今日のこの個所に記されているのは、わたしたちの救い主、イエス・キリストが十字架のうえにはりつけにされる、まさにその場面です。
「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」
ここで分かることは、二人の犯罪人と一緒に死刑にされたイエスさまは、まさしく文字どおりの“犯罪者扱い”されたのだということです。
イエスさまの処刑が行われた「されこうべ」(クラニオン=どくろ)とは、ヘブライ語の「ゴルゴタ」(マタイ27・33、マルコ15・22、ヨハネ19・17)のギリシア語訳です。これがラテン語では「カルヴァリ」と訳され、とくにローマ・カトリック教会ではそのように呼ばれてきました。
しかし、呼び方自体は、あまり重要なことではありません。重要なことは、そこが犯罪者の死刑場であったということです。
その日、三本の十字架が立てられたのです。真ん中がイエスさまの十字架、イエスさまの両側に一本ずつ、十字架が立てられたのです。
死刑そのものの是非が、今日では問われます。それはともかく、ここに書かれていることの意味は、死刑にされるほどの重罪を犯した人々と、何の罪も犯しておられないイエスさまとが、まさに一緒くたに扱われたのだ、ということです。
「〔そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』〕」
今日の個所で必ず問題にしなければならないことは、34節についている亀甲括弧(〔 〕)の意味は何かということです。ただし、あまり面倒な話に、皆さんを巻き込みたいとは思いません。
新共同訳聖書の亀甲括弧の意味は「凡例」に記されています。「新約聖書において、後代の加筆と見るのが一般的とされている個所・・・などに用いた」とあります。この意味は、新共同訳聖書は、この34節を「後代の加筆ではないか」と考えている、ということです。
このようなことを申しますと、皆さんの心の中に、いろんな疑問が次々に湧いてくると思います。しかし、わたしが申し上げたいことは、ご安心くださいということです。
途中の説明をすべて省いて結論だけを申し上げますと、34節の御言葉は、イエスさま自らが確かにお語りになった真正の言葉と言ってよい、ということです。「後代の加筆」という言葉を聞くと、どうしても改ざんとか変質というようなことを連想してしまうものですが、決してそういうことではない、ということだけを申し上げておきます。
そして間違いなく言いうることは、長いキリスト教会の歴史の中で用いられてきた多くの聖書には、この34節の御言葉がはっきり記されていた、ということです。つまり、これは歴史の中の教会が大事にしてきた言葉であり、その意味でまさに教会の伝統の言葉である、ということです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、イエスさまは、十字架の上でおっしゃいました。そのように、わたしたちキリスト者、キリスト教会は、長い歴史の中で信じ、告白してきました。まさしくそれが、わたしたちの伝統であり、わたしたちが大切にしてきたものなのです。
御自分は、手と足を釘で打ちつけられ、絶望的な痛みを感じておられるのです。ほとんどの人ならば自分を苦しみに遭わせる人を憎むであろうし、こういう場合は憎んでもよいのではないかと考えてもよいほどの場面で、イエスさまは、御自分を十字架にかけた人々のことを、「彼らの罪をお赦しください」と父なる神に祈られたのだということです。
ありえないことでしょうか。信じがたい、というのは、おそらく多くの人が感じることですし、わたしも感じます。
しかし、なぜそう感じるのでしょうか。おそらく、多くの人は、このときにこそ、自分自身のことを考えるのです。「このわたしにはできない」と考えるのです。このわたしには、イエスさまと同じような状況において、このような言葉を語ることはできないし、ありえない。あってはならない、と感じるのです。
イエスさま御自身は、何の罪も犯しておられないのです。そのようなお方を罪人と定め、死刑にするその人々こそが、あなたがたこそが罪人である。そのように指摘し、追及する。そうする権利を持っている人がいるとしたら、それは、今まさに十字架上におられるお方御自身である、と言ってよいでしょう。
つい最近、死刑判決を受けた元一国の大統領だった独裁者が、いたではありませんか。あの人は、そのようにしました。指を上に立て、腕を何度も振り下ろしながら、「お前たちこそが死刑だ。わたしは無罪だ」というようなことを主張しました。
まだすべてが終わっているわけではありませんので、個人について軽々しいことは言えません。わたしが申し上げたいことは、わたしたち自身はどうだろうか、ということだけです。
わたしの場合は、どちらかというとイエスさまのほうに近いことを語りうるだろう、と言いうる人が何人いるでしょうか。「お前たちこそが死刑だ。わたしは無罪だ」と言い張るほうの人にこそ、わたしは近い、と感じる人のほうが多いのではないか。そのようなことを考えさせられます。
わたしたちの多くが、イエスさまの言葉に「ありえない」という感想を持つのは、このわたしにはありえない、ということではないでしょうか。しかし、そのような感想なり、感覚は、非常に大事なものであると、わたしは思います。イエスさまとわたしたち自身との決定的な違いを認識することは、非常に大切なことだからです。
イエスさまとわたしたちは、根本的に違うのです。一緒くたにしてはいけません。あのお方は、神さまです。わたしたちは、人間なのです!
