2007年1月2日火曜日

W. フェアボーム著『壊れた教会の信仰告白 ドルト教理規準の前史と神学』(Boekencentrum、2005年)

Aart Nederveen (関口 康訳)

別の結末もありえた。それがファン・デュールセンの歴史小説『多幸な重荷』(De last van veel geluk)の読了後、私に与えられた印象だった。オランダの歴史においては、そのとき歴史が別の方向に転がることもありえた多くの瞬間があると思える。フェアボームが著したドルト教理規準についての書物を読んだときにも同じことを感じた。

後にエスカレートしていくことになる、アルミニウスとホマルスというライデン大学教授同士の予定論についての論争は、はじめは些細なものだった。彼らの見解の相違はライデン大学内に限定されたものだった。1605年にホマルスとアルミニウスは和解した。教理の土台においては両者の間に見解の相違はないことを認め合った(p. 51)。

ところがその後、間違いが起こった。教会と政府が教説上の見解の相違に干渉した。国論が二分し、ホマルスとアルミニウスの仲もうまく行かなくなった。フェアボームはこの論争がドルト大会の会期中にどのように解決されたかを広い歴史的視野の中で見る。レモンストラント派は解雇され、彼らの教説は糾弾された。

ところが反レモンストラント派の勝利は、自明のことではなかった。顕著な事実は、1606年にはすでに国民大会(nationale synode)の組織化が話題になっていたことである。フェアボームは、もしその国民大会が先に行われたとしたらこの論争には別の結末もありえたことを示唆している(p. 255)。

さらにオランダ政府とその強力な法律顧問であったファン・オルデンバルネフェルトがレモンストラント派の味方であったという事実がある。1615年頃には、四つの中会(ホラント、ユトレヒト、オーフェルエイセル、ヘルダーラント)までもが、レモンストラント派に味方していた。ドルト大会の会期中にマウリッツの干渉によって反レモンストラント派に有利な流れが起こった。しかし、それでもなお、いろんな国の代表議員たちが、レモンストラント派の立場にしばしば接近したのである(p. 206)。

フェアボームがこれまでに出版してきた信仰告白に関する書物の注意深い読者たちは、フェアボームがドルト教理規準の内容に困難を覚えていることに気づくであろう。しかし、それは、本書を書くことについてのフェアボームの勇気を示している。彼は、現代の読者たちがドルト教理規準に抱いているいろんな疑問に答えを与えようとしているのである。

この点は必要である。なぜなら、われわれの改革派の父祖たちの論争は簡単に結論を出せるようなものではないからである。 宗教改革的諸信仰告白を信頼している人々であっても、ある部分については、繰り返して読まなければならない。フェアボームは読者たちが初期や後期の論争騒ぎの中のさまざまな微妙なニュアンスや細部の事柄を全く安易に見失っていることを知っている。

フェアボームは、ドルト教理規準は選びと遺棄をシンメトリーなものとしては見ていないことを確信している (p. 218)。神は選びの原因ではある。しかし遺棄においては神と同時に人間も役割を果たすのである。神はある人々を、彼ら自身が自らをその中に投げ込んだ悲惨の中に放置し、この人々を彼らの不信仰ゆえに呪うのである(第一命題15)。ドルト教理規準は、ここかしこで他の信仰告白諸文書よりも「より広い」立場を採っていることさえ明白である。たとえば、ハイデルベルク信仰問答が人間について「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いている」(問8)と語っているところで、ドルト教理規準は「人間とはどのような祝福に満ちた善に対しても無能で、悪を好む」と、より微妙な言い方をしているのである。

フェアボームは、ドルト教理規準が語る永遠の遺棄に関する点については、距離を置いている(p. 221)。もし神の人が永遠に遺棄されるならば、人が信仰に至る現実的可能性は存在しないことになる。そのような永遠の決定を人類の歴史は真面目に受け取ることができるだろうか。フェアボームはこの点に疑いを持っている。

また、永遠の遺棄は聖書からストレートに読み出すことはできないと感じている。フェアボームは時間における遺棄、すなわち「神は神を遺棄した者たちのみを遺棄する」ということのみを語りたいと願っている。フェアボームは永遠の遺棄についてのこのような拒否を宗教改革者ブリンガー、またコールブルッヘ、ヴェールデリンク、フラーフラントなど後期の改革派神学者たちの足跡の中に見ている。

フェアボーム自身の良い意図を疑うつもりはない。しかし、わたしはこの神学的選択は本当に必要かと自問する。永遠の遺棄は聖書の中には見いだされないというフェアボームの反論は、なるほどたしかに影響力の大きい発言ではある。しかしそうであると決めつけることもできない。もしそれを言うならば、二重予定論も、また教会の他のいくつかの教義も、聖書的基本線において正しい判断を行うための思想的枠組みを提供しうるものではあるが、聖書の中に文字どおり出てくるわけではないという点で同じでありうるだろう。

『真理の友』(Waarheidvriend)誌の書評において、ドルト教理規準のなかでは運命決定論は全く話題になっていないと主張しているのは、ユトレヒト大学の教会史教授ファン・アッセルトである。神の予定(と遺棄)は、人間の自由や責任の面と同時に主張することができる事柄である。ファン・アッセルトは、そのことについての哲学的な分析が必要であると見ている。この点は、ホマルスと彼の支持者たちも考えたことである。ファン・アッセルトが多くの科学的な正しさを彼の側にもっているとしても、私は驚きはしないだろう。

しかし、ファン・アッセルトが主張していることは、フェアボームが二重予定論に関して主張している反論とは全く別の点である。私の印象では、フェアボームは予定論が過去数百年間の信仰生活において果たしてきた役割に困難を覚えているのである。フラーフラントは、改革派敬虔主義の歴史における予定論の悲劇を無駄に語ったのではないのである。

フェアボームは「重い影」(p. 271)について語る。フラーフラントは、二重予定論によって引き起こされうる信仰の確かさの類型化を目指した。真剣に問いたいことは、このような二重予定論の不毛な影響史(Wirkungsgeschichte)をドルト教理規準の神学的内容と関係づける必要があるのだろうか、ということである。

この問いへの答えを見いだそうとするとき、フェアボームは、ファン・ルーラーが予定論について有名な論文「ウルトラ改革派とリベラル派」(Ultra-gereformeerd en vrijzinnig)の中に書いたことを、今なお考慮に加えることができるであろう。実際、本書においてフェアボームは最近の神学者たちがドルト教理規準について書いていることを―これまでの著作よりも―ほとんど取り上げていない。

ファン・ルーラーは、二重予定を経験的なものと呼ぶことを恐れない。ある人々は聖書的証言に固く留まることにおいて急いでよりよく知る者になり、他の人々は子供の頃から何も語ろうとしないということを、他に何と言いうるのだろうか。この問いに対する改革派の答えは、信仰も不信仰も神の外側で生じるものではないということである。しかし、ファン・ルーラーは二重予定論を論理体系の土台にすることに対しては警告を発する。教義学においては、一つの主題が固有の出発点として機能するということは、ありえないことである。

さらにファン・ルーラーは、教義学が人生を決定するわけではない、とも述べている。予定は「生ける存在と宣べ伝えられた福音」の現実において実行される。ファン・ルーラーがノールドマンスと頓着なく付き合えるのは、神が御自身の永遠の御心を決意されるのはいちばん最後の瞬間である、ということに賛成する点である。それは内容的にはフェアボームが「神は神を棄てた者を棄てる」と述べていることに近い。ファン・ルーラーの論法は緊張を強いるものであり、批判を受けやすいものである。しかし、ファン・ルーラーの線は、フェアボームの論法よりは神学的に力強さがあるように、私には思われる。

これらの問いは、フェアボームが新しく美しい書物に書いたのとは別の話である。 しかし、本書は第二巻を要求している。第一巻においてフェアボームは、どの主題の場合も、彼が信仰告白と彼独自の立場への反応とに傾聴したことに対する最も新しい神学的な立場と素描の展望を与えている。これらはドルト教理規準の核心的テーマを扱うのにふさわしい方法である。

原文は以下URL
http://www.wapenveldonline.nl/viewArt.php?art=644


2006年12月31日日曜日

信仰と希望と愛は永遠に輝く


コリントの信徒への手紙一13・1~13

今年最後の礼拝を行っています。開いていただきましたのはコリントの信徒への手紙一13章です。「愛の賛歌」と呼ばれる個所です。全体をお読みしましたが、お話しするのは13節です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

コリントの信徒への手紙一も使徒パウロが書いたものです。パウロは、この手紙だけでなく、他のいくつかの手紙の中でも「信仰」と「希望」と「愛」という三つの事柄を強く結びつけて語っています。

「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」(コロサイの信徒への手紙1・5)。

「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(テサロニケの信徒への手紙一1・3)。

これらの個所から明らかなのは、次のことです。

第一は、「信仰」と「希望」はイエス・キリストの御名と結びつけられているということです。つまり、パウロが信仰と希望と愛という三つを結びつけて語っている場合の、信仰と希望の意味は、「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」であり、「わたしたちの主イエス・キリストに対する希望」である、ということです。

しかし、です。第二に明らかなことは、「愛」は必ずしもそうではない、ということです。先ほどの二つの引用には「キリスト・イエスにおいて持っている愛」とも、「わたしたちの主イエス・キリストに対する愛」とも書かれていません。

書かれているのは「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」です。神に対する愛でもキリストに対する愛でもなく、人間に対する愛です。そして「すべての聖なる者たち」とは教会です。キリスト者です。人間に対する愛、教会に対する愛、キリスト者に対する愛です。

もちろん、聖書全体の中には、またパウロの手紙の中にも、神に対する愛、キリストに対する愛を教えている個所が、たくさんあります。ですから、わたしは、「パウロは神への愛やキリストへの愛を知らなかった」とか「教えなかった」と言いたいわけでありません。

しかし、です。私が申し上げたいことは、パウロが「信仰」と「希望」と「愛」の三つをワンセットで扱っている個所に限って言えば、「信仰」と「愛」の役割が区別されているというような印象を受けるということです。このことを否定することができません。

「信仰」に関しては、キリストに対する信仰と言われている。「愛」に関しては、「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」と言われている。人間に対する愛、教会に対する愛、キリスト者に対する愛が教えられているのです。

そして、第三に明らかなことは、パウロが書いているとおりのことですが、考えてみるといくらか衝撃を感じるかもしれないことです。それは何か。注目していただきたいのは、コリント一13・2です。

「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。

ここにはっきりと、「信仰(ピスティス)と、希望(エルピス)と、愛(アガペー)」とまとめて言うときと同じ「信仰」(ピスティス)という字が出てきます。しかし、パウロは「愛」(アガペー)がなければ「信仰」(ピスティス)は「無に等しい」と書いています。

