2006年12月25日月曜日

「味わおう平安な夜を」

使徒言行録16・25~34



クリスマスイブの礼拝をささげています。少し早い時刻から始めましたが、程よい暗さになってきたと思います。わたしたちの前に、ロウソクの灯が輝いています。これから、静かで平安な夜を迎えようとしています。



さて、この機会に皆さんに考えていただきたいことは、まさに、わたしたちそれぞれの平安な夜の過ごし方は何か、ということです。



わたしたちの普段の夜の過ごし方は、たいてい決まっているのかもしれません。テレビの音が、がちゃがちゃと部屋中に響き渡っている。それを見終わったら、お風呂に入ってから布団にもぐりこむ。そのようなパターンができてしまってはいませんか。もちろん、なかには、テレビなど見ません、という方もおられるかもしれませんけれども。



なかには、「見なければよかった」と後悔するような、嫌なテレビの場面がある。思い出されて、眠れなくなってしまう、という方もおられるかもしれません。
平安な夜の過ごし方として、ふと思い当たることは、とりあえず、テレビのスイッチを消してみることではないでしょうか。



そして、その次にやってみていただきたいことは、ひとりで賛美歌をうたってみること、聖書を読むこと、そして、お祈りしてみることです。



牧師の言いそうなことだ、と思っていただいてけっこうです。実際そのとおりです。この国の中で、牧師とか教会に通っている人々でもないかぎり、ひとりで聖書を読みましょうとか、ひとりで賛美歌をうたいましょう、お祈りしましょう、と勧める人は、どこにもいないでしょう。



しかし、です。わたしたちが、このようなことをお勧めするのは、だてや酔狂で言っていることではないのです。わたしたちが日曜日ごとに集まってしていることも、このクリスマスイブ礼拝にしていることも、賛美歌をうたい、聖書を読み、祈ることです。ただそれだけだと言ってもよい。



しかし、このことをわたしたちは一生懸命にします。なぜなら、聖書を読み、賛美歌をうたい、祈ることによって、わたしたちの心に得られる平安は本当に大きいものである、ということを、わたしたちは心から確信しているからです。



先ほどお読みしました使徒言行録16・25~34に記されている状況は、夜です。パウロとシラスは、真夜中に賛美歌をうたっていました。そういうことをわたしたちが自分の家でやると、隣近所の人々に叱られるかもしれません。



しかし、パウロとシラスがいたのは、牢屋の中です。キリスト教を宣べ伝える仕事をするだけで迫害されていた時代の話です。二人はむちで打たれ、牢屋に投げ込まれました。わんわん泣いてもよいような場面です。ところが、この二人は、真夜中に賛美歌をうたい、神に祈っていました。そして、彼らの声を、他の囚人たちも聞いていたのです。



そのとき、です。大地震が起こり、牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまう、という事件が起こりました。ところが、そのときに、囚人たちはだれひとり逃げようとしなかったのです。



囚人たちは、逃げてはいけなかったのでしょうか。チャンスあれば逃げるべきである。逃げないのは愚かな選択である、という考えも、当然成り立つでしょう。



しかし、彼らは逃げませんでした。なぜ逃げなかったのでしょうか。理由は、はっきりとは記されていません。けれども、少しくらいは分かるところがあるように思います。



囚人たちに共通していたのは、パウロとシラスの声を聴いていた人々であったという点です。そして、もう一つはっきり記されているのは、囚人たちは逃げた、と思い込んで自殺しようとした看守に向かってパウロが大声で叫んだ言葉です。



「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」。



この言葉から分かることは囚人たちが逃げなかった理由です。それは、彼らがそのとき真っ先に考えたことが、自分自身のことではなく、自分たちの目の前で自害しようとしている看守が死なないようにすること、看守の命を守ることであった、ということです。



いざというときに、自分のことしか考えることができないのか、それとも、自分以外の他人の事情をおもんぱかることができるのかは、非常に大きな違いであると言ってよいでしょう。



しかも、彼らの場合、自分を牢屋に閉じ込めて、外で寝ずの番をしている、憎むべき相手のことを、考えることができた。これは、すごいことだと思います。そのような嫌な相手の心や命のことまでも思いやることができた。彼らの心の中には、それだけの“余裕”が与えられていた、ということに他なりません。



その彼らの心の“余裕”を生み出したものが、パウロとシラスがうたう賛美歌であり、また彼らの祈りの言葉であった、と考えることは可能であると思います。



だれも逃げていない。そのことを知った看守は、驚き、おびえ、震えながら、パウロとシラスの前に来て、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と言いました。



おそらく看守は、その御言葉と賛美歌と祈りを聴く周りの人々の心までも平安で満たし、他人の心や命を思いやる人につくり変えてしまうパウロたちのもっている力は、いったい何なのか。この力の正体は、何なのかを知りたくなったのだと思います。



二人は言いました。



「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」



そして、この看守は、救い主イエス・キリストを信じる新しい人生を、家族の人々と一緒に、始めることができました。



今日、わたしが皆さんに本当にお勧めしたいことを、もう一度、繰り返しておきます。静かで平安な夜を過ごすためには、少しの間でも、とにかく、テレビのスイッチを切ってみることです。そして、賛美歌をうたい、聖書を読み、祈りをささげることです。大きな声である必要はありません。



それによって、わたしたちの心の中に何らかの変化があるのか、それとも、何も変わらないかは、とにかく試してみるしかありません。



肝心なことは、始めることです。皆さんの心に平安が与えられますように!



(2006年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイブ礼拝)