重要であり、現実に立っている「このわたし」と「わたしたち」が重要です。なぜなら、今ある現実と今生きている人間の存在は、いかなる原理・原則によっても、消し去られたり・踏みにじられたりしてよいものではないからです。
原理・原則を振りかざし、振り回して、自分の周りにいる人々を斬って捨てていくことは、いとも簡単なことです。あの人はこの規格に合わない、あの基準に合わないと言って、刀をぶんぶん振り回して、周りにいる人々をどんどん斬り捨てていくことで、気持ちよいかもしれないのは、その刀を持っている本人だけです。その人の周りには、累々と死骸が転がっているのです。
人を生かすことが神の御言葉を語る者たちの使命であり、責任なのではないでしょうか。人を傷つけ、叩きのめし、立ちあがる力さえ奪ってしまうような説教がある、ということを、私は知らないでいるわけではありません。しかし、それは単純に、間違いです。横暴です。
原理・原則が先にあるのではなく、目の前の現実が先にあります。今まさに生きている「あなたとわたし」が、先にあるのです。このわたしたちの現実が「神の御言葉によって改革されていくこと」が重要なのです。
「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」
バルナバとサウロのチーム伝道は、功を奏し、大成功をおさめたようです。彼らはそこに、たった一年間しかいなかったようですが、彼らの伝道の成果として、アンティオキア教会の会員たち(これが「弟子たち」の意味です)が、人類の歴史上初めて「キリスト者」(クリスティアヌース)と呼ばれるようになった、というのです。
これは、おそらく彼らにつけられたあだ名です。あるいはニックネームです。「キリストさん」とか「キリストくん」というくらいの意味です。
それが良い意味で言われたことなのか、悪い意味だったのか、それとも両方だったのか、そのへんははっきりとは分かりません。しかし、おそらく一つだけはっきり言えることがある。それは、アンティオキア教会の人々は、「キリストさん」・「キリストくん」と、自分たちのことがイエス・キリストのお名前と一緒くたに呼ばれてしまう、それほどに、このわたしとキリストとは切っても切れない関係にあるのだということを、このわたし自身も認め、周りの人々も認めてくれ、そのことを本当に心から喜び、誇りに感じることができた、そのような人々であったに違いない、ということです。
そのような、生き生きとした信仰の持ち主たちを生み出すことができた、という点に、バルナバとパウロの伝道の成果を見ることができると思います。
キリストとこのわたしが、切っても切れない関係である、という様子は、何に例えればよいでしょうか。もし私が佐々木冬彦さんのことを「ハープくん」と呼んでも、みんなが納得すると思います。わたしはできれば「説教くん」と呼ばれたいのですが、まだ皆さんに納得していただけるほどには至っていない、まだまだ修行が足りないかもしれません。
アンティオキア教会の人々の姿は、そう、こんなところに引き合いに出されるのは少し可哀想ではありますが、イエスさまが最高法院で裁判を受けておられる真っ最中に、三度もイエスさまのことを「知らない」と言って、関係を否定したあのペトロの姿とは決定的に違います。
アンティオキア教会の人々は、イエスさまのことを「知らない」とは絶対に言わなかったでしょう。知らないどころか、まさに切っても切り離せない。存在そのものにおいて、まさに「キリストさん」・「キリストくん」になりきることができました。そのことを、彼らは、心から喜ぶことができたのです。
皆さんは、松戸小金原教会の会員であることが、恥ずかしいでしょうか。
クリスチャンであることが、恥ずかしいでしょうか。
何か隠しておきたいようなところがあるでしょうか。
そうではない、と言ってほしい。そうではない、と言えるようになりたい。
そう願います。
(2007年9月2日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年8月26日日曜日
「あなたと家族を救う言葉」
使徒言行録11・1~18
「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。『わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。」』」
使徒言行録10・1から始まる、異邦人コルネリウスの話は、今日の個所で終わりとなります。「異邦人コルネリウスの話」とは、次のようなものでした。コルネリウスがキリスト教の洗礼を受けたいと願ったとき、当時の教会は、異邦人に対しては“開かれて”いませんでした。