愛がないような信仰には価値がないし、それが存在する意味もない、むなしいだけだ、ということです。あるいは、そもそもそれが「ホンモノの信仰」なのかどうかが疑わしいということです。「ニセモノの信仰ではないか」と疑ってみる必要があるということです。

そして、ここで、先ほど第二に申し上げた点を思い起こしていただきたいと思います。信仰と希望と愛の三つがワンセットで語られている場合に限って言えば、信仰と愛の役割が分けられているように見えるという点です。おそらくこの役割分担が「愛がなければ、信仰はむなしい」という話に結びつくのです。

はっきり言っておきます。「わたしは神さまを愛しています。信仰もあります。しかし人間を愛することはできません。神さまは好きですが、人間は大嫌いです」と語ることは許されていないということです。人間嫌いの告白は許されていないのです。事柄は逆の方向でなければなりません。人間に対する愛がないような信仰には、意味がないのです。

ただし、です。誤解がないように付け加えておきます。それは、わたしは今「信仰などなくても愛さえあればすべてよし」というようなことを申し上げているわけでもないということです。そのように語ることは、わたしたちには無理です。信仰が無くてもよいなら、教会も牧師も要りません。それはわたしたちにとっては、論外の事柄です。

信仰が必要です。これがわたしたちの大前提です。信仰も「いつまでも残る」と、パウロははっきり述べています。

しかし、です。パウロがここで述べていることは、どのように読んでも神さまに対する信仰への強調ではないということも、衝撃を受けることではありますが、事実です。

「キリストに対する信仰」と「すべての聖なる者たちに対する愛」を天秤にかけることは、わたしたちにはできないことです。恐れ多いことのように感じます。しかし、パウロはそれをしているように見えます。天秤にかけた上で「信仰」よりも「愛」のほうが重いと語っています。天秤はつりあっていません。「愛」のほうに傾いています!「信仰と、希望と、愛・・・その中で、最も大いなるものは、愛」なのですから!

このことを、わたしたちはどのように考えたらよいのでしょうか。「希望」はコロサイ1・5を読むかぎり「信仰」と「愛」を支える土台のようなものと考えてよいでしょう。問題は(キリストに対する)「信仰」と(人間、教会、キリスト者に対する)「愛」の関係です。

どちらか一方だけが必要で、もう一方は不必要であるという話には決してなりません。「あれか・これか」ではなく、「あれも・これも」です。両方が必要であり、両方が大切です。両方が「いつまでも残る」ものであり、その意味での“永遠性”をもっています。「信仰」と「愛」は、永遠に輝き続けるのです。

信仰と愛は、時間の中で消え去るとか、だれか・何かの力によって滅ぼされるものではありません。いつか・だれかに取り去られてむなしく終わるというふうには決してならない。それが「希望」です。永遠の希望です。

しかし、本当にそうなのかと、わたしたちの心の中には、いつでも疑問が沸き起こってきます。信仰も愛も、あっという間になくなるではないかと。「信じています」、「愛しています」と言っていた人が、今日は全く正反対のことを言っているというのが現実ではないかと。

そのような疑問が、わたしたちの心にはあります。あってもよいと、私は思います。真剣に疑ったらよいと思います。中途半端にではなく、徹底的に疑うほうがよい。人間の信仰の力も、人間の愛の力も、全くでたらめなものであり、一寸先は闇、行く先は袋小路です。

しかし、だからこそ、というべきです。徹底的に疑ってみること、そして実際に信仰の破れを体験し、愛の挫折と深い心の傷を負ってしまった先にこそ、見えてくるものもあるのです。それは、こうです。パウロが書いている「いつまでも残る」永遠の信仰、永遠の愛、永遠の希望は、わたしたち人間の力によるものではないということです。それは人間の可能性ではない。神御自身の可能性であり、神の恵みの可能性であるということです。

破れて傷つくべきであるとは申しません。申しませんが、じつは大切です。非常に大切です。破れて傷つかなければ分からないことが、わたしたちにはあるからです。

破れて傷ついて、その上でパウロが書いている、信仰も愛も「いつまでも残る」という言葉を読む。そこでわたしたちが気づかなければならないことは、そのような信仰も、そのような愛も、そして希望も、人間の可能性ではなく、神の可能性であるということです。人間にできないことを、神がしてくださるのです!

ここまで申し上げました。しかし、その上で、わたしは、もう一つのことを、付け加えなければならないと感じています。それは何か。

「信仰よりも愛のほうが重い」という言葉を聞きますと、わたしたちの耳にはどうしても、神さまよりも人間のほうが大事であると言われているかのように聞こえてしまう、という問題です。しかし、聖書と教会が教えていることは、人間よりも神さまを大事にしなさい、ということのようでもある。二つのことは、何となく矛盾していることかのように感じられるかもしれないのです。

しかし、あまり複雑に考えないでください。二つのことは単純に両立すると信じてください。二つの関係の仕組みはどうなっているかを説明することはものすごく難しいことですが、とにかく両者は両立するということを、単純に受け入れていただきたいと願っています。

神と人間、信仰と愛、教会と社会、日曜日とウィークデー。これらのことがわたしたちにとって「あれか・これか」であるはずがない。「あれも・これも」両方を同時に大切に持つことが重要なのです。

それでも、納得できない方もおられるでしょうから、一つの点だけ解決の道筋を申し上げておきます。それは、私がこれまでも何度となく繰り返し強調してきた点です。

考えていただきたいことは、神さまの目線は、どちらの方向を向いているのか、です。神さまは自己愛がとても強い方である。「鏡よ、鏡よ、鏡さん。世界でいちばん美しいのはだあれ」と言いながら、いつも自分の美しい姿を鏡に映して、うっとりしているような方である、ということなのか。

それとも、神さまは、御自身の姿などには、じつは全く関心がないお方ではないのか。御自身が創造されたこの世界とわたしたち人間の姿ばかりのほうに関心をお持ちになっている方ではないのか。

神さまは、わたしたち人間とこの世界のほうにばかり関心をもっておられ、いつも心配しておられる。わたしたちの身に何か起これば、すぐに飛んできてくださり、助けてくださり、(御子の)命をかけて救ってくださり、愛してくださるお方ではないのか。そのような方こそが神さまではないのか。

このあたりのことを考えていただくと、解決の道が見えるのではないかと思います。

わたしたちは神さまに関心を持ち、神さまを見上げ、神さまを信じなくてはなりません。しかしそのわたしたちの神さま御自身は、わたしたち人間とこの世界とに関心を持ってくださり、わたしたちをいつも見守ってくださり、わたしたちを信頼してくださっているのです。

そうすると、事柄がぐるっと戻ってくるではありませんか。わたしたちは、わたしたちに関心をもってくださっている神さまに関心をもたなければなりません。しかし、このわたしが神さまに関心をもつということが同時に意味していることは、神さまがもっておられる関心事(人間と世界!)に、このわたし自身が関心を持つ、ということでもあるのです!

わたし自身、牧師として多くの反省があります。

仕事で忙しいと感じるとき、家族の顔が見えていないことがある。

子どもの姿が見えていないことがある。

共に生きている人々に対する愛を見失うような信仰、家族を見殺しにするような信仰になってはいないか。

どこかに間違いがあるのではないか。

一年の終わりの日、新しい年を迎える直前に、わたし自身の強い反省を込めてそのように問うておきたいと思います。

(2006年12月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

2006年12月25日月曜日

「味わおう平安な夜を」

使徒言行録16・25~34



クリスマスイブの礼拝をささげています。少し早い時刻から始めましたが、程よい暗さになってきたと思います。わたしたちの前に、ロウソクの灯が輝いています。これから、静かで平安な夜を迎えようとしています。



さて、この機会に皆さんに考えていただきたいことは、まさに、わたしたちそれぞれの平安な夜の過ごし方は何か、ということです。



わたしたちの普段の夜の過ごし方は、たいてい決まっているのかもしれません。テレビの音が、がちゃがちゃと部屋中に響き渡っている。それを見終わったら、お風呂に入ってから布団にもぐりこむ。そのようなパターンができてしまってはいませんか。もちろん、なかには、テレビなど見ません、という方もおられるかもしれませんけれども。



なかには、「見なければよかった」と後悔するような、嫌なテレビの場面がある。思い出されて、眠れなくなってしまう、という方もおられるかもしれません。
平安な夜の過ごし方として、ふと思い当たることは、とりあえず、テレビのスイッチを消してみることではないでしょうか。



そして、その次にやってみていただきたいことは、ひとりで賛美歌をうたってみること、聖書を読むこと、そして、お祈りしてみることです。



牧師の言いそうなことだ、と思っていただいてけっこうです。実際そのとおりです。この国の中で、牧師とか教会に通っている人々でもないかぎり、ひとりで聖書を読みましょうとか、ひとりで賛美歌をうたいましょう、お祈りしましょう、と勧める人は、どこにもいないでしょう。



しかし、です。わたしたちが、このようなことをお勧めするのは、だてや酔狂で言っていることではないのです。わたしたちが日曜日ごとに集まってしていることも、このクリスマスイブ礼拝にしていることも、賛美歌をうたい、聖書を読み、祈ることです。ただそれだけだと言ってもよい。



しかし、このことをわたしたちは一生懸命にします。なぜなら、聖書を読み、賛美歌をうたい、祈ることによって、わたしたちの心に得られる平安は本当に大きいものである、ということを、わたしたちは心から確信しているからです。



先ほどお読みしました使徒言行録16・25~34に記されている状況は、夜です。パウロとシラスは、真夜中に賛美歌をうたっていました。そういうことをわたしたちが自分の家でやると、隣近所の人々に叱られるかもしれません。



しかし、パウロとシラスがいたのは、牢屋の中です。キリスト教を宣べ伝える仕事をするだけで迫害されていた時代の話です。二人はむちで打たれ、牢屋に投げ込まれました。わんわん泣いてもよいような場面です。ところが、この二人は、真夜中に賛美歌をうたい、神に祈っていました。そして、彼らの声を、他の囚人たちも聞いていたのです。



そのとき、です。大地震が起こり、牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまう、という事件が起こりました。ところが、そのときに、囚人たちはだれひとり逃げようとしなかったのです。



囚人たちは、逃げてはいけなかったのでしょうか。チャンスあれば逃げるべきである。逃げないのは愚かな選択である、という考えも、当然成り立つでしょう。



しかし、彼らは逃げませんでした。なぜ逃げなかったのでしょうか。理由は、はっきりとは記されていません。けれども、少しくらいは分かるところがあるように思います。



囚人たちに共通していたのは、パウロとシラスの声を聴いていた人々であったという点です。そして、もう一つはっきり記されているのは、囚人たちは逃げた、と思い込んで自殺しようとした看守に向かってパウロが大声で叫んだ言葉です。