「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。」
ここに描かれているのは、イエスさまを十字架につけた人々の姿です。
くじを引いて服を分け合う、というのは、当時の遊びであったと言われます。つまり、彼らはイエスさまの十字架の前で、楽しそうに遊んでいたのだ、ということです。
民衆は立って見つめていた、とあります。見物人たちです。十字架にはりつけてさらす、というのは、文字どおりさらしものにすること、はずかしめること、そのための公開処刑なのですから、見物人が多ければ多いほど、より多くの効果があり、意味を持つわけです。
服を分け合ったとありますとおり、イエスさまは服を脱がされています。丸裸です。美しい絵画や彫刻の中のイエスさまの像には、たいてい、下半身に布のようなものがかけられているように描かれますが、実際にはそのような布もなかったでしょう。はずかしめることが目的なのですから。さらしものにするための十字架なのですから。
「自分を救ってみろ」という同じ言葉を、議員たちと兵士たち、つまりユダヤ人たちとローマ人たちが言いました。そう言って、彼らは笑ったのです。
しかし、わたしがここに書いてあることを読みながら感じることは、なんだか不思議なものが見えてくるような気がするということです。
たしかに丸裸にされているのはイエスさまのほうです。ところが、です。わたしなどが感じることは、イエスさまの前で丸裸にされているのは、じつは議員たちのほうであり、兵士たちのほうではないだろうか、ということです。
それはどういうことでしょうか。今ここにいるわたしたちの中には、いわゆる議員もいませんし、兵士もいません。しかし、教師の仕事をされている(されていた)方は多くおられます。医者の方もおられます。その人々ならば、分かっていただけることではないでしょうか。
「自分を救ってみろ」という言葉は、どこかで聞いたことがあると。
いやいや、それは「どこかで」どころか、毎日のように聞いている(聞いてきた)言葉であると。
このわたしに向かって、いつも繰り返し、投げつけられている(投げつけられてきた)言葉であると。
この点では牧師も同じです。「牧師さん、人様に向かって説教する前に、まずはあなた自身に向かって説教しなさいよ」と言われることが実際にあります。
教師や医師や国会議員や兵士といった人々に対しても、同じようなことを言われることがあります。
「なぜあなたは、あの子どもの命を救えなかったのか」
「なぜあなたは、この病気を治せなかったのか」
あなたには何もできない。間違いだらけ、失敗だらけ。偉そうなことを人に言う前に、自分を救ってみろ。
十字架の上のイエスさまに向かって「自分を救え」と言っている議員たちや兵士たちのほうこそが、丸裸にされていると感じられるのは、彼らの心の中にあるものが、さらけだされているように見えるからです。
わたしが感じていることは、その言葉は、じつは、これまでの人生の中で幾度となく、彼ら自身に向かって投げつけられてきた言葉ではないのか、ということです。「議員のくせに人を救えない」、「兵士のくせに人を救えない」と、です。教師のくせに、医者のくせに、牧師のくせに、というのも同じです。
その言葉を言われるたびに、聞くたびに、彼ら自身が、最も傷ついてきたのです。
だからこそ、彼らは、イエスさまに、その言葉を投げつけているのです。
この言葉こそが、人の心を最も傷つける力を持つ言葉であるということを、彼ら自身が最もよく知っていたのです。
その言葉を用いて、彼らは、イエスさまを、最期まで攻撃し続けたのです。
「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」
議員たちと兵士たちが言った「自分を救え」という言葉を、イエスさまの隣で十字架につけられていた犯罪人も言いました。この人の場合は、議員たちと兵士たちの言った言葉を、ただおうむ返ししているだけのようにも感じられます。
ところが、です。イエスさまのことをそのように言われることに耐え難い思いを抱いた人が、ここに登場します。それが、イエスさまの隣で十字架にかけられていたもう一人の犯罪人です。
牧師の場合にも、そういうことがあります。「牧師のくせに」と言いだす人々が一方にいると、たいてい必ず、もう一方に「そんなことは言うもんじゃない」とかばってくださる人々が現れます。聞くに堪えないと感じてくださるようです。なるほど、その言葉は、それを言っているあなた自身にも当てはまりますよと、感じるのです。
人に向かって悪口や批判を語ることは自由です。しかし、それを言った人は、その自分が言った言葉で、必ず裁かれるのです。自分が他人をはかった秤で、自分自身もまた必ずはかり返されるときが来るのです。
ひどいのは、イエスさまのほうではなく、イエスさまを十字架につけた、あなたたちのほうであり、このわたしもそこに含まれる。イエスさまの十字架は、このわたしの醜い姿を映し出す、鏡のようである、ということです。
この人は、そのことに気づきました。十字架の上で気づきました。もう遅いと言われても仕方がない場所で気づいた。しかし、それでも、とにかく彼は、そのことに気づいた。気づくことができたのです。
イエスさまの十字架の姿を見て、最も早く、また最も深い次元で、そのことに気づくことができたのは、すでに十字架の上にいるこの犯罪人だったのです。
この人に、イエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださいました。イエスさまの十字架の意味を最初に理解し、確信することができたこの人は、十字架の上で救われたのです!
わたしたちも、イエスさまの十字架という鏡に、自分の姿を映してみましょう。
イエスさまの姿が無力すぎてイライラすると感じる人は、自分自身の無力さにイライラしている証拠です。
もしイエスさまのお語りになる言葉と存在が“ありえないほど美しすぎる”と感じるとしたら、それはわたしたちの言葉と存在が“ありえないほど醜い”のです。
わたしたちは、イエスさまの御前にいるときにこそ、自分の本当の姿を、深く知ることができます。自分の罪深さを知ることができるのです。
そして、そのわたしの罪をイエスさまが、「あなたの罪は赦される」と言って赦してくださいます。
そのようなイエスさまが、いつも共にいてくださる。
それが、わたしたちの救いなのです!
(2006年11月19日、松戸小金原教会主日礼拝)