ところが、コルネリウスがそのような強い願いを持って教会に近づいて来たこと、また神御自身の導きと配慮を得たこと(「天使」の動きに注目!)によって、当時の教会が異邦人コルネリウスを教会の正式なメンバーとして受け入れるという決断を下すことができた、という話です。
つまり、この出来事の中心は、狭く閉ざされていた教会の門が、より広く開かれた、という点にある、と申し上げることができます。
教会が「閉じている」ということのすべてが悪い、と申し上げたいわけではありません。教会は基本的性質として「信者の集まり」です。教会が自らの存在を信仰を持たない人々に対してすっかり明け渡してしまうことはありえません。それは、教会が教会でなくなる時です。この点では、教会は“閉じた”存在でもあります。
しかし、ここですぐに考えなければならないことは、「信者」とは何なのか、ということです。別の問い方をするならば、わたしたちは、いつ・どこで・どのようにして「信者になった」のか、ということを考えてみなければならないと思います。
わたしたちは、いつ「信者になった」のでしょうか。それは、いずれにせよ間違いなく、時間的な過去に属する「あるとき」です。「生まれたとき」ではなく、また「生まれる前」でもありません。信仰は、血や遺伝子によって受け継がれるものではありません。自覚も決断もなしに、自動的に「信者になった」という人は、一人もいないのです。
それでは、わたしたちは、どこで「信者になった」のでしょうか。これは、人によって違うところでしょう。教会の礼拝に出席していたとき、かもしれませんし、職場で仕事をしていたとき、かもしれませんし、人生の大きな苦労や試練を体験したとき、かもしれません。
重要な問題は次です。わたしたちは、どのようにして「信者になった」のでしょうか。この問いに対するわたしたち教会の者たちの答えは、「教会の信仰を告白し、教会の洗礼を受けることによって」というものです。
ただし、ここでどうしても忘れられてはならないのは、幼児洗礼を受けている人々です。この人々は、自分の信仰告白なしに洗礼を受けているわけですから、その人々が「教会の信仰を告白する」までは、言葉の正しい意味での「信者」と呼ぶことは難しいでしょう。
私が申し上げたいことは、幼児洗礼を受けた人々(信仰を告白していない未陪餐会員)のことを考えると、教会は“開かれた”存在であるということが分かる、ということです。なぜなら、「信仰を告白していない未陪餐会員」は、わたしたちの教会の“会員”なのです!教会は「信仰を告白していない」人々のためにも(!)存在するのです。
しかし、教会は、幼児洗礼を受けている人々に対してだけ“開かれている”のではありません。もう一方の大きな存在として、「洗礼を受けていない求道者」の人々のためにも、教会は存在します。教会は「洗礼を受けていない」人々のためにも(!)存在するのです。
教会は、「洗礼を受けていない求道者」を心から歓迎したいという強い意思をもって受け入れています。なぜなら、わたしたちが「信者になる」ためには、教会の信仰を告白し、教会の洗礼を受けなければならないからです。その意味は、わたしたちが「信者になる」という出来事は、教会というこの場所と全く無関係に起こることではありえない、ということです。
だからこそ、です。わたしたちは、「洗礼を受けていない求道者」の人々を心から歓迎し、積極的に受け入れなければなりません。その人々が信仰を告白し、洗礼を受け、神の救いの恵みに豊かに与る人になるために、「教会」が必要だからです。その意味で、その人々に対して、教会は十分に“開かれて”いなければなりません。
しかし、です。現実の教会はそのような締め出しをしてしまうのだということを知る、まことにショッキングな出来事が、11・1~2に記されています。
ここで「異邦人」とはコルネリウスのことです。コルネリウスは、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けました。そのことをエルサレム教会の人々が知ったときに、二つの反応が起きたと考えてよいでしょう。
第一は、一人の救いを求める魂が救われたことを率直かつ無邪気に喜ぶ、という反応でしょう。そういう反応もあった、と考えてよいと思います。
しかし、第二の反応として、強い危機感ないし危惧のようなものを抱いた人々もまた、少なからずいた、ということも明らかです。実際、ペトロが異邦人コルネリウスと一緒に食事をしたというだけで、かんかんに怒っているような、こっぴどく責め立てるようなことを言い出す人々がいたのです。コルネリウスがイエス・キリストへの信仰を告白したこと、洗礼を受けたこと、救われたことが、悪いことだったかのようです!