「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」。



この言葉から分かることは囚人たちが逃げなかった理由です。それは、彼らがそのとき真っ先に考えたことが、自分自身のことではなく、自分たちの目の前で自害しようとしている看守が死なないようにすること、看守の命を守ることであった、ということです。



いざというときに、自分のことしか考えることができないのか、それとも、自分以外の他人の事情をおもんぱかることができるのかは、非常に大きな違いであると言ってよいでしょう。



しかも、彼らの場合、自分を牢屋に閉じ込めて、外で寝ずの番をしている、憎むべき相手のことを、考えることができた。これは、すごいことだと思います。そのような嫌な相手の心や命のことまでも思いやることができた。彼らの心の中には、それだけの“余裕”が与えられていた、ということに他なりません。



その彼らの心の“余裕”を生み出したものが、パウロとシラスがうたう賛美歌であり、また彼らの祈りの言葉であった、と考えることは可能であると思います。



だれも逃げていない。そのことを知った看守は、驚き、おびえ、震えながら、パウロとシラスの前に来て、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と言いました。



おそらく看守は、その御言葉と賛美歌と祈りを聴く周りの人々の心までも平安で満たし、他人の心や命を思いやる人につくり変えてしまうパウロたちのもっている力は、いったい何なのか。この力の正体は、何なのかを知りたくなったのだと思います。



二人は言いました。



「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」



そして、この看守は、救い主イエス・キリストを信じる新しい人生を、家族の人々と一緒に、始めることができました。



今日、わたしが皆さんに本当にお勧めしたいことを、もう一度、繰り返しておきます。静かで平安な夜を過ごすためには、少しの間でも、とにかく、テレビのスイッチを切ってみることです。そして、賛美歌をうたい、聖書を読み、祈りをささげることです。大きな声である必要はありません。



それによって、わたしたちの心の中に何らかの変化があるのか、それとも、何も変わらないかは、とにかく試してみるしかありません。



肝心なことは、始めることです。皆さんの心に平安が与えられますように!



(2006年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイブ礼拝)



2006年12月24日日曜日

キリストと共に喜べ! ~クリスマス~


フィリピの信徒への手紙2・12~18

12月に入り、これまで三回の日曜日にフィリピの信徒への手紙を学んできました。とくに注目していただいたのは2・6以下の「キリスト賛歌」です。

神の御子イエス・キリストがお生まれになった。神が人間になられた。その意味は、高きにいますお方が低きに下られるということである。それが、言葉の最も正しい意味での謙遜(けんそん=へりくだり)である。そのことを「キリスト賛歌」はうたいあげているのです。

しかし、パウロは、「キリスト賛歌」をただ紹介している、というだけではありません。キリストの謙遜なお姿は、そのままわたしたち人間の生き方の模範でもある。それが、パウロの言わんとしている真意です。その気持ちのすべてが、12節の最初にある「だから」という言葉に集約されていると言ってよいでしょう。

「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

なぜ「だから」なのか。キリストが謙遜の模範を示してくださった。だからあなたがたも、です。だからわたしたちも、キリストの模範に従って、謙遜な生き方を貫いて行きましょう、です。それが、パウロの最も言いたいことです。

しかし、ここでわたしたちは少し注意深くあるべきです。といいますのは、この文脈では明らかに「謙遜」ということが主題になっているのですが、2・12にパウロが書いていることは「従順」ということです。この「謙遜」と「従順」の二つの言葉は、よく似ている事柄ですが、いくらか違う要素もあると感じます。

従順は「服従」と訳すこともできます。従順とか服従には、そこには必ず、だれか服従すべき相手がいます。従順にせよ、服従にせよ、ひとりでは成り立ちません。自分一人の従順、自分一人の服従などは、ありえないことです。

他方、「謙遜」の場合は、どうでしょうか。自分一人の謙遜というのは、おかしな言い方ではありますが、絶対に成り立たないとは言い切れないものがあります。へりくだる、ということには、だれかと比べて、とか、だれの下に着くというような話とは少し違った面があります。パウロ自身、「互いに相手を自分よりも優れた者と考える」ことを謙遜の意味としています。つまりそれは、自分自身をだれよりも下に置くということであって、順位や比較は問題ではないところに自分を置く、ということです。

ところが、です。そういう話を聞きますと、とたんに次のようなことを考え始める人がいるのです。それは卑屈な生き方である。自分はすべての人よりも下にいる。自分には何の価値もない。わたしは誰の役にも立ちませんので、だれにも会いたくありません。だれよりも低い位置にいる価値のないわたしは、人前に出るのが嫌であり、教会に行くのも嫌である。このような、すっかり引きこもってしまうような生き方をもたらす考え方である、ということです。

しかし、どうでしょうか。パウロがイエス・キリストの謙遜の模範について語っていることは、決してそのようなことではないと、わたしは信じております。

パウロが語っていることは、「謙遜」とはすなわち「従順」である、ということに他なりません。ただし、これも注意深く、深い意味を読み取る必要があります。

キリストの従順の模範について考えるとき、その場合の「従順」の意味は、父なる神の御心に対する従順です。キリストが十字架の死に至るまで従順だったのは、父なる神の御心がそうであったからです。神の御子イエス・キリストが十字架の上で死に、すべての人々の贖いとなり、イエス・キリストを信じる人々を救う恵みの力になることこそが神の御心である、ということを、イエスさまはご存じでした。その父なる神の御心に従順であるために、父の意思に服従するために、イエスさまは、十字架にかかって死んでくださったのです。

この話の続きに出てくる、2・12の「わたしの愛する人たち」の「従順」の意味もイエス・キリスト御自身の場合と同じであると考えるべきです。つまり、キリストを信じる者たちの果たすべき「従順」とは、第一義的には、人間に対する従順ではなく、神に対する従順である、ということです。

わたしたちがキリスト者であるということは、「教会に飼いならされること」ではありません。「牧師に飼いならされること」でもありません。宗教とはそういうものである、と世間の人々が誤解しているとしても、です。

しかし、です。ここまでお話しした上で、わたしはなお、その続きにあることもお話ししなくてはなりません。

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」

教会の中でわたしたちが、神さまの御心に対する従順を示すことが大切です。その大切なことを具体的に表すために、わたしたちがなすべきことは、教会に仕えることである、ということです。教会の中で、そして、教会を通してこの世の中で、神さまの御心に服従しつつ、教会に仕え、隣人に仕え、人間に仕えること。これこそが、わたしたちに求められている、「不平や理屈を言わずに行いなさい」という点の具体的内容です。

わたしたちは、神さまに仕えさえすればよいのであって、人間に仕える必要はない、と言い切ってしまうことはできません。それは、事柄の抽象化であり、もっとはっきり言えば、ただの詭弁にすぎません。もし本当に、わたしたちが人間に仕える必要がないのであれば、教会など必要ありません。人間がわざわざひとつの場所に集まる必要はないし、そこで人と人とが触れ合う必要はありません。しかし、そのようなことは、聖書の教えではなく、キリスト教でもありません。

聖書とキリスト教は、一貫して、教会の必要性を語り続けてきました。教会など要らない、人間に仕える必要はない、というような教えは、詭弁であり、単純に間違っているのです。

とはいえ、わたしたちは、教会の中で先輩ヅラした人々があれこれガミガミ言い始めると、途端に嫌な気持ちになるものです。

しかし、皆さんにぜひとも分かっていただきたいと願うことは、(松戸小金原教会の話ではなく、あくまでも一般論なのですが!)、教会の中でガミガミ言う人は、それを言いたくて言っているのではないのだ、ということです。その人々は、ガミガミ言う嫌な役目を、神さまから与えられているゆえに言っている面があるのだということです。牧師や長老といった人々は、そのような嫌な役回りを、神さまから与えられている人々である、ということです。

「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」

ここにパウロが描き出している、まさに模範的なキリスト者の姿は、教会の奉仕者たちの姿である、と言っても、決して間違いありません。「とがめられるところのない清い者」、「非の打ちどころのない神の子」、「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ〔人〕」。このように言われる者に、わたしたちもならせていただきたいではありませんか。

ただ、この場面でこそ大切なことは人との比較ではないという点です。わたしと比べてあの人は非の打ちどころがない。わたしはちっとも輝いていないけれども、あの人は星のように輝いているというようなことを、教会の中で考えるべきではありません。そういうことを、わたしたちはつい考えてしまい、言いたくなってしまうのですが、そういうことを、やめましょう。

教会の中に評価というものがあるとしても、それは神さまがなさることです。神さまがわたしたち一人一人を正しく評価してくださるのであって、わたしたちが、自分自身のことや他人の評価をすることは厳に慎むべきです。

「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」

ここでパウロは、人間らしさを見せている、と感じられます。「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかった」と誇ることができる。それは、あなたがたが、まさに星のように輝く、非の打ちどころのない神の子として、成長していく姿を見ることができたときであると言っているわけです。うんと悪く言えば、パウロは先輩ヅラをしているわけです。あなたがた後輩の成長を見守るのがわたしたち先輩の責任である、と言わんがばかりに。

しかし、ご理解いただけるところも多いと思います。第一に、わたしたち自身も人間であるということです。“人間らしい”パウロの言葉は、わたしたち人間にこそ、よく理解できるところです。

第二に申し上げたいことは、このような(人間的な)言い方は、パウロには十分に語る資格があった、ということです。なぜなら、パウロは、一生懸命に走った人だからです。一生懸命に労苦した人だからです。あなたがたがささげるいけにえに、わたしの血が注がれるとしても、とパウロは書いています。これは物のたとえということで済まされるような話ではなく、むしろ文字どおりのことです。

パウロは教会のために、まさに自分に血を流し、命をささげたのです。イエスさまも、十字架の上で血を流し、命をささげてくださったのですが、この点ではパウロも同じなのです。そして、多くの教会の奉仕者たちもまた、教会のために、この命をささげてきたのです。

その努力が、何一つ評価されない、ということは、ありえません。わたしたちは自分の努力や行いによって救われるわけではありませんが、努力や行いなしには教会は立たない、ということも事実です。

今日、三人の子どもたちが、信仰告白してくれました。「子どもたちが・・・してくれました」と、あえて言います。この日までに、親御さんたちが、大人たちが、どれほどまでに祈ってきたか、あらゆる努力を重ねてきたか、分かってもらいたいからです。

また今年一年間、わたしたちは、教会において本当にたくさんの仕事をしてきたと思います。いろんなことがどんどん襲いかかって来る。しかし、みんなで力を合わせて、一つ一つ忠実に務めを果たしてきたのだと思います。

一年の終わりに、クリスマスのお祝いをすることができるのは、幸いなことです。なぜなら、一年の終わりにわたしたちがなすべきことは、一年の苦労をねぎらい、互いに慰めあうことだからです。

教会は、「忘年会」は、しません。「年を忘れる」必要は、ありません。むしろ、覚えること、思い起こすことが大切です。

それこそが、クリスマスにふさわしいことです。

(2006年12月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

2006年12月17日日曜日

キリストの謙遜 ~待降節第三主日~


フィリピの信徒への手紙2・6~11

今日の個所において、いよいよ「キリスト賛歌」の内容に入ります。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

キリストは「神の身分」であられた、とあります。しかし、ここはむしろ「神のかたち」と訳すべきところです。ただし、字義どおり「かたち」と訳すと、説明が少し難しくなります。神さまにかたちがあるのか。かたちがない、目に見えない、霊的な存在が神さまではないのかという問いが起こってきてもおかしくありません。

しかし、パウロはここで「神のかたち」という意味の言葉(モルフェ)を用いています。「神の形態」とさえ訳したくなるほどの言葉です。そのように訳すほうが、パウロの意図をはっきりと示すことができるように思います。

「身分」と言いますと、わたしたちはどうしても、地位とか肩書きのようなものを思い浮かべてしまいます。それは一つの立場や段階であり、その方自身というよりも、その方が立っているその場所やステージのほうが問題になっているような語感をもっています。

たとえば、一人の人が総理大臣になる。その人がエライ人だから総理大臣になれたのかもしれません。しかし、その人は総理大臣であるときだけエライのであって、辞めたらただの人です。「身分」にはどうしても地位や肩書きのイメージがつきまといます。

しかし、それは「身分」の話ではなく「かたち」の話であるということになりますと、全く違う方向に向かっていくことになります。「かたち」は、その人の地位や立場やステージとは関係ありません。

たとえば、歌が上手な人がいる。その人の歌が上手であることは、与えられた地位や立場やステージのおかげではないと思います。そういうことは、関係ありません。自分の家の中で歌おうと、どこかで歌おうと、その人の歌が上手であることには変わりがありません。

どこにいても日本一上手に歌える人だ。そのことを周りの人々が次第に認めるようになり、その結果として世に出て行くのであって、その逆ではないのだと思います。

イエスさまが「神のかたち」であられるということの意味は今申し上げたことに通じる内容が含まれていると言えます。

イエスさまは「神」という肩書きをもっておられるとか、そういう名刺をもっておられてもおかしくないとか、いろいろと想像してみることは自由です。しかし、それが「神のかたち」の意味ではありません。

問題になっていることは、イエスさまの周囲にある何かではなく、イエスさまの存在そのものです。どこにおられても、また何をしておられても、イエスさまは「神さまらしさ」をもっておられるのです。その意味でのまさに「神のかたち」をもっておられる、それがイエスさまであるということです。

ところが、その方が御自分の「神らしさ」に固執されなかった、というわけです。「神の御子」であられるのに、です。イエスさまは、悪い意味での「あがめたてまつられること」や「まつりあげられること」や「神のようにふるまうこと」をお嫌いになりました。

思い起こされるのは、祭司長、律法学者たちが座りたがった上座であり、そこに立ちたがった至聖所のような場所です。

そういう場所に上って喜ぶとか、そのような地位を与えられたことを人に自慢し、はしゃぎまわるというような思いは、イエスさまには一切ありません。そういうのは、むしろうんざりするようなことではなかったでしょうか。

イエスさまの向かわれた方向は、そちらの方面とは正反対でした。イエスさまは「神」のほうにではなく「人間」になられました。たくさんの僕を雇い、自分に仕えさせる主人にではなく、「僕」になられました。今風のセレブとか、高級なんとかとか。イエスさまの向かわれた方向は、そちら側ではなかったということです。

イエスさまは「人間」になられました。しかも、ただの人間、ごく普通の人間、僕としての人間に、です。しかも、人から軽んじられるような人間、中傷誹謗、野次怒号を受ける人間に、です。すべての人の身代わりに十字架にかけられて死んでくださった。それほどに、弱く惨めな人間になってくださった。明確な意思をもって、そのような人間になられたのです。それがイエスさまのへりくだり(謙遜)の意味です。

「神らしい」存在であるにもかかわらず、です。そういう方が、そこらへんにおられる。周りの人々にとっては、いろんな違和感もあったのではないかと考えられます。

山梨県の田舎町に中田英寿選手の出身高校があります。わたしたちが住んでいた町とは、一山越えて隣町でした。あの国際的な名選手がこの田舎町にいたのかと思うと不思議なものを感じるくらいに大きなギャップがありました。田舎では目立ったと思いますし、何となく孤独感のようなものもあったのではないかとも感じさせられました。

中田選手は「神」ではありませんが、イエスさまは「神」です。その方がその町の中にいると相当目立ったでしょうし、違和感もあったのではないでしょうか。そこで起こることは、何でしょうか。わたしはできるだけ単純に考えてみたいと思います。

ひとつは、周りの人々からの嫉妬や無理解や攻撃でしょう。自分たちより能力や「かたち」において優れている。あのような存在がいるとわれわれの立場が無くなる。われわれの社会から出て行ってほしい。むしろいっそ「神」であってほしい。それは、われわれの社会の外にいてほしい、という意味です。

しかし、もうひとつのことも起こりうるでしょう。「神」であられる方が「人間」になられる。そのときに起こることは、神の豊かさが一般社会にもたらされる、ということです。

中田選手は、あの田舎町にはもう二度と戻れないかもしれません。歓迎はされると思いますが、生活はどうでしょうか。あまりにも目立ちすぎます。しかし、もし彼があの町に戻ることができ、たとえば出身高校のサッカー部の指導でも始めたらどうなるか。あの町に世界最強の高校サッカー部が誕生するかもしれない。そのようなことを思わされます。

豊かな賜物、たしかな技術、優れた能力の持ち主が、特別な人々のなかに留まるのではなく、むしろ徹底的に一般社会の中に入り込んでいく。しかも、そこにいる人々を見下すとか、こき使うのではない。その人々と同じ目線で、お互いの生活感覚を尊重し、共有しながら働くこと、仕えること。もしそのようなことが真に起こるときに、何が起こるでしょうか。特別な人々が集まっているところだけではなく、まさに社会全体が真に良きものへと変わっていくであろうと考えることはできないでしょうか。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

これをハッピーエンドと考えることができるでしょうか。イエスさまは、人間のかたち、僕のかたちになられ、神と人とに徹底的に仕える者になられました。御自身の栄光などは一切お求めになりませんでした。十字架の恥辱を徹底的に味わわれました。

そのイエスさまを、です。父なる神さまは、高く引き上げてくださいました。「あらゆる名にまさる名」をお与えになったのです!

しかし、これは、ある意味で結果論です。イエスさまは最初から父なる神さまによって高く引き上げられるという確信をお持ちであったと考えることはできます。しかし、そのこと、いわばその報いを当てにして、屈辱の生涯を我慢なさった、というような見方は、わたしたちには、できません。

わたしたちは、違うかもしれません。わたしたちは、いろいろと計算高く生きています。わたしたちには、いろいろと計算しながら生きること、また、報いを当てにして働くことさえも、許されていると思います。

しかしそれでは、イエスさまは計算高くなかったのか、というと、そうではありません。「蛇のように賢く(なりなさい)」(マタイ10・16)と、教えられたではありませんか。これは、弟子たちにそのように教えられたというだけではなく、イエスさま御自身もそのように生きられたに違いない、と考えてよさそうな点です。

ただし、問題は、その蛇のような賢さの使い道です。ここで、また同じ話に戻ります。自分が偉くなりたい、「神」のようになりたい、多くの人々からあがめたてまつられたいというようなことのために、その賢さを用いてよいわけではないということです。

はっきりしていることは、イエスさまが「蛇のように賢く(なりなさい)」と命ぜられたのはイエスさまのかたちに倣うべき弟子たちでした。つまり信仰者たちであり、教会の奉仕者たちであり、福音の伝道者たちであったということです。

ですから、まさにはっきりしていることは、イエスさまのかたちに倣うべき弟子たちにとっての蛇のような賢さの利用方法は、それをむしろ徹底的に「人間のかたちになる」ことのために用いることです。

それは普通の人、ただの人であり続けることです。普通であることの価値を見いだすことです。普通でないことに、警戒心をもつことです。そして、真の奉仕者になるための賢さを身につけることです。

牧師たちのなかにも、時々勘違いしている人がいます。自分は特別であると思い込んでいる。そう思い込んだ時点で間違っています。牧師は一般人です。

それどころか!

もし牧師というものがイエスさまの「かたち」に最も真剣に倣うべき存在であるのだとしたら、牧師こそが最もはっきりとした仕方で「僕のかたち」(奴隷の形態)でなければなりません。

「キリストのかたち」は、わたしたちの人生の模範です。

わたしたちを真に謙遜な者にしてくださるために、神の御子は来てくださったのです!

(2006年12月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2006年12月10日日曜日

キリストの模範 ~待降節第二主日~


フィリピの信徒への手紙2・1~5

今日の個所に書かれていることも、フィリピ2・6以下の「キリスト賛歌」の内容に直接関係しています。キリスト賛歌は、神の御子イエス・キリストについて、そのお方は「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と歌うものです。

「神の身分である」方とは、神御自身のことです。「神と等しい者」もまた、神御自身のことです。イエス・キリストは神であられるのだと、キリスト賛歌はうたっているのです。神であられる方が人間と同じ者になられた。神が人間になられた。これが、キリスト賛歌において最も強く主張されている点です。

先週学びました1・27に「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と書かれていました。この「キリストの福音」とはまさに、神が人間になられた、ということに他なりません。

福音(エヴァンゲリオン)の意味は、「喜びの知らせ」です。神が人間になられたということが、なぜ喜びの知らせなのかと言いますと、理由ははっきりしています。神が人間になられるとは、神がわたしたち人間に近づいてこられた、ということであり、神がわたしたち人間を愛して救うために近づいてこられた、ということだからです。

また、それは、神の存在がわたしたちにとってはもはや、決して遠い世界の話ではないのだということでもあります。気づかなければならないことは、もしわたしたちが神の存在を「遠い話である」と感じるとき、問題があるのはわたしたち自身のほうであるということです。神は、わたしたち人間へと近づいてくださる断固たる意志をもっておられるのです。

今日お読みしました個所の最後、フィリピ2・5に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。「このこと」とか「キリスト・イエスにもみられるもの」とは、何のことでしょうか。これこそが、イエス・キリストにおいて神が人間になられたというこの点です。この「神が人間になられる」という“動き”ないし“運動”を指しています。