それは悪いことなのでしょうか。現実的に言えば、「洗礼を受けていない求道者」が洗礼を受けて教会のメンバーとなるとき、教会は“リセット”される必要があるのではないかと思うほどです。
それはどういうことか。聖書についても・信仰についても・教会についても、まだ何もご存じでないような人々を教会が受け入れるという場合、「このくらいのことは、いちいち言わなくても分かるでしょ」とか「分からないことがあれば、何でも質問してちょうだい」と言うだけで済ませることはできません。それは、ぶっきらぼうな態度です。そういう人々の多くは、何を・どのように質問してよいのかさえ分からないのです。
しかしまた、そのときは、長い教会生活を送って来た人々にとって、大きなチャンスでもあると思うべきです。教会生活が長ければ長いほど「今さら聞けない」と感じていることが増えているのではないでしょうか。実際のわたしたちは、知らないことだらけです。だからこそ、わたしたちは、与えられたチャンスを生かすべきです。
求道者が洗礼を受ける、あるいは未陪餐会員が信仰を告白する。そのことが起こるとき、教会全体が、いわば初めから学びなおすべきなのです。そして、そのことを、わたしたちは喜ぶべきであり、感謝すべきなのです。
ペトロは、エルサレム教会を、一生懸命に説得しました。異邦人コルネリウスを教会のメンバーとして受け入れたことは神の御心であり、神御自身が心から喜んでくださることである、ということを、言葉を尽くして語り、教会を説得したのです。
ペトロがエルサレム教会を説得するために発している言葉のなかで最も興味深いのは、この話のきわめて重要なポイントのところで「天使」が登場することです。
「天使」がコルネリウスに向かって、このような素晴らしい言葉を語ってくれたというのです。天使は神の代理者です。天使の言葉は神の言葉なのです。
「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」の中の「あなた」とは、コルネリウスのことです。信仰を告白して洗礼を受けることを、決心し約束する気持ちを固めているコルネリウスです。しかし、「家族」は、どうでしょうか。コルネリウス自身はともかく、「家族」は、信仰を告白したり、洗礼を受けたりするというようなことについて、積極的な気持ちを持っていなかったかもしれません。しかし、「家族」も救われる!
「使徒ペトロが語る言葉」とは、教会の礼拝説教のことであり、また、教会において・教会を通して・教会を用いて語られる牧会的な対話のことです。総じて、「使徒の言葉」とは、すなわち、“教会の言葉”であると呼んでもよいでしょう。
“教会の言葉”が、あなたと家族の者すべてを救う。「救う」とは解放すること、自由にすることです。罪と悪と死の束縛する力からの解放、これが救いです。
教会の語る言葉にはそのような力がある、ということについて、皆様には、「そのとおり!」と言って同意していただけるでしょうか、それとも、同意していただけないでしょうか。このあたりに、わたしたちの信仰生活のバロメーターがあると思われてなりません。
「教会に来て良かった!」と、(家族揃って!)感謝できる日が来ること。
「わたしの教会」、すなわち、安心と納得をもって参加できる教会が見つかること。
これこそが、わたしたちの人生のなかで、非常に大きな目標でありうるのです。
(2007年8月26日、松戸小金原教会主日礼拝)
2007年8月12日日曜日
「神は人を分け隔てなさらない」
使徒言行録10・34~48
今日の個所は先週学んだ個所の続きです。しかし、今日お話ししますのは一つの点です。 「神は人を分け隔てなさらない」という点です。
先週の個所から登場しているのはコルネリウスという人です。コルネリウスは異邦人の軍人でした。この人が、要するに「教会に通いたい」という願いを持っていたと考えられます。この個所に、そのようにはっきりと書かれているわけではありませんが、だいたいそのようなことであると考えてよいでしょう。教会に通いたい理由は聖書を正しく学び、正しい信仰を身に付けたいというようなことだったのではないかと思われます。
ところが、です。当時のキリスト教会は、なんと残念なことに、「異邦人お断り」という姿勢をとっていたのです。異邦人であるコルネリウスにとって、当時の教会に立ち入ることは、非常に難しいことでした。歓迎されないのですから!嫌がられているのですから!