それは“上から下へという運動”です。そしてそれこそが「へりくだり」(謙遜)です。人間になられた神なるキリストは「謙遜」の模範なのです。

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

これは日本語としてちょっとおかしい文章です。とくに変なのは最後の「わたしの喜びを満たしてください」という一文です。誤訳とは言えませんが、あまりに直訳的すぎます。わたしたちは、このような日本語を日常的に用いることはありません。また、このような言葉を聞くとしたら、自己中心的な言葉である、と感じるはずです。

しかし、それでは、どう訳せばよいか。これは難しい問題です。はっきりしていることは、パウロはここで決して自己中心的なことを言おうとしているわけではないということです。言おうとしていることは、わたしもあなたがたと一緒に喜びたいということです。喜びは、一方通行では成り立ちません。喜びの相互性という点を、明らかにすべきです。

いずれにせよ、ここでパウロがしている話は、わたしだけが喜びたい、ということではありません。先週の個所に「あなたがたには神の恵みとして苦しみが与えられている」という話がありましたが、それとこれとをつなげてはなりません。あなたがたは苦しみなさい。わたしだけが喜びますという話をパウロがしているわけではない。そんなことを言うはずがありません。

しかし、この新共同訳聖書の訳は、誤訳とまでは言えません。正しい日本語になっていない、と言いたいだけです。「わたしの喜びを満たしてください」。わたしの心を、喜びでいっぱいにしてください、あふれさせてください、ということです。

ただしそれは、パウロの心の中だけに喜びがあればよいということではなく、お互いの心の中に喜びがあふれるようにするという意味でなければなりません。あなたがたの喜びを、わたしにも分け与えてください。それがわたしの喜びになります、ということを、パウロは語ろうとしているのです。

そして、このことは逆の方向に考えていくことができると思います。逆の方向に考えていくとは、パウロにとって「わたしの喜びが満たされる」とは、あなたがたと「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにする」ことによって実現するということであり、そのようにしてこのわたしとあなたがたの心の中身が同じになるということが大切である、というふうに考えていく、ということです。

とくに重要なことは、「キリストによる励まし」です。救い主イエス・キリスト御自身による励ましです。それがわたしたちの心に届くとき、わたしたちの心の中に喜びがある、ということです。

しかも、それは「“キリストによる”励まし」です。キリストによる励ましは、いわゆる一般的・人間的な励ましとは区別されるものである、と言わなければなりません。

「がんばってください」というようなごく普通の励ましの言葉が、悪いと言いたいわけではありません。しかし、「がんばってください」と言われると、ますます落ち込むという人々がいます。わたしだって、時々そう感じることがあります。「関口先生、説教がんばってくださいね」とか言われますと、「まだダメだ」という意味だな、と感じます。そのときの気分次第ですが。

それは、わたし自身も逆のことをしてしまっていることがあるということでもあります。そして、そこにある大きな問題は、自分の言葉が誰かの心を深く傷つけてしまっている、ということに、わたし自身がちっとも気づいていない場合がある、ということです。深い反省と悔い改めが求められるところです。

ところが、です。そのようなわたしたちの励ましの言葉と、キリストの励ましの言葉とは、根本的に違うのです。わたしたちの場合は、どんなことを言っても、どんな言い方をしても、相手を傷つけてしまう、相手が傷ついてしまう、そのようなことしか語ることができませんが、キリストの語る言葉は違うのです。そこに真の慰めがあり、いやしがあり、新しい信頼関係(霊による交わり!)が始まるのです。

ただし、問題はまだ残っている、と思います。それは、その「キリストの励まし」なる言葉がわたしたちに伝えられる方法は何なのかという問題です。この問題を解く鍵となると思われることが続く個所に記されています。


「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

「キリストの励まし」が言葉としてわたしたちの心の中に届けられるための手段として考えられることは、聖書と、教会と、説教です。聖書と教会と説教なしに届けられる直接的な啓示が今日でも起こりうるということを、わたしたちは信じていません。「キリストの励まし」の場合も同じです。それがわたしたちの心に届くためには、そこにどうしても、聖書と教会と説教という手段が介在する必要があるのです。

ところが、です。その場合、問題が急にややこしくなります。聖書はともかく、問題は教会と説教です。聖書はやや特別扱いしてもよい。しかし、教会と説教の正体は、間違いなく「人間」です。欠けのある、問題の多い、人間です。

この教会と説教が手段として用いられることによって、「キリストの励まし」がわたしたちの心の中に届く。それによって救いといやしが起こる。神のみわざのために“人間”が用いられるのです。“人間”という邪魔者が入り込んでくるのです。

しかし、だからこそ、と言ってよいのではないでしょうか、パウロがここで「謙遜」という点を強調していることは、非常に重要な意味をもっていると思われます。ずばり言いますと、「キリストの励まし」をこの地上の現実の世界の中に生きている人の心の奥深くに伝えるために必要なのは、“謙遜な教会”と、“謙遜な説教者”である、ということです。

もちろん、ここでパウロが「あなたがた」と呼んでいる相手は牧師や長老だけ、つまり教会の礼拝で説教をする人々だけでありません。おそらくもっと広い意味であり、少なくともフィリピ教会の教会員全員を指していますし、もしかしたらすべてのキリスト者たちのことを指している可能性さえあります。

しかしまた、「キリストによる励まし」を伝えるためにだれよりも謙遜さが求められるのは、説教者である、という点は否定できないでしょう。

そして、その場合の「謙遜」の意味としてパウロが記していることは、ある意味で非常に単純明快です。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考える」ことです。つまり、自分をすべての人々の中でいちばん下に置きなさいということです。それが謙遜ということだ、とパウロは主張しているのです。

自分をだれよりもいちばん下に置く。これは単純明快で、分かりやすい教えです。自分はこの中で上から何番目とか、下から何番目、というようなことを考えている時点ですでにダメ、ということです。

たとえば、わたしは教会の中で何番目に偉いのでしょうか。こういう考え方の牧師は変であると、多くの人が気づくでしょう。自分をいちばん下に置いていろいろなことを考えはじめるとき、順位とか優劣というようなことばかりが気になっていたときには見えてこなかったような多くのことが、見えてくるでしょう。

(2006年12月10日、松戸小金原教会主日礼拝)


2006年12月3日日曜日

キリストの福音 ~待降節第一主日~


フィリピの信徒への手紙1・27~30

今日から四回、フィリピの信徒への手紙を学びます。最も集中して学びたいのは、2・6以下のいわゆる「キリスト賛歌」と呼ばれる個所です。これは当時の教会でうたわれていた賛美歌からの引用ではないかと、今日では考えられています。この歌は、次のようにキリストのお姿を歌い上げています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

なぜここを最も集中して学びたいのかを申し上げておきます。このキリスト賛歌の内容こそが、クリスマスの出来事に他ならないからです。そのため、クリスマスの準備をするこのアドベントの季節にこそ、この個所を学ぶことがふさわしいのです。

もう少し説明を続けます。クリスマスはイエス・キリストのお誕生日であるということは、今や世界中のだれでも知っていることです。しかし、わたしたちキリスト者は、それだけ言って済ますわけには行かないと考えます。もう少し丁寧に、またもう少し深い次元で事柄をとらえようとします。

わたしたちがクリスマスを祝う理由は、一人の偉大な人物の誕生日だからというだけで終わるものではありません。わたしたちは、イエス・キリストを「神の御子」と信じます。キリストは「神の身分である」お方なのです。

ところが、です。イエス・キリストというお方は、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わない」、「かえって自分を無にする」、「僕の身分になる」、「人間と同じ者になられる」、そういうお方でもある、というのです。

なんだかもったいない話のような気がしてきます。なぜもったいないと感じるか。多くの人々は、自分が神になりたいのではないでしょうか。神になりたいという人が大勢いるのに、なぜイエスさまは、神の身分に固執しようと思われないのでしょうか。多くの人々と考えていること、願っていることの方向が正反対ではないでしょうか。

自分が神になりたいと願う人々が、大勢いる。その思いは、だれにも文句を言われたくないというようなことも含みます。すべてのことを自分で考え、自分で決めたい。自分がいちばん楽しむことができる、最も良いものを手に入れたいと願う。

また、決して間違いを犯さない人間になりたいと願う。コンピュータのように、という例えは時代遅れです。コンピュータは、しょっちゅう間違います。そのことを、わたしたちの時代の多くの人々は知っています。コンピュータのような愚かなものになりたいのではない。そうではなく、まさに神になりたいのである。神のように完璧な答えを差し出すことができる。そのようにして、多くの人々から賞賛され、尊敬され、崇拝される。そういう人間になりたい、と願う人々のほうが多いのではないでしょうか。

なぜイエスさまは、反対の方向を向いておられるのでしょうか。神の身分などどうでもよい、と言われんばかりに、それをいわばお捨てになる。神の身分のまま留まっておられれば、痛いことも苦しいこともないでしょうのに、わざわざ人間の世界に来てくださって、十字架につけられる、という最も苦しい目にあわれる。

イエスさまは神の身分に固執なさらなかったお方である。ただし、それによってイエスさまは神であることを、おやめになったわけではありません。イエスさまが神をやめる、ということは、わたしたちが人間をやめることができないのと同じくらい、ありえない話です。

しかし、おそらくイエスさまは、悪い意味での「神のような扱いをお受けになること」、平たく言えば、「まつりあげられること」をお嫌いになったのです。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。」

この個所でパウロが訴えていることの中心は、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という点、すなわち「生活のあり方」という問題です。

まず考えさせられることは、「キリストの福音にふさわしい生活」というものがとにかくあるという事実です。これを反対から言えば、「キリストの福音にふさわしくない生活」もある、ということになります。一方にキリスト者らしい生き方があり、他方にキリスト者らしくない生き方がある、ということになるでしょう。

それでは、キリストの福音にふさわしい、キリスト者らしい生き方とは、どんなものであるのか、ということを考えてみる必要がある。そのときの答えとなりうるのが、まさにこのキリスト賛歌の内容である、というふうに話がつながっていくのです。

キリスト御自身は、神の身分であられる方であるのに、「まつりあげられる」ことを拒否なさり、むしろ、僕の身分、人間と同じ者になられた。神の子キリストが人間になられた。

そのキリストと同じように、わたしたちも、「まつりあげられる」ことなどは断固拒否し、また「自分が神になりたい」というような夢ないし野望を一切抱くことなく、人間であり続けること、そして、神と隣人に仕える僕であり続けること。まさにこれこそが、パウロの信じるところの「キリストの福音にふさわしい生活」であり、“キリスト者らしい生き方”なのだ、と申し上げることができます。

このような生き方を「ひたすら」送りなさい、とパウロは書いています。この「ひたすら」(モノン)は、「唯一の」とか「単純に」などとも訳すことができる言葉です。少し大げさになるかもしれませんが、「一直線に」とか「まっしぐらに」とか「わきめをふらず」などと訳すなら、もっと意味が明確に分かるようになると思います。

わたしたちは、一直線に、まっしぐらに、わきめをふらず、どのように生きればよいのかと言いますと、パウロによると、キリストの福音にふさわしく生きることであると言い、それではその内容は具体的に言って何なのかと言いますと、「神になりたい」というような考えを捨てて、人間であり続けること、僕であり続けること、謙遜な人間であり続けることである、ということになるのです。

そして、その、イエス・キリストが神の身分に固執せず、人間になられた、というこの出来事が起こったのは、最初のクリスマスにおいてであったということを、わたしたちは信じています。クリスマスは、神の御子が謙遜になられた日なのです。

そして、パウロは「そうすれば」と続けています。その意味は、キリストの福音にふさわしく、キリストのように謙遜な生き方を続けていくならば、です。そうすれば、あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないということを聞くことができる、とパウロは書いています。

もう少し短く言い直すなら、キリスト者らしい生き方を「ひたすら」わきめもふらず続けていくならば、わたしたちは、だれにも負けない、しっかりとした人生を送っていくことができる、ということになるでしょう。

なぜそのように言えるのでしょうか。これもできるだけ単純に考えてみたいと思います。 “謙遜な人はだれよりも強い”。なぜそう言えるのでしょうか。

すぐに思い当たることは、謙遜な人は、浮ついていない、ということでしょう。自分の現実を直視している、自分の限界を知り抜いている、そのような人は、いつも、地に足のついた判断をすることができます。

また、謙遜な人は、自分の周りにいる人々との間に信頼と協力関係をつくって行くのが上手です。自分自身の限界を知り抜いている分、このことについてはこの人に相談しよう、あのことについてはあの人に助けてもらおうと考えますし、実際にそうします。自分一人ですべてを抱え込んでしまわず、周りの人々の存在と働きを尊重しますので、個人プレイではなく、すべてを共同作業において進めていくことができます。

そして、謙遜な人は、やはり真面目です。自分の人生に対しても、他人の人生に対しても、この世界に起こるさまざまな出来事に対しても、真剣に向き合う心をもっています。融通が利かないクソ真面目になるべきではありません。しかし、真面目に生きている人を小ばかにするとか、自分以外のすべての人を見下し、こき下ろす、というようなことは、絶対に間違っています。謙遜な人は、そんなふうではありません。

謙遜な人の周りには、心優しい仲間たちが集まってきます。謙遜に生きる人は、その人の周りに謙遜で協力的で温かい共同体をつくりだして行きます。それが人生の力になるのです!

神の身分に固執なさらなかったイエス・キリストの生き方を真似て生きる人々の中で、わたしたちは謙遜というものを学ぶことができます。そして、その謙遜さの中で、わたしたちは、まさにしっかり立つことができ、どんな人の前でも、たじろぐことも、おじけることもなく、堂々と力強く生きていくことができるのです。

「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」

ここにパウロが書いていることは、なんとも衝撃的な内容をもっています。キリストの福音にふさわしい、キリスト者らしい、そのようなまさに謙遜な人生を送る人々に対しては、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」というのです。

問題は、なぜそうなのか、です。わたしたちキリスト者に対して神が、キリストのために苦しみなさいと命じておられるというのです。わたしたちは、なぜ苦しまなければならないのでしょうか。

ここでパウロが語っている苦しみの第一義は、おそらく、反対者たちから受ける苦しみです。その内容が、先ほどから申し上げたことに関係してきます。この世界には神になりたい人が大勢いるのです!

そのような人々の目から見ると、キリストの生き方は、まさに正反対です。神の身分にあられる方が、それに固執しない、というのですから。そのキリストと同じように生きて行きたいと願うキリスト者の生き方も、そのような人々の目から見れば、正反対です。

すると、どうなるか。このわたしとは正反対の方向を向いている人間の存在を許せない、と感じることが、わたしたちにもあるでしょう。なぜなら、自分の存在を否定されているように感じますから。

自分と同じように、一緒に神になりたがってくれる人を探したくなる。自分の生き方を肯定してもらえる人を探したくなる。このような人が、教会の存在を最も嫌がるのです。

キリスト者には、なぜ苦しみが起こるのか。正反対の方向を向いている人々の中でこの生き方を貫いていくと「逆風」が起こる。逆風を全身に受けながら前進していくときに、大きな負担が生じ、苦しみが起こるのです。まさにそれこそが神の恵みとして与えられる苦しみなのです。

しかし、わたしたちは、何も決して、われわれのほうから敵をつくりたいわけではない。喧嘩をしたいわけでもありません。わたしたちはただ、キリストと同じように生きること、謙遜な人生を送ることが、どれほどに幸せであるかをよく知っているので、この生き方をやめることができないだけです。謙遜な仲間と共に助け合って生きていく楽しい人生を、やめられないだけです。

その結果、いろんな反対を受けることになっても、です。わたしたちは、キリスト者であることを、やめることができない。ただそれだけなのです。

クリスマスの出来事、イエス・キリストが来てくださったことの意味を深く考えていきましょう。

(2006年12月3日、松戸小金原教会主日礼拝)

2006年12月2日土曜日

『カルヴァン説教集一 命の登録台帳 エフェソ書第一章(上)』(アジア・カルヴァン学会編訳、キリスト新聞社、2006年)

現在私はアジア・カルヴァン学会の末席を汚している。しかし本書の翻訳時には参加していなかった。現時点では第三者的に書評を述べることができよう。本誌編集者の許可をいただけたので、翻訳会リーダー野村信先生と私の考え方の違いを公表しておきたい。

同じことを本年九月二二日「カルヴァン説教集出版記念シンポジウム」(会場・富士見町教会)の壇上、発題者の野村先生と久米あつみ先生との間に挟まれた位置で指名コメンテーターとして述べた。お二人は笑って許してくださった。渡辺信夫先生はじめ多くの方々が聞いておられた。本書評がわれわれの親交を分かたぬように、声を大にして申し添えておく。

第一の問題は、要するに、「説教におけるカルヴァン」と「書斎におけるカルヴァン」との間に差があると認められる場合(差があると、私が言いたいわけではない)、どちらがカルヴァン神学の核心により近いと言いうるか、というものである。

私は牧師として、説教にはアドリブの面があることを知っている。説教には臨機応変に言葉遣いや内容を換えるなど工夫や作為をこらして語る面がある。「聖霊の導き」と呼ぶかどうかは議論があろう。私は「牧会的配慮」と呼びたい。説教の価値をおとしめる意図は皆無である。ちなみに私は、教会の礼拝の場で〝発話〟に躊躇を覚えるような思想命題は「教会の学」としての神学の命題たりえないと考えている。

カルヴァンの予定論が多くの批判を受けてきたことは周知の事実である。エフェソ書説教集の中心にカルヴァン予定論の真髄が表現されているというのが訳者の主張である。この点には異存がない。問題はその先である。

『キリスト教綱要』のカルヴァンが限定的贖罪や二重予定(遺棄の予定含む)を明瞭に語っていることは異論の余地がない。しかし、説教におけるカルヴァンはこれらについて必ずしも明瞭に語ってはいない、と訳者は読み取られた。そして、説教におけるカルヴァンのほうにカルヴァンの予定論の真意があるということを読者に対し、脚注を通してしきりと訴えておられる。

読者とすれば、カルヴァンの予定論には説教における形態と『綱要』における形態とがある、また両者の間には差があるらしいと感じさせられ、かつどちらがカルヴァン神学の核心により近いかの判断において本書の脚注は、説教のそれのほうを積極的に選択しているように見える。

しかし私はそのような判断に反対する。「説教におけるカルヴァン」と「書斎におけるカルヴァン」は同一のカルヴァンだ。両者に本質的な差はない。もし差があるとしても、どちらが「カルヴァン神学の根本思想」に近いかと問われるなら、『綱要』のカルヴァンを迷わず選択するのみである。活版印刷され、何度も改訂された『綱要』の記述は、アドリブ的要素を含む説教の言葉よりも動かしがたいからである。「説教のカルヴァン予定論」を「『綱要』のカルヴァン予定論」やドルト教理規準やウェストミンスター信仰告白の予定論から切り離すことによってカルヴァン一人を二重予定論批判の砲火から救い出そうとする資料操作は、不可能である。

第二の問題は、ad fontes(源泉復初)の評価にかかわる。野村先生の考えを突き詰めると、世界の改革派・長老派の教会を三分している予定論の問題を解決するためには、カルヴァンが説教で表現しているような(大いに留保された)予定論へと立ち帰ることが肝要であるということになろう。しかし、私はそのような考えに反対だ。

この点はA・ファン・ルーラー(一九〇八年―一九七〇年)から教えられていることである。ファン・ルーラーは、一六世紀の(第一次)宗教改革者の諸教説には限界があり、そこに立ち帰ればよいというような単純な考えは今や不可能であると教えた。

実際オランダの改革派神学にとって、英国ピューリタニズムの影響から一七世紀のオランダに始まる「第二次宗教改革」(Nadere Reformatie)の伝統を無視することは不可能だ。すなわち、アルミニウス主義者と対決したホマルスやヴォエティウスらの予定論、ドルトレヒト教会会議の決定、ベルギー信仰告白やハイデルベルク信仰問答などの神学的伝統が重要である。大陸の神学者との連携が解明されてきた英国ウェストミンスター神学者会議の決定が重要である。信者の生活や教会会議のエートスを支えた「改革派敬虔主義」(gereformeerde pietisme)の伝統が重要である。デカルト哲学やドイツ観念論や弁証法神学との葛藤や対話の問題も、改革派神学において重要である。

それらの頭上を越えてカルヴァンに復初するのは無理である。すべての改革派神学(カルヴァン主義)はカルヴァンからの頽落であるという発想には、与しえない。予定論の発展は牧会的対話や信仰的格闘の結果である。歴史の意味や牧会的対話の価値を認めないなら、カルヴァンという英雄的個人への崇拝の形態に堕するだろうし、伝統の形成も教会の存在さえも無価値となるだろう。

第三の問題は、妻との会話の中で考えたことである。妻は本書の表紙を見てすぐ「教会の婦人会のテキストになりそうだ」と喜んだ。ところが開けてびっくりだ。本書の学術的体裁は過剰である。半分が一六世紀のフランス語で埋め尽くされている。対訳形式にした理由を野村先生は「次世代に一六世紀のフランス語がどのようなものであるかを示し、それをどう翻訳したかという小さな成果を手渡していければ通常の翻訳よりも役に立つことがあるだろうと考えた」(一〇頁)と書いておられる。想定されている読者はカルヴァンの翻訳を志す人々、つまり学者である。題名から「勧進帳」を連想した。日本的響きがある。一般読者の獲得を期待した結果ではないのか。題名の一般性と対訳形式の特殊性とのアンバランスさに絶句したのは、私だけだろうか。