しかも、困ったことに、当時の教会は、異邦人を事実上締め出す態度をとっていたことを“聖書に基づいて正しい”と確信していました。わたしたちにとって聖書に基づく確信は、まさに絶対的な性格を持ちます。「聖書にこう書いてある」と言われると、ぐうの音も出ません。これが人を黙らせる手段として持ち出されるときには、凶器にもなります。
わたしたちは、聖書に基づいてキリスト教信仰の揺るぎない確信を得ることもできますが、同時に聖書に基づいて大きな罪を犯すことがありうるのです。聖書に基づいて、人の心を最も深く傷つけることがありうるのです。
しかし、当時の教会が持っていた確信を、聖書の御言葉の究極的な意味での“著者”であられる主なる神御自身が打ち破られる、という出来事が起こったのです。それは、神がペトロに「夢」をお見せになる、という出来事でした。夢の内容は、10・9~16に記されているとおりです。
ただし、今日の個所に記されているのは教会全体の方針転換に至るよりも前のことです。ペトロという一個人の見解が変わる、という段階であると見ることができます。
しかしまた、そのペトロは、やがて、この自分の見解の変更を当時の教会の会議の席上で発表し、そこでの議論を待って、それを教会全体の見解にしていくという段階を踏んでいきました。
まさにこの点に教会会議の存在理由がある、と言ってよいでしょう。「聖書にこう書いてある」という仕方でわたしたちがまさに絶対的な確信を持っていることの中には間違って確信してしまっていることもある、ということに気づいたときに、深く反省し、根本的に方向を転換していくために、教会会議と、そこでの徹底的な議論とが、必要なのです。
そのようにして、西暦一世紀の教会は異邦人を拒むことをやめました。そして、可能なかぎり積極的に、異邦人に伝道するようになっていったのです。
「そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』」
ペトロは、自分自身で夢を見たことと、また異邦人コルネリウスとの出会いと話し合いの中で自らの信仰的確信の内容を変更しました。ユダヤ人は異邦人と交際してはならないという“聖書に基づく”確信を、自ら放棄しました。放棄することができた、という言い方をしておきます。自分の信仰的確信ないし宗教的確信の内容を、たとえ一部分でも放棄することは、実際には非常に難しいことであり、また、しばしば、とても耐え難い苦痛を伴うものだからです。
しかし、変更が必要ならば、変更すべきです。自分の確信する内容を変更することには苦痛を伴うので、「変更したくない」という気持ちが起こることは理解できます。しかし、間違った確信を持ち続けることや、間違っていることを「間違っていない」と言い張ることは、もっと大きな間違いなのです。
ペトロが新たに得た確信は、「神は人を分け隔てなさらない」ということでした。日本聖書協会の口語訳(1954年版)では「神は人をかたよりみない」と訳されていました。この訳も素晴らしいと思います。
ペトロが口にしている言葉の趣旨は、神は特定の人々をえこひいきなさらない、ということです。人種や民族、男か女か、あるいは経済的に豊かであるかそうではないかというようなこと、その時点で職業を持っているかどうか、学歴その他、などなど。そのようなことで、神は人を差別なさらない、ということです。
しかも、ここで直接的に問題になっていることは、教会の入会資格の問題です。この人は教会に入会する資格があるとかないとかを決めるのは、神御自身です。神が入会を許可しておられるのに、人間が入会を拒んではなりません。神が「受け入れます」と言われるなら、人間はそれを拒んではならないのです。
ちょっとだけ、私が気になっていることに触れておきます。それは、たとえば、中会や大会などでしばしば耳にする「教会の高齢化問題」というような言い方です。
「教会に若い人がいない。このままでは教会は滅びてしまう。若い人にぜひ来てほしい」。理屈としてはごもっともと思う面もありますが、いずれにせよひどく語弊がある物の言い方でもあることは事実です。
教会は、いつから「高齢者お断り」の看板を挙げるようになったのでしょうか。「神は人を分け隔てなさらない」のです。「私は高齢者だから、教会にとっては不要な存在なのだ」というようなことを少しでも考えさせてしまうような言葉遣いを、教会は用いるべきではありません。そういうことを自分が言われたらどんな気持ちがするだろうかと考えていただきたいのです。
高齢者だけではありません。教会は「こういう人に来てほしい」という言い方をすべきではありません。人の心は非常に複雑でデリケートなものです。「こういう人に来てほしい」という言葉を聞くと、「“こういう人”に当てはまらない人間は不要な存在なのだ。この私も不要な存在なのだ」と考え始めてしまうのです。