第四の問題は、もとより翻訳とは何かである。多くの脚注は労多かったことと拝察する。ただし脚注に翻訳者の神学が反映されすぎていることが訳書の評価を困難にしていると思われてならない。限定的贖罪論の「行き過ぎ」への批判(九六頁)やドルト教理規準の「過度の強調」への批判(一三三頁)がそれだ。

言論は自由だ。しかし、気になるのは脚注がひどく饒舌であることだ。そして、結果的にカルヴァンの読者層内の一定の人々を傷つけ、遠ざけている。ドルトやウェストミンスターの教理的立場に立っている教会人は日本に大勢いる。学問でも結果責任が問われる。翻訳書では訳者の思想的立場はなるべく背後に退いているほうがよく、原著者自身に語らしめる装丁であるほうがよい。翻訳書の読者が期待しているのは原著者の肉声(viva vox)であって、訳者の蛇足ではない。

(『形成』、日本基督教団滝野川教会、第431号、2006年12月1日発行、8~9頁掲載)


2006年11月26日日曜日

「イエス・キリスト」

ルカによる福音書23・44~56

朝の礼拝でルカによる福音書の学びを始めたのは2004年11月ですので、ちょうど二年になります。今日を含めてちょうど80回、ルカによる福音書に基づいてイエス・キリストの生涯を学んできました。今日の個所に記されているのは、その生涯の最期の場面です。

「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」

言葉は少なめです。書かれていることのひとつは時間の経過です。時間の経過は、四つの福音書とも記しています。マルコは、イエスさまが十字架にかけられたのは「午前九時であった」(マルコ15・25)と記しています。はじまりの時刻を記しているのは、マルコだけです。

そして、イエスさまが息を引き取られたのは、午後三時でした。イエスさまが苦しみの絶頂におられたのは約六時間であった、ということです。

ごく単純な話をします。六時間の苦しみは長いと、わたしは思います。42.195キロのフルマラソンを走る人々がいます。速い人は二時間くらいで走りきってしまいます。

あるいは、ボクシング。力いっぱい叩き合うわけですが、これとて一時間も続けば長いほうです。

六時間の苦しみは長い。イエスさまの苦しみには、和らげる手段も、逃げ場もありません。まさに完全な苦しみというべきものでした。

もうひとつ書かれているのは、イエスさまが十字架にかけられているあいだに起こった異常現象ないし超常現象です。「太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」。この点については、マタイのほうが、もっとリアルに詳しく書いています。

「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(マタイ27・51~52)

この種の描写は、想像するとぞっとしますし、にわかには信じがたいものがあります。その思いは、わたしも同じです。

しかし、考えてみれば、この種のことは、ある意味で、わたしたちの時代のほうがもっと大げさであり、誇張があります。いろんな技術を用いて今の人々が描き出す「ありえない」シーンなどと比べると、聖書が描いていることのほうが、よほどありそうなことです。

ただし、です。もうひとつの面としては、やはり、聖書の中には、事実に反するとか、うそであるというような単純な見方に与することでは決してないのですが、ある意味での文学的表現、あるいは、人間の心の中の映像、内面の描写として理解すべき個所もあることが認められて然るべきだろうと、わたし自身は考えております。

「太陽が光を失っていた」のは、もちろんそのとおりであると言わなければなりません。しかしそれと同時に、イエス・キリストの死によって全世界を照らす光が失われたのです。そのとき罪と悪の死の力が、一時的にせよ、勝利をおさめたのです。最高法院の議員たちと、ローマ総督ポンティオ・ピラトと、ユダヤの領主ヘロデが、イエスさまを死に追いやったのです。でたらめな支配者たちが、罪のないお方を葬り去ったのです。

弟子たちは、どこにいるのでしょうか。イエスさまの十字架の前にはいませんでした。イエスさまに愛された人々は、イエスさまを置いて、逃げてしまったのです。

ゴルゴタの丘に響いていたのは、イエスさまに向かって多くの人々から投げつけられる「自分を救ってみろ」という声ばかりでした。

このような六時間を、皆さんは、耐えられるでしょうか。わたしには、無理です。

「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」

イエスさまは息を引き取られるその瞬間まで、父なる神さまに対する全幅の信頼と期待をもっておられました。これは、わたしたちにとって慰めとなる事実です。

何よりも厳粛な事実は、わたしたちの人生は、いつか必ず終わる、ということでしょう。しかし、そこでのひとつの大きな問題は、その終わり方ではないでしょうか。

人から賞賛され、惜しまれて死ぬ、という人々がいると思います。イエスさまはどうであられたかと言いますと、そちら側の人々にはどうも属しておられないように見えます。罵られ、はずかしめられ、屈辱と絶望のどん底に叩き落されるような仕方で、殺される。惜しまれて死ぬ、という人々とは全く正反対の様相です。

しかし、そのお方が最期の最期に口にされた言葉が、父なる神への祈りでした。「わたしの霊を御手にゆだねます」という信頼に満ちた願いです。

どのような表情であられたのだろうかということについては、すぐに想像がつきます。おそらくとても穏やかな表情です。厳しい表情で、こういう祈りをささげることができる人は、いません。

罵られても罵り返さない。悪に対して悪を行わない。

神への信頼と賛美をもって、わが人生をしめくくる。

わたしたちが憧れを抱くのは、そのような生き方ではないでしょうか。

わたしは、イエスさまの最期の姿のようでありたい。皆さんは、どうでしょうか。
  
「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」

「百人隊長」や「見物に集まっていた群衆」は、イエスさまを信じる人々の仲間というわけではないように思います。傍観者だったと考えるべきでしょう。「百人隊長」はローマ軍の歩兵隊の一個小隊のリーダーである、とのことです。異邦人です。

それは、言葉にして言うとかなり語弊がありますが、たとえば、教会のご近所に住んでいるけれども、教会の中に入ったことがない、いつもなんとなく外側から見ているだけの人々と、その人々とは、似ている面がある、と考えてよいかもしれません。あえて微妙な言い方をしておきます。

しかし、そのように、外側から見ているとはいえ、けっこう関心を持っている、という人々は、決して少なくないのだと思います。

「わたしは違います。わたしはクリスチャンではないし、教会に通うとか洗礼を受けるとか、そういうことを考えたことは、一度もありません。でも、教会のこと、聖書のこと、イエス・キリストのことには興味がある。ちょっと覗いてみたいという気持ちはある」という人々は、少なくないのだと思います。

そういう人々から見て、です。十字架上のイエスさまのお姿は、どのように見えたかということが、ここに書かれている、と考えることができます。百人隊長がはっきりと明言していることが、それです。「本当に、この人は正しい人だった。」

こういう評価は、貴重なものです。無視することができません。傾聴するに値します。だれの目から見ても、あるいは多くの人々の目から見て、イエスさまのお姿は、正しいと見える。イエスさまの生き様、死に様は、間違っていないと見える。これが、重要なことなのです。

もちろん、難しい問題がこの先に待ち受けています。イエスさまを正しいと認める、ということが、少なくとも当時において何を意味していたかは明白です。正しいイエスさまを十字架につけることは間違いなのですから、イエスさまを正しいと認めるということは、イエスさまを十字架につけた人々の間違いを認める、ということです。

しかし、それが難しいことであるわけです。百人隊長がローマの軍人であるとしたら、ボスはローマ皇帝であり、また、この状況の中ではポンティオ・ピラトでしょう。上司に逆らい、命令に背くことは、ただちに死を意味します。自分自身と家族を危険にさらすことになるでしょう。

一緒くたにすることはできないかもしれません。しかし、この日本の中にクリスチャンになれないと感じている人々が、たくさんいます。その中には、イエス・キリストの存在、またキリスト教と教会の存在を認めることはやぶさかではないが、それによって失うものが大きすぎる、と感じている人々がいます。そのような気持ちを持つときに、大いに躊躇が起こるのだと思うのです。これは理解できない話ではありません。

しかし、わたしは、あえて申し上げたいのです。イエスさまの姿が正しいと見えるなら、決断してほしい、ということです。

失うものも大きいかもしれませんが、得られるものはもっと大きいです!

わたし(関口)は、端から見ると何も持っていないように見えるかもしれません。しかし、わたしには教会があります。牧師というこの仕事があります。信仰の仲間たちが大勢います。これ以上は何も要らないと思えるほどの幸せを得ています。多くのものを与えられて持っています。

信仰を持って生きるようになり、牧師になる。それによって失ったものも大きかったのかもしれませんが(あまりその自覚もありませんが)、得られたものは、もっと大きいものでした!

イエスさまの前に、ひとりの勇気ある人が、現れました。イエスさまを十字架にかける決定を下したあのユダヤ最高法院の議員のひとり、アリマタヤのヨセフという人でした。この人は最高法院の決定に同意していませんでした。「この人もイエスの弟子であった」とも書かれています(マタイ27・57)。

一議員に与えられた権限は小さなものです。また、「イエスを殺せ」と叫ぶ人々の前では、沈黙するしかありませんでした。

そのことがよほど良心の呵責となったのでしょう。イエスさまが息を引き取られたあと、ヨセフは、当時の状況の中で考えられる最も危険な行動(造反行動)に出ました。ピラトの許可をえて、イエスさまの遺体を引き取り、自分のつくった墓に納めたのです。

「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」

このヨセフのように行動できる人は、ごくまれかもしれません。みんながみんな、自分が思うところの信念に従って行動できるわけではありません。上司の命令に逆らうことはできませんし、世間の人々に逆らうこともできないのが、わたしたちです。

しかし、繰り返させてください。イエスさまのお姿が正しいと見える人は、どうか決断してほしい。

使徒パウロも、そうでした。その先に進んで行けば最高法院の議員になることができ、最高の地位と名誉を必ず与えられるであろう道を歩んでいた。しかし、そのパウロが突然、すべてを捨てて、キリスト者になり、伝道者になった。そこに大きな決断があったことは間違いありません。

イエスさまのお姿が正しいと見える人は、ヨセフのように、パウロのように、「最高法院」を飛び出して、イエスさまを信じる人々のもとに来てほしい。

そのように願うばかりです。

(2006年11月26日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年11月19日日曜日

「十字架上で罪を赦す」

今日のこの個所に記されているのは、わたしたちの救い主、イエス・キリストが十字架のうえにはりつけにされる、まさにその場面です。



「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」



ここで分かることは、二人の犯罪人と一緒に死刑にされたイエスさまは、まさしく文字どおりの“犯罪者扱い”されたのだということです。



イエスさまの処刑が行われた「されこうべ」(クラニオン=どくろ)とは、ヘブライ語の「ゴルゴタ」(マタイ27・33、マルコ15・22、ヨハネ19・17)のギリシア語訳です。これがラテン語では「カルヴァリ」と訳され、とくにローマ・カトリック教会ではそのように呼ばれてきました。



しかし、呼び方自体は、あまり重要なことではありません。重要なことは、そこが犯罪者の死刑場であったということです。



その日、三本の十字架が立てられたのです。真ん中がイエスさまの十字架、イエスさまの両側に一本ずつ、十字架が立てられたのです。



死刑そのものの是非が、今日では問われます。それはともかく、ここに書かれていることの意味は、死刑にされるほどの重罪を犯した人々と、何の罪も犯しておられないイエスさまとが、まさに一緒くたに扱われたのだ、ということです。



「〔そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』〕」



今日の個所で必ず問題にしなければならないことは、34節についている亀甲括弧(〔 〕)の意味は何かということです。ただし、あまり面倒な話に、皆さんを巻き込みたいとは思いません。



新共同訳聖書の亀甲括弧の意味は「凡例」に記されています。「新約聖書において、後代の加筆と見るのが一般的とされている個所・・・などに用いた」とあります。この意味は、新共同訳聖書は、この34節を「後代の加筆ではないか」と考えている、ということです。



このようなことを申しますと、皆さんの心の中に、いろんな疑問が次々に湧いてくると思います。しかし、わたしが申し上げたいことは、ご安心くださいということです。



途中の説明をすべて省いて結論だけを申し上げますと、34節の御言葉は、イエスさま自らが確かにお語りになった真正の言葉と言ってよい、ということです。「後代の加筆」という言葉を聞くと、どうしても改ざんとか変質というようなことを連想してしまうものですが、決してそういうことではない、ということだけを申し上げておきます。



そして間違いなく言いうることは、長いキリスト教会の歴史の中で用いられてきた多くの聖書には、この34節の御言葉がはっきり記されていた、ということです。つまり、これは歴史の中の教会が大事にしてきた言葉であり、その意味でまさに教会の伝統の言葉である、ということです。



「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、イエスさまは、十字架の上でおっしゃいました。そのように、わたしたちキリスト者、キリスト教会は、長い歴史の中で信じ、告白してきました。まさしくそれが、わたしたちの伝統であり、わたしたちが大切にしてきたものなのです。



御自分は、手と足を釘で打ちつけられ、絶望的な痛みを感じておられるのです。ほとんどの人ならば自分を苦しみに遭わせる人を憎むであろうし、こういう場合は憎んでもよいのではないかと考えてもよいほどの場面で、イエスさまは、御自分を十字架にかけた人々のことを、「彼らの罪をお赦しください」と父なる神に祈られたのだということです。



ありえないことでしょうか。信じがたい、というのは、おそらく多くの人が感じることですし、わたしも感じます。



しかし、なぜそう感じるのでしょうか。おそらく、多くの人は、このときにこそ、自分自身のことを考えるのです。「このわたしにはできない」と考えるのです。このわたしには、イエスさまと同じような状況において、このような言葉を語ることはできないし、ありえない。あってはならない、と感じるのです。



イエスさま御自身は、何の罪も犯しておられないのです。そのようなお方を罪人と定め、死刑にするその人々こそが、あなたがたこそが罪人である。そのように指摘し、追及する。そうする権利を持っている人がいるとしたら、それは、今まさに十字架上におられるお方御自身である、と言ってよいでしょう。



つい最近、死刑判決を受けた元一国の大統領だった独裁者が、いたではありませんか。あの人は、そのようにしました。指を上に立て、腕を何度も振り下ろしながら、「お前たちこそが死刑だ。わたしは無罪だ」というようなことを主張しました。



まだすべてが終わっているわけではありませんので、個人について軽々しいことは言えません。わたしが申し上げたいことは、わたしたち自身はどうだろうか、ということだけです。



わたしの場合は、どちらかというとイエスさまのほうに近いことを語りうるだろう、と言いうる人が何人いるでしょうか。「お前たちこそが死刑だ。わたしは無罪だ」と言い張るほうの人にこそ、わたしは近い、と感じる人のほうが多いのではないか。そのようなことを考えさせられます。



わたしたちの多くが、イエスさまの言葉に「ありえない」という感想を持つのは、このわたしにはありえない、ということではないでしょうか。しかし、そのような感想なり、感覚は、非常に大事なものであると、わたしは思います。イエスさまとわたしたち自身との決定的な違いを認識することは、非常に大切なことだからです。



イエスさまとわたしたちは、根本的に違うのです。一緒くたにしてはいけません。あのお方は、神さまです。わたしたちは、人間なのです!



「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。」



ここに描かれているのは、イエスさまを十字架につけた人々の姿です。



くじを引いて服を分け合う、というのは、当時の遊びであったと言われます。つまり、彼らはイエスさまの十字架の前で、楽しそうに遊んでいたのだ、ということです。



民衆は立って見つめていた、とあります。見物人たちです。十字架にはりつけてさらす、というのは、文字どおりさらしものにすること、はずかしめること、そのための公開処刑なのですから、見物人が多ければ多いほど、より多くの効果があり、意味を持つわけです。



服を分け合ったとありますとおり、イエスさまは服を脱がされています。丸裸です。美しい絵画や彫刻の中のイエスさまの像には、たいてい、下半身に布のようなものがかけられているように描かれますが、実際にはそのような布もなかったでしょう。はずかしめることが目的なのですから。さらしものにするための十字架なのですから。



「自分を救ってみろ」という同じ言葉を、議員たちと兵士たち、つまりユダヤ人たちとローマ人たちが言いました。そう言って、彼らは笑ったのです。



しかし、わたしがここに書いてあることを読みながら感じることは、なんだか不思議なものが見えてくるような気がするということです。



たしかに丸裸にされているのはイエスさまのほうです。ところが、です。わたしなどが感じることは、イエスさまの前で丸裸にされているのは、じつは議員たちのほうであり、兵士たちのほうではないだろうか、ということです。



それはどういうことでしょうか。今ここにいるわたしたちの中には、いわゆる議員もいませんし、兵士もいません。しかし、教師の仕事をされている(されていた)方は多くおられます。医者の方もおられます。その人々ならば、分かっていただけることではないでしょうか。



「自分を救ってみろ」という言葉は、どこかで聞いたことがあると。



いやいや、それは「どこかで」どころか、毎日のように聞いている(聞いてきた)言葉であると。



このわたしに向かって、いつも繰り返し、投げつけられている(投げつけられてきた)言葉であると。



この点では牧師も同じです。「牧師さん、人様に向かって説教する前に、まずはあなた自身に向かって説教しなさいよ」と言われることが実際にあります。



教師や医師や国会議員や兵士といった人々に対しても、同じようなことを言われることがあります。



「なぜあなたは、あの子どもの命を救えなかったのか」



「なぜあなたは、この病気を治せなかったのか」



あなたには何もできない。間違いだらけ、失敗だらけ。偉そうなことを人に言う前に、自分を救ってみろ。



十字架の上のイエスさまに向かって「自分を救え」と言っている議員たちや兵士たちのほうこそが、丸裸にされていると感じられるのは、彼らの心の中にあるものが、さらけだされているように見えるからです。



わたしが感じていることは、その言葉は、じつは、これまでの人生の中で幾度となく、彼ら自身に向かって投げつけられてきた言葉ではないのか、ということです。「議員のくせに人を救えない」、「兵士のくせに人を救えない」と、です。教師のくせに、医者のくせに、牧師のくせに、というのも同じです。



その言葉を言われるたびに、聞くたびに、彼ら自身が、最も傷ついてきたのです。



だからこそ、彼らは、イエスさまに、その言葉を投げつけているのです。



この言葉こそが、人の心を最も傷つける力を持つ言葉であるということを、彼ら自身が最もよく知っていたのです。



その言葉を用いて、彼らは、イエスさまを、最期まで攻撃し続けたのです。



「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」



議員たちと兵士たちが言った「自分を救え」という言葉を、イエスさまの隣で十字架につけられていた犯罪人も言いました。この人の場合は、議員たちと兵士たちの言った言葉を、ただおうむ返ししているだけのようにも感じられます。



ところが、です。イエスさまのことをそのように言われることに耐え難い思いを抱いた人が、ここに登場します。それが、イエスさまの隣で十字架にかけられていたもう一人の犯罪人です。



牧師の場合にも、そういうことがあります。「牧師のくせに」と言いだす人々が一方にいると、たいてい必ず、もう一方に「そんなことは言うもんじゃない」とかばってくださる人々が現れます。聞くに堪えないと感じてくださるようです。なるほど、その言葉は、それを言っているあなた自身にも当てはまりますよと、感じるのです。



人に向かって悪口や批判を語ることは自由です。しかし、それを言った人は、その自分が言った言葉で、必ず裁かれるのです。自分が他人をはかった秤で、自分自身もまた必ずはかり返されるときが来るのです。



ひどいのは、イエスさまのほうではなく、イエスさまを十字架につけた、あなたたちのほうであり、このわたしもそこに含まれる。イエスさまの十字架は、このわたしの醜い姿を映し出す、鏡のようである、ということです。



この人は、そのことに気づきました。十字架の上で気づきました。もう遅いと言われても仕方がない場所で気づいた。しかし、それでも、とにかく彼は、そのことに気づいた。気づくことができたのです。



イエスさまの十字架の姿を見て、最も早く、また最も深い次元で、そのことに気づくことができたのは、すでに十字架の上にいるこの犯罪人だったのです。



この人に、イエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださいました。イエスさまの十字架の意味を最初に理解し、確信することができたこの人は、十字架の上で救われたのです!



わたしたちも、イエスさまの十字架という鏡に、自分の姿を映してみましょう。



イエスさまの姿が無力すぎてイライラすると感じる人は、自分自身の無力さにイライラしている証拠です。



もしイエスさまのお語りになる言葉と存在が“ありえないほど美しすぎる”と感じるとしたら、それはわたしたちの言葉と存在が“ありえないほど醜い”のです。



わたしたちは、イエスさまの御前にいるときにこそ、自分の本当の姿を、深く知ることができます。自分の罪深さを知ることができるのです。



そして、そのわたしの罪をイエスさまが、「あなたの罪は赦される」と言って赦してくださいます。



そのようなイエスさまが、いつも共にいてくださる。



それが、わたしたちの救いなのです!



(2006年11月19日、松戸小金原教会主日礼拝)