「神は人を分け隔てなさらない」のです。そのことをペトロははっきりと確信しました。そしてそのペトロのいわばこの時点ではまだ個人的な性格をもっていた確信が、やがて、教会の根本的な方針変換へとつながっていくことになりました。
当時ユダヤ人が大多数を占めていた教会が「ユダヤ人は異邦人と交際してはならない」という点にこだわり続けるなら、異邦人たちがイエス・キリストへの信仰によって救われ、教会で洗礼を受けてキリスト者になることは、絶対に起こりえないことになってしまうのです。
この点はいろんな面に応用できます。昨年の東関東中会設立記念信徒大会の実行委員会が神経を用いて考えたことは、体の不自由な方々への配慮という点でした。中会の諸教会にアンケートをとった結果、信徒大会に参加を予定している人々の中には、特別な介助を必要としているほどの障がいを持っておられる方はいない、ということが分かりました。
しかし実行委員会は、アンケートの結果はそうであっても体の不自由な方々への配慮は行うことに決めました。重度の聴覚障がい者はおられなくても手話通訳をお願いしましたし、車椅子の参加者はおられなくても介助スタッフをお願いしました。「いないからしない」というのは、事実上の締め出しを意味するのです。たとえそれが故意や意地悪でしていることではなくても(故意や意地悪でしているなら、それはそれで大問題ですが)、事実上の結果として「そういう人々は来てはならない」と、態度で示してしまっていることがありうるのだ、ということに気づく必要があるのです。
松戸小金原教会の今の会堂が建てられたときに、私は立ち会っておりませんでしたので、皆さんがどのような議論をなさったのかは、全く知りません。知らないほうがよいこともあると思っています。しかし、この会堂で素晴らしいと感じる点の一つは、エレベーターがあることです。礼拝堂が二階にあるからです。二階に礼拝堂があるのにエレベーターがないという教会は、階段を登ることができない足の不自由な人々を、事実上締め出してしまっているのです。今では、皆さんにとって本当に重宝している部分ではないでしょうか。
しかも、ここで重要なことは、教会は何のためにあるのか、という問いを持つことだと思います。コルネリウスに対するペトロの答えの中にも、この点に触れている言葉があります。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と書かれている、これがそれです。
このペトロの言葉は、功績主義的に解釈されてはなりません。功績主義的な解釈とは、どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行いさえすれば、神に受け入れてもらえます、というような読み方です。神に受け入れてもらうためには、神を畏れて正しいことを行うという功績的条件を満たす必要がある、という読み方です。
しかしペトロが言おうとしていることは、そういうことではありません。ペトロの言葉の趣旨は、教会とは何のためにあるのか、ということにかかわるものだ、と考えることができるでしょう。つまり、教会とは「神を畏れる」場である、ということです。
また「正しいことを行う」のここでの意味は、一般的・人間的・道徳的な意味での正しさを満たす、ということではなく、神の御心に従う、ということです。神の御心は正しいものですので、その神の御心の正しさに従うことによって、その結果、正しいことを行うことになる、ということです。また、神の御心の正しさには、一般的・人間的・道徳的な正しさを満たす要素も多く含んでいますので、神の御心に従うことによって、その結果、それらの一般的な意味での正しい行いをすることにもなる、ということです。
ですから、このように考えますと、ペトロの言わんとしていることは、「神を畏れること」と「神の御心の正しさに従って生きること」が教会の存在理由なのであって、その教会に入会することにおいては、いかなる差別もあってはならない、ということである、ということがお分かりいただけるであろうと思います。
念押しのために、繰り返して申し上げておきます。教会は「“こういう人”に来てもらいたい」というような願いを持つべきではありません。そのように願うときの“こういう人”とは、しばしば、ある人々にとって都合が良いだけの存在です。
神の御目には、“こういう人”と“ああいう人”の差別はないのです。「あなたは福音を信じて救われることなど、なくてもよい」というようなことを言われなくてはならない人は、この世界に一人もいません。
今日の個所の出来事は、「ペトロの“回心”」と呼んでもよいくらいです。ペトロが方針を変えることができたので、異邦人コルネリウスはやっと教会に受け入れられたのです。
一人の新しいキリスト者が誕生したのです!
(2007年8月12日、松戸小金原教会主日礼拝)